大賢者様の聖図書館

櫻井綾

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第1章 大賢者様の秘書になりました

71.そして私の日常

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 しん、と心地良い静寂の中。
 美しいマナペンの先が紙の上を滑る度、さらさらと鮮やかな青の文字が綴られていく。
 マナの微かな粒子が煌めきながら散る様子は、何度見ても綺麗だ。
 マナペンの先が紙と擦れる微かな音が止んで、今度はぱらりとページを捲る。
 美しいアンティークの机に長椅子、天に届くほど、目で追えないほど彼方まで本で埋め尽くされた本棚。
 心地良すぎる空間で、隣の長椅子に丸くなっていた相棒の黒猫が、ふわあっと大きく欠伸をした。
 リブラリカ最奥禁書領域。
 私の大切な職場であり、世界一居心地の良い場所だ。
 簡単な翻訳の仕事をしていた私は、一区切りついたところで一旦息を吐いた。

「ふう」

 ぐぐっと伸びをすると、強ばっていた身体に血が巡る感覚が気持ちいい。
 背後から小さな衣擦れとしゃら、という涼やかな音がしたのは、その時だった。

「梨里さん」

 とくん、と小さく胸が高鳴る。
 柔らかな低い声に呼ばれて振り返れば、整った顔で優しい笑顔を浮かべる、すらりとした青年がこちらへ歩いてきていた。

「焔さん。何かご用ですか?」
「うん。時間があるときでいいから、この書類をロイアーに届けて欲しいんだ」

 席を立って、ぱたぱたと彼に駆け寄ると、厚みのある書類を手渡される。

「はい!丁度きりが良いので、今行ってきます」

 両手で受け取って、胸元に書類を抱き込む。

「そっか。ありがとう。よろしくね」
「はい」

 すっと焔さんの手が伸びてきて、さらりと軽く髪を撫でられる。
 そんな仕草にもどきりとしてしまうのは、もう仕方のないことだ。
 あの舞踏会が終わって、もう、ひと月。
 私はすっかり、大賢者様の秘書という仕事にも慣れて、書類を届けたり、一般書架の仕事を手伝ったりと穏やかな日々を過ごしていた。
 そんな、好きな人と毎日職場で会える新しい日常を、私はとても気に入っている。
 一度机に戻り、宝物のマナペンを制服の胸ポケットへとしまって、相棒へと声を掛けた。

「アルト、行くよ」
「面倒くせーなぁ」

 くあ、と欠伸をした黒猫が、ひょいと私の肩へ飛び乗ってくる。
 いつも気まぐれな彼だが、今日はよほど眠いのか、自分で歩く気はないらしい。

「よし、と。……それじゃあ行ってきますね」

 ついでに机の上を軽く整頓して、焔さんへと振り返る。

「うん、気をつけていってらっしゃい」

 私が背を向ける直前、笑顔でこちらを見送りながら手を振ってくれた焔さんに、またぎゅうっと胸が軋んだ。
 ああ、好きだなぁ。

「――焔さん!」

 一度は背を向けたのだけれど、胸に溢れた気持ちのままに、足を止めないまま再び彼を振り返る。
 なに?というようにきょとんと首を傾げる大賢者様に、私は思いきりの笑顔を向けた。

「私、焔さんのこと……この場所のことも、とっても好きです!」

 突然の私の言葉に、彼はふわっと花が咲くように優しく笑う。

「うん、僕も、梨里さんのこと好きだよ」
「っ、ありがとうございます!」

 わかっているけれど、わかってはいるけれど。
 もらった言葉に、きゅんと幸せな気持ちが胸いっぱいに広がった。
 そうして今度こそ、シャーロットの元へ向かうため踵を返す。
 浮き足立つ心のまま、足取りは軽やかだ。

「……お前らそれ、噛み合ってないのわかってるのか?」

 黙って私たちのやりとりを聞いていたアルトから、耳元で呆れたような溜息をつかれて、私は苦笑した。

「わかってるよ。……私はね」
「やれやれ……」

 アルトにはさらに大きな溜息を吐かれてしまったけれど、私はこれで、この現状で構わないと思っている。
 絶対に、私の好きと焔さんの好きの意味は違っているのだろう。
 それでも今は、これでいいと思うのだ。

「……まだまだ時間はあるからね」

 そう。まだまだたくさん、時間はあるはずだ。
 あの、引きこもりで本にしか興味のない大賢者様の傍にいられる時間は、これからもたくさんあるのだから。
 相手は、この国一番の大賢者様である、あの焔さんだ。
 そう簡単にいくわけがないのは、十分にわかっている。
 焦ることもないし、ゆっくりと頑張っていけば良い。
 何年でも、何十年先でもいいから、いつか、この想いが届いたら嬉しい。
 軽い足取りのまま扉を抜けて、面談室を通り、一般棟の廊下へと出る。
 廊下に沿って続く大きな窓からは、日差しを受けて鮮やかに輝く中庭の緑と、綺麗に咲く花々が見えた。
 どこかで窓が開いているのか、ふわりと吹き抜けていった風はお日様の匂いがして、爽やかだ。

「……良い天気」

 高い高い、澄んだ青空は見上げるだけでも気持ちが良い。

「あ、こんにちは秘書様」
「こんにちは!」

 すれ違う職員たちと挨拶を交わしながら、廊下を歩いて行く。
 オルフィード国に、夏が近づく昼下がり。

「おーやっぱり。リリーじゃん」
「こんにちは、オリバー。良いところに!シャーロット探してるんだけど、知らない?」
「ああ、あいつならさっき――」

 近くの部屋からひょっこり顔を出した友人と、楽しく会話したりして。
 私の日常は、今日も穏やかに愛しく過ぎていくのだった。




第1章、終
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