65 / 196
第1章 大賢者様の秘書になりました
62.本と雨音
しおりを挟む文字通り、時間を忘れておしゃべりに没頭してしまった結果、気がつけば空は真っ暗になっていた。
「今日はありがとう!まさか、梨里と恋バナできるなんて。ほんと楽しかった!」
宿泊先へと帰る美佳が、駅の改札前で満足そうな笑みを浮かべた。
「私も、本当に楽しかった!色々聞いてくれてありがとう」
「いやいや、まだ足りないくらいだから!私、応援してるから絶対頑張るんだよ!今までより沢山、近況報告してよね!」
「うん、わかった」
「絶対だからね!また遊びにくるから!」
「楽しみにしてる!……帰り、気をつけてね!」
「うん!梨里もねー!」
元気よく手を振りながら、美佳は改札の中へと飛び込んでいった。
ほんのちょっとだけ寂しい気持ちになりながら、確認した腕時計。
時刻は――19時を過ぎたところ。
「やば……」
今日中に行く予定だったもうひとつの場所は、20時閉店だったはずだ。
慌てて駅を後にして、再び駅前の商店街へと早足に戻る。
5分ちょっと歩いて、目的の店にまだ明かりが付いているのが見えると心底ほっとした。
カラン、とドアベルが軽い音を立てる。
受付のカウンターにいたのは、顔見知りのスタッフだった。
「いらっしゃいま……あ!堀川さん!」
「こんばんは。遅くなってしまってすみません」
「いえいえ!まだ営業時間中ですし、大丈夫ですよ」
そう言ってにっこり笑ってくれるのは、すっきりと落ち着いた雰囲気の女性。
「本、できてますよ。持ってくるので少しお待ちくださいね」
「いつもありがとうございます。お願いします」
女性が軽く会釈してカウンターの裏に入っていく。
私はいつも通り、窓際に置かれた小さな待ち席に腰掛けた。
ここは、本を作るときにいつもお世話になっている、小さな印刷所だ。
小綺麗で白を基調としたシンプルなカウンターの裏には、印刷機等の機械が沢山あるらしい。
今も、店の奥からガシャン、シュッっという、連続して印刷をする音が聞こえてきている。
何となく落ち着くそれらの音を聞きながら、ガラス張りになっている外へ視線を向けると、空が大分曇ってきていた。
いけない、そういえば夜から雨が降るんだっけ。
家に帰るまで降らないといいのだけど。
「お待たせしました」
ぼんやりしていれば、さほど待つことなくスタッフさんが戻ってきた。
その手にあるのは、クラフト紙に包まれた小さな塊。
私の座る席まで来て、スタッフさんがそっとその包みをテーブルへと置いた。
「中の確認、お願いできますか?」
「はい」
そっと手を伸ばして、丁寧に包みを開いていく。
――中から現れたのは、インクの匂いも真新しい、3冊の文庫本。
「あれ?」
驚いて声を上げると、店員さんがちょっとだけ苦笑した。
文庫本の表紙に印刷されたタイトルは、間違いなく注文した本のもの。
けれど、確か2冊で申し込んだはずなのに――。
戸惑う私に、スタッフさんは丁寧に頭を下げた。
「すみません、今回、こちらの手違いで、1冊多く印刷してしまったんです。堀川さんにはいつもご利用頂いてますし、見本誌ってことでお持ちください」
「えっ!あ、いや……全然、いいんですけど。でも、見本誌って。もう一冊分払います」
「こちらのミスですし、本当に大丈夫ですから。ね?……それより、中も大丈夫そうですか?」
「あ、はい、えっと――」
パラパラと中身を捲って、問題ないことを確認する。
結局そのまま押し切られて、3冊分の文庫を受け取ることになってしまった。
雨が降りそうだから、とスタッフさんが濡れても平気なように包んでくれた文庫本を手に、印刷所を後にする。
元々、自分の分と佐久間さん――『路地裏』の店長さんへ送る分で2冊あればよかったのだけれど。
思いがけず増えたもう1冊をどうしようか……なんて考えながら、てくてくと商店街を出て、少し歩いた辺りで。
――ぽつり。
「へ?」
顔に冷たいしずくを感じて、空を仰ぐ。
たちまち、すごい勢いで土砂降りの雨が叩きつけてきた。
「う、わ……!」
ざああっと激しい音を立てながら、視界が白く煙る程の滝のような雨に降られてしまった。
慌てて本の包みを胸元に抱きしめる。
――しまった、商店街から出る前に、傘を買っておけばよかった。
一瞬、商店街に戻ろうかとも思ったけれど……ここまで来てしまうと、商店街に戻るのも自宅まで帰るのも、距離は同じくらい。
