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Beautiful spirit
Beautiful Spirit編 完
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絵里加はぼくの顔を見るなりこう言った。
「警察に通報するからっ!」
妹の叫び声に、ぼくはビクッと体が跳ね上がる。
兄を警察に売り渡すつもりかマイリルシスター!
と、内心で軽口を唱えていると、絵里加は実際にスマホに手を伸ばす素振りを見せ、ぼくは慌てて止めに入る。
「本当、大丈夫だから。ちょっと遊びで熱くなっちゃっただけだから!」
ぼくの顔の腫れーーー甲津侭に殴られた所は、一週間経ったいまでも完全には治まっていない。殴られた翌日ならば尚のこと腫れはひどかっただろう。絵里加が心配になるのも頷けた。だが、シャッターにグラフィティを描いた直後はヘトヘトで、家に帰れば妹から激しい追及を受けるし、両親も、中学時代のいじめのことを思い出したのか、プチ家族会議が開かれ、言い訳するのに苦労した。
最終的に、『バトル漫画に憧れ過ぎて友達と模擬戦闘していたら、キレイに顔に入ってしまった』という嘘を突き通すことになった。絵里加はまったく納得していないようだったが、真実を話すわけにもいかないため、頑なに言い訳を繰り返し、ようやく諦めたのが昨日のことだった。
さて、その後の話をしよう。
甲津侭は、街を離れることになった。と言っても、仕事の関係上、一旦街を離れるのであって、以前のように街に寄り付かなくなるわけではないようだ。
どうやら、裏で御堂が頑張ってくれたみたいだが、本人はなにも話してくれないので詳しいことはわからない。ただ、去り際、『今度、必ず礼をする』と言ってぼくらに背中を向けた甲津侭とは、その言葉の通り近い内にまた会うような気がした。
それに関して一番喜んでいたのは、与儀さんだった。彼女はあらためてぼくと御堂に礼を言うと、見たこともないような女性らしい笑顔を見せて笑った。それだけ、甲津侭が戻って来たことが嬉しかったのだろう。
今回の一件で、ぼくは、グラフィティに対する認識を改めるようになった。グラフィティはただの落書きじゃない。やり方次第で誰かを傷付けることも、救うこともできてしまう。それだけの力がある。
ぼくのその言葉を聞いた与儀さんは、かぶりを振って否定した。
「落書きに人を救う力なんてないわ。今回、侭を救ったのはあなたの力よ」
ぼくの目を真っ直ぐに見ながら、与儀さんはそう言った。
その言葉について、ぼくは考えてみる。幸い、学校の授業は今日も退屈に平常運転中なので、時間はたっぷりあった。
与儀さんの言ったことを否定するつもりはないが、人を動かすのは間違いなく人の想いだとぼくは思う。だけど、その想いを呼び起こす引き金としての力が、グラフィティにはあるのかもしれない。アートよりも身近で、悪戯よりも高尚な行為として。
グラフィティといえば、今回の桜のグラフィティだが、学校でも噂になっているらしく、基本クラスでボッチのぼくの耳にも入ってきた。
噂によると、あの商店街は、いまや大人から子供、一般人から不良までグラフィティを見物に来る人で溢れているらしい。まだあの場所が商店街として機能していた頃を知っている人は、活気溢れる昔に戻ったようだと口を揃えて言う。
口コミや、ネットが侮れないなと思ったのは、あの桜のグラフィティが、線引屋によるものだと特定されていることだ。今回の桜のグラフィティは、ぼくと与儀さんの合作ではあるが、あくまで甲津侭とその母親に向けて贈ったものであり、雑多な落書きを一掃する意味も兼ねたものだった。それ故に、線引屋としてのサインを描いていないにも関わらず、あのシャッターの絵が線引屋の手で描かれたというのが周知の事実になっていた。確かに、ライターには独特の癖みたいなものがあるし、線引屋としてのぼくにも、それがあるのかもしれないけれど、癖とは得てして本人にはわからないものだ。殊更、グラフィティに限らずなにかを生み出す世界において、その癖が味になることも多々あるし、あまり気にすることもないだろう。
