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Beautiful spirit
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日も暮れてきたため、ぼくは家に帰ることにした。
その帰り道もずっと、無くなった線引屋の道具一式のことが頭から離れなかった。
どこかに落としたかとも考えてみたが、カバンの奥底にいつもしまいこんでいるナップザックだけが消えていることから、その可能性は考えがたい。つまり、誰かが意図的に抜き取ったということになる。
まず、学校はあり得ない。中学時代、カバンの中身をいつの間にか漁られ、ゴミ箱に捨てられていたという思い出したくもない経験から学び、高校では鍵付きのロッカーが各生徒に割り振られているため、その中にカバンも入れるようにしている。
そうなると、一番可能性が高いのは、やはりーーー
ぼくは家に帰ると、まずは自分の部屋に戻って荷物を置くことにした。
プライバシーという近代概念を持たないキンダーガーテン児童並の学習能力しかない愚妹の部屋に突入し、問いただすのはその後だ。
息巻いてまずは自室のドアノブに手を伸ばす。本当は、可愛い妹を疑いたくはない。だけど、仕方ないんだ。
そんな風に心苦しく思いながら、自室の扉を開くと、そこには、人のノートパソコンで当たり前のようにネットサーフィンを楽しむ絵里加の姿があった。
犯人は犯行現場に戻るって言うけど、いや、なんかもう感心するよね。妹を疑う罪悪感とか一瞬でこっぱみじんだもん。
「あ、おかえりー」
しかも、見向きもしないでこの挨拶。
普段優しいお兄たまも今回ばかりは激オコである。
「絵里加、話があります」
「うん、ちょっと待って」
純粋にカチンときた。
だけど、堪えるんだ。ぼくなら待てる。
ひきつりながらも笑顔を繕い、「ちょっとって何分?」と嫌味を込めて聞いてやる。すると、
「二時間半くらい」
「長くねっ!?」
映画まるまる一本分だよ。
思わずぼくは、動揺して声を荒げてしまった。
「その『ちょっと』の定義なんなのっ? 絵里加これが朝だったら、『起きなさい』『あとちょっとー』ってやりとりしてから二時間半も寝続けてることになるよ? とっくに学校遅刻だよ! 重役出勤だよ!!」
この段階になって、ようやくパソコン画面から目を外し、視線をぼくに向けた絵里加は、ふん、と鼻を鳴らして言った。
「バカじゃん? 学校は大事じゃん」
「お兄ちゃんの話も大事だよ!」
いや、むしろお兄ちゃんのが大事だろう? なあ、妹よ。
「もー、なに、うるっさいなぁ」
あれぇ? なんかぼく面倒くさい兄貴みたいな対応されてない?
不名誉なんですけど。
ま、妹の無礼な態度はいまに始まったことではないので、さして気にならない。
それより、さっさと確認しておかないと。
「ねえ、絵里加。もしかして、ぼくの部屋勝手にいじったりしなかった?」
妹の視線が、スーっと画面に向かう。
「いや、ノーパソじゃなくて。ほら、その、なんていうか、奥底にしまってあるような物だよ」
「エロ本?」
そんなの持ってません。
ぼくは首を横に振ってそう答えた。
神聖にして荘厳なお兄様がそんな物を持ってるはずがないだろうに。
「ああ、じゃあノートパソコンの奥底に隠しファイルで偽装されてた、お気に入りのエロい動画のURL?」
「ーーーーえ?」
どどどどどどうしよう、カムフラージュは完璧だったはずなのにバレてる!?
ま、まぁ見られたとは限らない。というか、理解あるマイリルシスターだったら、兄のちょっとした性の目覚めを目の当たりにしてしまっても、そっと目を瞑ってくれるものだ。
「いやあの動画は、ないわ(笑)」
ガッツリ見られた上に、語尾に笑みを含むのやめてくれ妹よ。
「これからは兄貴のこと、ご主人様って呼んだ方がいい?」
舌を噛み切って死んでやろうかな。
脱線してしまった話を戻すため咳払いしつつ、本題に入る。
「この中、いじらなかった?」
手に持っていたカバンを突き出しながら、ぼくはそう言った。
「え、ご主人様のカバンの中?」
いい加減本題に入らせてくれ!
