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第1章 大賢者様の秘書になりました
1.本日『路地裏』、閉店します
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見慣れた棚からまた一冊、緑の布張りの洋書を抜き取って、小さく溜息をこぼした。
暑くも寒くもない、爽やかな春風の吹く昼下がり。
手元の段ボールには、もう既に十分な量の本が詰められている。
「堀川さん、終わりそうかい?」
掛けられた声に振り返ると、ほこりっぽい店の奥から老人が顔を覗かせていた。
小柄で短い白髪に、眼鏡を掛けた優しげな老人は、痛めている腰をさすりながらも、しゃんと歩いてこちらにやってくる。
「はい、店長。あとは端の棚だけだから、もうすぐ」
「そうか。うん、本当に、最後まですまないね」
「いえ……。残念ですけど、仕方ないことですから」
隣で足を止めた彼に釣られるように見回した、こじんまりとした店内。いつもは隙間なんてないほどに本が並べられていた本棚たちが、今ではがらんと空洞になっていて、寂しさが胸に染みこんでいく。
ここは、古本屋『路地裏』。店長である佐久間さんが40年も経営し続けたお店で、私が安心して働ける大切な職場だった。
今日、『路地裏』は完全に閉店する。
佐久間さんが息子夫婦と一緒に住むために、この店の閉店を決めたのは、1ヶ月前のことだった。
ぼんやりと店内を眺める私の腕に、佐久間さんがそっと触れてうなだれる。
「いいや、本当に堀川さんには――、梨里ちゃんには、悪いと思っているんだよ」
「そんな……」
「大学を卒業して、図書館で立派に努めて。でも、毎日しょんぼりして帰ってきていた梨里ちゃんが、司書を辞めてから、ここで楽しそうに働いてくれているのが、私は嬉しかったんだ」
「佐久間さん……」
「梨里ちゃんの居場所を、奪ってしまったのは私だろう?……本当に、すまない」
どう返事をしたらいいのか、一瞬つまってしまったけれど。
「大丈夫ですよ、佐久間さん。仕事ならまた探します。私のこと、『路地裏』で雇ってくれて、本当にありがとうございました」
ちょっとだけ強がりを言って、笑顔で本を詰める作業を再開する。
佐久間さんが背後で目頭をこすっていた気がしたけれど、気づいていないふりをした。
堀川梨里。本が好きで、読書が好きで、外より家の中で静かに過ごすのが好きな引きこもり。
それが私という人間だ。
大学を卒業して憧れの図書館司書になったけれど、仕事がうまくいかず、辞めた後は近所にあったこの『路地裏』で働かせてもらっていた。
ここでの仕事は本当に快適だった。お客さんはあまり多くなく、静かな店内で読書をしたり、物書きをしながら店番をする毎日だった。
人付き合いが苦手な私にとって、これほど条件のいい仕事はなかったんだ。
それも今日で終わりなのだと思うと、本当に気が重い。
少しなら貯金もあるけれど、ひとり暮らしを続けて行くには、やっぱり仕事を探さなければいけない。
『路地裏』の閉店が知らされてから今まで、まったく探さなかったわけではないけれど、まだ次の仕事は決まっていないのだ。
ふう、とまた小さく溜息をこぼしてしまう。
そのとき、耳に届いた声に、ふと意識を引き戻された。
「こんにちは、路地裏さん」
「おお、焔ほむらくんか、待っていたよ」
はっと勢いよく振り返ると、ずり落ちそうになる伊達眼鏡の向こうに、黒いパーカーにフードまで被った背の高い人物が見えた。
ぱさりとフードを背に払って、佐久間さんへにこりと会釈している。
『路地裏』の常連、焔さん。ひょろりと細長い高身長に、整った顔立ちの男性。長めの黒髪を三つ編みにしていて、ワイシャツにスラックスという落ち着いた服に、いつもなぜか、黒いフード付きのパーカーを羽織っている。
本好きのお金持ちのお坊ちゃん、らしいと佐久間さんからは聞いているけれど、どこか不思議な雰囲気を漂わせている人だ。
本好き同士、すごく話が合う、私の数少ない友人でもある。
その焔さんがふと、こちらに視線を向けた。
「梨里さんも、こんにちは」
「あ、はい!こんにちは焔さん」
挨拶を返すと、ふわりと柔らかな微笑が返ってくる。
本を片付ける手を休めて、二人の方へ移動すると、どうやら仕事の話をしているようだった。
「じゃあ、本当に全部送ってしまって良いんだな?」
「はい、全部僕が引き取ります。送り先はここに」
「わかった。本当に助かるよ、ありがとう」
「どういたしまして」
佐久間さんは、焔さんから受け取った封筒を確認して、ちょっと待っててくれ、と店の奥へ入っていく。
その背を視線で追いかけていたら、隣の焔さんがふうと小さく息を吐いた。
「この店のこと、本当に残念だね」
心から残念に思っている様子が、悲しげな声から伝わってきて、こちらも胸が苦しくなる。
「はい、本当に……」
「梨里さんは、ここが閉店した後、どうするんだい?」
「そう、ですね……。またどこか、働くところを探そうと思ってます」
「そっか。いいところが見つかるといいね」
「はい……あ、そういえば、さっきの話って、ここの本のことですか?」
少し、強引すぎただろうか。あまり次の仕事のことを考えたくなくて、つい別の話題を振ってしまった。
恐る恐る焔さんを見上げるけれど、彼は特に気にしたふうでもなく、うん、と頷いた。
「閉店するからと、すべて処分してしまうのでは悲しいからね。僕のところに受け入れようと思って」
「全部って、本当にすごいですね、焔さんの家。本でいっぱいになっちゃいます」
「もう既に本まみれだけどね。世の中には、沢山の本があるから」
そう言って、彼は悪戯っぽく、くすりと笑う。この笑顔も、もう見られなくなってしまうと思うと……また、寂しさが募った。
小さな沈黙が流れる中、佐久間さんが戻ってきた。手に持った書類を焔さんに渡して、ひとつ頷く。
「待たせたね、明日には届くように頼んできた」
「はい、よろしくお願いします」
「なかなか会えなくなると思うと寂しいが……、元気でやってくれよ、焔くん」
「僕も、お二人に会えなくなるのは寂しいです。佐久間さんも梨里さんも、どうかお元気で」
ぺこりと最後に頭を下げて、焔さんがお店を去って行く。
立ち止まってそのまま見送っていたら、感情に引きずられて動けなくなってしまいそうだ。
「……さあ、残りの片付けも終わらせなくちゃ」
固まってしまいそうな身体で、うんとひとつ伸びをして、私はまた本棚へと向き直った。
『路地裏』が閉店してから、2ヶ月。
私はいつものカフェの窓際の席に座って、ぼんやり通りを眺めていた。
明るいクラシックな店内には人もまばら。平日の昼下がり、ゆったり時間が流れている。
「ふぅ」
両手で包んだコーヒーカップの水面に、小さな溜息が落ちる。
……そう、私はまだ、溜息ばかりついていた。
机の上には読みかけの本と、求人の雑誌。
次の仕事が見つからないままに、無駄に時間が経過していた。
そろそろ貯金も底が見えてきたし、まずいなぁ……。
気まぐれで久々にカフェまでやってきたけれど、重い気分は晴れそうにない。
これ飲み終わったら、帰ろう。
また一口、コーヒーを飲んでカップをソーサーに置くと、ふと、テーブルに影が落ちてくる。
顔を上げるのと、優しい声が降ってきたのはほぼ同時だった。
「ああ、やっばり梨里さんか」
「あ……!」
「久しぶりだね、元気?」
声音に違わずの優しい笑顔がフードから覗いている。懐かしい顔に、ぱっと心に光が差したような感覚。
「焔さん!お久しぶりです!」
「ここのカフェに来たらもしかして、と思ったけど、本当にまた会えるなんて。座ってもいいかな?」
「勿論です、……どうぞ!」
「では失礼して」
向かいの席に着く焔さんの邪魔にならないよう、手早く雑誌を片付ける。
焔さんとは、以前にも、このカフェでばったり会って相席したことがある。
その時にお互い本好きとして語り合った時間は、とても楽しいものだった。
お店がなくなっても、また会えるなんて。
……でも、仕事について聞かれたら、どうしよう。
そんな不安もあるけれど、また焔さんとゆっくり話せると思うと、私の心は久々に弾むのだった。
暑くも寒くもない、爽やかな春風の吹く昼下がり。
手元の段ボールには、もう既に十分な量の本が詰められている。
「堀川さん、終わりそうかい?」
掛けられた声に振り返ると、ほこりっぽい店の奥から老人が顔を覗かせていた。
小柄で短い白髪に、眼鏡を掛けた優しげな老人は、痛めている腰をさすりながらも、しゃんと歩いてこちらにやってくる。
「はい、店長。あとは端の棚だけだから、もうすぐ」
「そうか。うん、本当に、最後まですまないね」
「いえ……。残念ですけど、仕方ないことですから」
隣で足を止めた彼に釣られるように見回した、こじんまりとした店内。いつもは隙間なんてないほどに本が並べられていた本棚たちが、今ではがらんと空洞になっていて、寂しさが胸に染みこんでいく。
ここは、古本屋『路地裏』。店長である佐久間さんが40年も経営し続けたお店で、私が安心して働ける大切な職場だった。
今日、『路地裏』は完全に閉店する。
佐久間さんが息子夫婦と一緒に住むために、この店の閉店を決めたのは、1ヶ月前のことだった。
ぼんやりと店内を眺める私の腕に、佐久間さんがそっと触れてうなだれる。
「いいや、本当に堀川さんには――、梨里ちゃんには、悪いと思っているんだよ」
「そんな……」
「大学を卒業して、図書館で立派に努めて。でも、毎日しょんぼりして帰ってきていた梨里ちゃんが、司書を辞めてから、ここで楽しそうに働いてくれているのが、私は嬉しかったんだ」
「佐久間さん……」
「梨里ちゃんの居場所を、奪ってしまったのは私だろう?……本当に、すまない」
どう返事をしたらいいのか、一瞬つまってしまったけれど。
「大丈夫ですよ、佐久間さん。仕事ならまた探します。私のこと、『路地裏』で雇ってくれて、本当にありがとうございました」
ちょっとだけ強がりを言って、笑顔で本を詰める作業を再開する。
佐久間さんが背後で目頭をこすっていた気がしたけれど、気づいていないふりをした。
堀川梨里。本が好きで、読書が好きで、外より家の中で静かに過ごすのが好きな引きこもり。
それが私という人間だ。
大学を卒業して憧れの図書館司書になったけれど、仕事がうまくいかず、辞めた後は近所にあったこの『路地裏』で働かせてもらっていた。
ここでの仕事は本当に快適だった。お客さんはあまり多くなく、静かな店内で読書をしたり、物書きをしながら店番をする毎日だった。
人付き合いが苦手な私にとって、これほど条件のいい仕事はなかったんだ。
それも今日で終わりなのだと思うと、本当に気が重い。
少しなら貯金もあるけれど、ひとり暮らしを続けて行くには、やっぱり仕事を探さなければいけない。
『路地裏』の閉店が知らされてから今まで、まったく探さなかったわけではないけれど、まだ次の仕事は決まっていないのだ。
ふう、とまた小さく溜息をこぼしてしまう。
そのとき、耳に届いた声に、ふと意識を引き戻された。
「こんにちは、路地裏さん」
「おお、焔ほむらくんか、待っていたよ」
はっと勢いよく振り返ると、ずり落ちそうになる伊達眼鏡の向こうに、黒いパーカーにフードまで被った背の高い人物が見えた。
ぱさりとフードを背に払って、佐久間さんへにこりと会釈している。
『路地裏』の常連、焔さん。ひょろりと細長い高身長に、整った顔立ちの男性。長めの黒髪を三つ編みにしていて、ワイシャツにスラックスという落ち着いた服に、いつもなぜか、黒いフード付きのパーカーを羽織っている。
本好きのお金持ちのお坊ちゃん、らしいと佐久間さんからは聞いているけれど、どこか不思議な雰囲気を漂わせている人だ。
本好き同士、すごく話が合う、私の数少ない友人でもある。
その焔さんがふと、こちらに視線を向けた。
「梨里さんも、こんにちは」
「あ、はい!こんにちは焔さん」
挨拶を返すと、ふわりと柔らかな微笑が返ってくる。
本を片付ける手を休めて、二人の方へ移動すると、どうやら仕事の話をしているようだった。
「じゃあ、本当に全部送ってしまって良いんだな?」
「はい、全部僕が引き取ります。送り先はここに」
「わかった。本当に助かるよ、ありがとう」
「どういたしまして」
佐久間さんは、焔さんから受け取った封筒を確認して、ちょっと待っててくれ、と店の奥へ入っていく。
その背を視線で追いかけていたら、隣の焔さんがふうと小さく息を吐いた。
「この店のこと、本当に残念だね」
心から残念に思っている様子が、悲しげな声から伝わってきて、こちらも胸が苦しくなる。
「はい、本当に……」
「梨里さんは、ここが閉店した後、どうするんだい?」
「そう、ですね……。またどこか、働くところを探そうと思ってます」
「そっか。いいところが見つかるといいね」
「はい……あ、そういえば、さっきの話って、ここの本のことですか?」
少し、強引すぎただろうか。あまり次の仕事のことを考えたくなくて、つい別の話題を振ってしまった。
恐る恐る焔さんを見上げるけれど、彼は特に気にしたふうでもなく、うん、と頷いた。
「閉店するからと、すべて処分してしまうのでは悲しいからね。僕のところに受け入れようと思って」
「全部って、本当にすごいですね、焔さんの家。本でいっぱいになっちゃいます」
「もう既に本まみれだけどね。世の中には、沢山の本があるから」
そう言って、彼は悪戯っぽく、くすりと笑う。この笑顔も、もう見られなくなってしまうと思うと……また、寂しさが募った。
小さな沈黙が流れる中、佐久間さんが戻ってきた。手に持った書類を焔さんに渡して、ひとつ頷く。
「待たせたね、明日には届くように頼んできた」
「はい、よろしくお願いします」
「なかなか会えなくなると思うと寂しいが……、元気でやってくれよ、焔くん」
「僕も、お二人に会えなくなるのは寂しいです。佐久間さんも梨里さんも、どうかお元気で」
ぺこりと最後に頭を下げて、焔さんがお店を去って行く。
立ち止まってそのまま見送っていたら、感情に引きずられて動けなくなってしまいそうだ。
「……さあ、残りの片付けも終わらせなくちゃ」
固まってしまいそうな身体で、うんとひとつ伸びをして、私はまた本棚へと向き直った。
『路地裏』が閉店してから、2ヶ月。
私はいつものカフェの窓際の席に座って、ぼんやり通りを眺めていた。
明るいクラシックな店内には人もまばら。平日の昼下がり、ゆったり時間が流れている。
「ふぅ」
両手で包んだコーヒーカップの水面に、小さな溜息が落ちる。
……そう、私はまだ、溜息ばかりついていた。
机の上には読みかけの本と、求人の雑誌。
次の仕事が見つからないままに、無駄に時間が経過していた。
そろそろ貯金も底が見えてきたし、まずいなぁ……。
気まぐれで久々にカフェまでやってきたけれど、重い気分は晴れそうにない。
これ飲み終わったら、帰ろう。
また一口、コーヒーを飲んでカップをソーサーに置くと、ふと、テーブルに影が落ちてくる。
顔を上げるのと、優しい声が降ってきたのはほぼ同時だった。
「ああ、やっばり梨里さんか」
「あ……!」
「久しぶりだね、元気?」
声音に違わずの優しい笑顔がフードから覗いている。懐かしい顔に、ぱっと心に光が差したような感覚。
「焔さん!お久しぶりです!」
「ここのカフェに来たらもしかして、と思ったけど、本当にまた会えるなんて。座ってもいいかな?」
「勿論です、……どうぞ!」
「では失礼して」
向かいの席に着く焔さんの邪魔にならないよう、手早く雑誌を片付ける。
焔さんとは、以前にも、このカフェでばったり会って相席したことがある。
その時にお互い本好きとして語り合った時間は、とても楽しいものだった。
お店がなくなっても、また会えるなんて。
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