身体はもうずぶ濡れだし、それならば、家まで走ってしまったほうが早い。
丁寧に梱包して貰ったとはいえ、大切な本だけは濡らさないようにと自分の身体で庇いながら、土砂降りの中を家まで走った。
運動不足で走るのすら苦手な私が自宅玄関に到着した頃には、すっかり息が上がってぐったりしてしまっていた。
「…………はぁ」
深い溜息をひとつ落として、のろのろと荷物を置き、びしょ濡れの服を絞る。
これはお風呂に直行だな……。
後で、荷物や玄関も拭いて、本の確認しないと……。
最後の最後でどっと疲れた気分になりながら、とぼとぼと脱衣所へと向かった。
帰宅後の入浴や、荷物の片付けをしたり、靴を乾かしたりと忙しくしていれば、色々落ち着いた頃にはもう、夜の22時を回っていた。
簡単なもので夕食を取っている最中、カタリと玄関先で小さな音がして、黒い猫が欠伸をしながら帰宅してくる。
「アルト、お帰りー」
「おう。って、なんか湿ってるな、この部屋。雨の匂いか?」
髭をひくつかせながら、帰宅早々そんなことを言うのは、さすが猫といったところか。
「うん。ちょっと降られちゃって」
「風呂……は入ったみたいだな。風邪引くなよ」
「うん、気をつけるよ。ありがと」
食べ終わった食器を手に席を立つと、一瞬ふわりと足下が揺れた感覚がした。
一歩だけよろけて、テーブルに手をつく。
「……おい、大丈夫か?」
見ていたらしいアルトの声に、大丈夫、と返事をした。
「ごめん。ちょっと目眩がしただけだから平気」
「ほんとかあ?舞踏会もあって疲れてるんだろうし、今日は早く寝るんだぞ」
ソファの背に前足をついてひょっこりこちらを見ながら、そんなふうに言うアルトが何となく可笑しくなって、食器を洗いつつ小さく吹き出してしまった。
「なんだかアルト、お母さんみたい」
「だぁれがお母さんだ。誰が。……ったく、お前もイグニスも、世話が焼けるったらないんだから……」
恥ずかしいのか、ブツブツ言いながらソファの陰に隠れてしまうアルトに、ふふ、と笑みを零す。
きゅ、と水を止めて、手を拭いながら無意識に大きな溜息を吐いてしまった。
……これは本当に、ちょっと疲れちゃってるのかも。
今朝から少し怠いような気もするし、アルトの言う通り、今日は早めに寝てしまおう。
そう決めて、歯を磨いて、ベッドへと向かう途中。
ふと目に入ったのは、机の上に置いたままになっていた、リブラリカから借りてきたあの本だった。
そっと歩み寄って、表紙を撫でる。
……これを読む時間も欲しいんだけどな。
「……リリー」
軽く表紙を捲ろうとした私の背に、不機嫌そうな低い声が掛かる。
「もう、わかってる。すぐ寝るよ」
「そうしろ。明日からまた仕事なんだから」
「だね」
名残惜しく思いながらも、本を机に戻して今度こそベッドに入った。
部屋の明かりを消すと、柔らかな布団の感触にすぐに眠気が襲ってくる。
「おやすみ、アルト」
「おやすみ」
閉じた瞼の向こう側で、しとしとと降り続ける雨音が響いている。
雨は、まだまだ止みそうになかった。
0
お気に入りに追加
44
あなたにおすすめの小説
夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました
氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。
ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。
小説家になろう様にも掲載中です
公爵様、契約通り、跡継ぎを身籠りました!-もう契約は満了ですわよ・・・ね?ちょっと待って、どうして契約が終わらないんでしょうかぁぁ?!-
猫まんじゅう
恋愛
そう、没落寸前の実家を助けて頂く代わりに、跡継ぎを産む事を条件にした契約結婚だったのです。
無事跡継ぎを妊娠したフィリス。夫であるバルモント公爵との契約達成は出産までの約9か月となった。
筈だったのです······が?
◆◇◆
「この結婚は契約結婚だ。貴女の実家の財の工面はする。代わりに、貴女には私の跡継ぎを産んでもらおう」
拝啓、公爵様。財政に悩んでいた私の家を助ける代わりに、跡継ぎを産むという一時的な契約結婚でございましたよね・・・?ええ、跡継ぎは産みました。なぜ、まだ契約が完了しないんでしょうか?
