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ゴーストライター
13裏
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2月14日。
この日を特別意識したのは何年くらい前のことだったかしら。
ウチだって、バレンタインデーを特別な日だって感じる程度の女の子らしさくらい持ってるつもり。だけど、いつからか重要な日だって感じなくなっていた。間久辺に出会うまでは。
今年のバレンタインは特別なものだって感じる。女の子らしい感性が強い百合と、間久辺の妹の絵里加ちゃん。三人でバレンタインのチョコ作りをしたのがその証拠。
いままでだって、モデル仲間やお世話になった人にチョコを渡したことは何度もあったけど、こんなに緊張したのは間違いなく初めてのことだわ。
そして、こんなに浮かれた気持ちになるのも初めて。
そんな気持ちで登校したが、この日、間久辺は学校に来ていなかった。
気になったのは、百合も学校を休んだということ。
クラスメイトがやけに騒がしいことと、二人がいないことにはなにか関係があるのかしら?
そう思い、江津、木下、能田の脳筋三バカに何があったのか聞いてみることにした。
すると、
「石神知らねえの? 隣街をずっと前から仕切ってた大規模な不良グループが潰されたんだぜ」
「そうそう。ヤバいのは、それがたった一人の男の行動によるものだってことだ」
木下と能田の二人が興奮した様子でそう言った。
なんか二人の偉そうな口ぶりが癪にさわったので、
「あーそー。ヤンキーのいざこざとか興味ないからいいや。どうせアカサビとかいう不良の話でしょ?」
そう言って、手をひらひら振りながらウチが背中を向けると、今度は江津が呼び止めてきた。
振り返り江津に目をやると、彼は神妙な面持ちでこう言った。
「不良グループを潰したのは、線引屋だ」
予想してない言葉に、
「えっ、どういうこと……?」
とウチは身を乗り出した。
「詳細は俺にもよくわからねえよ。ただ、ネットはその話題で盛り上がってる。どうやら、昨日の夜に動画がアップされたらしくて、そこには、隣街の不良グループがアジトにしている建物に、線引屋がグラフィティを打つ姿が映っていたそうだ」
間久辺のヤツ、また無茶なことやったのね。
これで、百合が学校を休んだこともなんとなくわかった。あの娘、線引屋の熱烈なファンだし、昨日は徹夜でもしたのだろう。
「石神、見てみるか?」
江津にそう言われ、差し出されたスマホを受け取る。
そこには動画の再生画面が開かれていて、再生ボタンを押すと、いきなり弾幕のようなコメントが右から左に流れていった。そのどれもが大した内容のコメントではなかった。
それから少しすると、文字の勢いが若干弱まると同時に、中心部に人影が見えた。パーカーのフードを被った背中。線引屋ーーー間久辺の姿だ。
その後、線引屋は消火器を使って壁にドクロの絵を描いた。これが、さっき江津が言っていた不良グループのアジトなのだろう。
壁への落書きが終わると、再び画面を右から左に流れる文字の勢いが増す。
動画の終わりを見極めたのか、江津は口を開き、「最後のコメントを見てみな」と言った。
その言葉に従うように、文字を目で追いながら、その言葉を小さく呟いく。
「ーーー神出鬼没の骸骨ライター」と。
その後、休み時間の度に間久辺の携帯に連絡を入れてみたけれど、折り返しの電話はおろか、メールの返事も来なかった。百合にも連絡を入れたけれど、同じく電話に出ない。
放課後になり、どうしよう、間久辺の家に直接行ってみようかしらと考えながら昇降口を出たところで、携帯が鳴った。確認してみると、ちょうど考えていた間久辺からの折り返しの電話だった。
待ちに待った電話に、
「間久辺? どうしたの、大丈夫?」
少しの沈黙が続いたあと、なにかためらうような息遣いが聞こえ、彼は息を吐き出すついでみたいにそっと答えた。
「大丈夫だよ。体調は悪くない」
「本当?」
「うん」
「でも、その割には声に元気がないみたいだけど、なにかあった?」
ウチの質問に対して、間久辺はなかなか答えようとしない。
「やっぱり、ウチにも言えないようなこと?」
