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Beautiful spirit
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ガスマスクをぼくのカバンから抜き取ったのは与儀さんだ。
絵里加が犯人じゃなかったとすると、最近、家以外でカバンを無防備に置いたのは与儀さんの店しか考えられない。
状況証拠だけではない。
最近、与儀さんの様子はどこか変だった。
そもそも、ぼくがバイト初日だというのに、二日酔いでまともに動けなくなるほど前日に飲むなんて、彼女らしくない。
では、なぜ彼女はらしくない行動を取ったのか。
それは恐らく、街に戻ってきた甲津侭という男が関係しているのだろう。
与儀さんと甲津侭の間に何らかの接点があったことは明らかだ。
ぼくが彼女のアトリエで見つけた写真。その集合写真には、いまよりも若い鍛島の姿が写っていた。そして、御堂からの電話で、鍛島はかつて、甲津侭が率いていたチームに所属していたことがわかっている。
つまり、与儀さんが持っていた若い頃の鍛島が写っていた集合写真は、甲津侭が率いていたチームを写した写真だと推測できる。
ここで重要になってくるのは、与儀さんがこの不良グループとどんな関わりがあったのかということだが、恐らくそれほどチーム自体には深い関わりを持っていなかったのではないかと思う。
その理由としては、かなり前のことになるが、ぼくが初めてグラフィティを描いたときのことを思い返してみればわかる。
ぼくがライズビルに描いたグラフィティは、鍛島の似顔絵だった。
ぼくが下書きとして描いた鍛島の似顔絵を見た御堂の言葉を借りるなら、『これ、鍛島さんか? スゲーリアルだけど』とのこと。
御堂はぼくが描いた似顔絵を一目見ただけで鍛島だとわかるくらい似ていると言っていたが、同じ絵を見た与儀さんは、それを鍛島だと認識したような素振りは見せていなかった。
なぜ、与儀さんにはその似顔絵が鍛島だとわからなかったのか。それは単純に、鍛島のことをそもそも知らなかったからだ。与儀さんはあの集合写真に写っていた鍛島を知らない。つまり、あのチームとは深い関係になかったということになる。
それなのに、与儀さんは大した関わりもないチームの写真を、後生大事にしまいこんでいたのはなぜか。
その理由は、あの集合写真の中に親しい間柄の人物がいたからだ。そして、その親しい間柄の人物というのが、甲津侭だったのだろう。だから彼女は、数年ぶりに戻ってきた甲津侭のことを知り、線引屋の道具を抜き取った。彼が線引屋をーーーぼくを狙っていると知ったから。
彼。そう、彼だ。
いま、ぼくの少し前を歩いている男。
彼こそ渦中の男、甲津侭で間違いないだろう。
駅に到着し、これから与儀さんの店に問い詰めに行こうとしていたぼくは、見覚えのある男の姿を発見し、思わずその後ろをつけていた。
あの男は、与儀さんの店で見た集合写真で、中心に立っていた男だ。その立ち位置からして、彼がチームのリーダー、つまり甲津侭であることは間違いないだろう。
この男が、ぼくを狙っている張本人。だからぼくは、この男のことを少しでも知るために後をつけている。
駅の東口方面から現れた男は、そのまま駅から離れて行って、やがて住宅街に入って行った。人通りが少なくなるにつれて、気付かれないように距離を開きながら追跡を続ける。名探偵マクベス再び、といったところだ。
それにしても、どこに行くつもりなんだ?
やがて彼の足は公営団地の脇を抜けて、見覚えのあるバス停の側を通る。そのまま道を進むと、ついさっきまでぼくがいた、無人と化したシャッター商店街に入って行った。
なぜ、彼がこの場所に?
