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モロビトコゾリテ
モロビトコゾリテ編 完
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さまようみたいにライズビルを出て、辺りをぶらついた。周囲の喧騒のやかましさに苛立ちすら覚える。
「あ、そうだ」
スマホで時間を確認すると、既に時刻は五時を回っていた。画面には着信ありの文字が出ている。
とてもクリスマスパーティーなんかに参加する気分になれなかったぼくは、着信相手である石神さんに電話をかけ、断ることにした。
ワンコールで出た彼女は、『遅いっ!』と第一声から怒鳴ってきた。
『なにやってるのよ。いつ着くの?』
ごめん、行けそうにない。
そう言おうとしたとき、冷たい風が吹きすさび、思わず身震いしてしまう。その強い風の音は、受話器の向こうからも聞こえた。
「もしかして石神さん、いま外にいるの?」
『そ、そうよ』
「なんで? こんなに寒いのに」
『だってしょうがないじゃないっ、あんたが来てないんだから! 寒いのわかってるなら、早く来なさいよね!』
ああ、そうか。彼女はぼくが来ていないことを知り、店がわからないのではないかと気遣い店の前で立ってくれているんだ。
それを思うと、いてもたってもいられなくなる。
「すぐに向かうよ」
そう言って、カラオケボックスに到着するまで現在地から二分もかからなかった。石神さんの姿が見えて、彼女もぼくの姿を発見しても、お互いに電話を切らない。通話をやめたのは、触れ合えるくらいの距離に近付いてからだった。
『遅刻罰金……は可哀想だから、今度代わりになんでもいいからプレゼント頂戴。クリスマスなんだしさ』
冗談めかしてそう言ってから、カラオケボックスに入ろうとする石神さん。
ぼくはその腕を掴んで、引き留めた。
驚きに満ちた表情で振り返った石神さんは、疑問に顔を歪ませながら、それを口には出さなかった。ぼくの表情からなにかを読み取ったのか、「どっかで少し休もっか?」と告げる。
ぼくは頷き、彼女に従った。
駅前を二人で歩きながら、話す言葉はない。
どこかの店から聞こえてくる、クリスマスソングの音色だけが、二人の沈黙を埋めていた。
その音楽には聞き覚えがあった。それも当然。ついさっき、合唱団が歌っていた『もろびとこぞりて』。歌詞のない音楽だけだが、聞き違えるはずがない。
その音楽に耳を傾けていたのはぼくだけではなかった。石神さんが口を開くと、鼻歌混じりにこの曲のタイトルを口にする。
「これ聞くと、クリスマスって感じするわよね。『たみみなよろこべ』」
「え?」
驚きのあまり声が大きくなってしまったぼくに、石神さんも釣られて声が大きくなる。
「なに、間久辺、知らないの?」
「いや、この曲は知ってる。だけど、タイトル『もろびとぞりて』じゃないの? だって、美果ちゃんもそう歌っていたし……」
「ああ、そうか。普通は知らないのかもね。ウチが通ってた幼稚園がクリスチャン系のところだったから、讃美歌ってよく歌ったのよ。ああ、懐かしいな。そこでね、教わったんだけど、この曲は同じ音楽に、別々の歌詞をつけたものが存在するのよ。それが『もろびとこぞりて』と『たみみなよろこべ』って訳」
知らなかった? と聞かれ、ぼくは頷く。
これは、なんて皮肉なタイトルだろうか。あれだけ多くの人を感動させる歌声を届けながら、たった一人、聞いて欲しい母親に届かなかった少女。それなのに、この曲のもう一つのタイトルが、民皆喜べ、だって?
