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第1章 大賢者様の秘書になりました
67.大賢者様と私<1>
しおりを挟む無理はしなくていい、というアルトの言葉に甘えて、目覚まし時計を掛けなかった翌朝。
起床したのは陽も昇った9時頃だった。
バスケットに残った料理で朝食を取り、身支度を整えてリブラリカへ向かう。
今の私は、いつもよりちょっと遅い時間に、鞄を持ったまま焔さんの部屋の前に立っていた。
「…………」
ぎゅっと鞄の取っ手を握り絞め、扉を見つめる。
――昨日から、沢山、色々な事を考えて、考えて。
頭がいっぱいになるくらい、今までにないくらい沢山考えて。
その末に、あの本をこの鞄に入れてきた。
……それから、あちらの本も。
自分の勘違いだったら恥ずかしいけれど、でも――でも、もし。
もしも思った通りなのだとしたら、いや、思った通りでなかったとしても、この気持ちが届く可能性が、一欠片でもあるとしたら――。
そんな小さな希望が捨てられずに、持ってきてしまった。
アルトは、こちらの気持ちを汲んでくれているのか……いつまでも扉の前でじっとしている私を、足下でそっと見守ってくれている。
もう何度目になるかわからない深呼吸をして、ぐっとお腹に力を入れた。
――よし、行くぞ。
この扉をノックするのに、こんなにも緊張したことなんて、今まであっただろうか。
震える手を持ち上げて、ゆっくりノックをした。
――と。
がたっ。「うっわ」ばさばさばさ……。
「?!」
途端に室内から聞こえてきたのは、くぐもった重い物音と、焦ったような声。
「っ焔さん……?!大丈夫ですか!」
思わず緊張していたことすら忘れて、勢いよく扉を開け室内へと飛び込んでいた。
「……あ」
「あー……」
一歩室内へと踏み込んで、目に飛び込んできた光景に大きく息を吐き出した。
「……ったくお前なぁ……」
アルトの呆れたような声に、苦笑してしまう。
大賢者様はどうやら、長椅子の周りに沢山の本を山積みにして、うたた寝をしていたらしい。
床に転げ落ちた形の焔さんに、崩れた本が散乱した光景は、あまりにも日常すぎた。
「……大丈夫ですか、焔さん」
本を踏まないように気をつけながら近づいて、まだちょっとだけ寝ぼけ眼の焔さんへ手を差し出す。
「ああ、ありがとう梨里さん……」
そっと握られた手は温かい。
立ち上がった焔さんの埃をぱたぱた払い、散乱した本を二人で片付ける。
あらかた終える頃には、部屋に入るまでの変に強ばったような緊張はどこかにいってしまっていた。
アルトが気を利かせて持ってきてくれた紅茶を淹れて、互いに長椅子に腰掛ければ――やっと一息つける。
向かいに座る焔さんから、少しだけ固い空気を感じるけれど……きっと、今が話掛けるチャンスだ。
よし。
すう、と静かに息を吸い込んで、私はぐっと顔を上げた。
「――あの、焔さん」
「……うん?」
数秒の空白の後、焔さんがいつも通りに――いや、いつもよりちょっとだけ固い笑顔で、首を傾げた。
急に仕事を休んだこと、やっぱり怒ってるのかな……。
少しだけ怯みそうになる心を叱咤して、ぎゅっと拳を握りしめる。
「昨日は、突然お休みを頂いてしまって申し訳ありませんでした」
続けて、ぐっと膝に付くくらいまで頭を下げた。
まずは、これからだ。
「体調管理ができてなくて、本当にすみませんでした。次から気をつけます。……それと、モニカの食事も持ってきて頂いて、ありがとうございました。とても助かりました」
「…………あ、えっと……」
「……?」
焔さんからの微妙な返事にそっと姿勢を戻してみれば、何だか困った表情をした大賢者様がこちらを見つめていた。
「……あの、それについては僕も、梨里さんに謝りたくて」
「え?」
予想外の言葉に、今度は私が首を傾げる。
熱を出して仕事を休んだのは私なのに、焔さんが私に謝ることなんてあっただろうか。
「ごめん。僕が舞踏会への出席を勝手に決めたりしたから、君にとても無茶をさせてしまったと思って。……無理させてしまって、本当に悪かった」
「えっ……い、いや、待ってください!焔さんが謝ることないですよ……!確かにその、沢山頑張りはしましたけど、そもそもシャーロットの授業を受けたいって言ったの私ですし……!」
「そう、だけど……」
「焔さんが悪いことなんてないです!ほんと……私、雨に濡れたりしちゃったし、自分のせいだと思うんです!だから、焔さんが謝ることなんてないと思います!」
「……そう、なのかな?」
「はい!」
珍しく弱り切ったような表情の焔さんに、力強く頷いて見せる。
少しだけ考え込むように自分のティーカップを見つめていた焔さんは、やがて深い溜息を吐いた。
その吐息に、彼の紅茶の水面にさざ波が立つ。
「……すごく、心配したんだ」
次いでぽつんと零された彼の言葉に、ぎゅっと胸が締め付けられた。
こんなふうに、喜んではいけないのだろうけれど――気に掛けてもらえたことが、嬉しいと感じる。
「身体は、もう大丈夫なの?」
「はい、ゆっくり休ませて頂いたので、すっかり元気です」
「そっか。……よかった」
ようやく表情が緩んだ焔さんの微笑みに、またきゅっと胸が軋む。
――ああ、この人のことが好きだな。と。
そんな気持ちが生まれるようになった、自分の心の変化がくすぐったく感じた。
少しだけ部屋の空気が軽くなった気がする。
「まあでも、今回はちょっと無理しすぎな気もしたから。次からはちゃんと休んで、根詰めすぎないように気をつけるんだよ」
「はい。そうします」
「僕もちゃんと見てるようにするからね」
「はい」
「うん、ならよし」
私の返答に満足したのか、機嫌良さそうに紅茶を傾ける焔さんに、気づかれないようほっと息を吐いた。
取り敢えず、1つ目の目的は達成だ。
手元の紅茶を、また一口飲む。
爽やかな香りに後押しされるように、ティーカップをソーサーに戻して、深呼吸した。
――さあ、ここからが本番だ。
膝の上に置いた鞄に、そっと手を乗せる。
「……それで、ですね」
「なんだい?」
思っていたより固い声が出てしまって、一度口を噤む。
……大丈夫、私、落ち着いて。
「ええと……実はあの、もうひとつ、お話がありまして――」
「…………え?」
カチャン、と大きめの音を立てて、焔さんの持っていたティーカップがソーサーへと落ちる。
いつでも所作の優雅な焔さんにしては珍しい行動に、目を丸くしたのだけど。
「……焔さん?」
それ以上に、彼が驚愕の表情というか、真っ青な顔色でこちらを見ていることに驚いた。
「え?あの、どうかしました?具合悪かったりとか――」
慌てて長椅子から腰を浮かせる私より、一歩早く。
がたっと椅子がずれる勢いで立ち上がった焔さんが、テーブルを回り込んでこちらにやってきて。
「――梨里さん……っ!」
「えぇっ?!」
その勢いのまま、痛いほどの力で両肩を掴まれた私は、半ば押し倒されるようにして長椅子へと押し戻されていた。
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