ただ、気になることが一つある。
学校で噂している連中の口から、度々聞きなれない言葉を耳にした。
それは、『Beautiful Spirit』という言葉。
初め、それがなにを指しているのか、ぼくにはわからなかった。だが、ネットの書き込みをいくつか見ている内に、それがぼくらの描いた『桜のグラフィティ』を指しているのだということがわかった。
誰が言い出したのか知らないが、作者を無視して随分と小洒落た名前をつけたものだと感心する。
丁度自分の中で考えが一区切りついたところで、終業を告げるチャイムが鳴り響いた。これで、ようやく今日という長い一日が終わる。そう思い腕を伸ばして欠伸したことで、顔がチクリと痛んで、ハッとした。
そういえば、もう一つぼくの頭を悩ませていたことがあったのだ。
それは、石神さんのこと。
この腫れた顔で登校してきたぼくを見た彼女は、怒りか悲しみか、どちらとも判断が難しい表情をつくったあと、人目も気にせず腕を掴んでくると、誰もいない視聴覚室にぼくを引きずり込んだ。
焦りから大した反応も抵抗も見せられなかったぼくは、うっすら暗い教室で、恐る恐る聞いた。
「石神さん、あの」
「黙って」
「………っ」
ビクッと体を強ばらせるぼく。
黙れと言われたので、様子がおかしい彼女の顔を、探るように覗き込むと、下を向いていた顔を彼女がいきなり上げて、お互いに目が合う。
「言いたいことが山ほどあるけど、まず一つっ! その顔の傷のこと、江津から聞いた。また、不良に絡まれたみたいじゃないっ。あんまり危ないことに首突っ込むな、バカっ!」
勢いに負けて頷くぼく。そういえば、甲津侭にやられていた所を助けてくれたのは江津だった。だから、そのときのことを石神さんは話で聞いたのだろう。二人は付き合っているのだから、当然か。
心配してくれるのはありがたいけれど、誰もいない教室に二人きりになるというのは、彼氏持ちとしてどうなんだろう。ましてや、強引に引っ張り込んだなんて江津が知ったら、当然良い気はしないはずだ。そう考えていると、石神さんの手がぼくの胸の辺りをドンと叩き、距離を一気に詰めてくると、彼女の小さな顔が眼前に迫る。
事態が飲み込めず、あたふたするぼくに、彼女は言った。
「絵里加ちゃんから聞いたよ。あんた、ウチに彼氏がいるって話したみたいじゃん」
ぼくは、再び恐る恐る頷く。石神さんが以前家に来たときに、妹と仲良くなって連絡先を交換していたのは知っていたが、絵里加の方が気を遣って、頻繁に連絡していないようだったし、別に江津と付き合っていることくらい話してもいいだろうと思い、軽い気持ちで教えたのだが、なにかまずかったのだろうか。石神さんは、明らかに怒っているように見えた。
「あの、なにか、いけなかった?」
ぼくがそう聞くと、「当たり前じゃん!」と彼女は怒鳴った。それから、キッと睨み付けるようにぼくの目を見た。
「ウチは、江津と付き合ってなんかいないっ。恋人なんていないからっ!」
そして、再びぼくの胸を叩いた石神さんは、力強い瞳を一切逸らさずに、こう言った。
「だから、勘違いしないでっ。ウチは誰とも付き合ってない。間久辺にだけは、そんな勘違いしてほしくない!」
その言葉の意味を探る間もなく、彼女は視線を外すと、ぼくの胸を最後に一度だけ軽く叩き、「……バカ」と呟いて一歩下がった。
なんと言うべきか、なにを話すべきか、言葉が見つからないまま、逃げるように背中を向けた彼女の後ろ姿を、ただ見つめることしかできなかった。
石神さんが教室の扉を開くと、廊下の明かりが室内に伸びる。出口で立ち止まった石神さんは、ボソッと「今度やるクラスのクリスマスイベント……」と口を開いた。そして、顔を半分だけこちらに向けると、以前ぼくを誘ったときと同じ言葉で、彼女は締めくくった。
