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第1章 大賢者様の秘書になりました
63.今日はお休み
しおりを挟む……あれ?
ふと覚醒して、開けた視界がいつもよりぼやけていることに内心首を傾げた。
季節に反して、なんだか蒸し暑いような気がする。
あ、そうだ。仕事……。
いつもより重い身体を不思議に思いながら、身を起こす。
ぐらり、と意識が揺れた気がした。
……気持ち悪い。
ぐっと堪えて確認した時計は、午前9時過ぎ。
え、うそ、遅刻……。
「お、やっと起きたか」
「アルト……何で起こしてくれなかったの」
「いや、だってお前――」
ベッドから立ち上がった瞬間、またぐらりと大きく意識が揺れた。
「あ、おい――」
「っ」
がくん、と視界が揺れて、気がつけばベッドに尻餅をつくような形で転んでしまっていた。
なんだか身体が思い通りに動いてくれない。
慌てて駆け寄ってきたアルトが、ベッドに上がってくる。
「やめとけ。お前、熱出してるだろ」
「熱……?」
額に手を当ててみるけれど、頭がぼうっとしているのもあって、よくわからない。
結局、しまい込んでいた体温計を何とか取り出し計ってみると、大分高熱を出していることがわかった。
「わ、ほんとだ……」
「納得したか?だったからほれ、ベッドに戻れ」
しっしっと前足で追いやられるけれど、寝ているわけにもいかない。
「でもアルト。私、仕事が……」
「そんなふらふらで、仕事も何もあるもんか。イグニスの奴には俺が話してくるから、お前は休みだ」
ぴしゃんと言い切られ、小さな身体からは考えられないような力でどすっと一撃を食らって、布団に押し戻されてしまった。
……確かに、さっきからずっとふらふらしているし、頭もぼんやりしたままだ。
このままじゃ仕事が出来るとは……言えないだろうな。
「じゃあ、大人しく寝てるんだぞ。俺はあっち行ってくるから」
「アルト、あの……」
「ん?」
「……焔さんに、ごめんなさいって伝えてくれる?」
「わかった」
それっきり、使い魔の黒猫はひょんと尾を振って、玄関の方へと歩いていってしまった。
ぱたんと、扉の閉まる音がする。
しんと静まりかえった部屋で寝返りを打ちながら、そっと目を閉じた。
……体調を崩すなんて、何ヶ月ぶりだろう。
昨日びしょ濡れになったのが悪かったのだろうか。
それとも、疲れが溜まっていたのだろうか。
……どっちも、かなぁ。
またごろり、と寝返りを打つと、昨日の夜のように雨が窓を叩く音が聞こえた。
今日もまだ、雨が降っているらしい。
熱に浮かされた身体は、すぐにまた眠りの淵へと落ちていった。
「おーいイグニス、生きてるかー?」
食堂で1人分の朝食を受け取って、バスケットごとイグニスの部屋へやってくる。
部屋の主は、ぱっと明るい表情を見せたものの、入ってきたのが俺1匹だと分かるとあからさまに嫌そうな顔を向けてきた。
「なんだ、アルトだけ……って、梨里さんは?」
「なんだとはなんだ。お前の使い魔に向かって」
ほれ、とバスケットをイグニスの前に置きながら、大きく溜息を吐いた。
「リリーは今日休みだ。熱出したからな」
「……は?」
本当に忙しい奴だ。
今度はぽかんとした顔をして、手に持っていた書類がぱさりと床に落ちる。
俺様は優秀な使い魔だから、仕方なくその書類を拾いテーブルの上に戻してやった。
たっぷり時間が空いて、ぎぎぎ……と音がしそうな動きで、イグニスがこちらを見下ろした。
「……ごめん、もう一回言って?」
「リリーが、熱を出したから、今日は休ませた。ごめんなさいって伝えてくれって言われたな」
全く、大賢者だなんだと言っても、結局はこいつも阿呆な人間でしかないわけだ。
しっかり奴の脳に刻みこむように、一言ずつ区切って親切に伝えてやる俺様はさすがだと思う。
「………………」
ちょっと青ざめて黙りこんでしまったイグニスに、ちょいとバスケットを押しやった。
「取り敢えずお前は、朝食を済ませろ。話はそれからだ」
その後。
放心状態で朝食を口に運ぶイグニスを眺めて、食事が終わって紅茶を飲むイグニスを横目に、俺様も紅茶を楽しんでいたのだが。