疑問を抱いたまま、ぼくも遅れてシャッター商店街の入り口を抜けると、誰もいない薄暗い無人商店街の壁に向かってなにかをしている、甲津侭の姿があった。
彼の立つ場所辺りは、夕方、ぼくが話したクルーの三人組がバブルレターを描いた辺りだ。
そんな所でなにをしているのか目をこらしてみると、彼は、持っていたタオルかなにかで、グラフィティが描かれているシャッターを上から擦っていた。近付いてみると、甲津侭は、「くそっ、くそっ!」と悔しそうに言葉をもらしながら、壁をただひたすら擦っている。
その姿を見て、ぼくは気付かれないように追跡しいたことも忘れて、無防備に近付いていた。
その足音に気付いたのか、甲津侭は振り返り、こっちを見る。
気付かれてしまったことなんてまるで気にならなかった。それよりも、聞きたいことがあった。
「そこで、なにをしているんですか?」
ぼくの問いかけに、彼は、「見てわからないか?」とぶっきらぼうに答え、再びシャッターの方を向く。
わからないわけがない。彼が一心不乱にシャッターを磨いている様子を見たら、誰だってわかる。
「掃除、しているんですか?」
無言で壁を磨き続けているというのは、肯定の証だろうか。
ぼくの問いに答えず、彼は逆に質問を投げ掛けてきた。
「そういうお前はなにをやってるんだ? こんな場所、若いやつが遊びに来て楽しい場所じゃないぜ」
壁を向いたままそこまで喋った男は、思い立ったように、「あるいは」と言って振り返った。
「お前、ここに落書きに来たライターか?」
低くくぐもったような声でそう言った彼の眼光の鋭さに、身を凍らせたぼくの答えを待たずして、「ーーーって、見た感じそうは見えねえな」と勝手に結論を出す。
ぼくの見た目が不良っぽくないのはわかっているし、ライターに見えないのはよくわかる。だけど、そんなことを言ったら、この人だって見た目からは想像つかないことを、いま目の前でしている。
「あなたこそ、こんな所でなぜ、たった一人で掃除なんてしているんです?」
「そんなの、この場所を見たらわかるだろう?」
言われてから、グラフィティでぎっしり描き尽くされている商店街をあらためて見渡してから、甲津侭の顔を再び見ると、彼は渋面をつくっていた。
「この場所はバカなガキどものせいでこんなに汚されてるんだ。掃除したいと思うのは当たり前だろう」
待て。待ってくれ。
これでは話が違う。この男は、かつて街を追い出され、その復讐のためにこの街に戻ってきたのだと聞かされた。線引屋を狙っているのも、鍛島率いるチーム『マサムネ』と関わりがあるからだと、そう思っていた。
だが、いまの彼を見てその話が真実だったとは、とても思えなかった。
甲津侭という男が、噂されているような危険な男にはどうしても見えない。だから、ぼくは聞いてみることにした。
「あなたは、どうして街に戻ってきたんですか。あなたの目的はなんなんですか? ねえ、甲津侭さん」
「お前、どうして俺の名を……?」
そう言って、再び眼光を鋭くする男。
まるでナイフを突きつけられたように、身がすくむ。
ぼくはそれでも、なんとか平静を装いながら、「与儀さんの知り合いで、間久辺比佐志っていいます」と答えた。
すると、明らかに男の表情が変わったのが見て取れた。与儀さんとこの男には関わりがあるのではないかという推測が、確信に変わった瞬間だった。
「お前、与儀を知ってるのか?」
「はい。彼女のお店でアルバイトしています」
「へえ。あいつ、店持ったのか。スゲェな」
そう言ったときの彼の目は、一瞬優しいものに変わった。
やはり、なにかがおかしい。ぼくにはどうしても、この人が復讐なんて理由で街にやってきたようには思えなかった。
そして、甲津侭はまっすぐにぼくを見据えると、口を開いた。
「さっき、聞いてきたな。俺の目的を。お前がなにを知っているのかわからないが、答えてやる。俺はガキの頃からこの街で育ってきた。この場所は思い出の場所なんだよ。いまじゃ住宅の誘致とか道路再編でなくなっちまったけど、昔はこの商店街の出入り口からはキレイな桜が見えてな。桜通り商店街なんて呼ばれて、活気にも溢れていた。それが見てみろよ。この落書きの山を」