ぼくもふざけてばかりいられないので真面目な顔を向けると、絵里加もその空気を感じ取ったのか、表情から笑みを消した。
そして、「知らないよ」と答えた。
「本当に?」
思わず食い下がるぼくに、妹は怪訝な表情をつくりながら「本当だよ」と語気を強めた。
「そんなに疑われると気分悪いんだけど」
「ごめん。だけど、状況的に他に思い当たらなくって。……本当に絵里加じゃないの?」
「だから違うってば!」
怒りをあらわにしたこの態度、どうやら嘘はついていないようだ。
「つーかなに? なんか大事な物でもなくなったの?」
「まあ、そんなところ。ちょっと落としたりするようなものじゃないから、絵里加がいじってカバンから出したのかなって思ったんだけど、そんなことするわけないよね?」
うん、と一回頷いた絵里加。
彼女が犯人ではないとなると、いったい誰が………?
考え込むぼくを見て、深刻な状況だと判断したのか、絵里加はあれこれと聞いてきた。
ぼくとしては、持ち出したのが絵里加でないのならあまり詳しくこの話をするつもりはない。なにがなくなったのか、なんて聞かれていちいち嘘をつくのも面倒だ。
「大した物じゃないんだよ。ただ、カバン漁られてた形跡があったんだよね。それって、なんか嫌じゃん?」
と言って誤魔化す。
妹は頬を膨らませながら、「なんであたしを疑うの? そんな非常識なことしないから」と言った。
ぼくはノートパソコンを見てから、妹に視線を戻す。
いやぁ、日頃の行いって大事だよね。
「そんなことより兄貴」
いきなり話題を切り替えようとする妹。移り気が過ぎるよ。
ぼくにとってはそんなことで片付けられる問題ではないんだけど、妹は相変わらずマイペースに自分の言いたいことだけを言う。
「今度、いつ冴子ちゃん家に連れて来るの?」
「冴子ちゃん?」
一瞬考え、「ああ、石神さんのことか」と納得する。
ほんと絵里加は、ことあるごとに石神さんの話題をぼくに振ってくる。彼女が読者モデルとして雑誌に載ると、それを熱心に見せてくるほどだ。どんだけ憧れてるんだよ、まったく。
ぼくは呆れながら、答えた。
「もう、石神さんは家に来たりしないよ」
「え、なんで!?」
「いやだって、そもそも石神さんが家に来ること自体ありえないんだよ。ぼくと石神さんはあまりにも違い過ぎる」
「そんなの当たり前じゃん。それでも、前遊びに来てたじゃん」
確かに、そんなこともあったな。
彼女と出掛けて、他愛ない話をして、笑って、むくれ面になって、色々な表情をぼくに見せてくれた石神さん。
「だけど、もう来ないよ」
「だからなんでよ、兄貴」
「だって石神さんには、恋人がいるから」
彼女には、江津がいるから、もうこの家に来ることなんてありえない。
いくら石神さんがぼくを男として意識していなくても、事実として、ぼくが男であることは間違いないんだ。だからもう、彼女と二人きりで遊ぶようなことは、きっとない。ぼくだけに、あの眩しいくらいの笑顔を向けることは、もうないのだろう。
「ねえ、兄貴。それ、本当なの?」
頷くぼくを見るなり、絵里加は首をひねりながら、「そんなはずないのに……」と呟いている。
「え、なんでそんなはずないの?」
聞いてみても、絵里加は考えこんでいるのか、無視を決め込んでくる。なんだよ、自分からこの話題持ち出したくせに、石神さんがもう来ないとわかるとこの態度。兄への敬意みたいなものが欠片も感じられないな、まったく。
ぼくはため息をつきながら、自室を出て階下に降りる。リビングに置かれている三人がけのソファーを贅沢に占領しながら、庭を見ると、ガーデニングに熱中している母の姿があった。
体勢を変えた母は、視界にぼくの姿を捉えたのか、振り返って立ち上がると、窓に手をかけた。
ガラガラという音とともに開かれた窓から、真冬の冷たい風が入り
込む。
「帰ってたなら言いなさいよ」
母の小言に、「ごめん」と一言告げたぼくは、ふと気になって、「なんでこんなに寒い中、庭いじりなんてするの?」と聞いてみた。
すると、「冬場だって花は手入れしてあげないと、温かくなってから花を咲かせてくれないのよ」と答えた。
「そもそも、母さんってなんでガーデニングやるようになったんだっけ?」
世の専業主婦の皆様は、子供がある程度手が掛からなくなると、今度は別の生命を育みたくなるものなのだろうか?