「……喜べるわけ、ないじゃないかっ」
思わず吐き出した苛立ちに、だけど石神さんは嫌な顔一つせずに付き合ってくれた。
「ねえ、間久辺。なにがあったかよくわからないけど、さっき言ってた美果ちゃんって、昨日ファミレスに一緒にいた女の子のことでしょう?」
ぼくは、逡巡の末に頷いた。わざわざ話すことではないが、嘘を吐くようなことでもない。
「なるほどね。あんたはあの女の子の力になれなくて悔しい思いをしている。そうなんでしょう?」
「な、なんでそんなことわかるのさ?」
さすがに驚いてそう聞くと、石神さんは簡単なことだと言って答えた。
「だって、普段からあんたのこと見てるから」
だから、ぼくの表情を見れば、落ち込んでいることくらいお見通しなのだと、彼女は言った。
やがて、ぼくらが歩きついた先は、人通りの少ないコインパーキングの前の歩道だった。歩道と車道を区切るガードレールに二人並んで腰をかけた。
「ねえ、間久辺。あんたのことだから、やれることやったんでしょう? あの子に喜んで欲しいって、全力を尽くしたんでしょう? だったら、その気持ちはきっと伝わってるよ」
そして石神さんは話してくれた。
昨日、ぼくらがファミレスで会ったときのことを。
あのとき、石神さんに殴られ、ファミレスのトイレの前の床に倒れたぼくを、美果ちゃんは心配そうに見ていたそうだ。
「あの子はとっても優しい子だよ。だから、あんたの善意に気付いていないはずがない。ううん、あの子だけじゃない。昨日集まってた人たち。みんな、あんたに助けられた人なんでしょう? あの慕われ方見てれば、なんとなくわかるよ。だってーーー」
ーーーウチもその一人だもん。
「ねえ、間久辺。そんな悲しい顔しないで。あんたの優しさは全員に伝わってる。あんたの友達にも、美果ちゃんにも、もちろんウチにだって。だから、きっとみんな願っているんだ。あんたがどうか無事であれって。それこそ、さっき流れていた曲じゃないけど、あんたに助けられた全員ーーー民皆、喜べって、あんたの幸せを願ってるのよ」
ぼくは、その言葉を受けて、体が自然と動いていた。
手を伸ばし、彼女の細い腕を掴む。引き寄せると、まるで人形のような軽さに驚かされた。そして、引き寄せた力をそのまま胸で受け止めた。
ぼくの腕の中に収まった石神さんは、
「ちょっ、ちょっとなによいきなりっ」
そう言いながら、なにごとかと戸惑い、あたふたと身動ぎしていた。
だが、なにかに気付いたのか、その焦りは消え、そっと息を吐いて、優しくぼくの背中に腕を回してくる。
気付かれたくないから、見えないように抱き締めたのに、声を押し殺すことまではできずに、すぐに気付かれてしまった。
ぼくは、美果ちゃんの心の内を知ってしまい、思わず込み上げてきた涙を止めることができなかった。あの子は、最後にありがとうと言ったんだ。ぼくがやった気休めにもならない行為が、彼女の願いを叶えることなんてない。あの子は頭が良いから。だから、もちろん美果ちゃんだってそのことに気付いていたはずだ。それでも彼女は、笑顔でぼくに礼を言ったんだ。小学生の子供が母親と一緒にクリスマスを過ごすことができないなんて、本当は辛いはずなのに、ぼくのことを気遣って、笑顔を作ってみせた。ありがとう、と言って。
『諸人こぞりて』
昨日集まったぼくの友人たち。彼らは願っていると、石神さんは言った。
『民皆、喜べ』
みんな、ぼくの無事を祈りながら、喜びを願っているのだと言った。ならば、ぼくの喜びとはなんだ。
そんなの決まっている。大切な友人や仲間、家族が幸せであること。そして、
「ねえ、石神さん」
「なに? あんたが泣いてたことなら、黙っていてあげる。だからもう少しこのままでもいいよ」
そう言って、ぼくの胸に顔を埋める石神さん。
まるで人の体をカイロかなにかに使っているみたいだ。
「そうじゃなくてさーーー」
と、言葉を否定したぼくは、いまの気持ちを素直な言葉にして彼女に届けたいと思った。口を開くと、言葉が自然に込み上げてきた。
「ーーー石神さん、好きだよ」
「は、はぁっ!?」
白い息と共に、驚きのあまり腕からすり抜けた石神さん。いつもの落ち着いた様子からは想像できないくらい、慌てふためいていた。
その様子を見て、ぼくは思わずこぼれた笑みを隠さなかった。
「はっ! あんたまさか、ウチをからかってるのっ?」
そう言って今度は怒り出す彼女。
焦ったり怒ったり、忙しい人だな。
そう思い、ため息を一回吐いて、ぼくは彼女の肩に手を置く。そして、再びそっと引き寄せた。抵抗しようと思えばできるはずなのに、石神さんは流れに身を任せ、ぼくの胸にもう一度体を預けた。
「いきなりでごめんね。混乱させて、ごめん。だけど、これがぼくの願いなんだ。いつからかわからないけど、君の隣にいたいって強く思うようになってた。気付いたら石神さん、君がなにより大切な存在になっていたんだ」
ぼくの願いーーーそれはきっと、愛する人の側にいること。それこそがぼくの喜びだ。
ぼくの耳元で、吐息とともに小さく「うん」ともらした石神さんは、それ以上の言葉を口にしなかった。ただ、ぼくの背中に回した腕に、ほんの少し込められた力が、言葉よりもなによりも、如実に答えを示しているように感じられてならなかった。
