71 / 196
第1章 大賢者様の秘書になりました
68.大賢者様と私<2>
しおりを挟むばくばくと、未だかつてないほどに心臓が激しく暴れ回っている。
私の身体の両脇に、長椅子の背へと焔さんの両腕がつかれていて――私は、身動きひとつできずに、焔さんを見上げていた。
しばらく前に、立場は逆だが似たようなことがあったような……いやでも、私が焔さんを意識するようになった今となっては、この状況はなんというか。
無理だ。
死んでしまいそう。
「……っ」
喉が凍り付いてしまったようになって、声すら出ない。
ああ、焔さんの顔が近い。近い近い。
真剣そうな、必死そうなそんな瞳と、恐らく数秒ほどの刹那、見つめ合って――。
「っお願いだから、辞めるなんて言わないで!」
「………………。は、い?」
――今、なんて?
次いで彼が発した言葉が咄嗟に理解できず、私はぽかんと間の抜けた疑問符を浮かべた。
「これからはもう無理させないように、梨里さんが嫌なことは全部断るから!勝手に決めたりしないから!」
「……えっと」
「一般書架の仕事とか、他の人に関わるのとかも嫌なら、最奥禁書領域に籠もりきりでも僕、怒ったりしないから!あの王子の相手なんて、しなくていいし――」
「あの」
「梨里さんのこと、疲れさせないように気をつけるから!あ、食事とか、僕が取りに行くようにしてもいいし!だから――」
「あ、あの!ちょっと待ってください……!」
大きな声で遮って、腕に力を込めひとまず起き上がろうと、焔さんの肩を押した――のだけど、細身なのに彼の身体は何故かびくともしない。
取り敢えず身体を起こすことは諦めて、そのままの体勢でお腹に力を入れた。
「待ってください、辞めるって何の話ですか?」
「え?」
「……え?って言われても」
「え、だから……え?あれ、梨里さんが、この仕事……辞めたいって話じゃ……」
「……は?」
「あれ?」
今度はぽかんと、互いに目を丸くして首を傾げ合うことになった。
「私、そんなこと考えてもいないですよ……?」
本当に、この仕事を辞めるだなんて考えたこともない。
完全に寝耳に水で……一体なんの話なのか。
「……え、あ……ほんと?」
「はい。リブラリカのことも、ここで働くことも好きですから……」
「でも、無理させて……梨里さん、熱出しちゃったのに」
「あれは、だから私の健康管理がちゃんとできてなかったからで……次からはちゃんと気をつけますから」
「あ……えっと……」
何か勘違いしてしまっているらしい焔さんが、眉尻を下げた不安が残る表情で迷うように言葉を選んでいる。
何度か唇を開けたり閉めたりした後、焔さんはゆっくりと身体を離してくれた。
やっと開放された私が居住まいを正すと、ちょっと躊躇いがちに焔さんも隣に腰を下ろしてくる。
「……私がこの仕事、辞めるって言い出すと思ったんですか?」
静かに尋ねると、焔さんがこくんと頷いた。
「昨日、オリバーたちと話して……もし君がそんな風に言い出したらどうしようって……」
オリバーたちと話して、ってことは、たぶん冗談か何かだったんだろうけれど。
その場に居なかったからよくわからないけれど、多分悪ふざけの冗談か何かを、焔さんが真に受けてしまった結果、さっきの発言に……ということだろうか。
「……なんとなくですけど、状況がわかったような気がします」
ふう、と一息ついて、まだ不安そうにこちらを見ている焔さんへ、安心してもらえるように笑顔を見せた。
「取り敢えず、私はこの仕事気に入っていますし、辞めたいなんて思っていないので安心してください。……クビにされるようなことさえなければ、辞めたりしないと思いますので」
「クビになんてしないよ!梨里さんがいてくれて僕、本当に助かってるから」
「なら私も安心です。だから、そんな顔しないで、焔さんも安心してください」
「……うん、わかった」
向かいに置いたままになっていた焔さんのティーカップを、アルトがすすっとこちらへずらしてくる。
受け取って新しい紅茶を淹れて差し出せば、焔さんはそっとその紅茶を一口。
ほっと息をついて、やっと安心したように表情を緩めた。
「ええと……なんか、ごめんね?僕が勘違いしてたみたいで……」
「ちょっとびっくりはしましたけど……わかってもらえたなら、大丈夫です」
私も、自分のカップに残っていた紅茶を飲んで一息ついた。
距離やら内容やらものすごく驚いたけど……焔さんの勘違いってことで、わかってもらえたならひとまずはよかった。
とはいえ、オリバーの冗談らしいという、私がこの仕事を辞めたいと思っている、ってことについて。
焔さんが勘違いをしてあそこまで必死になってくれた、というのは……うーん、なんだろう。
これはこれで、ちょっと嬉しいというか。
いや、そんなこと言いそうだと思われたという点に関しては心外なのだけど、でも……それだけ、私に辞めてほしくないと思ってくれたのだということ、だよね?