そう言うと、再び間久辺は沈黙した。
これでは埒があかないし、なにより渡したい物もある。せっかく頑張って作ったのだから、今日のうちにチョコを渡したいと思ったウチは、なんとかこの後会えないかと聞いてみた。体調が悪いようなら、玄関先でもいいと言うと、間久辺は、
「ちょうどいい。ぼくも聞いてもらいたいことがあるんだ」
そう言って、会うことを許してくれた。
家まで行くと言ったのだけど、会うのは駅の側にしようと言われた。体調が悪くて学校を休んだのだから無理しないで欲しいのに、聞き入れてもらえず、結局駅のそばの公園で待ち合わせることになった。
ウチが公園に到着したのは、それから30分後のことだった。
小さな公園の入り口に立ち、中を見渡すと、ベンチに人影が見えた。目をこらすと、それが間久辺であることに気付く。
その人影が間久辺だとすぐに気付けなかったのは、どこか雰囲気がいつもと違って見えたからだ。
ベンチに近付き、ウチは「お待たせ」と言って隣に腰を下ろした。
ストンとお尻をつけてから、さりげなく肩が当たるくらいのところまで距離を詰める。
いつもの間久辺なら、それだけで大げさなくらい動揺するのだけど、今日は違った。やっぱり、なにか変だ。
でも、ウチはその違和感を無視して益体のない話をした。
途中、間久辺は何度もウチの話を遮ろうとしていたが、それでも構わずに喋り続けた。
「ねえ、聞いてよ石神さん」
「ーーーやだ」
「え?」
「聞きたくない。あんたの顔見れば、それが良い話か悪い話かくらいわかるよ」
そんなネガティブ、否定してほしい。
そう願ったのに、間久辺は否定するどころか、再びこう言った。
「……それでも、聞いてくれ」
そんな苦しそうな表情で言われたら、聞かないわけにはいかないよ。
ウチは小さく頷いた。
「ありがとう」
そうして、切り出された言葉はとても短く、そして残酷だった。
「ーーー石神さん。ぼくたち、終わりにしよう」
「は?」
あまりにも予想していなかった発言に、一瞬頭の中が真っ白になる。
それでも、すぐに言葉の意味するところを理解した。
「なんで? どうしてそうなるの? ウチ、なんかした?」
黙ったままの間久辺に、
「答えてよっ!」
と語気を強めて詰め寄った。
だけど、彼の口が開くことはない。
「ねぇ、どうしてなにも言ってくれないの? ひどいよ。今日、なんの日かわかる? バレンタインデーだよ。だから、喜んでくれたらいいなって、チョコ、用意したんだよ?」
震える手で、用意した包みを差し出す。
だけど、間久辺の手が伸びることはなかった。
悔しくて腹立たしくて、頭の中がぐちゃぐちゃになる。
なにかしてしまったのだろうか。
不愉快な思いをさせてしまったのだろうか。
考えようとしても、楽しかった時間しか思い出せない。
だけど、そう感じていたのはウチだけだったのか。
ウチと間久辺は、これほどまでに遠かった。それがなによりも、悲しかった。
思い切り殴って、罵声をあびせてやりたいと思うくらい腹立たしかった。でも、そうしなかったのは、隣にいる間久辺が、いまにも泣き出しそうな表情をしていたから。
詳しいことはわからない。聞きたいこともいっぱいある。
だけど、これ以上ウチがなにを言っても、間久辺を苦しめるだけだ。だったら、なにも言わない。ウチは、これまでだってずっと間久辺に辛い思いをさせてきたのに、これ以上苦しめたくなんてない。
だから、なにも言わずに立ち上がった。
そして、座ったままの間久辺の膝の上に、そっと包みを置く。
「わかった。間久辺の望み通り、別れてあげる。でも、それだけは受け取って。いらなかったら捨ててくれてもいいから」
家に帰ったウチは、ベッドにうつ伏せになり、声を殺して泣いた。まさか、間久辺に泣かされる日が来るなんて夢にも思っていなかったな。
気付くと眠ってしまっていて、外は完全な夜になっていた。
時間を確認しようとスマホを手にし、画面を見ると百合から着信が入っていた。昼間に掛けたから、折り返し電話がきていたのだ。
ウチはリダイアルで電話を耳に当てた。
数秒の呼び出し音のあと、電話が繋がったにも関わらず、電話の向こうはやけに静かだった。
「百合?」
そう聞くと、かすれた声で小さな返事が聞こえた。
「風邪ひいたの?」