ーーーーーーーーーーーーーーー
それから、二日が経過したが、相変わらずぼくの心にはもやがかかっていた。
その間、石神さんから誘いの電話をもらったが、理由をつけて断った。それがデートの誘いというよりも、落ち込んでいるぼくを励ますためのものだとわかっていても、気分が乗らなかった。
石神さんと話していると、告白した気恥ずかしさはいまだに残っていたが、それ以上にまだ美果ちゃんのことが頭を支配していた。
あの子は、一生懸命歌を練習して、果たして誰にその歌声を聞かせたかったのだろうか。あの会場に集まった大勢ではなく、きっとただ一人に聞いてもらいたかったに違いない。それを思うと、どうしたって気持ちは沈んだ。
このままではいけないと思い、テレビを点けた。
昼間の、お笑い芸人ばかり出演するバラエティーのような情報番組をBGM代わりに物思いにふけっていると、そのテレビ番組から聞き覚えのある歌声が聞こえてきた。
横たわっていたベッドから慌てて身を起こし、画面に注視すると、そこには二日前にこの目で見た合唱団の舞台がテレビ画面から流れていたのだ。
それは、情報番組の一企画である、一般の投稿動画コーナーというもので、幻想的な美しい光景の中で美声を届ける歌姫という題名で紹介されていた。
一般人である投稿者がスマホで撮影した映像は、手振れなどが激しく、所々雑音も入っていたが、それでも近年のスマホ内臓カメラの発達は凄まじく、映っているのが美果ちゃんだとはっきりわかった。
その映像を見ているぼくの顔は、きっと呆けていたことだろう。心の中を占めていたのは、たった一つの想いだけだった。
ああ、どうか、あんなにも一生懸命歌った小さな少女の願いが、叶いますように。
全国の大勢の人をこうして魅了したように、少女が届けたいと願った、たった一人が、どこかでこの映像を目にしますように。それだけをぼくは、ただ願った。
「あ、そうだ」
スマホで時間を確認すると、既に時刻は五時を回っていた。画面には着信ありの文字が出ている。
とてもクリスマスパーティーなんかに参加する気分になれなかったぼくは、着信相手である石神さんに電話をかけ、断ることにした。
ワンコールで出た彼女は、『遅いっ!』と第一声から怒鳴ってきた。
『なにやってるのよ。いつ着くの?』
ごめん、行けそうにない。
そう言おうとしたとき、冷たい風が吹きすさび、思わず身震いしてしまう。その強い風の音は、受話器の向こうからも聞こえた。
「もしかして石神さん、いま外にいるの?」
『そ、そうよ』
「なんで? こんなに寒いのに」
『だってしょうがないじゃないっ、あんたが来てないんだから! 寒いのわかってるなら、早く来なさいよね!』
ああ、そうか。彼女はぼくが来ていないことを知り、店がわからないのではないかと気遣い店の前で立ってくれているんだ。
それを思うと、いてもたってもいられなくなる。
「すぐに向かうよ」
そう言って、カラオケボックスに到着するまで現在地から二分もかからなかった。石神さんの姿が見えて、彼女もぼくの姿を発見しても、お互いに電話を切らない。通話をやめたのは、触れ合えるくらいの距離に近付いてからだった。
『遅刻罰金……は可哀想だから、今度代わりになんでもいいからプレゼント頂戴。クリスマスなんだしさ』
冗談めかしてそう言ってから、カラオケボックスに入ろうとする石神さん。
ぼくはその腕を掴んで、引き留めた。
驚きに満ちた表情で振り返った石神さんは、疑問に顔を歪ませながら、それを口には出さなかった。ぼくの表情からなにかを読み取ったのか、「どっかで少し休もっか?」と告げる。
ぼくは頷き、彼女に従った。
駅前を二人で歩きながら、話す言葉はない。
どこかの店から聞こえてくる、クリスマスソングの音色だけが、二人の沈黙を埋めていた。
その音楽には聞き覚えがあった。それも当然。ついさっき、合唱団が歌っていた『もろびとこぞりて』。歌詞のない音楽だけだが、聞き違えるはずがない。
その音楽に耳を傾けていたのはぼくだけではなかった。石神さんが口を開くと、鼻歌混じりにこの曲のタイトルを口にする。
「これ聞くと、クリスマスって感じするわよね。『たみみなよろこべ』」
「え?」
驚きのあまり声が大きくなってしまったぼくに、石神さんも釣られて声が大きくなる。
「なに、間久辺、知らないの?」
「いや、この曲は知ってる。だけど、タイトル『もろびとぞりて』じゃないの? だって、美果ちゃんもそう歌っていたし……」
「ああ、そうか。普通は知らないのかもね。ウチが通ってた幼稚園がクリスチャン系のところだったから、讃美歌ってよく歌ったのよ。ああ、懐かしいな。そこでね、教わったんだけど、この曲は同じ音楽に、別々の歌詞をつけたものが存在するのよ。それが『もろびとこぞりて』と『たみみなよろこべ』って訳」
知らなかった? と聞かれ、ぼくは頷く。
これは、なんて皮肉なタイトルだろうか。あれだけ多くの人を感動させる歌声を届けながら、たった一人、聞いて欲しい母親に届かなかった少女。それなのに、この曲のもう一つのタイトルが、民皆喜べ、だって?