口調が険しくなるにつれて、眉間にシワを寄せ、表情も険しくなる彼。
「俺は、何度も何度も壁を清掃したさ。上から白いペンキを塗って、時間はかかるけど、いつかは昔みたいにキレイな商店街に戻せるって、そう思ってた。だけど、俺が白く塗りつぶした上から、すぐにまた落書きされる。警察に言っても無駄だった。あいつら、俺の言うことなんて聞きゃしない。俺が昔、この辺りで暴れまわってたことを知ってるんだ」
そうか。彼がかつてこの街を仕切っていた不良という話は、嘘ではないのか。だけど、警察が動かない理由は恐らく、それだけではないだろう。
警察はそもそも、この商店街の落書きを見て見ぬ振りしている。市がこの商店街の権利者たちに清掃費用という名目の助成金を払うことで、この場所に街の落書きを集中させようという目論見が働いているのだ。
市も、警察も、土地所有者も、全員がそれぞれの利益に基づいて、グルでこの場所を生け贄にしている。
「だからあなたは、警察が頼れないから、別の、もっと強行な手段に訴えることにしたんですか?」
「なんだお前、そのことまで知ってたのか? お前の言う通り、これ以上この商店街に落書きを増やさせないために、街の自警団に入って情報を集めながら、落書きしているライターのガキどもを捕まえては、片っ端から罰を与えていったんだ」
それが、甲津侭にとっての正義なのだ。
信賞必罰なんて、この世界には存在しない。自分の手で罰を下すことで、少しでもこの商店街への落書きを減らそうと彼は思った。けれど、うまくいかなかった。落書きの数は減るどころか、日に日に増えていき、やがて、その理由に気が付いてしまった。
「……だから、線引屋を狙ったんですね?」
ぼくの問いに、甲津侭は頷いた。
「そうだ。俺の目的は、線引屋を叩き潰すこと。やつがすべての元凶。あいつの影響でグラフィティに手を染めるガキが後を絶たねえこの状況を解決するには、もう、根本を叩くしか他にねえんだ!」
最近、与儀さんの店のグラフィティ用品の売れ行きが以前の数倍に膨れ上がっているって、言っていたっけ。ぼくをアルバイトに誘った理由には、店の売上が伸びて、人手が必要になったという側面もあるようだ。
道具が売れるということは、使う人間が増えたということで、その理由が、ストリートジャーナルで線引屋が特集されたからだと彼女は言っていた。
つまり、このシャッター商店街の落書きが増えていることと、ぼくがやってきたことは無関係ではないということになる。
だからって、線引屋を倒そうとする彼に、そんなの逆恨みだ、と一蹴することがぼくには出来なかった。
行動には責任を持つべきだし、ぼくのやっていることだってイリーガルな行為ーーー決して正しいものじゃない。
だからと言って、これが最善の解決方法だとも思えなかった。
だって、ただ思い出の場所だっていう理由だけでこんな乱暴な手段に訴えかける彼の行動は、とても認められない。
それこそ、本当に以前のようにキレイな商店街に戻すことが目的なら、時間はかかるが、賛同者を集めて市なり警察なりに訴えればいい。動くまでにはそれなりに日はかかるだろうが、長い目でみればそれが正攻法だ。
彼の取っている行動は、少なくとも手段という意味では明らかに間違っている。
「さあ、俺は答えたぞ。次はお前の番だ」
いきなりそう言われ、ぼくはなんのことか戸惑った。
疑問に染まるぼくの顔を見て、彼は言った。
「決まっているだろう? お前の知っていることを全部話せ。俺のことを知っていて、しかも俺が線引屋を狙っていることまでお前は知っていた。ただの通りすがりじゃねえな?」
「なにも知りません。そう答えたら、どうするんです?」
「力ずくでも知っていることを吐かせる。そう言ったら、どうする?」
言葉こそ茶化しているように感じられるが、その瞳は真剣そのものだった。
だらりと垂らした長い腕の先、拳がきつく握られている。
その拳で殴られたら、さぞ痛いことだろう。このマッドシティを仕切っていたほどの男に殴られたりしたら、きっとぼくみたいな喧嘩の弱い人間は、ひとたまりもなくやられてしまうだろう。