「ううん。ごめんね冴子、心配かけて」
「大丈夫ならいいよ」
そう言った直後、なぜだろう、ウチの瞳から涙が溢れた。嗚咽すらも我慢できないくらい、大粒の涙が頬を伝う。もしかしたら、百合の声を聞いて安心してしまったのかもしれない。
「どうしたのっ?」
百合の気遣わしげな言葉にほだされ、ウチはさっきの出来事をすべて話していた。間久辺に振られたこと。それがどれだけ腹立たしくて、悔しくて、なにより悲しいことだったのかを涙ながらに話した。
ウチの話を最後まで聞いた百合は、消え入りそうな声で、
「……ごめん、なさい」
そう言って謝った。
「ごめんなさい。本当に、本当にごめんなさいっ」
気付くと、電話の向こうで百合も泣いているようだった。
「どうして、百合が謝るの?」
「だって、それは私のせいだから……」
「どういう意味?」
ウチの質問に、百合はゆっくりだけど答えた。
ファランクスという芸術家集団の話。そこで知り合った女性に、線引屋の正体を暴く代わりに、手を貸すよう言われたこと。そして、線引屋の正体を知り、愕然としたこと。
「冴子、本当にごめんね……間久辺君が冴子と別れたのは、きっと私のせい。私の身勝手で、間久辺君が線引屋だってことが沢山の不良に知られてしまったから、間久辺君は自分と繋がりのある人を遠ざけようとしたのよ。大切な人をーーー冴子を守るために」
「それって、間久辺本人は無事でいられるの?」
「それはたぶん大丈夫だと思う。線引屋としての間久辺君の力を買われて、千葉連合の幹部に引き入れられたみたいなの。だから、彼の身の安全は、きっと保証されてるはず」
なにか事情があって別れを切り出されたことは、あいつの表情を見てなんとなくわかっていたけれど、そんな大変なことになっているなんて思いもしなかった。ウチの知らない間に、間久辺はそこまで遠くに行ってしまったのか。
「本当にごめんなさい。私、冴子にどう償ったらいいのか……」
何度も謝る百合の言葉を遮ってウチは言った。
「謝るのは、ウチの方だよ」
「どうして冴子が謝らないといけないの?」
「それは……」
思わず話すのを躊躇してしまい、これではいけないと思い、ウチは覚悟を決めて口を開く。
「知ってたのよ、間久辺のこと。知ってて百合に黙っていたの」
「知ってたって、なんの話?」
「間久辺がーーーあいつが、線引屋だってことよ」
そう言うと、電話の向こうで息を飲む音が聞こえた。
それでもウチは、話し続けた。
「知ってたの。あいつが線引屋だってことも、百合が線引屋に憧れていたことも、全部知ってて黙っていたの。だって、あいつも百合に憧れてたから。だから、百合に知られてしまうことが怖かったの」
そうなったら、間久辺を取られてしまうような気がして、言い出すことができなかった。
だけど、その結果、百合が正体を知ろうとして動くのは当然のことだった。
「だから、今回の件は百合のせいじゃない。ウチのせいよ」
そう言って謝ると、電話の向こうで否定の言葉が聞こえた。
ウチらは、お互いに相手の言葉を否定しながら、謝り続けた。そうしている内に、再び自然と涙が溢れてくる。
どこで間違ってしまったのだろう。どうしたら良かったのだろうか。
どうすれば、間久辺を失わずに済んだのか。
誰かに答えを求めたところで、返って来ないことはわかっているけれど、聞かずにはいられなかった。
この日を特別意識したのは何年くらい前のことだったかしら。
ウチだって、バレンタインデーを特別な日だって感じる程度の女の子らしさくらい持ってるつもり。だけど、いつからか重要な日だって感じなくなっていた。間久辺に出会うまでは。
今年のバレンタインは特別なものだって感じる。女の子らしい感性が強い百合と、間久辺の妹の絵里加ちゃん。三人でバレンタインのチョコ作りをしたのがその証拠。
いままでだって、モデル仲間やお世話になった人にチョコを渡したことは何度もあったけど、こんなに緊張したのは間違いなく初めてのことだわ。
そして、こんなに浮かれた気持ちになるのも初めて。
そんな気持ちで登校したが、この日、間久辺は学校に来ていなかった。
気になったのは、百合も学校を休んだということ。
クラスメイトがやけに騒がしいことと、二人がいないことにはなにか関係があるのかしら?