なんとなくした質問ではあったが、思い返してみると、母は物心ついた頃から花を育てていたように思う。いままで気にならなかったことが、むしろ不思議に思えるが、それくらいこの光景はぼくにとって日常と化していたのだ。
「あれ、話したことなかったかな?」
母はそう言うと、鉢植えの花を慈しむように持ち上げながら、言った。
「お父さんがね、プロポーズのときに、抱えきれないくらいの花束をくれたの。それがすごくキレイで、それに、嬉しかったのよ。それから、花が好きになったんだ」
へえ、あのSNO48 (冴えないおっさん48歳)が、若かりし頃はそんなキザな真似をしていたなんて、想像できないし、息子の立場としてはあまり想像したくない。
だけど確かに、父はあまり家庭のことに関心がなかったけれど、結婚記念日だとか、誕生日、母の日みたいな、そういう節目は絶対に忘れない。
「これが恐妻の成せる業か」
「ちょっと比左志、あんたなんか言った?」
おっと、口は災いのもとだ。
ぼくは知らんぷりしてリビングのテレビを点けた。
流れてくる映像は、夜のニュース番組の特集コーナー。
イギリスの有名なストリートアーティストが、街中にトリックアートを仕掛けて、道行く人々を驚かせている様子がコミカルに写し出されている。
十分ほどの短いコーナーの終わり頃に、現在の日本におけるストリートアートが端的にまとめられていた。美大卒のアーティスト集団や、似顔絵師などの表舞台で活躍するアーティストがコメントし終えると、急に見覚えのある駅が画面にあらわれる。普段良く利用する駅で、マッドシティの中心地でもあるその場所を取材スタッフが歩きながら、道行く人々に話を聞いていく。
スタッフの質問に、若いヤンチャそうな男性が答えた。
『落書き? ああ、グラフィティのことね。熱いよ、この街は』
その言葉を切っ掛けに、画面には、いまでは撤去されたライズビルのグラフィティや、消されてしまったリバースグラフィティの映像が映し出される。
そして、『ストリートのカリスマって言ったら、やっぱり線引屋だよねー』と派手な髪の色したギャル三人組がそう言った。
ぼくは、画面を見ながら、思わず口をあんぐり開いていた。
だって、全国ネットの番組でぼくの描いたグラフィティが紹介されるなんて、誰が想像できるだろう。
思わず口角が上がり、自然と笑みが浮かぶのを自覚する。
しかし、内容はそこから少し陰りを見せた。
続いて、マイクを持った取材スタッフが、『その反面~』という言葉を口にしながら、街中を歩き、駅の側の飲食店が並ぶ通りから一本外れた路地に差し掛かると、インクで壁を汚すのが目的としか思えないような拙い落書きがちらほら目にとまる。そこで画面が切り替わり、スタッフが、今度は街中を歩く高齢な女性に話を聞くと、『街に落書きがあると、不良がいるんじゃないかと思って恐ろしくて近づけない』と語っていた。
取材スタッフが、締めくくりとして、『こういう無許可な悪戯描きは、建物の持ち主に迷惑がかかるばかりか、街の景観を損ねることにもつながります』と注意を促し、スタジオに放送が切り替わった。そこからは、全国ニュースが報道される。
その後のニュースでは、口論の末、客を包丁で刺した飲食店員や、薬物所持で捕まった芸能人の話題があがっていたが、まるで頭に入ってこない。
街の落書き。これまではあまり取りざたされることもなかった話題が、こうしてニュース番組に取り上げられている。しかも、線引屋の名前まで出てしまっている。
正直、混乱していた。
線引屋を狙う不良の出現や、線引屋に影響を受けたグラフィティライターの増加、そして、このタイミングで無くなってしまった道具一式。
正直、犯人は絵里加だと決めつけていたため、家に帰れば見つかるだろうと思っていたし、絵里加だったら言いくるめる自信もあった。だが、妹はぼくのカバンの中を漁ったりしていないと言う。その真剣な様子からして、嘘は言っていないのは間違いないので、カバンの中から道具を盗った別の誰かがいることになる。
ここまで揃っている情報と、状況証拠から推測すると、容疑者はそれほど多くはない。