だから、本当は嘘をつくべきなのだろう。けれどーーー
「ぼくが、線引屋だ」
ーーーこの男の真剣な目を見たら、嘘をつけないと思った。
大きく目を見開き、驚きの表情を見せた甲津侭は、
「おいガキ。テメエ、俺が線引屋を狙ってること知ってるはずだよな?」
と、声を震わせながら言った。
「冗談なら、笑えねえ。取り消すならいまの内だぞ」
ぼくは何も答えず、じっと成り行きを待った。
「おいっ、最後通告だ。嘘ならいますぐ訂正しろ。俺は本気だっ。本気で線引屋を潰すと言っているんだ」
その言葉に、ぼくは首を横に振った。
「線引屋の正体はぼくだ。与儀さんと関わりを持つようになったのは、彼女からグラフィティを教えてもらったからだ」
そう答えてから、瞬きのために一瞬瞳を閉じ、それを開くと、眼前に影が迫っていた。
次の瞬間、強い衝撃を受けて後ろに倒れこむ体。なにが起きたのか、事態が把握できたのは、こめかみ辺りに激しい痛みを感じ、そこでようやく自分が殴り飛ばされたのだとわかった。
「忠告はした。それに、お前には罰を受ける義務がある」
そう言って、再び拳を構える甲津侭。
「会いたかったぜ線引屋。その身であがなってもらうぞ」
ぼくはゆっくりと立ち上がりながら、一瞬たりとも相手から目を逸らさず、言った。
「殴りたければ殴れっ! ぼくだって、覚悟も持たずに線引屋を名乗ってるわけじゃないっ。だけど、あんたはこんなことして意味があると思っているのか!? ライターがイリーガルな落書きをするからと言って、それを暴力で解決することが、最善策だって本気で思っているのかよ!」
「うるせえんだよっ!」
再び、長い腕から拳が飛んでくる。
一瞬も男から目を離さなかったぼくは、その攻撃を有効打にしないように頭突きで受けとめたが、それでも体全体を揺さぶるような一撃に意識が遠退きそうになる。
だが、ダメージを受けたのはぼくだけではなく、まともに頭で受けたことで、甲津侭は拳を痛めたのか、顔を歪ませた。
「やりやがったなクソガキっ」
「自分の思い通りにならないことがあったら、暴力で解決しようとする。あんたの方がよっぽどガキだ」
「テメエになにがわかるっ! いくら手を打っても、落書きを止めることができねえ焦りが、憤りが、お前にわかるのかよっ!」
奇策が通用するのは一度だけだ。
再び襲ってきた拳を、今度はまともにくらってしまい、横倒しになると、そのままマウントを取られ、三発、四発、五発と殴られ、意識は少しずつ遠くなってくる。それにつれて、さっきまであれほど痛かった顔から、痛みが消えていく。
駄目だ、まだ、意識を失うわけにはいかない。
まだわからないままになっている疑問があるんだ。
どうしてだよ。甲津侭、あんたは、なにをーーー
ぼくは歯を食いしばり、血の味で満たされた口を開き、言った。
「ーーーなにを、そんなに焦っているんだ?」
しかし、その疑問に彼が答えることはなかった。
振り上げられた拳が、辛うじて残っていた意識を根こそぎ奪い取った。
絵里加が犯人じゃなかったとすると、最近、家以外でカバンを無防備に置いたのは与儀さんの店しか考えられない。
状況証拠だけではない。
最近、与儀さんの様子はどこか変だった。
そもそも、ぼくがバイト初日だというのに、二日酔いでまともに動けなくなるほど前日に飲むなんて、彼女らしくない。
では、なぜ彼女はらしくない行動を取ったのか。
それは恐らく、街に戻ってきた甲津侭という男が関係しているのだろう。
与儀さんと甲津侭の間に何らかの接点があったことは明らかだ。
ぼくが彼女のアトリエで見つけた写真。その集合写真には、いまよりも若い鍛島の姿が写っていた。そして、御堂からの電話で、鍛島はかつて、甲津侭が率いていたチームに所属していたことがわかっている。
つまり、与儀さんが持っていた若い頃の鍛島が写っていた集合写真は、甲津侭が率いていたチームを写した写真だと推測できる。
ここで重要になってくるのは、与儀さんがこの不良グループとどんな関わりがあったのかということだが、恐らくそれほどチーム自体には深い関わりを持っていなかったのではないかと思う。