「……喜べるわけ、ないじゃないかっ」
思わず吐き出した苛立ちに、だけど石神さんは嫌な顔一つせずに付き合ってくれた。
「ねえ、間久辺。なにがあったかよくわからないけど、さっき言ってた美果ちゃんって、昨日ファミレスに一緒にいた女の子のことでしょう?」
ぼくは、逡巡の末に頷いた。わざわざ話すことではないが、嘘を吐くようなことでもない。
「なるほどね。あんたはあの女の子の力になれなくて悔しい思いをしている。そうなんでしょう?」
「な、なんでそんなことわかるのさ?」
さすがに驚いてそう聞くと、石神さんは簡単なことだと言って答えた。
「だって、普段からあんたのこと見てるから」
だから、ぼくの表情を見れば、落ち込んでいることくらいお見通しなのだと、彼女は言った。
やがて、ぼくらが歩きついた先は、人通りの少ないコインパーキングの前の歩道だった。歩道と車道を区切るガードレールに二人並んで腰をかけた。
「ねえ、間久辺。あんたのことだから、やれることやったんでしょう? あの子に喜んで欲しいって、全力を尽くしたんでしょう? だったら、その気持ちはきっと伝わってるよ」
そして石神さんは話してくれた。
昨日、ぼくらがファミレスで会ったときのことを。
あのとき、石神さんに殴られ、ファミレスのトイレの前の床に倒れたぼくを、美果ちゃんは心配そうに見ていたそうだ。
「あの子はとっても優しい子だよ。だから、あんたの善意に気付いていないはずがない。ううん、あの子だけじゃない。昨日集まってた人たち。みんな、あんたに助けられた人なんでしょう? あの慕われ方見てれば、なんとなくわかるよ。だってーーー」
ーーーウチもその一人だもん。
「ねえ、間久辺。そんな悲しい顔しないで。あんたの優しさは全員に伝わってる。あんたの友達にも、美果ちゃんにも、もちろんウチにだって。だから、きっとみんな願っているんだ。あんたがどうか無事であれって。それこそ、さっき流れていた曲じゃないけど、あんたに助けられた全員ーーー民皆、喜べって、あんたの幸せを願ってるのよ」
ぼくは、その言葉を受けて、体が自然と動いていた。
手を伸ばし、彼女の細い腕を掴む。引き寄せると、まるで人形のような軽さに驚かされた。そして、引き寄せた力をそのまま胸で受け止めた。
ぼくの腕の中に収まった石神さんは、
「ちょっ、ちょっとなによいきなりっ」
そう言いながら、なにごとかと戸惑い、あたふたと身動ぎしていた。
だが、なにかに気付いたのか、その焦りは消え、そっと息を吐いて、優しくぼくの背中に腕を回してくる。
気付かれたくないから、見えないように抱き締めたのに、声を押し殺すことまではできずに、すぐに気付かれてしまった。
ぼくは、美果ちゃんの心の内を知ってしまい、思わず込み上げてきた涙を止めることができなかった。あの子は、最後にありがとうと言ったんだ。ぼくがやった気休めにもならない行為が、彼女の願いを叶えることなんてない。あの子は頭が良いから。だから、もちろん美果ちゃんだってそのことに気付いていたはずだ。それでも彼女は、笑顔でぼくに礼を言ったんだ。小学生の子供が母親と一緒にクリスマスを過ごすことができないなんて、本当は辛いはずなのに、ぼくのことを気遣って、笑顔を作ってみせた。ありがとう、と言って。
『諸人こぞりて』
昨日集まったぼくの友人たち。彼らは願っていると、石神さんは言った。
『民皆、喜べ』
みんな、ぼくの無事を祈りながら、喜びを願っているのだと言った。ならば、ぼくの喜びとはなんだ。
そんなの決まっている。大切な友人や仲間、家族が幸せであること。そして、
「ねえ、石神さん」
「なに? あんたが泣いてたことなら、黙っていてあげる。だからもう少しこのままでもいいよ」