何やら複雑な気分だ。
そんなことを考えながら、自分の分も新しい紅茶を用意していれば、隣から「あ」とっ小さな呟きが発せられた。
「さっきのが僕の勘違いということは、梨里さんのさっきの……また別に話があるってことだよね?」
「……あー」
そうだった。
言われて思い出したけれど、あの本のことを聞いてみようと思っていたんだった。
「そうでした。お話……というか、聞きたいことがあったんでした」
「遮ってしまってごめんね。改めて聞かせてくれる?」
「ええと、ですね……」
改めて、だなんて言われると、更に言い出しづらくなってしまったような気もする。
少しだけ躊躇いながらも、背後に置いたままにしていたバッグを手繰り寄せて、中を覗き込んだ。
生成色の表紙に指が触れると、どこかへ吹っ飛んでいた緊張がまたぶわっとぶり返してきたのを感じる。
「?」
不思議そうにこちらを見つめている焔さんの視線を感じながら、一度深呼吸をした。
――今日、聞くって決めてきたんだ。
頑張れ、私。
「……実は、これ、なんですけど……」
覚悟を決めて、かすかに震える手でゆっくりと、本をバッグから取り出した。
「あ」と、音にならないような声を漏らした焔さんの瞳が、見開かれる。
「それ、は――」
その反応だけで、少しだが察しがついた。
焔さんは、やっぱり――『これを書いたのが私だと、知って』いたんだ。
バッグを置いて、両手で持ったそれを、焔さんへと差し出す。
その間もずっと、彼の視線は本に固定されたままだった。
「それ……その本がどう、したの?」
焔さんも、動揺しているのだろうか。
固い声でそう問われて、私はぎゅっと本を持つ手に力を込めた。
言葉を、間違えないようにしなければ。
「……先週、一般書架の仕事を手伝っている時に、見つけて。人気の本だって聞いたので、お借りしたんです」
「そ……う、なんだ」
「はい」
それきり、会話が途絶えてしまう。
沈黙は、どのくらいの間続いていただろうか。
やがてそろりと本から視線を上げてみれば、驚き顔からすっかり困り顔になった焔さんが、深い溜息を吐いたところだった。
目が合うと、微苦笑が返ってくる。
「……中、読んだ……よね?」
「……はい。読みました」
「そっか」
「これ……大賢者様のお気に入りの、異世界の本だって……司書の人から聞きました」
「……うん」
焔さんは、否定しなかった。
昨日は、こんなことを聞いて誤魔化されたらどうしよう、とか、そんなことも考えてはいたのだけれど。
落ち着いて、もう一回深呼吸。
「えっと――」
再び、言葉を選んで口を開いたのだけど。
そっと伸びてきた焔さんの綺麗な指先が、優しく本に乗せられて声が引っ込んでしまう。
ほう、と大きくて深い溜息を吐いた焔さんの指が、優しく表紙を撫でた。
「見つかっちゃったなら、仕方ないよね。……今まで黙っていて、ごめん。これは梨里さん――君の本で、間違いないよ」
何かの想いが込められているような、低くて優しい声が――私の耳朶に、深く響いた。
0
お気に入りに追加
44
あなたにおすすめの小説
公爵様、契約通り、跡継ぎを身籠りました!-もう契約は満了ですわよ・・・ね?ちょっと待って、どうして契約が終わらないんでしょうかぁぁ?!-
猫まんじゅう
恋愛
そう、没落寸前の実家を助けて頂く代わりに、跡継ぎを産む事を条件にした契約結婚だったのです。
無事跡継ぎを妊娠したフィリス。夫であるバルモント公爵との契約達成は出産までの約9か月となった。
筈だったのです······が?
◆◇◆
「この結婚は契約結婚だ。貴女の実家の財の工面はする。代わりに、貴女には私の跡継ぎを産んでもらおう」
拝啓、公爵様。財政に悩んでいた私の家を助ける代わりに、跡継ぎを産むという一時的な契約結婚でございましたよね・・・?ええ、跡継ぎは産みました。なぜ、まだ契約が完了しないんでしょうか?
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくださいませええ!この契約!あと・・・、一体あと、何人子供を産めば契約が満了になるのですッ!!?」
溺愛と、悪阻(ツワリ)ルートは二人がお互いに想いを通じ合わせても終わらない?