「ウチは、間久辺が来てくれたら嬉しいな」
薄暗くてよく見えなかった彼女の顔が、いまは光に照らされてよく見える。
その頬が、心配になるくらい真っ赤に染まっていたことに、ぼくは、そのとき初めて気付いた。
教室を出て行く石神さんを追いかけることもできずに立ち尽くしていた。なぜ石神さんがあんなことを言ったのか、なぜぼくにだけは付き合っていると勘違いされたくなかったのか、いくら鈍感な人間だって、わからないはずはない。
石神さんは、ぼくのことがーーー
その先を考えようとすると、視聴覚室を出ていく直前の、彼女の横顔が脳裏をかすめる。その朱に染まった顔を思い出すだけで、こっちまで顔が熱くなってくる。少しこの熱が冷めてから考えることにしよう。
それから一週間、ぼくはなんのアクションも起こさないまま、いまに至る。
正直、こんな気持ちは初めてのことだった。誰かを魅力的だな、と思うことはこれまで何度かあったし、実際、同じクラスの加須浦さんに憧れみたいな想いを抱いているのは事実だ。だが、石神さんに対する気持ちは、それとは明らかに違う。見ているだけで満足だった憧憬とは違い、彼女と話したい、触れ合いたいという気持ちが強くなってくる。
誰かに相談したくても、できない。廣瀬と中西には、この間口論になったことを謝りに行くついでに、石神さんのことを相談しようとしたが、やめた。これはきっと、ぼく自身が考えて答えを出さなければならない問題だ。だから、二人には石神さんとのことを話していない。相も変わらず、集まればオタク話で盛り上がる、最高の友達だ。
だが、一人きりで考えていると、どうしたって自信がなくなってくる。彼女のぼくに対する気持ちも、ぼくが彼女に対して抱く気持ちも……。
「恋人なんていない」という石神さんの言葉を聞いて、嬉しく思ってしまった感情がそのまま答えだということはわかっている。しかし、一歩を踏み出せずにいた。
だから、ぼくは考える。想い合っているのに、お互いを守るために行動し、結果的に離れ離れになってしまった与儀さんと甲津侭。そんな二人を再び一緒にいさせるために、自分の想いを押し殺した御堂。彼らのように、想いがあれば自然と体が動けばいいのだが、ぼくは臆病な自分を変えられずにいた。
だけど、それももう終わりにしなければいけない。
石神さんは気にしないようにしているみたいだが、答えを出せずにいるぼくに避けられていると思ったのか、ときどき寂しそうな顔を見せる。
そんな顔をこれ以上見ていられなかったぼくは、帰りのホームルームが終わると、意を決して彼女に声をかけた。
「あのさっ。ク、クリスマスイベントっ、ぼくも行っていいかな?」
それは、いまのぼくにできる最大の頑張りだった。
もしかしたら、呆れられてしまうかもしれない。そんな不安は、嬉しそうに相貌を崩した石神さんの表情を見て、杞憂だったと悟る。
「うん、楽しみにしてる」
以前はつんけんしていた石神さんの微笑みを見て、思わずぼくまで笑みがこぼれた。いつか、この心の温かさを、言葉にできたらいいなと、素直に思った。
さて、話は変わって、ぼくの両親のことだが、以前母がどうしてガーデニングに凝るようになったのか話を聞いたところ、それは結婚する以前、父がプロポーズのときに花束を送ったからだと説明された。そのときの思い出が母の中にはいまでも忘れられずにあって、ガーデニングで花に触れることで、昔を懐かしく思うらしい。
一週間前、顔を腫らしたぼくを見た両親に呼び止められ、家族会議が開かれたわけだけれど、疲れていたぼくは、なんとか話を終わらせられないかと思い、父に、「そういえば、プロポーズで花束贈ったらしいね」と無理やり話題を変えてみることにした。
日々の生活に刺激を求める母と、多感な年頃の妹がその話に食い付き、一転して針のむしろ状態になった父。
あまりにしつこく聞いてくるものだから、父は根負けしたのか、ボソリと「……花言葉だ」と呟いたのだった。
