大賢者様の聖図書館

櫻井綾

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第1章 大賢者様の秘書になりました

25.大賢者様と城下街デート<後編>

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 文具店や雑貨店が建ち並ぶ路地から数本先の通りに差し掛かると、またがらっと周囲の雰囲気が変わった。
 貴族風のドレスを纏った女性や、きちんとした身なりの男性が多くなり、周囲も活気があるというよりは、上品な賑やかさで満たされている。
 少しだけ気後れを感じながらも、焔さんに連れられるままに入ったのは大きめの建物。
 入り口をくぐってすぐのところに、フリルたっぷりの豪華なドレスが飾られていた。

「いらっしゃいませ。お客様」
「!」

 すぐに近づいてきたタキシード姿の初老の男性が、深く頭を下げる。
 びくりと反射的に一歩後ずさった私に対して、焔さんはすっと懐から何かを取り出した。
 きらりと鮮やかな紅色が視界を掠める。じゃらりと豪奢な飾りの揺れるそれは、私のものとは全く違うけれど――マナジェムだ。

「ほう……」

 マナジェムを見た男性が大きく目を見張った。

「わかるだろうか」
「……ええ、えぇ。その輝き、その紋章。この目で拝見するのは初めてですが、遠い先祖より伝え聞いております通りで御座います。ご来店頂きまして、大変光栄で御座います」
「また世話になりたくて。よろしく頼むよ」
「承知致しました、旦那様。……申し遅れました、私、今代店主を務めております、ギルベルト・シャザローマと申します」

 胸に手を当て、すっとお手本のような礼を見せるギルベルト。
 戸惑うままの私を振り返り、焔さんが微笑んだ。

「ここはね、僕が昔に使っていた店なんだ。今度の舞踏会にドレスが必要でしょう?ここで選ぼう」
「そうなんですね。ドレス……へ?」
「お連れ様のドレスで御座いますね。お任せください。さあ、こちらへ」
「ほら、梨里さん。行っておいで」
「え、あの、え……?!」

 背を押されるままに、流されるように別室へ移動する。
 そこからは、スタッフの女性たちにあっという間に囲まれてしまった。

「さ、少しの間動かないでくださいませ」
「こちら腕を上げてください」
「えっ!あ、はい!」

 何人もの女性に囲まれて採寸はあっという間に終わり、すぐに部屋には沢山のドレスが運ばれてきた。

「では、こちらから着ていただけますか?」
「ちょっと、ちょっと待ってくださ……」
「すぐ済みますから」

 そう言ってドレスを着せてくる女性達は、疲れ知らずなのかと思うほどにテキパキと支度を整えていく。
 あっという間に着せられたのは、淡い桃色のドレス。
 たっぷりとしたフリルが淡くグラデーションになっていて、生地が多くてすごく重いけれど、とても可愛らしかった。

「わ……」

 そもそも、普段からドレスを着る機会なんてない。滅多にない感覚に少しだけ心が浮き立つけれど、すぐ傍にあった目隠しの衝立が動かされた先を見て、一気に表情が凍り付いた。

「お待たせ致しました」

 女性スタッフが頭を下げた先にいたのは、焔さんと、先ほどのギルベルトという男性。
 フードの下からの視線と目が合って、血の気が引いていくような気がした。
 綺麗なドレスに浮かれるのは、女性に生まれれば多少は仕方のないこと……だと思うのだけど、自分のように普段から洒落っ気のかけらもないような人間が、突然ドレスを着たところで似合わないに決まっている。
 びくりと固まってしまった私を見て、焔さんは気にするでもなくふむ、と首を傾げた。

「うーん。可愛らしいけれど……ギルベルト、どうだろう?」
「恐れながら、旦那様はあの式服をお召しで御座いますか?」
「そうだね、全然袖を通していないし、あのままのつもり」
「そうで御座いますか。そうですね、あの服でしたらもっと鮮やかな色のほうが映えそうです」

 そう言ってギルベルトが一つ頷くと、心得たように女性スタッフがすぐさま衝立を置き直し、またわらわらと囲まれてドレスを着替えさせられる。
 別のスタッフが持ってきた赤いドレスを着せられながら、私は衝立の向こうへと声を上げた。

「あの、焔さん!これは……」
「ごめん、ちょっと大変だろうけど、ギルベルトに任せれば、ちゃんと梨里さんに似合うドレスを選んでもらえるから、頑張って」
「ドレスって、本当に私がこんな……こんな素敵なもの着るんですか?!」

 ぎゅっと締め上げられたコルセットが、苦しい。
 うっと呻き声を上げながら、絞られたお腹まわりを弱々しくさすった。

「気に入らない?」
「いえ、そう、ではなく……っ!私なんかが、こんな綺麗なドレスなんて、似合いません!」
「大丈夫、さっきのも似合ってたよ」
「そんな……っむごっ」

 そんなことない、と否定しようとした口を、突然横から伸びてきた手に塞がれた。

「失礼をお許しください」

 そう言って頭を下げてきたのは、先ほどから周りの女性スタッフたちに指示を飛ばしていた、私より幾分年上の美しい女性。

「いえ……」

 すぐに手を離されて口は自由になったけれど、どうして、と首を傾げる私に女性は綺麗に微笑んだ。

「殿方からの賞賛を否定なさるのは、恐れながら、淑女として褒められたことでは御座いませんわ」
「でも……」

 そんなことを言われても、今のこの状況に気後ればかりしている自分では素直に受け取る事が出来ない。
 言い淀む私に、それでも女性は優しく声を掛けてきた。

「お嬢様は、このようなドレスは初めてでいらっしゃいますか?」
「……はい」
「それであれば、気が引けてしまうのかもしれません。それでも、殿方から頂ける賞賛は、胸を張って受け止めるものですよ」

 女性は穏やかに話しながらも、そっとドレスの形を整えていく。
 賞賛を、胸を張って受け止める。
 そんなことは、今までの人生で一度もできた覚えがない。そもそも、こんなにも自分に自信がないのに、到底無理な話だ。
 俯く私の顎に、すっと女性の指が触れた。小さな力で押し上げられた視界に、女性の笑顔が映る。

「ご安心くださいませ。この老舗、シャザローマのドレスは、女性を輝かせるためのドレスです。どんな女性でも、シャザローマのドレスを纏えば美しく、素敵になれます。私どもが必ず、お嬢様に似合う一着をお選び致しますので」
「……それでも、私には……」

 きゅっと腰のリボンを結ばれ、形が整えられればまた、衝立がずらされる。
 私が転ばないようにと手を握ってくれながら、女性はにこりと笑顔で頷いた。

「どうしても自信が足りなければ、今はただ、黙って微笑んでいてください。……大丈夫ですよ。弟からも、貴女が素敵な女性だと聞いておりますから」
「え、弟……、さん?」

 予想外の単語に驚いて顔を上げれば、私より背の高い女性の顔がはっきり見えた。
 綺麗で艶やかな赤毛に、きりっとした緑の瞳。よく知る友人の姿が重なって、思わず「あ!」と口元を覆った。

「初めまして、リリー様。グレア・シャザローマ……旧姓をブリックスと申します。愚弟がいつもお世話になっておりますわ」

 ふふ、と少しだけ悪戯っぽく笑う笑顔は、オリバーの笑みにそっくりだった。
 グレアは、ギルベルトの息子、シャザローマの次期跡取りへと嫁いで、ここで働いているのだそうだ。
 その後はグレアとオリバーの話題でおしゃべりしながら、時間が許す限り何着ものドレスを試着しては焔さんとギルベルトに見せる、という繰り返しをした。
 途中からはグレアまでもがドレスへの意見をし始め、着替えをしながらたまに、綺麗な姿勢やドレスを着ているときの所作なども教えてもらうことになった。
 そんなことをしながらも、すごい早さで試着は進んでいく。
 最初のドレスを試着してからどれだけの時間がかかったのかもわからないけれど、ある一着のドレスを試着した際、それまでとは違い、グレアがふむ、と目を輝かせた。

「少しよろしいでしょうか」
「?」

 そう言った彼女は私の後ろに回ると、試着の邪魔になるからと簡単にまとめてあった髪を解いて、てきぱきと結い直し始めた。
 あっという間に、簡単ながら編み込みのアップスタイルに整えられて、衝立が移動される。

「おお、これはこれは」
「……わあ」

 ギルベルトが満足そうに笑顔を浮かべる隣で、焔さんが大きく目を見開いていた。
 引きつりそうになる表情筋に力を込めて、精一杯微笑むように努力する。
 どうやらそのドレスは、ギルベルト、グレア、そして焔の全員が納得できるようなものであったらしい。
 煌めくドレスはシンプルな見た目ではあったけれど、刺繍やレース、高級そうな生地から絶対に安いものだとは思えなかった。
 ドレスを脱いでいる間に、あっという間に購入の話が進んでしまっていたのには驚いた。
 困り果てて泣きそうになっている私をグレアが宥めてくれる。
 焔さんは、私が戻ってくるまでの間にさっさと会計を済ませてしまったらしい。

「ほ、焔さん私……っ!」
「大丈夫大丈夫。舞踏会への出席は僕が勝手に決めたことだし、これくらいはなんでもないから」
「リリー様。旦那様もこう仰っていらっしゃることですし、有り難くお受け取りになりましょう?」
「グレアさん……っ」
「大丈夫ですわ。殿方にドレスを贈られることは珍しいことではありませんから、ね?」

 結局、淑女として云々などと言いくるめられ、私は大変恐縮しながらもドレスを貰うことになった。
 またいらっしゃってください、とグレアとギルベルトから熱い別れの挨拶をされて店を出た時には、空はすっかり宵色に染まり始めていた。
 ギルベルトが予め用意してくれていたらしい馬車に乗り込んで、リブラリカへと揺られていく。
 慣れないコルセットに沢山のドレスの試着まで、とんでもなく疲弊していたので、歩かなくて済むというのはとても有り難かった。
 カラカラと車輪の回る音がしている。
 不思議なことに、この乗り物の箱はあまり揺れない。
 ファンタジーの小説を読んだときには、箱馬車などは結構揺れて腰が痛くなる、なんて書いてあった気がするのだけど……もしかしたら、この馬車も魔道具の一種なのかもしれない。
 そんなことを考えながら、隣の焔さんがするように窓の外へと視線を向けた。
 石畳の路地を歩く人々は、家路を急いでいるのだろうか。
 淡く煌めく街灯に、明かりのつき始めた建物。薄い藍色から、段々と表情を変えていく空。きらりと見えた、せっかちな星。
 この場所に息づく人達のざわめきを窓から眺めているのは、なんだかとても心地が良かった。
 普段から、外出があまり得意ではないというのも理由のひとつかもしれない。
 沢山のものを見て、思いがけず沢山はしゃいで、慣れないことまでした疲れが、知らず私の瞼を重くしていた。

「あれ……梨里さん?」

 少し遠くに、焔さんの声を聞いた気がする。
 頬に触れた温もりが心地良くて、私の意識はとっぷりと深く沈んでいった。






 窓の外を眺めていた時、ふと温かな重さが肩にかかってきて驚いた。

「あれ……梨里さん?」

 見れば、自分の肩に頬を寄せてもたれかかった彼女が、静かに寝息を立てている。

 ――ドレスというものは重くて、着るのも脱ぐのも大変なのよ、と。

 頭の隅で、遠い記憶の少女の言葉が蘇り、少しだけ胸が痛んだ。
 少し、疲れさせてしまったかな。
 彼女が触れている温かさが思いのほか心地良くて、少しばかりの申し訳なさが優しく溶けていくようだった。
 そっと戻した視界には、ざわざわと行き交う人々。
 何百年ぶりに見た城下街は笑顔に溢れていて、皆幸せそうだった。
 それがちょっぴり、胸に沁みた。
 すっかり夜の雰囲気へと様変わりした広場を通り抜けて、扉のある路地の入り口に馬車が止まる。

「梨里さん。……梨里さん、帰るよ」

 困ったことに、彼女は優しく揺すっても起きる気配がない。
 仕方ないなと、自分のローブを脱いで彼女に掛けると、そっと抱き上げた。
 扉をくぐればそこは、閉じられた僕の聖域。
 彼女が起きるまで、僕の部屋の長椅子にでも寝かせておいてあげよう。
 どうせ彼女は明日も休みだ。
 最奥禁書領域は静謐な空気で満たされていて、彼女の眠りを妨げるものもない。
 腕に抱き上げた温もりが心地良すぎて、なんだか離したくなくなってしまいそうだ。

「……もうちょっとだけ……」

 そんな小さな呟きさえも、彼女を起こすことはない。




 少しでも長く触れていたいと思う事さえ、無自覚のうち。
 絨毯に吸い込まれていく微かな足音が、ものすごくゆっくりになった理由に、僕は最後まで気づかなかった。


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