そう思い、江津、木下、能田の脳筋三バカに何があったのか聞いてみることにした。
すると、
「石神知らねえの? 隣街をずっと前から仕切ってた大規模な不良グループが潰されたんだぜ」
「そうそう。ヤバいのは、それがたった一人の男の行動によるものだってことだ」
木下と能田の二人が興奮した様子でそう言った。
なんか二人の偉そうな口ぶりが癪にさわったので、
「あーそー。ヤンキーのいざこざとか興味ないからいいや。どうせアカサビとかいう不良の話でしょ?」
そう言って、手をひらひら振りながらウチが背中を向けると、今度は江津が呼び止めてきた。
振り返り江津に目をやると、彼は神妙な面持ちでこう言った。
「不良グループを潰したのは、線引屋だ」
予想してない言葉に、
「えっ、どういうこと……?」
とウチは身を乗り出した。
「詳細は俺にもよくわからねえよ。ただ、ネットはその話題で盛り上がってる。どうやら、昨日の夜に動画がアップされたらしくて、そこには、隣街の不良グループがアジトにしている建物に、線引屋がグラフィティを打つ姿が映っていたそうだ」
間久辺のヤツ、また無茶なことやったのね。
これで、百合が学校を休んだこともなんとなくわかった。あの娘、線引屋の熱烈なファンだし、昨日は徹夜でもしたのだろう。
「石神、見てみるか?」
江津にそう言われ、差し出されたスマホを受け取る。
そこには動画の再生画面が開かれていて、再生ボタンを押すと、いきなり弾幕のようなコメントが右から左に流れていった。そのどれもが大した内容のコメントではなかった。
それから少しすると、文字の勢いが若干弱まると同時に、中心部に人影が見えた。パーカーのフードを被った背中。線引屋ーーー間久辺の姿だ。
その後、線引屋は消火器を使って壁にドクロの絵を描いた。これが、さっき江津が言っていた不良グループのアジトなのだろう。
壁への落書きが終わると、再び画面を右から左に流れる文字の勢いが増す。
動画の終わりを見極めたのか、江津は口を開き、「最後のコメントを見てみな」と言った。
その言葉に従うように、文字を目で追いながら、その言葉を小さく呟いく。
「ーーー神出鬼没の骸骨ライター」と。
その後、休み時間の度に間久辺の携帯に連絡を入れてみたけれど、折り返しの電話はおろか、メールの返事も来なかった。百合にも連絡を入れたけれど、同じく電話に出ない。
放課後になり、どうしよう、間久辺の家に直接行ってみようかしらと考えながら昇降口を出たところで、携帯が鳴った。確認してみると、ちょうど考えていた間久辺からの折り返しの電話だった。
待ちに待った電話に、
「間久辺? どうしたの、大丈夫?」
少しの沈黙が続いたあと、なにかためらうような息遣いが聞こえ、彼は息を吐き出すついでみたいにそっと答えた。
「大丈夫だよ。体調は悪くない」
「本当?」
「うん」
「でも、その割には声に元気がないみたいだけど、なにかあった?」
ウチの質問に対して、間久辺はなかなか答えようとしない。
「やっぱり、ウチにも言えないようなこと?」
そう言うと、再び間久辺は沈黙した。
これでは埒があかないし、なにより渡したい物もある。せっかく頑張って作ったのだから、今日のうちにチョコを渡したいと思ったウチは、なんとかこの後会えないかと聞いてみた。体調が悪いようなら、玄関先でもいいと言うと、間久辺は、
「ちょうどいい。ぼくも聞いてもらいたいことがあるんだ」
そう言って、会うことを許してくれた。
家まで行くと言ったのだけど、会うのは駅の側にしようと言われた。体調が悪くて学校を休んだのだから無理しないで欲しいのに、聞き入れてもらえず、結局駅のそばの公園で待ち合わせることになった。
ウチが公園に到着したのは、それから30分後のことだった。
小さな公園の入り口に立ち、中を見渡すと、ベンチに人影が見えた。目をこらすと、それが間久辺であることに気付く。
その人影が間久辺だとすぐに気付けなかったのは、どこか雰囲気がいつもと違って見えたからだ。
ベンチに近付き、ウチは「お待たせ」と言って隣に腰を下ろした。
ストンとお尻をつけてから、さりげなく肩が当たるくらいのところまで距離を詰める。