その理由としては、かなり前のことになるが、ぼくが初めてグラフィティを描いたときのことを思い返してみればわかる。
ぼくがライズビルに描いたグラフィティは、鍛島の似顔絵だった。
ぼくが下書きとして描いた鍛島の似顔絵を見た御堂の言葉を借りるなら、『これ、鍛島さんか? スゲーリアルだけど』とのこと。
御堂はぼくが描いた似顔絵を一目見ただけで鍛島だとわかるくらい似ていると言っていたが、同じ絵を見た与儀さんは、それを鍛島だと認識したような素振りは見せていなかった。
なぜ、与儀さんにはその似顔絵が鍛島だとわからなかったのか。それは単純に、鍛島のことをそもそも知らなかったからだ。与儀さんはあの集合写真に写っていた鍛島を知らない。つまり、あのチームとは深い関係になかったということになる。
それなのに、与儀さんは大した関わりもないチームの写真を、後生大事にしまいこんでいたのはなぜか。
その理由は、あの集合写真の中に親しい間柄の人物がいたからだ。そして、その親しい間柄の人物というのが、甲津侭だったのだろう。だから彼女は、数年ぶりに戻ってきた甲津侭のことを知り、線引屋の道具を抜き取った。彼が線引屋をーーーぼくを狙っていると知ったから。
彼。そう、彼だ。
いま、ぼくの少し前を歩いている男。
彼こそ渦中の男、甲津侭で間違いないだろう。
駅に到着し、これから与儀さんの店に問い詰めに行こうとしていたぼくは、見覚えのある男の姿を発見し、思わずその後ろをつけていた。
あの男は、与儀さんの店で見た集合写真で、中心に立っていた男だ。その立ち位置からして、彼がチームのリーダー、つまり甲津侭であることは間違いないだろう。
この男が、ぼくを狙っている張本人。だからぼくは、この男のことを少しでも知るために後をつけている。
駅の東口方面から現れた男は、そのまま駅から離れて行って、やがて住宅街に入って行った。人通りが少なくなるにつれて、気付かれないように距離を開きながら追跡を続ける。名探偵マクベス再び、といったところだ。
それにしても、どこに行くつもりなんだ?
やがて彼の足は公営団地の脇を抜けて、見覚えのあるバス停の側を通る。そのまま道を進むと、ついさっきまでぼくがいた、無人と化したシャッター商店街に入って行った。
なぜ、彼がこの場所に?
疑問を抱いたまま、ぼくも遅れてシャッター商店街の入り口を抜けると、誰もいない薄暗い無人商店街の壁に向かってなにかをしている、甲津侭の姿があった。
彼の立つ場所辺りは、夕方、ぼくが話したクルーの三人組がバブルレターを描いた辺りだ。
そんな所でなにをしているのか目をこらしてみると、彼は、持っていたタオルかなにかで、グラフィティが描かれているシャッターを上から擦っていた。近付いてみると、甲津侭は、「くそっ、くそっ!」と悔しそうに言葉をもらしながら、壁をただひたすら擦っている。
その姿を見て、ぼくは気付かれないように追跡しいたことも忘れて、無防備に近付いていた。
その足音に気付いたのか、甲津侭は振り返り、こっちを見る。
気付かれてしまったことなんてまるで気にならなかった。それよりも、聞きたいことがあった。
「そこで、なにをしているんですか?」
ぼくの問いかけに、彼は、「見てわからないか?」とぶっきらぼうに答え、再びシャッターの方を向く。
わからないわけがない。彼が一心不乱にシャッターを磨いている様子を見たら、誰だってわかる。
「掃除、しているんですか?」
無言で壁を磨き続けているというのは、肯定の証だろうか。
ぼくの問いに答えず、彼は逆に質問を投げ掛けてきた。
「そういうお前はなにをやってるんだ? こんな場所、若いやつが遊びに来て楽しい場所じゃないぜ」
壁を向いたままそこまで喋った男は、思い立ったように、「あるいは」と言って振り返った。
「お前、ここに落書きに来たライターか?」
低くくぐもったような声でそう言った彼の眼光の鋭さに、身を凍らせたぼくの答えを待たずして、「ーーーって、見た感じそうは見えねえな」と勝手に結論を出す。
ぼくの見た目が不良っぽくないのはわかっているし、ライターに見えないのはよくわかる。だけど、そんなことを言ったら、この人だって見た目からは想像つかないことを、いま目の前でしている。
「あなたこそ、こんな所でなぜ、たった一人で掃除なんてしているんです?」
「そんなの、この場所を見たらわかるだろう?」
言われてから、グラフィティでぎっしり描き尽くされている商店街をあらためて見渡してから、甲津侭の顔を再び見ると、彼は渋面をつくっていた。
「この場所はバカなガキどものせいでこんなに汚されてるんだ。掃除したいと思うのは当たり前だろう」
待て。待ってくれ。
これでは話が違う。この男は、かつて街を追い出され、その復讐のためにこの街に戻ってきたのだと聞かされた。線引屋を狙っているのも、鍛島率いるチーム『マサムネ』と関わりがあるからだと、そう思っていた。
だが、いまの彼を見てその話が真実だったとは、とても思えなかった。
甲津侭という男が、噂されているような危険な男にはどうしても見えない。だから、ぼくは聞いてみることにした。
「あなたは、どうして街に戻ってきたんですか。あなたの目的はなんなんですか? ねえ、甲津侭さん」
「お前、どうして俺の名を……?」
そう言って、再び眼光を鋭くする男。
まるでナイフを突きつけられたように、身がすくむ。
ぼくはそれでも、なんとか平静を装いながら、「与儀さんの知り合いで、間久辺比佐志っていいます」と答えた。
すると、明らかに男の表情が変わったのが見て取れた。与儀さんとこの男には関わりがあるのではないかという推測が、確信に変わった瞬間だった。
「お前、与儀を知ってるのか?」
「はい。彼女のお店でアルバイトしています」
「へえ。あいつ、店持ったのか。スゲェな」
そう言ったときの彼の目は、一瞬優しいものに変わった。
やはり、なにかがおかしい。ぼくにはどうしても、この人が復讐なんて理由で街にやってきたようには思えなかった。
そして、甲津侭はまっすぐにぼくを見据えると、口を開いた。
「さっき、聞いてきたな。俺の目的を。お前がなにを知っているのかわからないが、答えてやる。俺はガキの頃からこの街で育ってきた。この場所は思い出の場所なんだよ。いまじゃ住宅の誘致とか道路再編でなくなっちまったけど、昔はこの商店街の出入り口からはキレイな桜が見えてな。桜通り商店街なんて呼ばれて、活気にも溢れていた。それが見てみろよ。この落書きの山を」
口調が険しくなるにつれて、眉間にシワを寄せ、表情も険しくなる彼。
「俺は、何度も何度も壁を清掃したさ。上から白いペンキを塗って、時間はかかるけど、いつかは昔みたいにキレイな商店街に戻せるって、そう思ってた。だけど、俺が白く塗りつぶした上から、すぐにまた落書きされる。警察に言っても無駄だった。あいつら、俺の言うことなんて聞きゃしない。俺が昔、この辺りで暴れまわってたことを知ってるんだ」
そうか。彼がかつてこの街を仕切っていた不良という話は、嘘ではないのか。だけど、警察が動かない理由は恐らく、それだけではないだろう。
警察はそもそも、この商店街の落書きを見て見ぬ振りしている。市がこの商店街の権利者たちに清掃費用という名目の助成金を払うことで、この場所に街の落書きを集中させようという目論見が働いているのだ。
市も、警察も、土地所有者も、全員がそれぞれの利益に基づいて、グルでこの場所を生け贄にしている。
「だからあなたは、警察が頼れないから、別の、もっと強行な手段に訴えることにしたんですか?」
「なんだお前、そのことまで知ってたのか? お前の言う通り、これ以上この商店街に落書きを増やさせないために、街の自警団に入って情報を集めながら、落書きしているライターのガキどもを捕まえては、片っ端から罰を与えていったんだ」
それが、甲津侭にとっての正義なのだ。
信賞必罰なんて、この世界には存在しない。自分の手で罰を下すことで、少しでもこの商店街への落書きを減らそうと彼は思った。けれど、うまくいかなかった。落書きの数は減るどころか、日に日に増えていき、やがて、その理由に気が付いてしまった。
「……だから、線引屋を狙ったんですね?」
ぼくの問いに、甲津侭は頷いた。