放課後になった。
バイトも無かったため美術室に向かうと、前の授業の片付けで美術室が少しの間使えないと聞かされたぼくは、時間を潰すために図書室に足を運んだ。普段はあまり寄り付かない場所だが、基本的にこの本の匂いと、静かな空間は嫌いじゃない。
利用生徒が席をいくつか空けて座っているのを見て、ぼくもそれに倣うように、手にした本を片手に席に腰を下ろした。
装丁された本を見ると、そこには色とりどりの花が描かれており、タイトルには『花と花言葉』とシンプルなタイトルが書かれている。
さっきの話に戻るけれど、父の贈った花束はスターチス。花言葉は『変わらぬ心』というらしい。
なるほど、確かにプロポーズにはもってこいの花言葉ではあるな。
だけど、相手に想いを伝える場合、例えば石神さんにこの花言葉を贈るのは少しばかり重たくないだろうか。
そう、ぼくはご両親の愛の成り立ちを参考にしようとしていた。
べ、別にパクりとかそういうのじゃないからねっ、て心の中で石神さんに言い訳をしながら、パラパラとページをめくる。
色々な花と花言葉についてボーッと眺めていると、ふと頭の中にある花が浮かんできたので、調べてみることにした。
索引から調べてそのページを開くと、美しいピンク色の花弁が写真として載っていた。調べてみると、同じ花でも種類によって様々な花言葉が存在していることが書かれている。一つずつ花言葉を見ていると、その中の一つに目が釘付けになった。
そうか、そういうことなのか。納得し、思わず俯いた。
ぼくらが描いたグラフィティに、誰かが名付けた『Beautiful spirit』という名前。その由来は恐らく、花言葉。
その花言葉を見て、ぼくは、どうしたってあの親子のことを思い出さずにはいられなかった。女手一つで子供を育てた母親と、その母親の最後の願いを叶えようとした息子。その姿は、"桜"の花言葉、そのものだった。
ぼくは本から顔を上げ、窓の外に見える禿頭をさらした桜並木を眺めると、心が締め付けられるように、やるせない気持ちになった。
『美しい精神』
それが、桜の花言葉だったんだ。
「警察に通報するからっ!」
妹の叫び声に、ぼくはビクッと体が跳ね上がる。
兄を警察に売り渡すつもりかマイリルシスター!
と、内心で軽口を唱えていると、絵里加は実際にスマホに手を伸ばす素振りを見せ、ぼくは慌てて止めに入る。
「本当、大丈夫だから。ちょっと遊びで熱くなっちゃっただけだから!」
ぼくの顔の腫れーーー甲津侭に殴られた所は、一週間経ったいまでも完全には治まっていない。殴られた翌日ならば尚のこと腫れはひどかっただろう。絵里加が心配になるのも頷けた。だが、シャッターにグラフィティを描いた直後はヘトヘトで、家に帰れば妹から激しい追及を受けるし、両親も、中学時代のいじめのことを思い出したのか、プチ家族会議が開かれ、言い訳するのに苦労した。
最終的に、『バトル漫画に憧れ過ぎて友達と模擬戦闘していたら、キレイに顔に入ってしまった』という嘘を突き通すことになった。絵里加はまったく納得していないようだったが、真実を話すわけにもいかないため、頑なに言い訳を繰り返し、ようやく諦めたのが昨日のことだった。
さて、その後の話をしよう。
甲津侭は、街を離れることになった。と言っても、仕事の関係上、一旦街を離れるのであって、以前のように街に寄り付かなくなるわけではないようだ。
どうやら、裏で御堂が頑張ってくれたみたいだが、本人はなにも話してくれないので詳しいことはわからない。ただ、去り際、『今度、必ず礼をする』と言ってぼくらに背中を向けた甲津侭とは、その言葉の通り近い内にまた会うような気がした。
それに関して一番喜んでいたのは、与儀さんだった。彼女はあらためてぼくと御堂に礼を言うと、見たこともないような女性らしい笑顔を見せて笑った。それだけ、甲津侭が戻って来たことが嬉しかったのだろう。