ぼくは立ち上がると、身支度を整えて玄関を出る。
庭にいた母に、「なに、いまから出かけるの?」と聞かれる。
ぼくは「うん」と頷いてから、「ちょっと用事ができた」と告げて、家を出た。
その帰り道もずっと、無くなった線引屋の道具一式のことが頭から離れなかった。
どこかに落としたかとも考えてみたが、カバンの奥底にいつもしまいこんでいるナップザックだけが消えていることから、その可能性は考えがたい。つまり、誰かが意図的に抜き取ったということになる。
まず、学校はあり得ない。中学時代、カバンの中身をいつの間にか漁られ、ゴミ箱に捨てられていたという思い出したくもない経験から学び、高校では鍵付きのロッカーが各生徒に割り振られているため、その中にカバンも入れるようにしている。
そうなると、一番可能性が高いのは、やはりーーー
ぼくは家に帰ると、まずは自分の部屋に戻って荷物を置くことにした。
プライバシーという近代概念を持たないキンダーガーテン児童並の学習能力しかない愚妹の部屋に突入し、問いただすのはその後だ。
息巻いてまずは自室のドアノブに手を伸ばす。本当は、可愛い妹を疑いたくはない。だけど、仕方ないんだ。
そんな風に心苦しく思いながら、自室の扉を開くと、そこには、人のノートパソコンで当たり前のようにネットサーフィンを楽しむ絵里加の姿があった。
犯人は犯行現場に戻るって言うけど、いや、なんかもう感心するよね。妹を疑う罪悪感とか一瞬でこっぱみじんだもん。
「あ、おかえりー」
しかも、見向きもしないでこの挨拶。
普段優しいお兄たまも今回ばかりは激オコである。
「絵里加、話があります」
「うん、ちょっと待って」
純粋にカチンときた。
だけど、堪えるんだ。ぼくなら待てる。
ひきつりながらも笑顔を繕い、「ちょっとって何分?」と嫌味を込めて聞いてやる。すると、
「二時間半くらい」
「長くねっ!?」
映画まるまる一本分だよ。
思わずぼくは、動揺して声を荒げてしまった。
「その『ちょっと』の定義なんなのっ? 絵里加これが朝だったら、『起きなさい』『あとちょっとー』ってやりとりしてから二時間半も寝続けてることになるよ? とっくに学校遅刻だよ! 重役出勤だよ!!」
この段階になって、ようやくパソコン画面から目を外し、視線をぼくに向けた絵里加は、ふん、と鼻を鳴らして言った。
「バカじゃん? 学校は大事じゃん」
「お兄ちゃんの話も大事だよ!」
いや、むしろお兄ちゃんのが大事だろう? なあ、妹よ。
「もー、なに、うるっさいなぁ」
あれぇ? なんかぼく面倒くさい兄貴みたいな対応されてない?
不名誉なんですけど。
ま、妹の無礼な態度はいまに始まったことではないので、さして気にならない。
それより、さっさと確認しておかないと。
「ねえ、絵里加。もしかして、ぼくの部屋勝手にいじったりしなかった?」
妹の視線が、スーっと画面に向かう。
「いや、ノーパソじゃなくて。ほら、その、なんていうか、奥底にしまってあるような物だよ」
「エロ本?」
そんなの持ってません。
ぼくは首を横に振ってそう答えた。
神聖にして荘厳なお兄様がそんな物を持ってるはずがないだろうに。
「ああ、じゃあノートパソコンの奥底に隠しファイルで偽装されてた、お気に入りのエロい動画のURL?」
「ーーーーえ?」
どどどどどどうしよう、カムフラージュは完璧だったはずなのにバレてる!?
ま、まぁ見られたとは限らない。というか、理解あるマイリルシスターだったら、兄のちょっとした性の目覚めを目の当たりにしてしまっても、そっと目を瞑ってくれるものだ。
「いやあの動画は、ないわ(笑)」
ガッツリ見られた上に、語尾に笑みを含むのやめてくれ妹よ。
「これからは兄貴のこと、ご主人様って呼んだ方がいい?」
舌を噛み切って死んでやろうかな。
脱線してしまった話を戻すため咳払いしつつ、本題に入る。
「この中、いじらなかった?」
手に持っていたカバンを突き出しながら、ぼくはそう言った。
「え、ご主人様のカバンの中?」
いい加減本題に入らせてくれ!
ぼくもふざけてばかりいられないので真面目な顔を向けると、絵里加もその空気を感じ取ったのか、表情から笑みを消した。
そして、「知らないよ」と答えた。
「本当に?」
思わず食い下がるぼくに、妹は怪訝な表情をつくりながら「本当だよ」と語気を強めた。
「そんなに疑われると気分悪いんだけど」
「ごめん。だけど、状況的に他に思い当たらなくって。……本当に絵里加じゃないの?」
「だから違うってば!」
怒りをあらわにしたこの態度、どうやら嘘はついていないようだ。
「つーかなに? なんか大事な物でもなくなったの?」
「まあ、そんなところ。ちょっと落としたりするようなものじゃないから、絵里加がいじってカバンから出したのかなって思ったんだけど、そんなことするわけないよね?」
うん、と一回頷いた絵里加。
彼女が犯人ではないとなると、いったい誰が………?
考え込むぼくを見て、深刻な状況だと判断したのか、絵里加はあれこれと聞いてきた。
ぼくとしては、持ち出したのが絵里加でないのならあまり詳しくこの話をするつもりはない。なにがなくなったのか、なんて聞かれていちいち嘘をつくのも面倒だ。
「大した物じゃないんだよ。ただ、カバン漁られてた形跡があったんだよね。それって、なんか嫌じゃん?」
と言って誤魔化す。
妹は頬を膨らませながら、「なんであたしを疑うの? そんな非常識なことしないから」と言った。
ぼくはノートパソコンを見てから、妹に視線を戻す。
いやぁ、日頃の行いって大事だよね。
「そんなことより兄貴」
いきなり話題を切り替えようとする妹。移り気が過ぎるよ。
ぼくにとってはそんなことで片付けられる問題ではないんだけど、妹は相変わらずマイペースに自分の言いたいことだけを言う。
「今度、いつ冴子ちゃん家に連れて来るの?」
「冴子ちゃん?」
一瞬考え、「ああ、石神さんのことか」と納得する。
ほんと絵里加は、ことあるごとに石神さんの話題をぼくに振ってくる。彼女が読者モデルとして雑誌に載ると、それを熱心に見せてくるほどだ。どんだけ憧れてるんだよ、まったく。
ぼくは呆れながら、答えた。
「もう、石神さんは家に来たりしないよ」
「え、なんで!?」
「いやだって、そもそも石神さんが家に来ること自体ありえないんだよ。ぼくと石神さんはあまりにも違い過ぎる」
「そんなの当たり前じゃん。それでも、前遊びに来てたじゃん」
確かに、そんなこともあったな。
彼女と出掛けて、他愛ない話をして、笑って、むくれ面になって、色々な表情をぼくに見せてくれた石神さん。
「だけど、もう来ないよ」
「だからなんでよ、兄貴」
「だって石神さんには、恋人がいるから」
彼女には、江津がいるから、もうこの家に来ることなんてありえない。
いくら石神さんがぼくを男として意識していなくても、事実として、ぼくが男であることは間違いないんだ。だからもう、彼女と二人きりで遊ぶようなことは、きっとない。ぼくだけに、あの眩しいくらいの笑顔を向けることは、もうないのだろう。
「ねえ、兄貴。それ、本当なの?」
頷くぼくを見るなり、絵里加は首をひねりながら、「そんなはずないのに……」と呟いている。
「え、なんでそんなはずないの?」
聞いてみても、絵里加は考えこんでいるのか、無視を決め込んでくる。なんだよ、自分からこの話題持ち出したくせに、石神さんがもう来ないとわかるとこの態度。兄への敬意みたいなものが欠片も感じられないな、まったく。
ぼくはため息をつきながら、自室を出て階下に降りる。リビングに置かれている三人がけのソファーを贅沢に占領しながら、庭を見ると、ガーデニングに熱中している母の姿があった。
体勢を変えた母は、視界にぼくの姿を捉えたのか、振り返って立ち上がると、窓に手をかけた。
ガラガラという音とともに開かれた窓から、真冬の冷たい風が入り
込む。
「帰ってたなら言いなさいよ」
母の小言に、「ごめん」と一言告げたぼくは、ふと気になって、「なんでこんなに寒い中、庭いじりなんてするの?」と聞いてみた。
すると、「冬場だって花は手入れしてあげないと、温かくなってから花を咲かせてくれないのよ」と答えた。
「そもそも、母さんってなんでガーデニングやるようになったんだっけ?」
世の専業主婦の皆様は、子供がある程度手が掛からなくなると、今度は別の生命を育みたくなるものなのだろうか?
なんとなくした質問ではあったが、思い返してみると、母は物心ついた頃から花を育てていたように思う。いままで気にならなかったことが、むしろ不思議に思えるが、それくらいこの光景はぼくにとって日常と化していたのだ。
「あれ、話したことなかったかな?」
母はそう言うと、鉢植えの花を慈しむように持ち上げながら、言った。
「お父さんがね、プロポーズのときに、抱えきれないくらいの花束をくれたの。それがすごくキレイで、それに、嬉しかったのよ。それから、花が好きになったんだ」
へえ、あのSNO48 (冴えないおっさん48歳)が、若かりし頃はそんなキザな真似をしていたなんて、想像できないし、息子の立場としてはあまり想像したくない。
だけど確かに、父はあまり家庭のことに関心がなかったけれど、結婚記念日だとか、誕生日、母の日みたいな、そういう節目は絶対に忘れない。
「これが恐妻の成せる業か」
「ちょっと比左志、あんたなんか言った?」
おっと、口は災いのもとだ。
ぼくは知らんぷりしてリビングのテレビを点けた。
流れてくる映像は、夜のニュース番組の特集コーナー。
イギリスの有名なストリートアーティストが、街中にトリックアートを仕掛けて、道行く人々を驚かせている様子がコミカルに写し出されている。
十分ほどの短いコーナーの終わり頃に、現在の日本におけるストリートアートが端的にまとめられていた。美大卒のアーティスト集団や、似顔絵師などの表舞台で活躍するアーティストがコメントし終えると、急に見覚えのある駅が画面にあらわれる。普段良く利用する駅で、マッドシティの中心地でもあるその場所を取材スタッフが歩きながら、道行く人々に話を聞いていく。
スタッフの質問に、若いヤンチャそうな男性が答えた。
『落書き? ああ、グラフィティのことね。熱いよ、この街は』
その言葉を切っ掛けに、画面には、いまでは撤去されたライズビルのグラフィティや、消されてしまったリバースグラフィティの映像が映し出される。
そして、『ストリートのカリスマって言ったら、やっぱり線引屋だよねー』と派手な髪の色したギャル三人組がそう言った。
ぼくは、画面を見ながら、思わず口をあんぐり開いていた。
だって、全国ネットの番組でぼくの描いたグラフィティが紹介されるなんて、誰が想像できるだろう。
思わず口角が上がり、自然と笑みが浮かぶのを自覚する。
しかし、内容はそこから少し陰りを見せた。
続いて、マイクを持った取材スタッフが、『その反面~』という言葉を口にしながら、街中を歩き、駅の側の飲食店が並ぶ通りから一本外れた路地に差し掛かると、インクで壁を汚すのが目的としか思えないような拙い落書きがちらほら目にとまる。そこで画面が切り替わり、スタッフが、今度は街中を歩く高齢な女性に話を聞くと、『街に落書きがあると、不良がいるんじゃないかと思って恐ろしくて近づけない』と語っていた。
取材スタッフが、締めくくりとして、『こういう無許可な悪戯描きは、建物の持ち主に迷惑がかかるばかりか、街の景観を損ねることにもつながります』と注意を促し、スタジオに放送が切り替わった。そこからは、全国ニュースが報道される。
その後のニュースでは、口論の末、客を包丁で刺した飲食店員や、薬物所持で捕まった芸能人の話題があがっていたが、まるで頭に入ってこない。
街の落書き。これまではあまり取りざたされることもなかった話題が、こうしてニュース番組に取り上げられている。しかも、線引屋の名前まで出てしまっている。
正直、混乱していた。
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正直、犯人は絵里加だと決めつけていたため、家に帰れば見つかるだろうと思っていたし、絵里加だったら言いくるめる自信もあった。だが、妹はぼくのカバンの中を漁ったりしていないと言う。その真剣な様子からして、嘘は言っていないのは間違いないので、カバンの中から道具を盗った別の誰かがいることになる。
ここまで揃っている情報と、状況証拠から推測すると、容疑者はそれほど多くはない。
ぼくは立ち上がると、身支度を整えて玄関を出る。
庭にいた母に、「なに、いまから出かけるの?」と聞かれる。
ぼくは「うん」と頷いてから、「ちょっと用事ができた」と告げて、家を出た。
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