◆◇◆
安心保障のR15設定。
描写の直接的な表現はありませんが、”匂わせ”も気になる吐き悪阻体質の方はご注意ください。
ゆるゆる設定のコメディ要素あり。
つわりに付随する嘔吐表現などが多く含まれます。
※妊娠に関する内容を含みます。
【2023/07/15/9:00〜07/17/15:00, HOTランキング1位ありがとうございます!】
こちらは小説家になろうでも完結掲載しております(詳細はあとがきにて、)
【完結】私だけが知らない
綾雅(りょうが)祝!コミカライズ
ファンタジー
目が覚めたら何も覚えていなかった。父と兄を名乗る二人は泣きながら謝る。痩せ細った体、痣が残る肌、誰もが過保護に私を気遣う。けれど、誰もが何が起きたのかを語らなかった。
優しい家族、ぬるま湯のような生活、穏やかに過ぎていく日常……その陰で、人々は己の犯した罪を隠しつつ微笑む。私を守るため、そう言いながら真実から遠ざけた。
やがて、すべてを知った私は――ひとつの決断をする。
記憶喪失から始まる物語。冤罪で殺されかけた私は蘇り、陥れようとした者は断罪される。優しい嘘に隠された真実が徐々に明らかになっていく。
【同時掲載】 小説家になろう、アルファポリス、カクヨム、エブリスタ
2023/12/20……小説家になろう 日間、ファンタジー 27位
2023/12/19……番外編完結
2023/12/11……本編完結(番外編、12/12)
2023/08/27……エブリスタ ファンタジートレンド 1位
2023/08/26……カテゴリー変更「恋愛」⇒「ファンタジー」
2023/08/25……アルファポリス HOT女性向け 13位
2023/08/22……小説家になろう 異世界恋愛、日間 22位
2023/08/21……カクヨム 恋愛週間 17位
2023/08/16……カクヨム 恋愛日間 12位
2023/08/14……連載開始
【完結】誰にも相手にされない壁の華、イケメン騎士にお持ち帰りされる。
三園 七詩
恋愛
独身の貴族が集められる、今で言う婚活パーティーそこに地味で地位も下のソフィアも参加することに…しかし誰にも話しかけらない壁の華とかしたソフィア。
それなのに気がつけば裸でベッドに寝ていた…隣にはイケメン騎士でパーティーの花形の男性が隣にいる。
頭を抱えるソフィアはその前の出来事を思い出した。
短編恋愛になってます。
王女の中身は元自衛官だったので、継母に追放されたけど思い通りになりません
きぬがやあきら
恋愛
「妻はお妃様一人とお約束されたそうですが、今でもまだ同じことが言えますか?」
「正直なところ、不安を感じている」
久方ぶりに招かれた故郷、セレンティア城の月光満ちる庭園で、アシュレイは信じ難い光景を目撃するーー
激闘の末、王座に就いたアルダシールと結ばれた、元セレンティア王国の王女アシュレイ。
アラウァリア国では、新政権を勝ち取ったアシュレイを国母と崇めてくれる国民も多い。だが、結婚から2年、未だ後継ぎに恵まれないアルダシールに側室を推す声も上がり始める。そんな頃、弟シュナイゼルから結婚式の招待が舞い込んだ。
第2幕、連載開始しました!
お気に入り登録してくださった皆様、ありがとうございます! 心より御礼申し上げます。
以下、1章のあらすじです。
アシュレイは前世の記憶を持つ、セレンティア王国の皇女だった。後ろ盾もなく、継母である王妃に体よく追い出されてしまう。
表向きは外交の駒として、アラウァリア王国へ嫁ぐ形だが、国王は御年50歳で既に18人もの妃を持っている。
常に不遇の扱いを受けて、我慢の限界だったアシュレイは、大胆な計画を企てた。
それは輿入れの道中を、自ら雇った盗賊に襲撃させるもの。
サバイバルの知識もあるし、宝飾品を処分して生き抜けば、残りの人生を自由に謳歌できると踏んでいた。
しかし、輿入れ当日アシュレイを攫い出したのは、アラウァリアの第一王子・アルダシール。
盗賊団と共謀し、晴れて自由の身を望んでいたのに、アルダシールはアシュレイを手放してはくれず……。
アシュレイは自由と幸福を手に入れられるのか?
お飾り王妃の愛と献身
石河 翠
恋愛
エスターは、お飾りの王妃だ。初夜どころか結婚式もない、王国存続の生贄のような結婚は、父親である宰相によって調えられた。国王は身分の低い平民に溺れ、公務を放棄している。
けれどエスターは白い結婚を隠しもせずに、王の代わりに執務を続けている。彼女にとって大切なものは国であり、夫の愛情など必要としていなかったのだ。
ところがある日、暗愚だが無害だった国王の独断により、隣国への侵攻が始まる。それをきっかけに国内では革命が起き……。
国のために恋を捨て、人生を捧げてきたヒロインと、王妃を密かに愛し、彼女を手に入れるために国を変えることを決意した一途なヒーローの恋物語。
ハッピーエンドです。
この作品は他サイトにも投稿しております。
表紙絵は写真ACよりチョコラテさまの作品(写真ID:24963620)をお借りしております。
探さないでください。旦那様は私がお嫌いでしょう?
雪塚 ゆず
恋愛
結婚してから早一年。
最強の魔術師と呼ばれる旦那様と結婚しましたが、まったく私を愛してくれません。
ある日、女性とのやりとりであろう手紙まで見つけてしまいました。
もう限界です。
探さないでください、と書いて、私は家を飛び出しました。
婚約破棄って…私まだ12歳なんですけど…
京月
恋愛
スラリと伸びた手足に風でたなびくサラサラな髪の毛。誰もが二度見をしてしまうほどの美貌を持つ彼女の名前はリンデ。誰にでも分け隔てなく笑顔を振りまく貴族の鏡のような子。そんな彼女には年上の婚約者がいた。ある日突然婚約者は真剣な顔で私を問い詰める。
「リンデ、お前浮気してるだろ!見損なった、お前とは婚約破棄だ」
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる