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番外編
聖地巡礼
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クリスマスから向こう、ぼくの言葉にできないもやもやに一応の落としどころを見つけ、年末を迎えた。今年最後となるアルバイトは、大掃除で締めくくられた。お年玉の先渡しだよと言われ、色のついた初給料を受け取ったぼくは、ほくほくの財布を持って街を歩いていた。
さて、買いたい漫画もあるし、ゲームもある。幸い既に冬休みに突入していることもあって、時間ならたっぷりあった。最近はバタバタしていて趣味に費やせる時間があまり取れなかったため、どっぷりと自分のために時間を使う事にしよう。
ーーーーーーーーーーーー
「なくない?」
ウチは、スマホを確認し、連絡が来ていない事を確認すると、ベッドに放り投げた。
その様子を見ていた百合から、「壊れちゃうよ」と注意されたが、頭に入ってこなかった。
クリスマス当日。クラスで予定していたクリスマスパーティにあのバカ、間久辺が来ないものだから、ウチはカラオケ店の前で来るのを待っていた。あまりにも遅いので、電話をかけてみると、その声は沈んでいて明らかになにかあったのがわかった。だから、落ち着ける場所に移動して、少し話をしたんだけど……。
「どうしたの冴子? 顔赤いよ」
「そ、そんな事ないっ」
そうだ。どうして、ウチが照れないといけないのよ。
そもそも、いきなり告白とかしてきたのは間久辺のはずなのに、あいつはあの日、パーティにも参加しないで、言いたい事だけ言うと、さっさと帰ってしまった。残されたこっちの身にもなってほしいっていうのよ、まったく。
それでも、やっぱり落ち込んでいた姿が気になって何度か理由をつけては連絡したんだけど、予定があるとかでなかなか会う事ができていない。
「ーーーなくない? なんでウチばっかこんな気ぃ遣わないといけないのよ。百合はどう思う?」
ウチは込み上げる怒りのはけ口として、百合を部屋に招いていた。このムカつきに共感してもらって、本当は心の隅っこにある不安を払拭してくれたらいいなと、そんな風に考えていたんだ。
百合は溜息を吐くと、
「そもそも冴子、きちんと告白の返事したの?」
そんな事を聞いてきた。
当たり前じゃん、とすぐさま答えようとして、ウチは固まってしまった。
思い返してみると、間久辺にいきなり抱きしめられ、驚きのあまり声も出せなかったのを覚えている。あのときに感じた温もりは、いまでもしっかりと覚えている……って、なに考えてるんだ自分。
そう、あのときは固まってしまって、なにもアクションを起こす事ができなかった。
ウチにできたのは、宙ぶらりんだった腕をあいつの背中に回す事と、告白の言葉に「うん」と答える事だけだった。
恥を承知ですべてを包み隠さず説明すると、百合の表情は険しいものに変わった。
「それ、微妙じゃない?」
「なにが?」
「だって、告白の返事に『うん』でしょ? 普通だったら肯定の言葉だけどさ、相手によっては誤解するんじゃない? 告白された事は理解したよ、くらいの。返事はまだだけど、みたいな」
「……マジ?」
「いや、わからないけどね。ただ、もしそう考えているんだとしたら、まずいんじゃない? 間久辺君はきっと、かなり勇気を振り絞って告白したと思うからさ。その告白の返事を曖昧に濁されたとなったら、かなり落ち込むんじゃないかな? 場合によってはフラれたと勘違いしちゃうかも。もしかしたら、冴子が誘いの連絡を入れたのも、ただの気遣いだと思い込んでるのかもしれないよ」
ぽーん、とベッドに飛び込むウチ。
「はしたない」
と苦言を呈してくる友人の言葉を無視して、ウチは大慌てで電話をかけた。
ーーーーーーーーーーーーーー
友人たちと落ち合い、書店に移動する。
新刊の漫画コーナーを見ながら、帯に書かれた『アニメ化!』の文字をから、新作アニメの話に話題を移行させつつ、棚のコミックから自分のおすすめ作品を取り出し、お互いに勧める。こういうとき、ぼくも廣瀬も、オタク仲間同士とはいえ、わずかに残った羞恥心が邪魔をしてがちがちの趣味漫画(ただ幼女の愛くるしい日常を絶妙なエロスとパンチラでコーティングして綴ったような作品)を恥ずかしげもなく出す事はできない。
だが、もう一人の友人、中西は違った。
「……これは、さすがに食傷起こしそうだ」
その漫画を手にしたぼくは、思わずそう口にしていた。
隣で廣瀬も、神妙な顔つきで頷く。
「ああ。業が深いぜ」
中西はどもりながらも、幼女がヒップを突き出した表紙の漫画をぼくらに突き付けながら、「こ、これ俺の一押し」と鼻息荒く勧めてくる。
やだ、怖いこの人。
「ふ、二人とも引きすぎ。勘違いしてる。お、俺はリアル幼女には興味ない。なんだったら、リアル女子にも希望はないと思ってる。平面な紙の中に、さ、作家が己の信念とフェチズムを昇華させた結果、生み出された芸術に、し、心酔しているんだ」
もう一度言う。怖いこの人。
熱く語ってくれるのはありがたいんだけど、温度差があり過ぎて彼のヤバさが際立って見えるな。
ぼくと同じく、少し引いた目線で見ていた廣瀬も、中西の言葉の中に共感できるところがあったのか首肯して答えた。
「わかるっ! 俺たちを虫けらを見るような目で見てくるクラスの女子連中とか、これがリアル女子のクオリティかと辟易するな。神様ってやつは萌えをまるで理解してないクリエイターなんだな。がっかりだぜ」
きっと神様も、創造主をディスるという生産性のないトークに花を咲かせるぼくら三人を見て、がっかりしているよ。
友人の熱弁を客観視していたぼくは、「マクベスもそう思うだろう?」と話を振られ、うんうんと適当に相槌を打った。
「三次元女子なんて俺たちにはいらないぞー。もっと高尚でかつ純粋な世界は、二次元にこそあるんだ!」
おかしな新興宗教でも立ち上げそうな勢いの廣瀬に便乗する中西。ぼくも、「そうだそうだー」と生返事で答える。
丁度そのとき、ポケットの中で震えるスマホに気付き取り出してみると、どうやら着信が入っているらしく、継続してバイブが振動している。
画面を確認すると、そこには着信相手の名前が心なし力強く表示されていた。
『石神冴子』
「あ、彼女から電話だ」
ぼくの言葉に、決起集会みたいに盛り上がっていた二人が一斉に顔を向けてきた。
その目は信じられないものでも見たときのように、見開かれている。
二人の嫌な意味での熱視線を無視し、電話に出た。すると、石神さんはどこか上ずった声で第一声を切り出した。
『ねえ、どっか、デート行こ?』
一部やけに強調された言葉に、違和感と同時に照れが出る。そうなんだよな。こうしてあらためて言われると、再認識する。ぼく、あの石神さんと付き合ってるんだよな。
そういえば、クリスマスにぐちゃぐちゃだった感情の勢いで彼女に想いを伝えたぼくだけど、それきり会うどころか、こちらから連絡もしていなかった事を思い出す。まずい。なんか、男としていろいろとまずいぞ。
「そうだね。デート、デートしよう!」
いまさら照れている場合じゃない。
彼女から誘われている時点で男らしさなんて欠片もないのだけれど、それでも挽回しようとする浅ましさが顔を出す。
しかし、デートと言ってもなにをしたらいいんだ?
もちろん経験豊富、落としてきたヒロインは数知れないぼくにはざっと考えただけでもいくつもプランが浮かぶ。浮かぶんだが、残念ながらこれまでプレイした恋愛シミュレーションゲームの中に、ギャルで読者モデルで、しかも以前いじめられてた相手という特種なヒロインが存在ない。
その間にも、『ねえ、どこ行きたい?』 と話を先に進める彼女。
くっ、石神さんめ、ぼくの心の中を見透かしたように攻めてくるじゃないか。いまのぼくに必要なのは戦略シュミレーションゲームの経験だったようだ。
ん、待てよ。今日が12月30日の午後で、明日は31日。うってつけのイベントがあるじゃないか。
「ねえ、石神さん。初詣行かない? 二人で、さ」
『初詣か。うん、いいよ』
淀みない答えが返ってきて、ぼくは安堵する。
「それじゃあ、詳しい事はまた後で連絡するね」
そう言って電話を切った。
すると、「おい」と言って神妙な顔つきで迫ってくる廣瀬。
何事かと首を傾げると、中西まで詰め寄ってくる。
「マ、マクベス。もう一度聞こう。さ、三次元女子が、なんだって?」
そうだ。すっかり忘れていたが、彼らに石神さんと付き合う事になったのを話してなかった。
それから、彼らに事情を説明し、石神さんと付き合う事になった旨を報告したのだが、信じてもらうまでにかなりの時間を要した。信じられないのもわかるけど、そこまで疑う事なくない?
というか、「げ、現実を直視しろ」と言った中西に、これだけは言いたい。お前こそリアルを直視しなさいと。
ーーーーーーーーーーーーーー
「初詣行くの? 良かったじゃない、デートの約束できて」
百合はそうして、「おめかししないとね」と言い、からかうように笑った。
「はあ? そんなんわざわざしないって」
と言いながら、ウチは頭の中で既に十種類以上のコーディネートを考えていた。初詣ならきっと結構歩くと思うから軽装が望ましいわよね。もちろん、ヒールはなし。だけど、スニーカーもちょっとラフ過ぎるかしら。そうなったら、足元は底の低いブーツで決まり。
そうだ振り袖……は、重いかしら。ウチらは結構振り袖とか浴衣着たいと思うんだけど、男子ってあんまり喜ばないらしいのよね。あれって着付けとか髪のセットに時間かかるから、こっちとしては労力に見合った見返りがないのよね。
まあ、とにかくあまり気合を入れてしまうと、間久辺が気後れするのは間違いないと思う。たぶん、あいつなりにウチの事を考えていろいろプランを練ってくれているだろうから、こっちも向こうに合わせる努力をするべきだろう。
ーーーーーーーーーーーーーー
参った。これは本当に困った。
石神さんには後で連絡すると言ってしまった手前、ある程度予定を立てておく必要があるが、頭の中は真っ白だ。それも当然の事で、なにを隠そう、ぼくはリアル世界でデート経験というものが一度もない。前に一度、石神さんと二人きりで出かけた事はあったが、あれは彼女がすべて考えて動いていたため、ぼくはなにも考えなくてよかった。だけど、今回はそうも言っていられないだろう。
男らしくエスコートしなくては、そう思い、頼りになる友人二人に聞いてみた。
廣瀬プランは、「夜景の見えるレストランで彼女の誕生年のワインを開ける」というものだった。
ぼくら高校生だバカ野郎。
あまり期待はできないが、中西にも聞いてみる事にした。
「よ、予約するホテルは、き、きちんとした所が良いってビジネス漫画に載ってたよ」
案の定なんの役にも立たなかった。初詣行くだけだっつってるじゃん。
そして家に帰ったぼくは、他に聞ける相手もいないので御堂にも電話で聞いてみる事にする。
「―――は? お前がデート? マジかよっ」
「ひどいね? その反応」
「ああ、わりいわりい。それで、アドバイスね。いいぜ、この百戦錬磨の恋愛マスターに任せな」
与儀さんに失恋したじゃん、とは言わないでおこう。古傷を抉るほどぼくは鬼じゃない。
「要するに、どうやって女をそこら辺のラブホに連れ込むのかって話だろう?」
聞く人間を間違えたようだ。
電話を切ろうとするぼくに、御堂は慌てて「冗談だ」と言った。
「御堂、一つ言っておくけど、ホテルはきちんと選んだ方が女子受けいいらしい。中西の言葉だ」
「誰だよっ! そんなヤツのアドバイス信用できねえだろう」
「お前も変わらんっ!」
そうして通話を切ったぼくは、あらためて頭を抱えた。
駄目だ。ぼくの周りの男はまともな人間がいない。
気軽に相談できる相手なんて他に思いつかなかったので、やはり最終手段のネットに頼る事にした。
初詣 デートスポット
これでググると、先人の知恵の集積がお目見えする。
しかし、こういうデートスポットとかの紹介記事を見ていると、なんだかやたらとべた褒めしていて、サクラなんじゃないかって疑いたくなるのは、ぼくの心が荒んでいるからだろうか。
まあいい。使える情報とそうでないものを見極める能力なら、それなりに自信があるつもりだ。久しぶりに本気を出して情報を取捨選択しながら、計画を練っていった。
結果、気付くと明け方近くまで時間を使ってしまった。まあ、後半はなぜか行き着いたアニメ動画を見る事に時間を要したんだけどね。
体力的に限界に達したぼくは、スマホを手にし、石神さんに連絡を入れる。ネットでは年明けの瞬間を一緒に迎える二年参りがロマンチックと書かれていたので、それを提案すると、数時間してから返信があり、『オッケ』と短い文章が帰ってくる。
ホッと胸を撫でおろしたぼくは、時間と場所を指定し、そこで限界に達した。
ベッドに倒れ込むと、そのまま深い眠りにつく。
ーーーーーーーーーーーーーー
朝目覚めると、間久辺から連絡が入っていて、内容を確認すると今日の夜中から出かけて二年参りしようと考えているんだけど、大丈夫かとの事。ウチは朝ご飯食べながら、お母さんにその事を伝える。お父さんに言うと口うるさく言ってくるから、大事な事でもお母さんを経由して話すのが多いのよね。読者モデルを始めたときだって、お父さんには完全に事後報告で、後から口喧嘩になったっけ。心配してくれてるのはわかるけど、それでもウザいのは変わりない。
お母さんから、「夜中になにしに行くのよ?」と聞かれ、初詣と答える。
ウチも浮かれてたのかな。言わなくてもいいのに、彼氏とデートに行くなんて言っちゃったものだから、面白がったお母さんが余計な事言っちゃって、リビングでニュースを見ていたお父さんが平静を装いながら、息巻いてやってくる。
食卓のテーブル。定位置であるウチの斜め向かい側に座ったお父さんは、おもむろに口を開く。
「冴子。交際してる相手ってどんな男だ」
「は? 関係なくない?」
「娘に関することで、父親が関係ない事なんて一つもない」
「ウザ」
吐き捨てるようにそう言うと、ダイニングキッチンで洗い物をしていたお母さんから、「そういう事言わないの」とお説教され、渋々頷く。
お父さんの方を向いて、質問に答える事にした。
「クラスメイト。真面目なやつだよ」
「本当か? 悪いけど、父さんには冴子がつるむ男に真面目な学生がいるとは思えないんだが」
一応、お母さんがフォローに入ってくれる。
昨日遊びに来た百合とは以前から何度か顔を合わせているため、真面目な友人もいると言ってくれる。
それでも、お父さんは信用してくれない。
頭にきたウチは、聞き流せばいいのに、反論してしまう。
「そういうのマジムカつくんだけど。つかさ、お父さんに間久辺のなにがわかるの?」
「知る訳ないだろう。会った事もないんだから」
「そうじゃん。知る訳ないんだからさー、好き勝手な事言わないでよ」
そこで、ニヤリとほほ笑んだお父さんを見て、ウチは失敗してしまったと後悔した。
仕事の取引なんかで口が鍛えられてる相手に、口論で勝てるはずがなかった。
「それなら、会わせてくれよ。丁度いい。初詣に行くんだろう? 迎えに来てもらうときに、挨拶させなさい」
間久辺とお父さんを会わせる?
頭の中で軽くシュミレーションしてみたけど、どう考えたってあの挙動不審な間久辺がまともに挨拶なんてできるとは思えない。
「無理っ」
咄嗟に出た言葉を補うように、ウチは待ち合わせ場所がある事を告げる。間久辺は家まで迎えに来ないから、会わせられない。残念だなーって。
すると、「帰りでいいじゃないか」と食い下がってくるお父さん。
「まさか、年頃の娘を家まで送り届けないなんて真似、真面目な男がする訳ないもんな。何時でもいい。今夜は朝まで起きているつもりだから、戻ったら呼びなさい。それが出かける条件だ」
あー、もうこうなったらテコでも動かないのがこの人だ。
観念したふりをして、間久辺には会わないで帰ってもらっちゃう事もできるんだけど、そうなると後が面倒なのよね。男のくせに粘着質だからな、我が家の大黒柱は。
そうなると、会わせるしかないか。
間久辺、ごめん。なんかいきなり大変な試練与えちゃったみたいだわ。
ーーーーーーーーーーーーーーー
夜八時過ぎまで眠っていたぼくは、風呂に入り体を清め、新年を迎える準備を済ませると、用意していた一張羅を身に付ける。なんて、ただのジーンズにパーカー、その上に厚手のダウンジャケットを羽織っただけなんだけど、とりあえず準備オッケーだ。
例年なら、リビングでお笑いの年越しバラエティーを居合わせた妹と見るのが通例となっていたため、身支度を整えて玄関に向かうぼくを見た絵里香は、不思議そうに首をひねった。出てきた言葉が「コンビニ? だったらアイス買ってきて」だった事に、ぼくはガクッと肩が落ちる。
「この寒い中アイス食べるの?」
「暖かい部屋で食べるからいいじゃん」
「そっか。でも、アイスは諦めてくれ。これから約束あるんだ」
「へー、またオタク仲間で集まるの?」
「残念。今日は違うんだな。石神さんと初詣に行く約束しているんだ」
「はぁ!? なんで兄貴が冴子ちゃんと初詣なんて行く事になるの? まさか、二人きりじゃないよね?」
「そのまさかなんだな。なんたってぼくら、付き合う事になったからさ」
おっと、いつまでも長話していたら時間に遅れてしまう。
ピシッと廊下で固まる妹を無視して家を出た。
約束の場所は西口駅前。ただでさえ賑わう駅前は、夜の十時を過ぎても大晦日の夜の補正がかかり大勢の人で溢れていた。電話で石神さんに居場所を伝えながら探していると、すぐに彼女を見つける事ができた。というのも、周囲の男たちの視線を辿っていった先に彼女の姿があっただけの事なのだが。
少し離れた位置から、こちらに歩いてくる彼女の姿を見ていると、あらためてその容姿に見とれてしまう。
「ん、どうかした?」
彼女を見つめたまま微動だにしないぼくに、石神さんは首を捻った。
我に返ったぼくは、いまさら繕う必要もないだろうと思い、正直に見とれていた事を告げる。
すると、石神さんは一瞬面食らったように目を見開いたが、すぐに笑顔になった。
「ありがと」
それから、改札を抜けて電車に乗り込み、東京方面を目指す。
ただの初詣なら、地元の神社とかでもよかったのかもしれないが、知り合いに会うのは面倒だし、それにネットで調べたおすすめスポットに行ってみたいという気になっていたのだ。
電車に揺られながら、人の多い車内で彼女を壁際に立たせてぼくはつり革に掴まる。これから行く神社を告げると、彼女はネットでその場所を調べていた。
「屋台もあるみたいだし、着いたらなにか食べよっか。良さそうな場所だね」
「本当? 石神さんがそう言ってくれるなら、安心した」
「なんで? ウチが文句でも言うと思ったの? そんなの言う訳ないじゃん。だって、間久辺、いっぱい調べてくれたんでしょう?」
うっ、バレている。
「あ。もしかして気付かれてないとか思ってたの? そんなのわかるって。だって、あんたから連絡あったの明け方じゃん。あれって、その時間までいろいろと調べてくれてたからなんでしょう?」
「そうとは限らないよ。一晩中ゲームに熱中してた可能性だってある」
「まあそうね。でも、否定しないって事は調べてくれてたんでしょう?」
駄目だ。ぼくよりも石神さんの方が一枚上手みたいだ。
車中、常時緊張状態のぼくとは対照的に、からかうような言動で翻弄してくる石神さんに、ぼくはタジタジだ。
ようやく目的の駅に到着し、下車すると、そこから歩いて神社に向かう。
「やー、結構人通り多いね。これ、みんな参拝客なのかな?」
そう言いながら歩き出すぼくの手を掴んで、立ち止まらせる彼女。
驚き、振り返ったぼくは、少し不満そうな石神さんの顔を見て、それから握られている手に目をやる。
ああ、気付かれてしまったのか。
通りを歩く人の多くはカップルばかり。というのも、これから向かう神社は縁結びで有名な場所だ。どうやら、その事を石神さんに見抜かれてしまったらしい。
「みんなくっついてるのに、不自然じゃん。ウチらだって恋人なんだしさ」
そうだね、と答え、ぼくは彼女の手を握り返した。
そうして、無言で道をゆっくりとした歩みで進む。だけど、その無言は居心地の悪いものではなく、ぼくらを穏やかに包み込んでいるように感じられる。
やがて、人の群れが吸い込まれる鳥居が見えてきて、ぼくたちは中に入る。立ち並ぶ屋台を横目に見ながら、思ったよりも人で溢れる境内を進む。すると、なにか不思議に感じたのか、石神さんはぼくの手を引っ張って振り返らせる。
「ねえ、なんかおかしくない?」
「そうかな? そんな事、ないと思いますけど」
「なんで敬語だし」
「いえ、別に深い意味はないです」
「……怪しい」
そう言いながら、周囲を見渡す石神さん。
その間、心臓が、バクンバクンと音を立てているのがわかる。
そして、石神さんの目がスッと細くなると、その鋭い視線がこちらに向けられる。
「ねえ。ここって縁結びで有名なんだよね? その割には、カップルと同じくらいの割合で、あんたの同類っぽい連中の姿が見受けられるんだけど」
同士諸君の擬態能力が低すぎて辛い。
「どういう事か説明してくれる?」
にっこりとほほ笑んだ石神さん。だが、その瞳の奥に怒りの炎が灯っている事をぼくは見逃さなかった。
下手に誤魔化して更なる怒りを買うくらいならと、ぼくは素直さという美徳を武器に正直に白状した。
「この神社、いま話題のアニメでメインヒロインが住んでるとされている場所なんだ。つまり、この場所は聖地って事になるねっ!」
素直に話した訳だけど、なんだか雲行きが怪しい。
ただでさえ寒い外気に加え、身も凍るほどの冷笑を浮かべた石神さんは、一歩ぼくに近付いた。
「へえ。夜遅くまでウチのために調べてくれたんだって思って関心してたんだけど、そうなんだ。ここ、あんたが趣味で来たかった場所なのね。ふぅん」
そして、追い詰めるみたいに、もう一歩ぼくとの距離を詰めると、サイテー、と白んだ目を向けてくる。
うっ。あまりの圧力に、外気温に反して背筋を汗がつたい、思わず後ずさる。
久々登場、小動物センサーがビンビンに反応している。
そんな怯えるぼくを見て、くっ、と堪え切れなくなったように吹き出す彼女。
「冗談よ。怒ってない。なんか、あんたらしくて笑えるし」
そう言って、相貌を崩した石神さんを見て、ぼくは心から安堵した。
それと同時に、自分の血中にまで染み込んだオタク魂がふつふつと熱くなる。
ぼくがこの聖地に訪れた証を残したい。流石にグラフィティを残す訳にはいかないので、この抑えきれない衝動を別の形でぶつける事にする。ネット上でアップされていた、アニメのキャラクターが描かれた痛絵馬を見て、ぼくも描きたいと思ってわざわざこの場所まで足を運んだのだ。
ひゃっほー、突撃ー!
ぼくはダッシュで絵馬を購入、持ってきたフェルトペンでお気に入りのキャラクターを描き、横に文字を添える。
『ぼくの嫁』と。
「天誅!」
そう言って、いきなり頭を叩かれた。
何事かと振り返ると、いつの間にか後ろに立っていた彼女が手刀の形で手を持ち上げたまま、ぼくを睨んでいた。
「そいつ、あんたの嫁? それじゃあウチは? 不倫相手?」
「あはは、面白い事言うね」
笑うぼく。あはは、はは、は……あれ、おかしいぞ。彼女、ぜんぜん笑わない。
それどころか、彼女の目から光彩が消えた。
これは笑うところではないのだと判断したぼくは、頭を下げながら何度も謝った。
「調子に乗り過ぎましたっ!」
「あんさー。いまさらあんたの趣味にとやかく言うつもりはないし、あんたのキモいのが治るとも思ってないけど、場所と状況だけは弁える事。わかった?」
マジ説教されてしまったぼくは、項垂れながら頷く。
「反省してます」
「は? その程度?」
ギラリと彼女の目が光り、慌てて言い直す。
「猛省しておりますっ!」
ひたすらに謝る姿は、まるで中間管理職みたいだと他人事のように思った。
ようやく彼女の機嫌も治り、そんなこんなで、ようやく落ち着いて参拝する事ができるようになった。
神前で二拝二拍手一礼をする、というのが通例のマナーだけれど、見ていると若者が多い事もあって、実際にやっている人をあまり見かけない。石神さんも特にやる素振りを見せなかったので、ぼくもお賽銭だけ投げて、普通に願い事をした。
参拝客の群れから外れたぼくらは、さっきから、他愛ない会話に花を咲かせる。ときどきぼくも日常的に起きた面白い話なんかをして盛り上げた。不思議な気分だ。女子と話をするなんて、ぼくが最も苦手とする事だったはずだ。まして、相手はあの石神さん。それが、どういう因果かこうして付き合うことになり、笑い合っている。
おっと、因果って表現はおかしいか。実際問題、彼女と過ごす時間は楽しい訳だしね。
それに、ここは神社で神道だ。運命、って言葉に置き換えたらいいのかな。なんて、少し照れる。
さて、運命と言えばやはり外せないイベント。おみくじ。
どちらからともなく、「引こうか?」という話になり、ぼくらは社務所でお金を払って札を引いた。書かれている数字を伝え、おみくじを受け取ると、最初はお互いに自分のだけを見る。
ぼくはというと……『凶』っ!?
うーわ、なにこれ、下がるわー。本当に入ってるんだ。っていうか、宗教法人もサービス業の精神を見習うべきだよね。いいじゃない運試しなんて全部『大吉』入れておいてくれたら。
そう憤りながら、隣の石神さんのおみくじを見ると、『大吉』。
これだよ。持って生まれた人間と、そうでない人間の差。
石神さんは、大吉を引き当てる事に慣れているとでも言うように、大したリアクションを示さなかった。それなのに、ぼくのおみくじを見ると「ありえないっ」って言ってケタケタ笑う。人の不幸を笑うんじゃないよ、まったく。
そんな風に不貞腐れていると、彼女は目じりの涙を拭った。
「丁度いいじゃない? ウチが大吉で、あんたが凶」
「ぜんぜん良くなくない?」
「だって間を取ったら『吉』じゃん。ウチ、大吉よりも吉の方が好きだなー。だって、いまが一番幸福、みたいに決めつけられるより、これから、もっと幸せになれる余地がある吉の方がいい」
「そっか、そうだね。ぼくら二人は、確かに吉だ」
これから先、きっともっと楽しい事が待っているだろうから。
「うん、そう。だから忘れない事。いい? あんたにはウチが必要なの。あんたひとりだったら不幸でも、ウチが引っ張りあげて、嫌でも幸せにしてあげる」
ビシッと人差し指を立てて、ぼくを指差した石神さん。
ぼくは思わず笑みをこぼした。
「それじゃあ、これから先も、ずっと一緒にいないとね」
彼女の指を掴んで解きほぐし、重ねるように手を握ったぼくは、そしてこう言った。
「よろしく、お願いします」と。
その瞬間、まるで、示し合わせたように周囲の盛り上がりが最高潮になる。
そして、すぐに新しい年を迎えたのだと理解した。
ぼくは改めて、「今年もよろしくお願いします」と言い直した。
恥ずかしそうに俯いていた石神さんは、「こちらこそ、よろしく」と、顔を隠すように小さく会釈した。
だが、新年を祝う歓喜の声の中で、頭の片隅にちらつく影。
おみくじに書かれていた項目の中に、『失せ物』というものがあり、『喪失に注意』と書かれていた。いま、目の前にこうして居るからかもしれないが、喪失という言葉を聞いて、真っ先に思い浮かぶのは石神さんの姿だ。それだけ、ぼくは彼女を失いたくないと思っている。
そして、おみくじにはこうも書かれていた。『誠意に応えよ』と。
誠意。彼女の誠意に、ぼくは応えられているだろうか。
自分のもう一つの姿。
線引屋としての自分。
それをひた隠しにしたまま、これからも彼女と接していく事になるというのに……。
そんな事を考えてしまったために、幸せな時間を過ごしているにも関わらず、心の中に一滴の黒いインクが垂れたように影がさす。黒は、すべてを飲み込んでしまう色だ。
ぼくは、漠然とした不安を誤魔化すように、彼女の手を握る力を、ほんの少しだけ強めた。
「あ、そう言えば」
石神さんが、なにかを思い出したようにそう切り出した。
なんだ? この状況、物語なら幕間でカーテンが閉まるような場面だぞ。
それくらいシリアスなモノローグっぽい心境が台無しになるほど、彼女の口調は軽かった。
「言い忘れてたけど、ウチのお父さんが、帰り挨拶に来なさいだって。どうする?」
「ええぇっ!?」
なにそれ、聞いてないにもほどがある。
「あ、ちなみにウチのお父さん、高校時代柔道で全国大会三位だって。得意技は、払い腰と見せかけての支え釣り込み足らしいよ」
字面からどんな技か想像もできない攻撃を二発も繰り出されるのかな、ぼく。
さっきのおみくじに書かれていた『失せ物』って、まさかぼくの命じゃないよね?
そうでない事を祈りながら、一応、アドバイスにあったように、誠意に応える努力だけはしようと心に決めた。
さて、買いたい漫画もあるし、ゲームもある。幸い既に冬休みに突入していることもあって、時間ならたっぷりあった。最近はバタバタしていて趣味に費やせる時間があまり取れなかったため、どっぷりと自分のために時間を使う事にしよう。
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「なくない?」
ウチは、スマホを確認し、連絡が来ていない事を確認すると、ベッドに放り投げた。
その様子を見ていた百合から、「壊れちゃうよ」と注意されたが、頭に入ってこなかった。
クリスマス当日。クラスで予定していたクリスマスパーティにあのバカ、間久辺が来ないものだから、ウチはカラオケ店の前で来るのを待っていた。あまりにも遅いので、電話をかけてみると、その声は沈んでいて明らかになにかあったのがわかった。だから、落ち着ける場所に移動して、少し話をしたんだけど……。
「どうしたの冴子? 顔赤いよ」
「そ、そんな事ないっ」
そうだ。どうして、ウチが照れないといけないのよ。
そもそも、いきなり告白とかしてきたのは間久辺のはずなのに、あいつはあの日、パーティにも参加しないで、言いたい事だけ言うと、さっさと帰ってしまった。残されたこっちの身にもなってほしいっていうのよ、まったく。
それでも、やっぱり落ち込んでいた姿が気になって何度か理由をつけては連絡したんだけど、予定があるとかでなかなか会う事ができていない。
「ーーーなくない? なんでウチばっかこんな気ぃ遣わないといけないのよ。百合はどう思う?」
ウチは込み上げる怒りのはけ口として、百合を部屋に招いていた。このムカつきに共感してもらって、本当は心の隅っこにある不安を払拭してくれたらいいなと、そんな風に考えていたんだ。
百合は溜息を吐くと、
「そもそも冴子、きちんと告白の返事したの?」
そんな事を聞いてきた。
当たり前じゃん、とすぐさま答えようとして、ウチは固まってしまった。
思い返してみると、間久辺にいきなり抱きしめられ、驚きのあまり声も出せなかったのを覚えている。あのときに感じた温もりは、いまでもしっかりと覚えている……って、なに考えてるんだ自分。
そう、あのときは固まってしまって、なにもアクションを起こす事ができなかった。
ウチにできたのは、宙ぶらりんだった腕をあいつの背中に回す事と、告白の言葉に「うん」と答える事だけだった。
恥を承知ですべてを包み隠さず説明すると、百合の表情は険しいものに変わった。
「それ、微妙じゃない?」
「なにが?」
「だって、告白の返事に『うん』でしょ? 普通だったら肯定の言葉だけどさ、相手によっては誤解するんじゃない? 告白された事は理解したよ、くらいの。返事はまだだけど、みたいな」
「……マジ?」
「いや、わからないけどね。ただ、もしそう考えているんだとしたら、まずいんじゃない? 間久辺君はきっと、かなり勇気を振り絞って告白したと思うからさ。その告白の返事を曖昧に濁されたとなったら、かなり落ち込むんじゃないかな? 場合によってはフラれたと勘違いしちゃうかも。もしかしたら、冴子が誘いの連絡を入れたのも、ただの気遣いだと思い込んでるのかもしれないよ」
ぽーん、とベッドに飛び込むウチ。
「はしたない」
と苦言を呈してくる友人の言葉を無視して、ウチは大慌てで電話をかけた。
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友人たちと落ち合い、書店に移動する。
新刊の漫画コーナーを見ながら、帯に書かれた『アニメ化!』の文字をから、新作アニメの話に話題を移行させつつ、棚のコミックから自分のおすすめ作品を取り出し、お互いに勧める。こういうとき、ぼくも廣瀬も、オタク仲間同士とはいえ、わずかに残った羞恥心が邪魔をしてがちがちの趣味漫画(ただ幼女の愛くるしい日常を絶妙なエロスとパンチラでコーティングして綴ったような作品)を恥ずかしげもなく出す事はできない。
だが、もう一人の友人、中西は違った。
「……これは、さすがに食傷起こしそうだ」
その漫画を手にしたぼくは、思わずそう口にしていた。
隣で廣瀬も、神妙な顔つきで頷く。
「ああ。業が深いぜ」
中西はどもりながらも、幼女がヒップを突き出した表紙の漫画をぼくらに突き付けながら、「こ、これ俺の一押し」と鼻息荒く勧めてくる。
やだ、怖いこの人。
「ふ、二人とも引きすぎ。勘違いしてる。お、俺はリアル幼女には興味ない。なんだったら、リアル女子にも希望はないと思ってる。平面な紙の中に、さ、作家が己の信念とフェチズムを昇華させた結果、生み出された芸術に、し、心酔しているんだ」
もう一度言う。怖いこの人。
熱く語ってくれるのはありがたいんだけど、温度差があり過ぎて彼のヤバさが際立って見えるな。
ぼくと同じく、少し引いた目線で見ていた廣瀬も、中西の言葉の中に共感できるところがあったのか首肯して答えた。
「わかるっ! 俺たちを虫けらを見るような目で見てくるクラスの女子連中とか、これがリアル女子のクオリティかと辟易するな。神様ってやつは萌えをまるで理解してないクリエイターなんだな。がっかりだぜ」
きっと神様も、創造主をディスるという生産性のないトークに花を咲かせるぼくら三人を見て、がっかりしているよ。
友人の熱弁を客観視していたぼくは、「マクベスもそう思うだろう?」と話を振られ、うんうんと適当に相槌を打った。
「三次元女子なんて俺たちにはいらないぞー。もっと高尚でかつ純粋な世界は、二次元にこそあるんだ!」
おかしな新興宗教でも立ち上げそうな勢いの廣瀬に便乗する中西。ぼくも、「そうだそうだー」と生返事で答える。
丁度そのとき、ポケットの中で震えるスマホに気付き取り出してみると、どうやら着信が入っているらしく、継続してバイブが振動している。
画面を確認すると、そこには着信相手の名前が心なし力強く表示されていた。
『石神冴子』
「あ、彼女から電話だ」
ぼくの言葉に、決起集会みたいに盛り上がっていた二人が一斉に顔を向けてきた。
その目は信じられないものでも見たときのように、見開かれている。
二人の嫌な意味での熱視線を無視し、電話に出た。すると、石神さんはどこか上ずった声で第一声を切り出した。
『ねえ、どっか、デート行こ?』
一部やけに強調された言葉に、違和感と同時に照れが出る。そうなんだよな。こうしてあらためて言われると、再認識する。ぼく、あの石神さんと付き合ってるんだよな。
そういえば、クリスマスにぐちゃぐちゃだった感情の勢いで彼女に想いを伝えたぼくだけど、それきり会うどころか、こちらから連絡もしていなかった事を思い出す。まずい。なんか、男としていろいろとまずいぞ。
「そうだね。デート、デートしよう!」
いまさら照れている場合じゃない。
彼女から誘われている時点で男らしさなんて欠片もないのだけれど、それでも挽回しようとする浅ましさが顔を出す。
しかし、デートと言ってもなにをしたらいいんだ?
もちろん経験豊富、落としてきたヒロインは数知れないぼくにはざっと考えただけでもいくつもプランが浮かぶ。浮かぶんだが、残念ながらこれまでプレイした恋愛シミュレーションゲームの中に、ギャルで読者モデルで、しかも以前いじめられてた相手という特種なヒロインが存在ない。
その間にも、『ねえ、どこ行きたい?』 と話を先に進める彼女。
くっ、石神さんめ、ぼくの心の中を見透かしたように攻めてくるじゃないか。いまのぼくに必要なのは戦略シュミレーションゲームの経験だったようだ。
ん、待てよ。今日が12月30日の午後で、明日は31日。うってつけのイベントがあるじゃないか。
「ねえ、石神さん。初詣行かない? 二人で、さ」
『初詣か。うん、いいよ』
淀みない答えが返ってきて、ぼくは安堵する。
「それじゃあ、詳しい事はまた後で連絡するね」
そう言って電話を切った。
すると、「おい」と言って神妙な顔つきで迫ってくる廣瀬。
何事かと首を傾げると、中西まで詰め寄ってくる。
「マ、マクベス。もう一度聞こう。さ、三次元女子が、なんだって?」
そうだ。すっかり忘れていたが、彼らに石神さんと付き合う事になったのを話してなかった。
それから、彼らに事情を説明し、石神さんと付き合う事になった旨を報告したのだが、信じてもらうまでにかなりの時間を要した。信じられないのもわかるけど、そこまで疑う事なくない?
というか、「げ、現実を直視しろ」と言った中西に、これだけは言いたい。お前こそリアルを直視しなさいと。
ーーーーーーーーーーーーーー
「初詣行くの? 良かったじゃない、デートの約束できて」
百合はそうして、「おめかししないとね」と言い、からかうように笑った。
「はあ? そんなんわざわざしないって」
と言いながら、ウチは頭の中で既に十種類以上のコーディネートを考えていた。初詣ならきっと結構歩くと思うから軽装が望ましいわよね。もちろん、ヒールはなし。だけど、スニーカーもちょっとラフ過ぎるかしら。そうなったら、足元は底の低いブーツで決まり。
そうだ振り袖……は、重いかしら。ウチらは結構振り袖とか浴衣着たいと思うんだけど、男子ってあんまり喜ばないらしいのよね。あれって着付けとか髪のセットに時間かかるから、こっちとしては労力に見合った見返りがないのよね。
まあ、とにかくあまり気合を入れてしまうと、間久辺が気後れするのは間違いないと思う。たぶん、あいつなりにウチの事を考えていろいろプランを練ってくれているだろうから、こっちも向こうに合わせる努力をするべきだろう。
ーーーーーーーーーーーーーー
参った。これは本当に困った。
石神さんには後で連絡すると言ってしまった手前、ある程度予定を立てておく必要があるが、頭の中は真っ白だ。それも当然の事で、なにを隠そう、ぼくはリアル世界でデート経験というものが一度もない。前に一度、石神さんと二人きりで出かけた事はあったが、あれは彼女がすべて考えて動いていたため、ぼくはなにも考えなくてよかった。だけど、今回はそうも言っていられないだろう。
男らしくエスコートしなくては、そう思い、頼りになる友人二人に聞いてみた。
廣瀬プランは、「夜景の見えるレストランで彼女の誕生年のワインを開ける」というものだった。
ぼくら高校生だバカ野郎。
あまり期待はできないが、中西にも聞いてみる事にした。
「よ、予約するホテルは、き、きちんとした所が良いってビジネス漫画に載ってたよ」
案の定なんの役にも立たなかった。初詣行くだけだっつってるじゃん。
そして家に帰ったぼくは、他に聞ける相手もいないので御堂にも電話で聞いてみる事にする。
「―――は? お前がデート? マジかよっ」
「ひどいね? その反応」
「ああ、わりいわりい。それで、アドバイスね。いいぜ、この百戦錬磨の恋愛マスターに任せな」
与儀さんに失恋したじゃん、とは言わないでおこう。古傷を抉るほどぼくは鬼じゃない。
「要するに、どうやって女をそこら辺のラブホに連れ込むのかって話だろう?」
聞く人間を間違えたようだ。
電話を切ろうとするぼくに、御堂は慌てて「冗談だ」と言った。
「御堂、一つ言っておくけど、ホテルはきちんと選んだ方が女子受けいいらしい。中西の言葉だ」
「誰だよっ! そんなヤツのアドバイス信用できねえだろう」
「お前も変わらんっ!」
そうして通話を切ったぼくは、あらためて頭を抱えた。
駄目だ。ぼくの周りの男はまともな人間がいない。
気軽に相談できる相手なんて他に思いつかなかったので、やはり最終手段のネットに頼る事にした。
初詣 デートスポット
これでググると、先人の知恵の集積がお目見えする。
しかし、こういうデートスポットとかの紹介記事を見ていると、なんだかやたらとべた褒めしていて、サクラなんじゃないかって疑いたくなるのは、ぼくの心が荒んでいるからだろうか。
まあいい。使える情報とそうでないものを見極める能力なら、それなりに自信があるつもりだ。久しぶりに本気を出して情報を取捨選択しながら、計画を練っていった。
結果、気付くと明け方近くまで時間を使ってしまった。まあ、後半はなぜか行き着いたアニメ動画を見る事に時間を要したんだけどね。
体力的に限界に達したぼくは、スマホを手にし、石神さんに連絡を入れる。ネットでは年明けの瞬間を一緒に迎える二年参りがロマンチックと書かれていたので、それを提案すると、数時間してから返信があり、『オッケ』と短い文章が帰ってくる。
ホッと胸を撫でおろしたぼくは、時間と場所を指定し、そこで限界に達した。
ベッドに倒れ込むと、そのまま深い眠りにつく。
ーーーーーーーーーーーーーー
朝目覚めると、間久辺から連絡が入っていて、内容を確認すると今日の夜中から出かけて二年参りしようと考えているんだけど、大丈夫かとの事。ウチは朝ご飯食べながら、お母さんにその事を伝える。お父さんに言うと口うるさく言ってくるから、大事な事でもお母さんを経由して話すのが多いのよね。読者モデルを始めたときだって、お父さんには完全に事後報告で、後から口喧嘩になったっけ。心配してくれてるのはわかるけど、それでもウザいのは変わりない。
お母さんから、「夜中になにしに行くのよ?」と聞かれ、初詣と答える。
ウチも浮かれてたのかな。言わなくてもいいのに、彼氏とデートに行くなんて言っちゃったものだから、面白がったお母さんが余計な事言っちゃって、リビングでニュースを見ていたお父さんが平静を装いながら、息巻いてやってくる。
食卓のテーブル。定位置であるウチの斜め向かい側に座ったお父さんは、おもむろに口を開く。
「冴子。交際してる相手ってどんな男だ」
「は? 関係なくない?」
「娘に関することで、父親が関係ない事なんて一つもない」
「ウザ」
吐き捨てるようにそう言うと、ダイニングキッチンで洗い物をしていたお母さんから、「そういう事言わないの」とお説教され、渋々頷く。
お父さんの方を向いて、質問に答える事にした。
「クラスメイト。真面目なやつだよ」
「本当か? 悪いけど、父さんには冴子がつるむ男に真面目な学生がいるとは思えないんだが」
一応、お母さんがフォローに入ってくれる。
昨日遊びに来た百合とは以前から何度か顔を合わせているため、真面目な友人もいると言ってくれる。
それでも、お父さんは信用してくれない。
頭にきたウチは、聞き流せばいいのに、反論してしまう。
「そういうのマジムカつくんだけど。つかさ、お父さんに間久辺のなにがわかるの?」
「知る訳ないだろう。会った事もないんだから」
「そうじゃん。知る訳ないんだからさー、好き勝手な事言わないでよ」
そこで、ニヤリとほほ笑んだお父さんを見て、ウチは失敗してしまったと後悔した。
仕事の取引なんかで口が鍛えられてる相手に、口論で勝てるはずがなかった。
「それなら、会わせてくれよ。丁度いい。初詣に行くんだろう? 迎えに来てもらうときに、挨拶させなさい」
間久辺とお父さんを会わせる?
頭の中で軽くシュミレーションしてみたけど、どう考えたってあの挙動不審な間久辺がまともに挨拶なんてできるとは思えない。
「無理っ」
咄嗟に出た言葉を補うように、ウチは待ち合わせ場所がある事を告げる。間久辺は家まで迎えに来ないから、会わせられない。残念だなーって。
すると、「帰りでいいじゃないか」と食い下がってくるお父さん。
「まさか、年頃の娘を家まで送り届けないなんて真似、真面目な男がする訳ないもんな。何時でもいい。今夜は朝まで起きているつもりだから、戻ったら呼びなさい。それが出かける条件だ」
あー、もうこうなったらテコでも動かないのがこの人だ。
観念したふりをして、間久辺には会わないで帰ってもらっちゃう事もできるんだけど、そうなると後が面倒なのよね。男のくせに粘着質だからな、我が家の大黒柱は。
そうなると、会わせるしかないか。
間久辺、ごめん。なんかいきなり大変な試練与えちゃったみたいだわ。
ーーーーーーーーーーーーーーー
夜八時過ぎまで眠っていたぼくは、風呂に入り体を清め、新年を迎える準備を済ませると、用意していた一張羅を身に付ける。なんて、ただのジーンズにパーカー、その上に厚手のダウンジャケットを羽織っただけなんだけど、とりあえず準備オッケーだ。
例年なら、リビングでお笑いの年越しバラエティーを居合わせた妹と見るのが通例となっていたため、身支度を整えて玄関に向かうぼくを見た絵里香は、不思議そうに首をひねった。出てきた言葉が「コンビニ? だったらアイス買ってきて」だった事に、ぼくはガクッと肩が落ちる。
「この寒い中アイス食べるの?」
「暖かい部屋で食べるからいいじゃん」
「そっか。でも、アイスは諦めてくれ。これから約束あるんだ」
「へー、またオタク仲間で集まるの?」
「残念。今日は違うんだな。石神さんと初詣に行く約束しているんだ」
「はぁ!? なんで兄貴が冴子ちゃんと初詣なんて行く事になるの? まさか、二人きりじゃないよね?」
「そのまさかなんだな。なんたってぼくら、付き合う事になったからさ」
おっと、いつまでも長話していたら時間に遅れてしまう。
ピシッと廊下で固まる妹を無視して家を出た。
約束の場所は西口駅前。ただでさえ賑わう駅前は、夜の十時を過ぎても大晦日の夜の補正がかかり大勢の人で溢れていた。電話で石神さんに居場所を伝えながら探していると、すぐに彼女を見つける事ができた。というのも、周囲の男たちの視線を辿っていった先に彼女の姿があっただけの事なのだが。
少し離れた位置から、こちらに歩いてくる彼女の姿を見ていると、あらためてその容姿に見とれてしまう。
「ん、どうかした?」
彼女を見つめたまま微動だにしないぼくに、石神さんは首を捻った。
我に返ったぼくは、いまさら繕う必要もないだろうと思い、正直に見とれていた事を告げる。
すると、石神さんは一瞬面食らったように目を見開いたが、すぐに笑顔になった。
「ありがと」
それから、改札を抜けて電車に乗り込み、東京方面を目指す。
ただの初詣なら、地元の神社とかでもよかったのかもしれないが、知り合いに会うのは面倒だし、それにネットで調べたおすすめスポットに行ってみたいという気になっていたのだ。
電車に揺られながら、人の多い車内で彼女を壁際に立たせてぼくはつり革に掴まる。これから行く神社を告げると、彼女はネットでその場所を調べていた。
「屋台もあるみたいだし、着いたらなにか食べよっか。良さそうな場所だね」
「本当? 石神さんがそう言ってくれるなら、安心した」
「なんで? ウチが文句でも言うと思ったの? そんなの言う訳ないじゃん。だって、間久辺、いっぱい調べてくれたんでしょう?」
うっ、バレている。
「あ。もしかして気付かれてないとか思ってたの? そんなのわかるって。だって、あんたから連絡あったの明け方じゃん。あれって、その時間までいろいろと調べてくれてたからなんでしょう?」
「そうとは限らないよ。一晩中ゲームに熱中してた可能性だってある」
「まあそうね。でも、否定しないって事は調べてくれてたんでしょう?」
駄目だ。ぼくよりも石神さんの方が一枚上手みたいだ。
車中、常時緊張状態のぼくとは対照的に、からかうような言動で翻弄してくる石神さんに、ぼくはタジタジだ。
ようやく目的の駅に到着し、下車すると、そこから歩いて神社に向かう。
「やー、結構人通り多いね。これ、みんな参拝客なのかな?」
そう言いながら歩き出すぼくの手を掴んで、立ち止まらせる彼女。
驚き、振り返ったぼくは、少し不満そうな石神さんの顔を見て、それから握られている手に目をやる。
ああ、気付かれてしまったのか。
通りを歩く人の多くはカップルばかり。というのも、これから向かう神社は縁結びで有名な場所だ。どうやら、その事を石神さんに見抜かれてしまったらしい。
「みんなくっついてるのに、不自然じゃん。ウチらだって恋人なんだしさ」
そうだね、と答え、ぼくは彼女の手を握り返した。
そうして、無言で道をゆっくりとした歩みで進む。だけど、その無言は居心地の悪いものではなく、ぼくらを穏やかに包み込んでいるように感じられる。
やがて、人の群れが吸い込まれる鳥居が見えてきて、ぼくたちは中に入る。立ち並ぶ屋台を横目に見ながら、思ったよりも人で溢れる境内を進む。すると、なにか不思議に感じたのか、石神さんはぼくの手を引っ張って振り返らせる。
「ねえ、なんかおかしくない?」
「そうかな? そんな事、ないと思いますけど」
「なんで敬語だし」
「いえ、別に深い意味はないです」
「……怪しい」
そう言いながら、周囲を見渡す石神さん。
その間、心臓が、バクンバクンと音を立てているのがわかる。
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「ねえ。ここって縁結びで有名なんだよね? その割には、カップルと同じくらいの割合で、あんたの同類っぽい連中の姿が見受けられるんだけど」
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「へえ。夜遅くまでウチのために調べてくれたんだって思って関心してたんだけど、そうなんだ。ここ、あんたが趣味で来たかった場所なのね。ふぅん」
そして、追い詰めるみたいに、もう一歩ぼくとの距離を詰めると、サイテー、と白んだ目を向けてくる。
うっ。あまりの圧力に、外気温に反して背筋を汗がつたい、思わず後ずさる。
久々登場、小動物センサーがビンビンに反応している。
そんな怯えるぼくを見て、くっ、と堪え切れなくなったように吹き出す彼女。
「冗談よ。怒ってない。なんか、あんたらしくて笑えるし」
そう言って、相貌を崩した石神さんを見て、ぼくは心から安堵した。
それと同時に、自分の血中にまで染み込んだオタク魂がふつふつと熱くなる。
ぼくがこの聖地に訪れた証を残したい。流石にグラフィティを残す訳にはいかないので、この抑えきれない衝動を別の形でぶつける事にする。ネット上でアップされていた、アニメのキャラクターが描かれた痛絵馬を見て、ぼくも描きたいと思ってわざわざこの場所まで足を運んだのだ。
ひゃっほー、突撃ー!
ぼくはダッシュで絵馬を購入、持ってきたフェルトペンでお気に入りのキャラクターを描き、横に文字を添える。
『ぼくの嫁』と。
「天誅!」
そう言って、いきなり頭を叩かれた。
何事かと振り返ると、いつの間にか後ろに立っていた彼女が手刀の形で手を持ち上げたまま、ぼくを睨んでいた。
「そいつ、あんたの嫁? それじゃあウチは? 不倫相手?」
「あはは、面白い事言うね」
笑うぼく。あはは、はは、は……あれ、おかしいぞ。彼女、ぜんぜん笑わない。
それどころか、彼女の目から光彩が消えた。
これは笑うところではないのだと判断したぼくは、頭を下げながら何度も謝った。
「調子に乗り過ぎましたっ!」
「あんさー。いまさらあんたの趣味にとやかく言うつもりはないし、あんたのキモいのが治るとも思ってないけど、場所と状況だけは弁える事。わかった?」
マジ説教されてしまったぼくは、項垂れながら頷く。
「反省してます」
「は? その程度?」
ギラリと彼女の目が光り、慌てて言い直す。
「猛省しておりますっ!」
ひたすらに謝る姿は、まるで中間管理職みたいだと他人事のように思った。
ようやく彼女の機嫌も治り、そんなこんなで、ようやく落ち着いて参拝する事ができるようになった。
神前で二拝二拍手一礼をする、というのが通例のマナーだけれど、見ていると若者が多い事もあって、実際にやっている人をあまり見かけない。石神さんも特にやる素振りを見せなかったので、ぼくもお賽銭だけ投げて、普通に願い事をした。
参拝客の群れから外れたぼくらは、さっきから、他愛ない会話に花を咲かせる。ときどきぼくも日常的に起きた面白い話なんかをして盛り上げた。不思議な気分だ。女子と話をするなんて、ぼくが最も苦手とする事だったはずだ。まして、相手はあの石神さん。それが、どういう因果かこうして付き合うことになり、笑い合っている。
おっと、因果って表現はおかしいか。実際問題、彼女と過ごす時間は楽しい訳だしね。
それに、ここは神社で神道だ。運命、って言葉に置き換えたらいいのかな。なんて、少し照れる。
さて、運命と言えばやはり外せないイベント。おみくじ。
どちらからともなく、「引こうか?」という話になり、ぼくらは社務所でお金を払って札を引いた。書かれている数字を伝え、おみくじを受け取ると、最初はお互いに自分のだけを見る。
ぼくはというと……『凶』っ!?
うーわ、なにこれ、下がるわー。本当に入ってるんだ。っていうか、宗教法人もサービス業の精神を見習うべきだよね。いいじゃない運試しなんて全部『大吉』入れておいてくれたら。
そう憤りながら、隣の石神さんのおみくじを見ると、『大吉』。
これだよ。持って生まれた人間と、そうでない人間の差。
石神さんは、大吉を引き当てる事に慣れているとでも言うように、大したリアクションを示さなかった。それなのに、ぼくのおみくじを見ると「ありえないっ」って言ってケタケタ笑う。人の不幸を笑うんじゃないよ、まったく。
そんな風に不貞腐れていると、彼女は目じりの涙を拭った。
「丁度いいじゃない? ウチが大吉で、あんたが凶」
「ぜんぜん良くなくない?」
「だって間を取ったら『吉』じゃん。ウチ、大吉よりも吉の方が好きだなー。だって、いまが一番幸福、みたいに決めつけられるより、これから、もっと幸せになれる余地がある吉の方がいい」
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これから先、きっともっと楽しい事が待っているだろうから。
「うん、そう。だから忘れない事。いい? あんたにはウチが必要なの。あんたひとりだったら不幸でも、ウチが引っ張りあげて、嫌でも幸せにしてあげる」
ビシッと人差し指を立てて、ぼくを指差した石神さん。
ぼくは思わず笑みをこぼした。
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彼女の指を掴んで解きほぐし、重ねるように手を握ったぼくは、そしてこう言った。
「よろしく、お願いします」と。
その瞬間、まるで、示し合わせたように周囲の盛り上がりが最高潮になる。
そして、すぐに新しい年を迎えたのだと理解した。
ぼくは改めて、「今年もよろしくお願いします」と言い直した。
恥ずかしそうに俯いていた石神さんは、「こちらこそ、よろしく」と、顔を隠すように小さく会釈した。
だが、新年を祝う歓喜の声の中で、頭の片隅にちらつく影。
おみくじに書かれていた項目の中に、『失せ物』というものがあり、『喪失に注意』と書かれていた。いま、目の前にこうして居るからかもしれないが、喪失という言葉を聞いて、真っ先に思い浮かぶのは石神さんの姿だ。それだけ、ぼくは彼女を失いたくないと思っている。
そして、おみくじにはこうも書かれていた。『誠意に応えよ』と。
誠意。彼女の誠意に、ぼくは応えられているだろうか。
自分のもう一つの姿。
線引屋としての自分。
それをひた隠しにしたまま、これからも彼女と接していく事になるというのに……。
そんな事を考えてしまったために、幸せな時間を過ごしているにも関わらず、心の中に一滴の黒いインクが垂れたように影がさす。黒は、すべてを飲み込んでしまう色だ。
ぼくは、漠然とした不安を誤魔化すように、彼女の手を握る力を、ほんの少しだけ強めた。
「あ、そう言えば」
石神さんが、なにかを思い出したようにそう切り出した。
なんだ? この状況、物語なら幕間でカーテンが閉まるような場面だぞ。
それくらいシリアスなモノローグっぽい心境が台無しになるほど、彼女の口調は軽かった。
「言い忘れてたけど、ウチのお父さんが、帰り挨拶に来なさいだって。どうする?」
「ええぇっ!?」
なにそれ、聞いてないにもほどがある。
「あ、ちなみにウチのお父さん、高校時代柔道で全国大会三位だって。得意技は、払い腰と見せかけての支え釣り込み足らしいよ」
字面からどんな技か想像もできない攻撃を二発も繰り出されるのかな、ぼく。
さっきのおみくじに書かれていた『失せ物』って、まさかぼくの命じゃないよね?
そうでない事を祈りながら、一応、アドバイスにあったように、誠意に応える努力だけはしようと心に決めた。
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