今回の一件で、ぼくは、グラフィティに対する認識を改めるようになった。グラフィティはただの落書きじゃない。やり方次第で誰かを傷付けることも、救うこともできてしまう。それだけの力がある。
ぼくのその言葉を聞いた与儀さんは、かぶりを振って否定した。
「落書きに人を救う力なんてないわ。今回、侭を救ったのはあなたの力よ」
ぼくの目を真っ直ぐに見ながら、与儀さんはそう言った。
その言葉について、ぼくは考えてみる。幸い、学校の授業は今日も退屈に平常運転中なので、時間はたっぷりあった。
与儀さんの言ったことを否定するつもりはないが、人を動かすのは間違いなく人の想いだとぼくは思う。だけど、その想いを呼び起こす引き金としての力が、グラフィティにはあるのかもしれない。アートよりも身近で、悪戯よりも高尚な行為として。
グラフィティといえば、今回の桜のグラフィティだが、学校でも噂になっているらしく、基本クラスでボッチのぼくの耳にも入ってきた。
噂によると、あの商店街は、いまや大人から子供、一般人から不良までグラフィティを見物に来る人で溢れているらしい。まだあの場所が商店街として機能していた頃を知っている人は、活気溢れる昔に戻ったようだと口を揃えて言う。
口コミや、ネットが侮れないなと思ったのは、あの桜のグラフィティが、線引屋によるものだと特定されていることだ。今回の桜のグラフィティは、ぼくと与儀さんの合作ではあるが、あくまで甲津侭とその母親に向けて贈ったものであり、雑多な落書きを一掃する意味も兼ねたものだった。それ故に、線引屋としてのサインを描いていないにも関わらず、あのシャッターの絵が線引屋の手で描かれたというのが周知の事実になっていた。確かに、ライターには独特の癖みたいなものがあるし、線引屋としてのぼくにも、それがあるのかもしれないけれど、癖とは得てして本人にはわからないものだ。殊更、グラフィティに限らずなにかを生み出す世界において、その癖が味になることも多々あるし、あまり気にすることもないだろう。
ただ、気になることが一つある。
学校で噂している連中の口から、度々聞きなれない言葉を耳にした。
それは、『Beautiful Spirit』という言葉。
初め、それがなにを指しているのか、ぼくにはわからなかった。だが、ネットの書き込みをいくつか見ている内に、それがぼくらの描いた『桜のグラフィティ』を指しているのだということがわかった。
誰が言い出したのか知らないが、作者を無視して随分と小洒落た名前をつけたものだと感心する。
丁度自分の中で考えが一区切りついたところで、終業を告げるチャイムが鳴り響いた。これで、ようやく今日という長い一日が終わる。そう思い腕を伸ばして欠伸したことで、顔がチクリと痛んで、ハッとした。
そういえば、もう一つぼくの頭を悩ませていたことがあったのだ。
それは、石神さんのこと。
この腫れた顔で登校してきたぼくを見た彼女は、怒りか悲しみか、どちらとも判断が難しい表情をつくったあと、人目も気にせず腕を掴んでくると、誰もいない視聴覚室にぼくを引きずり込んだ。
焦りから大した反応も抵抗も見せられなかったぼくは、うっすら暗い教室で、恐る恐る聞いた。
「石神さん、あの」
「黙って」
「………っ」
ビクッと体を強ばらせるぼく。
黙れと言われたので、様子がおかしい彼女の顔を、探るように覗き込むと、下を向いていた顔を彼女がいきなり上げて、お互いに目が合う。
「言いたいことが山ほどあるけど、まず一つっ! その顔の傷のこと、江津から聞いた。また、不良に絡まれたみたいじゃないっ。あんまり危ないことに首突っ込むな、バカっ!」
勢いに負けて頷くぼく。そういえば、甲津侭にやられていた所を助けてくれたのは江津だった。だから、そのときのことを石神さんは話で聞いたのだろう。二人は付き合っているのだから、当然か。
心配してくれるのはありがたいけれど、誰もいない教室に二人きりになるというのは、彼氏持ちとしてどうなんだろう。ましてや、強引に引っ張り込んだなんて江津が知ったら、当然良い気はしないはずだ。そう考えていると、石神さんの手がぼくの胸の辺りをドンと叩き、距離を一気に詰めてくると、彼女の小さな顔が眼前に迫る。