そう言って、ぼくの胸に顔を埋める石神さん。
まるで人の体をカイロかなにかに使っているみたいだ。
「そうじゃなくてさーーー」
と、言葉を否定したぼくは、いまの気持ちを素直な言葉にして彼女に届けたいと思った。口を開くと、言葉が自然に込み上げてきた。
「ーーー石神さん、好きだよ」
「は、はぁっ!?」
白い息と共に、驚きのあまり腕からすり抜けた石神さん。いつもの落ち着いた様子からは想像できないくらい、慌てふためいていた。
その様子を見て、ぼくは思わずこぼれた笑みを隠さなかった。
「はっ! あんたまさか、ウチをからかってるのっ?」
そう言って今度は怒り出す彼女。
焦ったり怒ったり、忙しい人だな。
そう思い、ため息を一回吐いて、ぼくは彼女の肩に手を置く。そして、再びそっと引き寄せた。抵抗しようと思えばできるはずなのに、石神さんは流れに身を任せ、ぼくの胸にもう一度体を預けた。
「いきなりでごめんね。混乱させて、ごめん。だけど、これがぼくの願いなんだ。いつからかわからないけど、君の隣にいたいって強く思うようになってた。気付いたら石神さん、君がなにより大切な存在になっていたんだ」
ぼくの願いーーーそれはきっと、愛する人の側にいること。それこそがぼくの喜びだ。
ぼくの耳元で、吐息とともに小さく「うん」ともらした石神さんは、それ以上の言葉を口にしなかった。ただ、ぼくの背中に回した腕に、ほんの少し込められた力が、言葉よりもなによりも、如実に答えを示しているように感じられてならなかった。
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それから、二日が経過したが、相変わらずぼくの心にはもやがかかっていた。
その間、石神さんから誘いの電話をもらったが、理由をつけて断った。それがデートの誘いというよりも、落ち込んでいるぼくを励ますためのものだとわかっていても、気分が乗らなかった。
石神さんと話していると、告白した気恥ずかしさはいまだに残っていたが、それ以上にまだ美果ちゃんのことが頭を支配していた。
あの子は、一生懸命歌を練習して、果たして誰にその歌声を聞かせたかったのだろうか。あの会場に集まった大勢ではなく、きっとただ一人に聞いてもらいたかったに違いない。それを思うと、どうしたって気持ちは沈んだ。
このままではいけないと思い、テレビを点けた。
昼間の、お笑い芸人ばかり出演するバラエティーのような情報番組をBGM代わりに物思いにふけっていると、そのテレビ番組から聞き覚えのある歌声が聞こえてきた。
横たわっていたベッドから慌てて身を起こし、画面に注視すると、そこには二日前にこの目で見た合唱団の舞台がテレビ画面から流れていたのだ。
それは、情報番組の一企画である、一般の投稿動画コーナーというもので、幻想的な美しい光景の中で美声を届ける歌姫という題名で紹介されていた。
一般人である投稿者がスマホで撮影した映像は、手振れなどが激しく、所々雑音も入っていたが、それでも近年のスマホ内臓カメラの発達は凄まじく、映っているのが美果ちゃんだとはっきりわかった。
その映像を見ているぼくの顔は、きっと呆けていたことだろう。心の中を占めていたのは、たった一つの想いだけだった。
ああ、どうか、あんなにも一生懸命歌った小さな少女の願いが、叶いますように。
全国の大勢の人をこうして魅了したように、少女が届けたいと願った、たった一人が、どこかでこの映像を目にしますように。それだけをぼくは、ただ願った。
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