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくださいませええ!この契約!あと・・・、一体あと、何人子供を産めば契約が満了になるのですッ!!?」
溺愛と、悪阻(ツワリ)ルートは二人がお互いに想いを通じ合わせても終わらない?
◆◇◆
安心保障のR15設定。
描写の直接的な表現はありませんが、”匂わせ”も気になる吐き悪阻体質の方はご注意ください。
ゆるゆる設定のコメディ要素あり。
つわりに付随する嘔吐表現などが多く含まれます。
※妊娠に関する内容を含みます。
【2023/07/15/9:00〜07/17/15:00, HOTランキング1位ありがとうございます!】
こちらは小説家になろうでも完結掲載しております(詳細はあとがきにて、)
【完結】身を引いたつもりが逆効果でした
風見ゆうみ
恋愛
6年前に別れの言葉もなく、あたしの前から姿を消した彼と再会したのは、王子の婚約パレードの時だった。
一緒に遊んでいた頃には知らなかったけれど、彼は実は王子だったらしい。しかもあたしの親友と彼の弟も幼い頃に将来の約束をしていたようで・・・・・。
平民と王族ではつりあわない、そう思い、身を引こうとしたのだけど、なぜか逃してくれません!
というか、婚約者にされそうです!
陛下から一年以内に世継ぎが生まれなければ王子と離縁するように言い渡されました
夢見 歩
恋愛
「そなたが1年以内に懐妊しない場合、
そなたとサミュエルは離縁をし
サミュエルは新しい妃を迎えて
世継ぎを作ることとする。」
陛下が夫に出すという条件を
事前に聞かされた事により
わたくしの心は粉々に砕けました。
わたくしを愛していないあなたに対して
わたくしが出来ることは〇〇だけです…
お腹の子と一緒に逃げたところ、結局お腹の子の父親に捕まりました。
下菊みこと
恋愛
逃げたけど逃げ切れなかったお話。
またはチャラ男だと思ってたらヤンデレだったお話。
あるいは今度こそ幸せ家族になるお話。
ご都合主義の多分ハッピーエンド?
小説家になろう様でも投稿しています。
【完】あの、……どなたでしょうか?
桐生桜月姫
恋愛
「キャサリン・ルーラー
爵位を傘に取る卑しい女め、今この時を以て貴様との婚約を破棄する。」
見た目だけは、麗しの王太子殿下から出た言葉に、婚約破棄を突きつけられた美しい女性は………
「あの、……どなたのことでしょうか?」
まさかの意味不明発言!!
今ここに幕開ける、波瀾万丈の間違い婚約破棄ラブコメ!!
結末やいかに!!
*******************
執筆終了済みです。
婚約者が他の女性に興味がある様なので旅に出たら彼が豹変しました
Karamimi
恋愛
9歳の時お互いの両親が仲良しという理由から、幼馴染で同じ年の侯爵令息、オスカーと婚約した伯爵令嬢のアメリア。容姿端麗、強くて優しいオスカーが大好きなアメリアは、この婚約を心から喜んだ。
順風満帆に見えた2人だったが、婚約から5年後、貴族学院に入学してから状況は少しずつ変化する。元々容姿端麗、騎士団でも一目置かれ勉学にも優れたオスカーを他の令嬢たちが放っておく訳もなく、毎日たくさんの令嬢に囲まれるオスカー。
特に最近は、侯爵令嬢のミアと一緒に居る事も多くなった。自分より身分が高く美しいミアと幸せそうに微笑むオスカーの姿を見たアメリアは、ある決意をする。
そんなアメリアに対し、オスカーは…
とても残念なヒーローと、行動派だが周りに流されやすいヒロインのお話です。
婚約者が王子に加担してザマァ婚約破棄したので父親の騎士団長様に責任をとって結婚してもらうことにしました
山田ジギタリス
恋愛
女騎士マリーゴールドには幼馴染で姉弟のように育った婚約者のマックスが居た。
でも、彼は王子の婚約破棄劇の当事者の一人となってしまい、婚約は解消されてしまう。
そこで息子のやらかしは親の責任と婚約者の父親で騎士団長のアレックスに妻にしてくれと頼む。
長いこと男やもめで女っ気のなかったアレックスはぐいぐい来るマリーゴールドに推されっぱなしだけど、先輩騎士でもあるマリーゴールドの母親は一筋縄でいかなくて。
脳筋イノシシ娘の猪突猛進劇です、
「ザマァされるはずのヒロインに転生してしまった」
「なりすましヒロインの娘」
と同じ世界です。
このお話は小説家になろうにも投稿しています
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる