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第1章 大賢者様の秘書になりました
6.ようこそ、僕の聖域へ
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どうにかこうにか着替えを終えて、部屋の隅にあった姿見の鏡で全身を確認する。
「道理であんなに重いわけだ……」
制服は本当に布が多くて、しかも全てがとても良い生地で作られているようだった。分厚い布で作られたスカートはドレープも多くて重たいけれど、布が多くてもあまり広がることもなく、綺麗なシルエットを描いている。全体的にボタンや装飾が少ないのは、本を傷めることもなさそうで、着心地も良い。
机の下には黒いブーツも用意してあった。制服を全身整えて鏡の前に立ってみる。
鏡に映る自分は、頭からつま先まで見慣れない素敵な衣装で整えられていて、ふわりと心が浮き立つのを感じた。
「なんだか、現実じゃないみたい」
「こっちの世界じゃその格好が現実だ。安心しろ、地味なりに見れるくらいにはなってる」
「アルトって本当に失礼ね」
「本当のことを言っただけだ。ほら、行くぞ」
「あ、待って」
とことこと紅い布の掛かった扉に向かうアルトを追いかけて、扉を開けてやる。
アルトに続いて扉をくぐり、後ろ手に閉めたところで顔を上げて。
「――っ」
息が、止まった。
そこにあったのは、視界を埋め尽くすような本の山。
所々にあるランプの明かりに照らされても見えないくらい遠くまで、本棚が空間を埋め尽くしていた。
まっすぐ伸びる通路の先に、行き止まりなんて見えない。本棚を辿って上を見上げても、驚くことに、天井が見えない。どこまでも、本がぎっしりつまった棚が、天へと続いている。
「……お気に召したかな?」
背後から優しく掛けられた声に、あっと振り返る。
そしてまた、私の視線が奪われた。
「……ほむら、さん?」
「うん」
ほんわりと微笑んで頷く彼は、間違いなく焔さん、なのだけど。
なんというか、とても――綺麗だった。
元々整った顔をした人だな、とは思っていたけれど。
いつも三つ編みになっていた黒髪は少しだけ赤みがかっていて、向こうで見ていたときよりも少し長くなっているように見える。煌めく華奢な宝石飾りが、髪の途中できらきらと輝いていた。
彼も、見慣れないファンタジーな様相になっていた。腰回りには煌めく宝石や小瓶と一緒に、分厚い本がぶら下げられている。たっぷりとしたローブは、黒地に紅い縁取りがされていて、金の飾りが控えめなのに豪奢だ。なんというか……すごく、大魔法使い、みたいな格好に見える。
「改めて。ようこそ、ここは国立大図書館リブラリカ。異世界一の蔵書を誇る図書館の最奥。僕の聖域だよ」
「っ、ここが、焔さんの図書館……」
「どうかな?」
はっとして、急いで彼から視線を外す。綺麗だからってじろじろ見すぎるのは失礼だ。
誤魔化すように急いで口を開くけれど、いろんなことに驚きすぎて心臓がばくばくいっている。何も言葉が出てこない。
「……あ、の。本の数に圧倒されてしまって……。すみません、その、すごい、です」
鼓動が強すぎて、心臓が破裂してしまいそう。
思わずのように胸を押さえて両手を握りしめる。こんなに沢山の本も、こんなに広い図書館も、初めてだ。
「ごめんなさい、言葉が……出てこなくて」
「感動してくれているようで、嬉しいよ。……うん、制服も良さそうだ。梨里さんに、とても似合っている」
「あ、変なところとか、ないですか? こういう服は着慣れなくて……」
「大丈夫だよ、とても綺麗だ」
さらりと口にされた台詞に、多少鎮まり掛けていた心臓がまたどきんと跳ねた。
「……そ、そういうことは、あの、あまり軽々しく口にしちゃいけないと、思うんですけど」
「そうかな? でも本当に綺麗だから」
やめてほしい。顔から火が出そうだ。
当の本人は、きょとんと不思議そうに首を傾げている。
焔さんみたいなイケメンがそんな台詞を使うのは、危険だと思うのだ。色々と。
そんな私の心情はお構いなしに、彼は「あ、」と声を上げる。
「ああ、そうだ。此方の世界では、梨里さんの国の名前は、響きが馴染みないものになってしまうんだよ。だから、アルトのようにリリーと呼んで構わないかな?」
「あ、はい。……ええと、英語みたいな響きが普通、なんでしょうか?」
「んー、そうだね。そんな風に思ってもらえてればいいかな。僕は、こちらではイグニスと呼ばれているんだけど……。馴染みがないだろうし、館長か、もしくはマスターとでも呼んでもらえればいいよ」
そうだった。私は、これから彼の秘書としてここで働くんだ。
ぴしっと気持ちを引き締めて、背筋を伸ばした。
「はい!今日からよろしくお願いします、マスター」
「うん、よろしくね、リリー」
満足そうに頷いた焔さん――マスターは、浅くフードを被るとゆっくり歩き出した。
「毎日少しずつ、ここの紹介をするとしよう。今日は、主な仕事場になるこの場所について、説明するね」
それから彼は、ゆったりと書架の間を歩きながら説明をしてくれた。
ここは、オルフィード王国という国の、国立大図書館リブラリカ。その最も深い場所にある、最奥禁書領域と呼ばれる空間なのだそうだ。図書館館長であるマスターのための場所で、図書館の職員さんたちも入ることのできない決まりになっているから、安心して過ごして構わない、らしい。
「ここは、僕が魔力を使って無限に広げた空間なんだ。異世界中から集めた本を置いてるから、この世界の人の目に触れさせることはできなくて。まぁ僕も、人と関わるのはあまり得意ではないから、この方が都合がいいんだ」
「なるほど……」
「リリーなら、ここにある本は自由に読んでくれて構わないよ。……ただし、ここを歩き回る時は、十分注意してね。時空を歪ませて作ってある場所だから、一度迷子になったら、救出するまで危険だ」
「えっ……き、危険って……」
「ここに居る間は、アルトから離れないようにしてくれ。アルトはここを自由に動けるから、一緒にいれば大丈夫だ」
「……」
不安なまま視線を向けると、足下を歩いていた黒猫がにっと笑ったように見えた。
「任せろ、きっちり面倒見てやる」
「それは頼もしいね」
得意げにひょんと尾を振る姿もふてぶてしいけれど、元々猫なのでその姿はとても愛嬌がある。
可愛らしさについ撫でようと手を伸ばしたら、するりと避けられてしまった。……残念。
溜息を吐きながら視線を上げて、その途中ふと。何かの気配を感じて、足を止めた。
「ん?」
向かって右側の書架。何か、ふわふわした毛玉のようなものが、こちらを見ている……ような。
「ほむらさ……、マスター。あれは……なんでしょうか」
「ん? ああ、あの子たちも紹介しておかないとね」
同じく足を止めた彼は、その白い生き物のいる書架までいくと何かをむんずと掴んで戻ってきた。
「この子たちはフィイ。妖精なんだ」
「えっ!妖精……うわあぁ」
なかば押しつけられるようにされて、その白いもふもふを受け取ってしまう。
触れたそれはひんやりしていてふわふわで、重さは感じない。ふるふるっと手の上で震えたかと思うと、ぴょんと一回飛び跳ねた。
「え、これが、妖精……」
「うん、妖精。彼らは本が大好きでね。本が沢山あって、環境が良い場所に住み着いて、本の手入れをしてくれるんだ」
「手入れ?」
妖精が、本の手入れ?……この、もふもふボディで、埃でも払ってくれるんだろうか。
私があまりにもまじまじと妖精を見つめていたのが面白かったのか、マスターはふふっと小さく笑って、私の持つ妖精をぽんと撫でた。
「そうだよ、たぶんリリーの思っている通り。埃を払ってくれたり、湿気を吸ってくれたり、本を綺麗にしてくれるんだ」
「へぇ……」
「本にしか興味がないから、何も害はないよ。見かけても気にしなくて良い」
「はい、わかりました」
ふるふるっとまた震えて、妖精はぽんっと飛び上がった。ふわふわ漂うようにして、書架の間に消えていく。
本当に、この世界はファンタジーだ。
「さて、もうすぐだからいこう」
「? はい」
また歩き出した彼の後に続いて、すぐのこと。前方に、少し開けて他よりもぼんやり明るい場所が見えてくる。
「さあ、着いたよ。ここが君の仕事場だ」
円形に開けたそこには、緩やかな曲線を描く木製のアンティークな机と、ひと目で上質だと分かる生地のクッションがついた木製の長椅子が置いてあった。
ちょっとした書斎のような、小さな空間だ。
「この場所は、リリーの好きに使って良いよ。本を読んでも良いし、物書きをするなら、この空間なら君の世界のパソコンなんか持ち込んでも構わない」
「ありがとうございます、ええと、マスターは……?」
「僕は普段、別のところにある自分の机で作業してるんだ。用があったら呼ぶから、それまではここで好きにしていてほしい」
「はい」
「それじゃあ僕は行くね。あとのことはアルトに聞いて。また明日」
「はい、また明日……」
ひらりと一度片手を振って、彼はあっけないほどさらりと踵を返してしまう。
ひとつ瞬きをするころには、もうその背中は書架の合間に消えてしまっていた。
……ええと。また明日ってことは、今日はもう終わり……ってこと?
救いを求めて、隣の黒猫を見つめる。アルトはふうと溜息をついて、まぁ座れよ、と椅子を前足でてしてし叩いた。
「あいつは本以外にはあまり興味がないやつだからな。気にするな」
「うん……。えっと、さっきのまた明日って、今日はもう何もないってこと?」
「それでいいと思うぜ。あいつも言ってたが、あんまり一度に詰め込みすぎは良くないしな。帰るなり、本読むなり自由にして構わないぜ」
「……私、仕事しに来たんだよね?」
「気にするな。最初にも言われただろ? 雑事くらいしかないから、好きにしてろって。あいつが頼み事してきたときだけ、やってればいいんだよ」
「うーん……そういうもの?」
「そういうものだ」
なんだかちょっと解せないけど。そういうものらしい。
ひとまずこの日は、せっかくだから、と自分の机の引き出しを開けて中のものを確認してみたり、机から離れすぎない範囲で書架を見て回ったりして残りの時間を過ごし、夜に差し掛かる頃にあの小部屋から青い布の扉をくぐった。
恐る恐る開けた扉の先はちゃんと自宅の玄関で、なんだかどっと疲れを感じてしまう。
自分が思っていたよりも、緊張していたらしい。
それもそうだろ、異世界なんだしな。と、アルトはなんでもないように言ってぺろぺろ前足を舐めていた。
夜になり自分のベッドに入っても、すぐには寝付けなかった。
閉じたまぶたの裏で、今日の出来事を思い出してしまう。
緊張して向かったカフェ。異世界管理だとかなんとかの、境さん。契約書に署名もしたし、自宅の玄関が異世界への扉になってしまったりした。
そして、あの壮大な、私の新しい職場。
異世界中から集められたという、膨大な本の眠る場所。
久しぶりに、明日にわくわくしている自分がいる。
明日は、ノートパソコンを持って行ってみよう。静かで落ち着く場所だったし、物書きにも集中できそう。
ああでも、いろんな本も読んでみたい。『路地裏』から引き取られた本も、あの中のどこかにあるんだろうか。
考えることは尽きないけれど、身体は疲れていたらしい。
あれもこれもと思考を巡らせているうちに、自然と眠りに落ちていた。
「道理であんなに重いわけだ……」
制服は本当に布が多くて、しかも全てがとても良い生地で作られているようだった。分厚い布で作られたスカートはドレープも多くて重たいけれど、布が多くてもあまり広がることもなく、綺麗なシルエットを描いている。全体的にボタンや装飾が少ないのは、本を傷めることもなさそうで、着心地も良い。
机の下には黒いブーツも用意してあった。制服を全身整えて鏡の前に立ってみる。
鏡に映る自分は、頭からつま先まで見慣れない素敵な衣装で整えられていて、ふわりと心が浮き立つのを感じた。
「なんだか、現実じゃないみたい」
「こっちの世界じゃその格好が現実だ。安心しろ、地味なりに見れるくらいにはなってる」
「アルトって本当に失礼ね」
「本当のことを言っただけだ。ほら、行くぞ」
「あ、待って」
とことこと紅い布の掛かった扉に向かうアルトを追いかけて、扉を開けてやる。
アルトに続いて扉をくぐり、後ろ手に閉めたところで顔を上げて。
「――っ」
息が、止まった。
そこにあったのは、視界を埋め尽くすような本の山。
所々にあるランプの明かりに照らされても見えないくらい遠くまで、本棚が空間を埋め尽くしていた。
まっすぐ伸びる通路の先に、行き止まりなんて見えない。本棚を辿って上を見上げても、驚くことに、天井が見えない。どこまでも、本がぎっしりつまった棚が、天へと続いている。
「……お気に召したかな?」
背後から優しく掛けられた声に、あっと振り返る。
そしてまた、私の視線が奪われた。
「……ほむら、さん?」
「うん」
ほんわりと微笑んで頷く彼は、間違いなく焔さん、なのだけど。
なんというか、とても――綺麗だった。
元々整った顔をした人だな、とは思っていたけれど。
いつも三つ編みになっていた黒髪は少しだけ赤みがかっていて、向こうで見ていたときよりも少し長くなっているように見える。煌めく華奢な宝石飾りが、髪の途中できらきらと輝いていた。
彼も、見慣れないファンタジーな様相になっていた。腰回りには煌めく宝石や小瓶と一緒に、分厚い本がぶら下げられている。たっぷりとしたローブは、黒地に紅い縁取りがされていて、金の飾りが控えめなのに豪奢だ。なんというか……すごく、大魔法使い、みたいな格好に見える。
「改めて。ようこそ、ここは国立大図書館リブラリカ。異世界一の蔵書を誇る図書館の最奥。僕の聖域だよ」
「っ、ここが、焔さんの図書館……」
「どうかな?」
はっとして、急いで彼から視線を外す。綺麗だからってじろじろ見すぎるのは失礼だ。
誤魔化すように急いで口を開くけれど、いろんなことに驚きすぎて心臓がばくばくいっている。何も言葉が出てこない。
「……あ、の。本の数に圧倒されてしまって……。すみません、その、すごい、です」
鼓動が強すぎて、心臓が破裂してしまいそう。
思わずのように胸を押さえて両手を握りしめる。こんなに沢山の本も、こんなに広い図書館も、初めてだ。
「ごめんなさい、言葉が……出てこなくて」
「感動してくれているようで、嬉しいよ。……うん、制服も良さそうだ。梨里さんに、とても似合っている」
「あ、変なところとか、ないですか? こういう服は着慣れなくて……」
「大丈夫だよ、とても綺麗だ」
さらりと口にされた台詞に、多少鎮まり掛けていた心臓がまたどきんと跳ねた。
「……そ、そういうことは、あの、あまり軽々しく口にしちゃいけないと、思うんですけど」
「そうかな? でも本当に綺麗だから」
やめてほしい。顔から火が出そうだ。
当の本人は、きょとんと不思議そうに首を傾げている。
焔さんみたいなイケメンがそんな台詞を使うのは、危険だと思うのだ。色々と。
そんな私の心情はお構いなしに、彼は「あ、」と声を上げる。
「ああ、そうだ。此方の世界では、梨里さんの国の名前は、響きが馴染みないものになってしまうんだよ。だから、アルトのようにリリーと呼んで構わないかな?」
「あ、はい。……ええと、英語みたいな響きが普通、なんでしょうか?」
「んー、そうだね。そんな風に思ってもらえてればいいかな。僕は、こちらではイグニスと呼ばれているんだけど……。馴染みがないだろうし、館長か、もしくはマスターとでも呼んでもらえればいいよ」
そうだった。私は、これから彼の秘書としてここで働くんだ。
ぴしっと気持ちを引き締めて、背筋を伸ばした。
「はい!今日からよろしくお願いします、マスター」
「うん、よろしくね、リリー」
満足そうに頷いた焔さん――マスターは、浅くフードを被るとゆっくり歩き出した。
「毎日少しずつ、ここの紹介をするとしよう。今日は、主な仕事場になるこの場所について、説明するね」
それから彼は、ゆったりと書架の間を歩きながら説明をしてくれた。
ここは、オルフィード王国という国の、国立大図書館リブラリカ。その最も深い場所にある、最奥禁書領域と呼ばれる空間なのだそうだ。図書館館長であるマスターのための場所で、図書館の職員さんたちも入ることのできない決まりになっているから、安心して過ごして構わない、らしい。
「ここは、僕が魔力を使って無限に広げた空間なんだ。異世界中から集めた本を置いてるから、この世界の人の目に触れさせることはできなくて。まぁ僕も、人と関わるのはあまり得意ではないから、この方が都合がいいんだ」
「なるほど……」
「リリーなら、ここにある本は自由に読んでくれて構わないよ。……ただし、ここを歩き回る時は、十分注意してね。時空を歪ませて作ってある場所だから、一度迷子になったら、救出するまで危険だ」
「えっ……き、危険って……」
「ここに居る間は、アルトから離れないようにしてくれ。アルトはここを自由に動けるから、一緒にいれば大丈夫だ」
「……」
不安なまま視線を向けると、足下を歩いていた黒猫がにっと笑ったように見えた。
「任せろ、きっちり面倒見てやる」
「それは頼もしいね」
得意げにひょんと尾を振る姿もふてぶてしいけれど、元々猫なのでその姿はとても愛嬌がある。
可愛らしさについ撫でようと手を伸ばしたら、するりと避けられてしまった。……残念。
溜息を吐きながら視線を上げて、その途中ふと。何かの気配を感じて、足を止めた。
「ん?」
向かって右側の書架。何か、ふわふわした毛玉のようなものが、こちらを見ている……ような。
「ほむらさ……、マスター。あれは……なんでしょうか」
「ん? ああ、あの子たちも紹介しておかないとね」
同じく足を止めた彼は、その白い生き物のいる書架までいくと何かをむんずと掴んで戻ってきた。
「この子たちはフィイ。妖精なんだ」
「えっ!妖精……うわあぁ」
なかば押しつけられるようにされて、その白いもふもふを受け取ってしまう。
触れたそれはひんやりしていてふわふわで、重さは感じない。ふるふるっと手の上で震えたかと思うと、ぴょんと一回飛び跳ねた。
「え、これが、妖精……」
「うん、妖精。彼らは本が大好きでね。本が沢山あって、環境が良い場所に住み着いて、本の手入れをしてくれるんだ」
「手入れ?」
妖精が、本の手入れ?……この、もふもふボディで、埃でも払ってくれるんだろうか。
私があまりにもまじまじと妖精を見つめていたのが面白かったのか、マスターはふふっと小さく笑って、私の持つ妖精をぽんと撫でた。
「そうだよ、たぶんリリーの思っている通り。埃を払ってくれたり、湿気を吸ってくれたり、本を綺麗にしてくれるんだ」
「へぇ……」
「本にしか興味がないから、何も害はないよ。見かけても気にしなくて良い」
「はい、わかりました」
ふるふるっとまた震えて、妖精はぽんっと飛び上がった。ふわふわ漂うようにして、書架の間に消えていく。
本当に、この世界はファンタジーだ。
「さて、もうすぐだからいこう」
「? はい」
また歩き出した彼の後に続いて、すぐのこと。前方に、少し開けて他よりもぼんやり明るい場所が見えてくる。
「さあ、着いたよ。ここが君の仕事場だ」
円形に開けたそこには、緩やかな曲線を描く木製のアンティークな机と、ひと目で上質だと分かる生地のクッションがついた木製の長椅子が置いてあった。
ちょっとした書斎のような、小さな空間だ。
「この場所は、リリーの好きに使って良いよ。本を読んでも良いし、物書きをするなら、この空間なら君の世界のパソコンなんか持ち込んでも構わない」
「ありがとうございます、ええと、マスターは……?」
「僕は普段、別のところにある自分の机で作業してるんだ。用があったら呼ぶから、それまではここで好きにしていてほしい」
「はい」
「それじゃあ僕は行くね。あとのことはアルトに聞いて。また明日」
「はい、また明日……」
ひらりと一度片手を振って、彼はあっけないほどさらりと踵を返してしまう。
ひとつ瞬きをするころには、もうその背中は書架の合間に消えてしまっていた。
……ええと。また明日ってことは、今日はもう終わり……ってこと?
救いを求めて、隣の黒猫を見つめる。アルトはふうと溜息をついて、まぁ座れよ、と椅子を前足でてしてし叩いた。
「あいつは本以外にはあまり興味がないやつだからな。気にするな」
「うん……。えっと、さっきのまた明日って、今日はもう何もないってこと?」
「それでいいと思うぜ。あいつも言ってたが、あんまり一度に詰め込みすぎは良くないしな。帰るなり、本読むなり自由にして構わないぜ」
「……私、仕事しに来たんだよね?」
「気にするな。最初にも言われただろ? 雑事くらいしかないから、好きにしてろって。あいつが頼み事してきたときだけ、やってればいいんだよ」
「うーん……そういうもの?」
「そういうものだ」
なんだかちょっと解せないけど。そういうものらしい。
ひとまずこの日は、せっかくだから、と自分の机の引き出しを開けて中のものを確認してみたり、机から離れすぎない範囲で書架を見て回ったりして残りの時間を過ごし、夜に差し掛かる頃にあの小部屋から青い布の扉をくぐった。
恐る恐る開けた扉の先はちゃんと自宅の玄関で、なんだかどっと疲れを感じてしまう。
自分が思っていたよりも、緊張していたらしい。
それもそうだろ、異世界なんだしな。と、アルトはなんでもないように言ってぺろぺろ前足を舐めていた。
夜になり自分のベッドに入っても、すぐには寝付けなかった。
閉じたまぶたの裏で、今日の出来事を思い出してしまう。
緊張して向かったカフェ。異世界管理だとかなんとかの、境さん。契約書に署名もしたし、自宅の玄関が異世界への扉になってしまったりした。
そして、あの壮大な、私の新しい職場。
異世界中から集められたという、膨大な本の眠る場所。
久しぶりに、明日にわくわくしている自分がいる。
明日は、ノートパソコンを持って行ってみよう。静かで落ち着く場所だったし、物書きにも集中できそう。
ああでも、いろんな本も読んでみたい。『路地裏』から引き取られた本も、あの中のどこかにあるんだろうか。
考えることは尽きないけれど、身体は疲れていたらしい。
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