大賢者様の聖図書館

櫻井綾

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第1章 大賢者様の秘書になりました

68.大賢者様と私<2>

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 ばくばくと、未だかつてないほどに心臓が激しく暴れ回っている。
 私の身体の両脇に、長椅子の背へと焔さんの両腕がつかれていて――私は、身動きひとつできずに、焔さんを見上げていた。
 しばらく前に、立場は逆だが似たようなことがあったような……いやでも、私が焔さんを意識するようになった今となっては、この状況はなんというか。
 無理だ。
 死んでしまいそう。

「……っ」

 喉が凍り付いてしまったようになって、声すら出ない。
 ああ、焔さんの顔が近い。近い近い。
 真剣そうな、必死そうなそんな瞳と、恐らく数秒ほどの刹那、見つめ合って――。

「っお願いだから、辞めるなんて言わないで!」
「………………。は、い?」

 ――今、なんて?
 次いで彼が発した言葉が咄嗟に理解できず、私はぽかんと間の抜けた疑問符を浮かべた。

「これからはもう無理させないように、梨里さんが嫌なことは全部断るから!勝手に決めたりしないから!」
「……えっと」
「一般書架の仕事とか、他の人に関わるのとかも嫌なら、最奥禁書領域に籠もりきりでも僕、怒ったりしないから!あの王子の相手なんて、しなくていいし――」
「あの」
「梨里さんのこと、疲れさせないように気をつけるから!あ、食事とか、僕が取りに行くようにしてもいいし!だから――」
「あ、あの!ちょっと待ってください……!」

 大きな声で遮って、腕に力を込めひとまず起き上がろうと、焔さんの肩を押した――のだけど、細身なのに彼の身体は何故かびくともしない。
 取り敢えず身体を起こすことは諦めて、そのままの体勢でお腹に力を入れた。

「待ってください、辞めるって何の話ですか?」
「え?」
「……え?って言われても」
「え、だから……え?あれ、梨里さんが、この仕事……辞めたいって話じゃ……」
「……は?」
「あれ?」

 今度はぽかんと、互いに目を丸くして首を傾げ合うことになった。

「私、そんなこと考えてもいないですよ……?」

 本当に、この仕事を辞めるだなんて考えたこともない。
 完全に寝耳に水で……一体なんの話なのか。

「……え、あ……ほんと?」
「はい。リブラリカのことも、ここで働くことも好きですから……」
「でも、無理させて……梨里さん、熱出しちゃったのに」
「あれは、だから私の健康管理がちゃんとできてなかったからで……次からはちゃんと気をつけますから」
「あ……えっと……」

 何か勘違いしてしまっているらしい焔さんが、眉尻を下げた不安が残る表情で迷うように言葉を選んでいる。
 何度か唇を開けたり閉めたりした後、焔さんはゆっくりと身体を離してくれた。
 やっと開放された私が居住まいを正すと、ちょっと躊躇いがちに焔さんも隣に腰を下ろしてくる。

「……私がこの仕事、辞めるって言い出すと思ったんですか?」

 静かに尋ねると、焔さんがこくんと頷いた。

「昨日、オリバーたちと話して……もし君がそんな風に言い出したらどうしようって……」

 オリバーたちと話して、ってことは、たぶん冗談か何かだったんだろうけれど。
 その場に居なかったからよくわからないけれど、多分悪ふざけの冗談か何かを、焔さんが真に受けてしまった結果、さっきの発言に……ということだろうか。

「……なんとなくですけど、状況がわかったような気がします」

 ふう、と一息ついて、まだ不安そうにこちらを見ている焔さんへ、安心してもらえるように笑顔を見せた。

「取り敢えず、私はこの仕事気に入っていますし、辞めたいなんて思っていないので安心してください。……クビにされるようなことさえなければ、辞めたりしないと思いますので」
「クビになんてしないよ!梨里さんがいてくれて僕、本当に助かってるから」
「なら私も安心です。だから、そんな顔しないで、焔さんも安心してください」
「……うん、わかった」