ずっと無言でいた彼が、ふと顔を上げたのが見えた。
「……熱……」
「あ?」
放心したまま虚空を見つめて、ぼそ、とイグニスが何かを呟く。
「熱――そうだ、食事……!」
「うおっ!」
本当に唐突に、ガタッと奴が立ち上がる。
「な、なんだなんだ……」
俺様が目を白黒させている間に、イグニスは素早く朝食を片付けると、バスケットを握り黒いローブをひっつかんで早足に部屋を出て行く。
「おい、ちょっと……!」
その後を慌てて追いかけると、フードを被った奴が向かったのは、食堂だった。
朝食の時間をとうに過ぎて、人もまばらになっている食堂を、イグニスはずんずんと早足に進んでいく。
まっすぐにいつものカウンター端に向かうと、「モニカ!」と厨房のほうへ呼びかけた。
「はいはい、どなた……って、あらまあ!大賢者様!?」
手を拭いつつ出てきたモニカが、イグニスの姿を見て当然だが目を丸くする。
「モニカ、今朝の食事も美味しかった。ありがとう」
「まぁまぁ……!大賢者様直々になんて、恐れ多いですわ!そう言って頂けると、私も作った甲斐が御座います。バスケットもお持ち頂いたんですね、ありがとうございます」
恐縮しきりといったモニカにバスケットを返しながら、イグニスは少し身を乗り出すようにして言葉を続けた。
「あの、それでなんだけど。食事を、頼みたくて」
「ええ?食事……すみません、足りませんでしたか?」
「いや、僕は十分だ。僕の分じゃなくて、リリーの分を」
「リリー様の?……そういえば、本日はお姿を見ていませんね……」
「熱を出してしまったんだ。こういうときは、栄養のある専用の食事を用意すべきだと、本で読んだんだが」
……ははぁ。なるほど、それで。
イグニスもイグニスなりに、熱を出したリリーのことを心配して食事のことを思いついた、というわけか。
隣でモニカとイグニスのやりとりを見ていた俺様は、主人の不可解な行動にようやく合点がいってしきりに頷いていた。
こいつも、人と関わるという点において、少しは成長しているらしい。
「まぁ!リリー様がお熱を?……そうですね、大賢者様の仰る通り。体調を崩した時こそ、栄養のある食事というのは、回復のために大切なものですわ」
「やっぱりそうか!じゃあ……」
モニカの言葉に、イグニスの声がぱっと明るくなる。
彼女は腕まくりをすると、優しく微笑みながらしっかりと頷いた。
「お任せくださいませ。そういうことでしたら、リブラリカの食堂を預かるこのモニカが、栄養たっぷりの食事をご用意いたしますわ。少しだけお時間を頂きたいので、近くのお席でお待ち頂いてもよろしいでしょうか?」
「わかった。いくらでも待つよ。よろしく頼む」
「はい。ではちょっとご用意して参りますね」
ぱたぱたと厨房へ戻っていくモニカの背を見送って、イグニスはカウンター近くの隅っこの席に腰を下ろした。
ひょい、とテーブルにのり上がって覗き込んでみれば、これはまた、随分と珍しい表情をしている。
「そんなにリリーのこと心配か?」
「え?あー……うん、だって……あの舞踏会の後だし、その、やっぱり色々無茶させたんじゃないかって……」
「あ?」
「梨里さん、ああいう場は苦手だって言ってたし。無茶させた反動で体調を崩した、とかだったら……俺のせいだろう?」
……ほう、なるほど。
こいつ、自分のせいでリリーが熱出したとか思って青ざめたり焦ったりしていたってわけか。
「そんなに気にするな。まぁ、少しは疲れもあるかもしれないが、昨日雨に降られたって言ってたし、多分そのせいだろ」
「雨に……。でも、やっぱり……うーん」
それきり、イグニスはうんうん唸って黙り込んでしまう。
こいつも、こうやって他人のことで悩んだりなんだりできるようになったというのは、いい徴候だと思って良い……んだろうな。
待っている間にどうぞ、とモニカが持ってきてくれた紅茶を飲みながら、俺はしばらく、百面相するイグニスを眺めて過ごすことにした。
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