「そうだ。俺の目的は、線引屋を叩き潰すこと。やつがすべての元凶。あいつの影響でグラフィティに手を染めるガキが後を絶たねえこの状況を解決するには、もう、根本を叩くしか他にねえんだ!」
最近、与儀さんの店のグラフィティ用品の売れ行きが以前の数倍に膨れ上がっているって、言っていたっけ。ぼくをアルバイトに誘った理由には、店の売上が伸びて、人手が必要になったという側面もあるようだ。
道具が売れるということは、使う人間が増えたということで、その理由が、ストリートジャーナルで線引屋が特集されたからだと彼女は言っていた。
つまり、このシャッター商店街の落書きが増えていることと、ぼくがやってきたことは無関係ではないということになる。
だからって、線引屋を倒そうとする彼に、そんなの逆恨みだ、と一蹴することがぼくには出来なかった。
行動には責任を持つべきだし、ぼくのやっていることだってイリーガルな行為ーーー決して正しいものじゃない。
だからと言って、これが最善の解決方法だとも思えなかった。
だって、ただ思い出の場所だっていう理由だけでこんな乱暴な手段に訴えかける彼の行動は、とても認められない。
それこそ、本当に以前のようにキレイな商店街に戻すことが目的なら、時間はかかるが、賛同者を集めて市なり警察なりに訴えればいい。動くまでにはそれなりに日はかかるだろうが、長い目でみればそれが正攻法だ。
彼の取っている行動は、少なくとも手段という意味では明らかに間違っている。
「さあ、俺は答えたぞ。次はお前の番だ」
いきなりそう言われ、ぼくはなんのことか戸惑った。
疑問に染まるぼくの顔を見て、彼は言った。
「決まっているだろう? お前の知っていることを全部話せ。俺のことを知っていて、しかも俺が線引屋を狙っていることまでお前は知っていた。ただの通りすがりじゃねえな?」
「なにも知りません。そう答えたら、どうするんです?」
「力ずくでも知っていることを吐かせる。そう言ったら、どうする?」
言葉こそ茶化しているように感じられるが、その瞳は真剣そのものだった。
だらりと垂らした長い腕の先、拳がきつく握られている。
その拳で殴られたら、さぞ痛いことだろう。このマッドシティを仕切っていたほどの男に殴られたりしたら、きっとぼくみたいな喧嘩の弱い人間は、ひとたまりもなくやられてしまうだろう。
だから、本当は嘘をつくべきなのだろう。けれどーーー
「ぼくが、線引屋だ」
ーーーこの男の真剣な目を見たら、嘘をつけないと思った。
大きく目を見開き、驚きの表情を見せた甲津侭は、
「おいガキ。テメエ、俺が線引屋を狙ってること知ってるはずだよな?」
と、声を震わせながら言った。
「冗談なら、笑えねえ。取り消すならいまの内だぞ」
ぼくは何も答えず、じっと成り行きを待った。
「おいっ、最後通告だ。嘘ならいますぐ訂正しろ。俺は本気だっ。本気で線引屋を潰すと言っているんだ」
その言葉に、ぼくは首を横に振った。
「線引屋の正体はぼくだ。与儀さんと関わりを持つようになったのは、彼女からグラフィティを教えてもらったからだ」
そう答えてから、瞬きのために一瞬瞳を閉じ、それを開くと、眼前に影が迫っていた。
次の瞬間、強い衝撃を受けて後ろに倒れこむ体。なにが起きたのか、事態が把握できたのは、こめかみ辺りに激しい痛みを感じ、そこでようやく自分が殴り飛ばされたのだとわかった。
「忠告はした。それに、お前には罰を受ける義務がある」
そう言って、再び拳を構える甲津侭。
「会いたかったぜ線引屋。その身であがなってもらうぞ」
ぼくはゆっくりと立ち上がりながら、一瞬たりとも相手から目を逸らさず、言った。
「殴りたければ殴れっ! ぼくだって、覚悟も持たずに線引屋を名乗ってるわけじゃないっ。だけど、あんたはこんなことして意味があると思っているのか!? ライターがイリーガルな落書きをするからと言って、それを暴力で解決することが、最善策だって本気で思っているのかよ!」
「うるせえんだよっ!」
再び、長い腕から拳が飛んでくる。
一瞬も男から目を離さなかったぼくは、その攻撃を有効打にしないように頭突きで受けとめたが、それでも体全体を揺さぶるような一撃に意識が遠退きそうになる。
だが、ダメージを受けたのはぼくだけではなく、まともに頭で受けたことで、甲津侭は拳を痛めたのか、顔を歪ませた。
「やりやがったなクソガキっ」
「自分の思い通りにならないことがあったら、暴力で解決しようとする。あんたの方がよっぽどガキだ」
「テメエになにがわかるっ! いくら手を打っても、落書きを止めることができねえ焦りが、憤りが、お前にわかるのかよっ!」
奇策が通用するのは一度だけだ。
再び襲ってきた拳を、今度はまともにくらってしまい、横倒しになると、そのままマウントを取られ、三発、四発、五発と殴られ、意識は少しずつ遠くなってくる。それにつれて、さっきまであれほど痛かった顔から、痛みが消えていく。
駄目だ、まだ、意識を失うわけにはいかない。
まだわからないままになっている疑問があるんだ。
どうしてだよ。甲津侭、あんたは、なにをーーー
ぼくは歯を食いしばり、血の味で満たされた口を開き、言った。
「ーーーなにを、そんなに焦っているんだ?」
しかし、その疑問に彼が答えることはなかった。
振り上げられた拳が、辛うじて残っていた意識を根こそぎ奪い取った。
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自慢そうに聞こえただろうか?
それは少しばかり誤解だ。
この二人の姉、どちらも重大な欠陥があるのだ……
次女の青山花穂は高校二年で生徒会長。
外見上はすべて完璧に見える花穂姉ちゃん……
「花穂姉ちゃん! 下着でウロウロするのやめろよなっ!」
「んじゃ、裸ならいいってことねっ!」
▼物語概要
【恋愛感情欠落、解離性健忘というトラウマを抱えながら、姉やヒロインに囲まれて成長していく話です】
47万字以上の大長編になります。(2020年11月現在)
【※不健全ラブコメの注意事項】
この作品は通常のラブコメより下品下劣この上なく、ドン引き、ドシモ、変態、マニアック、陰謀と陰毛渦巻くご都合主義のオンパレードです。
それをウリにして、ギャグなどをミックスした作品です。一話(1部分)1800~3000字と短く、四コマ漫画感覚で手軽に読めます。
全編47万字前後となります。読みごたえも初期より増し、ガッツリ読みたい方にもお勧めです。
また、執筆・原作・草案者が男性と女性両方なので、主人公が男にもかかわらず、男性目線からややずれている部分があります。
【元々、小説家になろうで連載していたものを大幅改訂して連載します】
【なろう版から一部、ストーリー展開と主要キャラの名前が変更になりました】
【2017年4月、本幕が完結しました】
序幕・本幕であらかたの謎が解け、メインヒロインが確定します。
【2018年1月、真幕を開始しました】
ここから読み始めると盛大なネタバレになります(汗)
Bグループの少年
櫻井春輝
青春
クラスや校内で目立つグループをA(目立つ)のグループとして、目立たないグループはC(目立たない)とすれば、その中間のグループはB(普通)となる。そんなカテゴリー分けをした少年はAグループの悪友たちにふりまわされた穏やかとは言いにくい中学校生活と違い、高校生活は穏やかに過ごしたいと考え、高校ではB(普通)グループに入り、その中でも特に目立たないよう存在感を薄く生活し、平穏な一年を過ごす。この平穏を逃すものかと誓う少年だが、ある日、特A(特に目立つ)の美少女を助けたことから変化を始める。少年は地味で平穏な生活を守っていけるのか……?
夏の決意
S.H.L
青春
主人公の遥(はるか)は高校3年生の女子バスケットボール部のキャプテン。部員たちとともに全国大会出場を目指して練習に励んでいたが、ある日、突然のアクシデントによりチームは崩壊の危機に瀕する。そんな中、遥は自らの決意を示すため、坊主頭になることを決意する。この決意はチームを再び一つにまとめるきっかけとなり、仲間たちとの絆を深め、成長していく青春ストーリー。
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