 向かいに置いたままになっていた焔さんのティーカップを、アルトがすすっとこちらへずらしてくる。
 受け取って新しい紅茶を淹れて差し出せば、焔さんはそっとその紅茶を一口。
 ほっと息をついて、やっと安心したように表情を緩めた。

「ええと……なんか、ごめんね?僕が勘違いしてたみたいで……」
「ちょっとびっくりはしましたけど……わかってもらえたなら、大丈夫です」

 私も、自分のカップに残っていた紅茶を飲んで一息ついた。
 距離やら内容やらものすごく驚いたけど……焔さんの勘違いってことで、わかってもらえたならひとまずはよかった。
 とはいえ、オリバーの冗談らしいという、私がこの仕事を辞めたいと思っている、ってことについて。
 焔さんが勘違いをしてあそこまで必死になってくれた、というのは……うーん、なんだろう。
 これはこれで、ちょっと嬉しいというか。
 いや、そんなこと言いそうだと思われたという点に関しては心外なのだけど、でも……それだけ、私に辞めてほしくないと思ってくれたのだということ、だよね?
 何やら複雑な気分だ。
 そんなことを考えながら、自分の分も新しい紅茶を用意していれば、隣から「あ」とっ小さな呟きが発せられた。

「さっきのが僕の勘違いということは、梨里さんのさっきの……また別に話があるってことだよね?」
「……あー」

 そうだった。
 言われて思い出したけれど、あの本のことを聞いてみようと思っていたんだった。

「そうでした。お話……というか、聞きたいことがあったんでした」
「遮ってしまってごめんね。改めて聞かせてくれる?」
「ええと、ですね……」

 改めて、だなんて言われると、更に言い出しづらくなってしまったような気もする。
 少しだけ躊躇いながらも、背後に置いたままにしていたバッグを手繰り寄せて、中を覗き込んだ。
 生成色の表紙に指が触れると、どこかへ吹っ飛んでいた緊張がまたぶわっとぶり返してきたのを感じる。

「?」

 不思議そうにこちらを見つめている焔さんの視線を感じながら、一度深呼吸をした。
 ――今日、聞くって決めてきたんだ。
 頑張れ、私。

「……実は、これ、なんですけど……」

 覚悟を決めて、かすかに震える手でゆっくりと、本をバッグから取り出した。
 「あ」と、音にならないような声を漏らした焔さんの瞳が、見開かれる。

「それ、は――」

 その反応だけで、少しだが察しがついた。
 焔さんは、やっぱり――『これを書いたのが私だと、知って』いたんだ。
 バッグを置いて、両手で持ったそれを、焔さんへと差し出す。
 その間もずっと、彼の視線は本に固定されたままだった。

「それ……その本がどう、したの?」

 焔さんも、動揺しているのだろうか。
 固い声でそう問われて、私はぎゅっと本を持つ手に力を込めた。
 言葉を、間違えないようにしなければ。

「……先週、一般書架の仕事を手伝っている時に、見つけて。人気の本だって聞いたので、お借りしたんです」
「そ……う、なんだ」
「はい」

 それきり、会話が途絶えてしまう。
 沈黙は、どのくらいの間続いていただろうか。
 やがてそろりと本から視線を上げてみれば、驚き顔からすっかり困り顔になった焔さんが、深い溜息を吐いたところだった。
 目が合うと、微苦笑が返ってくる。

「……中、読んだ……よね?」
「……はい。読みました」
「そっか」
「これ……大賢者様のお気に入りの、異世界の本だって……司書の人から聞きました」
「……うん」

 焔さんは、否定しなかった。
 昨日は、こんなことを聞いて誤魔化されたらどうしよう、とか、そんなことも考えてはいたのだけれど。
 落ち着いて、もう一回深呼吸。

「えっと――」

 再び、言葉を選んで口を開いたのだけど。
 そっと伸びてきた焔さんの綺麗な指先が、優しく本に乗せられて声が引っ込んでしまう。
 ほう、と大きくて深い溜息を吐いた焔さんの指が、優しく表紙を撫でた。

「見つかっちゃったなら、仕方ないよね。……今まで黙っていて、ごめん。これは梨里さん――君の本で、間違いないよ」

 何かの想いが込められているような、低くて優しい声が――私の耳朶に、深く響いた。



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