エデンの女王

ハコニワ

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二 女王の終わり 

第18話〈終〉これから

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 わたしは石を投げた。宛もなくその場から立ち去る。その最後、背後から幸音さんの苦痛の叫びが聞こえた。きっと、投げた石が当たって当たり所が悪かったのだろう。

 異変に気づいた雅也が駆けつけた。わたしはもう、その場にはいなかった。残っていたのは血を出して倒れている女性と、地面に横になって、お腹を大事に守る幸音の姿。
「赤ちゃん……あーしぃの、赤ちゃんが……」
 うわ言のようにお腹を抱える。そのお腹には、もう誰もいない・・・・・・・のに。

 わたしは逃げた。この村から出る。ここにいたら、皆さんの迷惑になる。
 迷惑? そんなんじゃない。人を殺したわたしの居場所はここじゃない。捕まらないために逃げている。

 電車はあれから行っていない。力也さんはあの電車を使って街に行っているみたいだけど、それはどうしてか、彼だけの特権がある。警察学校のあらゆる文科を余裕で合格すること。その実績があれば、全て免除してくれる。そんなコトだろう。

 一般人は出来ない。また、閉められる。だったら、レールを歩くのみ。太陽が真上にある昼間。風が涼しくなり、見渡すばかり田んぼは黄金色にまとっている。すっかり秋風景だ。でも、昼間はやっぱり暑い。

 爪の間にまで、血がついていた。取れない。汚い。手のひらが真っ赤になっていた。薄汚れた手。人を殺めた手。肌色の手が禍々しい色を帯びている。

 視界が横転した。膝をついて倒れる。朦朧とした意識が現実に戻された。膝が痛い。レールの下は石ころになっているから。地味に痛い。痛覚が現実世界に引き戻した。

 そういえば――幸音さんは、大丈夫だろうか。膝に当たった小石だけで痛いのに、拳ほどの石に当たって、きっと、わたしより痛かったはずだ。許してくれるだろうか?

 ゆっくり立ち上がり、レールをひたすら歩いて、歩き続けた。もう、帰る場所はない。振り返っても、戻る場所なんかない。「おかえり」を言ってくれる家族ももういない。わたしは欲しいと思ったものを掴み損ねて、自らの手で壊した。

 あんなに楽しかったのに。綿菓子みたいに甘くて溶ける時間。一瞬だった。たった数カ月だったのに、何年もここにいたような感じ。それ程、藤村家はわたしのことを歓迎してくれて、とても温かった。

 大勢でご飯を食べるのは初めてだった。新しく迎えてくれた人と思い出の写真を撮ったのは、嬉しかった。人に頼ったのは初めてだった。線香花火を競い合ってやったのは何年ぶりか。父が亡くなってから、もう何もないと思っていた。わたしには、家族が父だけであり父だけが頼りだった。

 だから、あのとき絶望した。
 もう父がこの世にいない以上、わたしはもう、生きていける自信がなかった。でも父が残した希望により、わたしはここに導かれた。導かれて、新たなものを掴んだ。

 愛と家族と生命の尊さを。

 藤村家で過ごした数カ月は嘘のように幸せだった。狭かった世界が大きく広げ、色が鮮明になっていく様。もっと、皆さんに手料理を作りたかった。もっと倫也くんとゲームしたかった。もっと、力也さんと話がしたかった。そして、生まれてくる赤ちゃんを見たかった。

 許してくれるだろうか。

 こんなわたしを。業を背負ったわたしを。

§

 歩き続けて、ようやく街並みが見えてきた。膝がガクガク震えている。足裏がマメだらけで、血が出てる。喉が乾いた。意識が朦朧とする。視界が横転して、地面にへたり込んだ。

 もうすっかり、夜になっていて小石が冷たい。痛みがなかった。朦朧としているから麻痺しているのかも。街の光が見えた。人魂みたいに小さい。星のように点々と光って、無数にある。

 複数の家の窓から光が。ポツポツと怪しく光っている。家の中で微笑ましく笑っている情景が見えた。胸が苦しくなった。ここにも、わたしの居場所はないと思い知らされる。

 すると、背後から光を感じた。わたしの影が伸びている。スポットライトが照らされていた。小さな懐中電灯の光だ。目の前にあるから、一体誰がかざしているのかライトのせいで分からない。
「お前、どうして」
 その人の声がした。知っている。
 彼はどうして、わたしが迷子になっているとき必ず見つけてしまうのだろう。ほんとに。この街で最初に出会って、勘違いで署まで行って、そして、最後にはほんとの意味でお縄につくなんて、誰が想像しただろう。
「力也さん、ごめんなさい」
 そう言ったわたしの腕には、複数の警察官に取り押さえられていた。

 力也さんは、ただライトを照らしてて呆然としていた。すると、慌ててわたしの周りにいる警察官を振り払った。
「これは、何かの間違いだ! だろ!?」
「すいません……」
 そう言うと、鬼の形相だった力也さんが悲しい顔をした。一歩後ずさりして、警察官たちを歩ませた。

 これから、どこに向かっていくのか分かる。きっと、暗くて寂しいところだ。どうして、こうなってしまったんだろう。夜空を見上げ、パトカーに乗った。一番星がキラリと光っていた。

 あとから聞いた話だ。叔母さんは、数カ所縫ったけど、死んでいない。けど罪は消えない。わたしが罪として残るのはこれの話だ。
 あんなに赤ちゃんを楽しみにしていた幸音さんの赤ちゃんを、わたしが奪ったことだ。石は当たっていない。むしろ、びっくりして転倒したことのショックで、流れてしまったのだ。

 やっと授かった生命が、わたしのせいで。許してくれるわけがない。赤ちゃんを失った悲しみで、幸音さんは寝込んでいる。今も苦しんでいる。わたしが帰ってきても、それが悪化するだけ。

 狭い牢屋に入れられ、わたしは隅っこで丸くなった。窓から差し込む月の光が、妖しく光っている。静かで、寂しい。生まれてくる胎児でも、もうそこに生命が宿っている。わたしはそれを阻止した。

 きっと、ここから出られない。この狭い牢屋から、ずっと遠い空を見上げるんだ。今まで近くに感じていたものが急に遠くなった。

 寂しい場所に、彼が訪れた。最後の面会だというような、寂しい表情で。またライトが顔に当たる。言葉はなかった。もう、わたしは藤村家の人間でもない。ただの犯罪者だ。そんなわたしに、力也さんは独り言を呟いた。大きな独り言だ。誰に向かって言っているのか、分からない。確実にわたしだ。
「母さんも父さんもあの手料理を待っている。どれくらい払えばオープンしてくれるか、て。そういや、新しいゲーム機を買った倫也が珍しくそれをやらなかった。新作なのに、ずっと格闘ゲームしてたな。みんな、帰ってくるのを待っている。幸音さんは、今は荒れているけど。お前のこと、恨んでないよ」

 力也さんは、静かに別れを告げて出ていった。わたしは、声を出して泣いた。涙が溢れる。わたしにはまだ、帰る場所がある。わたしにはまだ、希望が残っている。

 柏木美麗と違い、わたしの前にはまだ差し伸ばしてくれる手がある。絵伝村が今でも恐れられるのは、悲惨な事件があっただけじゃない。その村に行くと、美麗のような残虐性が出てくる。魂を乗っ取られたような、そんな感じ。柏木美麗の魂は生きている。

 わたしのように。乗っ取られてしまう人もいるから、怖れられている。

 わたしは窓の外を見上げた。遠くない。きっと、近いうちにここから出られる。わたしは笑った。


                             ―完―
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