事態が飲み込めず、あたふたするぼくに、彼女は言った。
「絵里加ちゃんから聞いたよ。あんた、ウチに彼氏がいるって話したみたいじゃん」
ぼくは、再び恐る恐る頷く。石神さんが以前家に来たときに、妹と仲良くなって連絡先を交換していたのは知っていたが、絵里加の方が気を遣って、頻繁に連絡していないようだったし、別に江津と付き合っていることくらい話してもいいだろうと思い、軽い気持ちで教えたのだが、なにかまずかったのだろうか。石神さんは、明らかに怒っているように見えた。
「あの、なにか、いけなかった?」
ぼくがそう聞くと、「当たり前じゃん!」と彼女は怒鳴った。それから、キッと睨み付けるようにぼくの目を見た。
「ウチは、江津と付き合ってなんかいないっ。恋人なんていないからっ!」
そして、再びぼくの胸を叩いた石神さんは、力強い瞳を一切逸らさずに、こう言った。
「だから、勘違いしないでっ。ウチは誰とも付き合ってない。間久辺にだけは、そんな勘違いしてほしくない!」
その言葉の意味を探る間もなく、彼女は視線を外すと、ぼくの胸を最後に一度だけ軽く叩き、「……バカ」と呟いて一歩下がった。
なんと言うべきか、なにを話すべきか、言葉が見つからないまま、逃げるように背中を向けた彼女の後ろ姿を、ただ見つめることしかできなかった。
石神さんが教室の扉を開くと、廊下の明かりが室内に伸びる。出口で立ち止まった石神さんは、ボソッと「今度やるクラスのクリスマスイベント……」と口を開いた。そして、顔を半分だけこちらに向けると、以前ぼくを誘ったときと同じ言葉で、彼女は締めくくった。
「ウチは、間久辺が来てくれたら嬉しいな」
薄暗くてよく見えなかった彼女の顔が、いまは光に照らされてよく見える。
その頬が、心配になるくらい真っ赤に染まっていたことに、ぼくは、そのとき初めて気付いた。
教室を出て行く石神さんを追いかけることもできずに立ち尽くしていた。なぜ石神さんがあんなことを言ったのか、なぜぼくにだけは付き合っていると勘違いされたくなかったのか、いくら鈍感な人間だって、わからないはずはない。
石神さんは、ぼくのことがーーー
その先を考えようとすると、視聴覚室を出ていく直前の、彼女の横顔が脳裏をかすめる。その朱に染まった顔を思い出すだけで、こっちまで顔が熱くなってくる。少しこの熱が冷めてから考えることにしよう。
それから一週間、ぼくはなんのアクションも起こさないまま、いまに至る。
正直、こんな気持ちは初めてのことだった。誰かを魅力的だな、と思うことはこれまで何度かあったし、実際、同じクラスの加須浦さんに憧れみたいな想いを抱いているのは事実だ。だが、石神さんに対する気持ちは、それとは明らかに違う。見ているだけで満足だった憧憬とは違い、彼女と話したい、触れ合いたいという気持ちが強くなってくる。
誰かに相談したくても、できない。廣瀬と中西には、この間口論になったことを謝りに行くついでに、石神さんのことを相談しようとしたが、やめた。これはきっと、ぼく自身が考えて答えを出さなければならない問題だ。だから、二人には石神さんとのことを話していない。相も変わらず、集まればオタク話で盛り上がる、最高の友達だ。
だが、一人きりで考えていると、どうしたって自信がなくなってくる。彼女のぼくに対する気持ちも、ぼくが彼女に対して抱く気持ちも……。
「恋人なんていない」という石神さんの言葉を聞いて、嬉しく思ってしまった感情がそのまま答えだということはわかっている。しかし、一歩を踏み出せずにいた。
だから、ぼくは考える。想い合っているのに、お互いを守るために行動し、結果的に離れ離れになってしまった与儀さんと甲津侭。そんな二人を再び一緒にいさせるために、自分の想いを押し殺した御堂。彼らのように、想いがあれば自然と体が動けばいいのだが、ぼくは臆病な自分を変えられずにいた。
だけど、それももう終わりにしなければいけない。
石神さんは気にしないようにしているみたいだが、答えを出せずにいるぼくに避けられていると思ったのか、ときどき寂しそうな顔を見せる。
そんな顔をこれ以上見ていられなかったぼくは、帰りのホームルームが終わると、意を決して彼女に声をかけた。
「あのさっ。ク、クリスマスイベントっ、ぼくも行っていいかな?」
それは、いまのぼくにできる最大の頑張りだった。
もしかしたら、呆れられてしまうかもしれない。そんな不安は、嬉しそうに相貌を崩した石神さんの表情を見て、杞憂だったと悟る。
「うん、楽しみにしてる」
以前はつんけんしていた石神さんの微笑みを見て、思わずぼくまで笑みがこぼれた。いつか、この心の温かさを、言葉にできたらいいなと、素直に思った。
さて、話は変わって、ぼくの両親のことだが、以前母がどうしてガーデニングに凝るようになったのか話を聞いたところ、それは結婚する以前、父がプロポーズのときに花束を送ったからだと説明された。そのときの思い出が母の中にはいまでも忘れられずにあって、ガーデニングで花に触れることで、昔を懐かしく思うらしい。
一週間前、顔を腫らしたぼくを見た両親に呼び止められ、家族会議が開かれたわけだけれど、疲れていたぼくは、なんとか話を終わらせられないかと思い、父に、「そういえば、プロポーズで花束贈ったらしいね」と無理やり話題を変えてみることにした。
日々の生活に刺激を求める母と、多感な年頃の妹がその話に食い付き、一転して針のむしろ状態になった父。
あまりにしつこく聞いてくるものだから、父は根負けしたのか、ボソリと「……花言葉だ」と呟いたのだった。
放課後になった。
バイトも無かったため美術室に向かうと、前の授業の片付けで美術室が少しの間使えないと聞かされたぼくは、時間を潰すために図書室に足を運んだ。普段はあまり寄り付かない場所だが、基本的にこの本の匂いと、静かな空間は嫌いじゃない。
利用生徒が席をいくつか空けて座っているのを見て、ぼくもそれに倣うように、手にした本を片手に席に腰を下ろした。
装丁された本を見ると、そこには色とりどりの花が描かれており、タイトルには『花と花言葉』とシンプルなタイトルが書かれている。
さっきの話に戻るけれど、父の贈った花束はスターチス。花言葉は『変わらぬ心』というらしい。
なるほど、確かにプロポーズにはもってこいの花言葉ではあるな。
だけど、相手に想いを伝える場合、例えば石神さんにこの花言葉を贈るのは少しばかり重たくないだろうか。
そう、ぼくはご両親の愛の成り立ちを参考にしようとしていた。
べ、別にパクりとかそういうのじゃないからねっ、て心の中で石神さんに言い訳をしながら、パラパラとページをめくる。
色々な花と花言葉についてボーッと眺めていると、ふと頭の中にある花が浮かんできたので、調べてみることにした。
索引から調べてそのページを開くと、美しいピンク色の花弁が写真として載っていた。調べてみると、同じ花でも種類によって様々な花言葉が存在していることが書かれている。一つずつ花言葉を見ていると、その中の一つに目が釘付けになった。
そうか、そういうことなのか。納得し、思わず俯いた。
ぼくらが描いたグラフィティに、誰かが名付けた『Beautiful spirit』という名前。その由来は恐らく、花言葉。
その花言葉を見て、ぼくは、どうしたってあの親子のことを思い出さずにはいられなかった。女手一つで子供を育てた母親と、その母親の最後の願いを叶えようとした息子。その姿は、"桜"の花言葉、そのものだった。
ぼくは本から顔を上げ、窓の外に見える禿頭をさらした桜並木を眺めると、心が締め付けられるように、やるせない気持ちになった。
『美しい精神』
それが、桜の花言葉だったんだ。
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