いつもの間久辺なら、それだけで大げさなくらい動揺するのだけど、今日は違った。やっぱり、なにか変だ。
でも、ウチはその違和感を無視して益体のない話をした。
途中、間久辺は何度もウチの話を遮ろうとしていたが、それでも構わずに喋り続けた。
「ねえ、聞いてよ石神さん」
「ーーーやだ」
「え?」
「聞きたくない。あんたの顔見れば、それが良い話か悪い話かくらいわかるよ」
そんなネガティブ、否定してほしい。
そう願ったのに、間久辺は否定するどころか、再びこう言った。
「……それでも、聞いてくれ」
そんな苦しそうな表情で言われたら、聞かないわけにはいかないよ。
ウチは小さく頷いた。
「ありがとう」
そうして、切り出された言葉はとても短く、そして残酷だった。
「ーーー石神さん。ぼくたち、終わりにしよう」
「は?」
あまりにも予想していなかった発言に、一瞬頭の中が真っ白になる。
それでも、すぐに言葉の意味するところを理解した。
「なんで? どうしてそうなるの? ウチ、なんかした?」
黙ったままの間久辺に、
「答えてよっ!」
と語気を強めて詰め寄った。
だけど、彼の口が開くことはない。
「ねぇ、どうしてなにも言ってくれないの? ひどいよ。今日、なんの日かわかる? バレンタインデーだよ。だから、喜んでくれたらいいなって、チョコ、用意したんだよ?」
震える手で、用意した包みを差し出す。
だけど、間久辺の手が伸びることはなかった。
悔しくて腹立たしくて、頭の中がぐちゃぐちゃになる。
なにかしてしまったのだろうか。
不愉快な思いをさせてしまったのだろうか。
考えようとしても、楽しかった時間しか思い出せない。
だけど、そう感じていたのはウチだけだったのか。
ウチと間久辺は、これほどまでに遠かった。それがなによりも、悲しかった。
思い切り殴って、罵声をあびせてやりたいと思うくらい腹立たしかった。でも、そうしなかったのは、隣にいる間久辺が、いまにも泣き出しそうな表情をしていたから。
詳しいことはわからない。聞きたいこともいっぱいある。
だけど、これ以上ウチがなにを言っても、間久辺を苦しめるだけだ。だったら、なにも言わない。ウチは、これまでだってずっと間久辺に辛い思いをさせてきたのに、これ以上苦しめたくなんてない。
だから、なにも言わずに立ち上がった。
そして、座ったままの間久辺の膝の上に、そっと包みを置く。
「わかった。間久辺の望み通り、別れてあげる。でも、それだけは受け取って。いらなかったら捨ててくれてもいいから」
家に帰ったウチは、ベッドにうつ伏せになり、声を殺して泣いた。まさか、間久辺に泣かされる日が来るなんて夢にも思っていなかったな。
気付くと眠ってしまっていて、外は完全な夜になっていた。
時間を確認しようとスマホを手にし、画面を見ると百合から着信が入っていた。昼間に掛けたから、折り返し電話がきていたのだ。
ウチはリダイアルで電話を耳に当てた。
数秒の呼び出し音のあと、電話が繋がったにも関わらず、電話の向こうはやけに静かだった。
「百合?」
そう聞くと、かすれた声で小さな返事が聞こえた。
「風邪ひいたの?」
「ううん。ごめんね冴子、心配かけて」
「大丈夫ならいいよ」
そう言った直後、なぜだろう、ウチの瞳から涙が溢れた。嗚咽すらも我慢できないくらい、大粒の涙が頬を伝う。もしかしたら、百合の声を聞いて安心してしまったのかもしれない。
「どうしたのっ?」
百合の気遣わしげな言葉にほだされ、ウチはさっきの出来事をすべて話していた。間久辺に振られたこと。それがどれだけ腹立たしくて、悔しくて、なにより悲しいことだったのかを涙ながらに話した。
ウチの話を最後まで聞いた百合は、消え入りそうな声で、
「……ごめん、なさい」
そう言って謝った。
「ごめんなさい。本当に、本当にごめんなさいっ」
気付くと、電話の向こうで百合も泣いているようだった。
「どうして、百合が謝るの?」
「だって、それは私のせいだから……」
「どういう意味?」
ウチの質問に、百合はゆっくりだけど答えた。
ファランクスという芸術家集団の話。そこで知り合った女性に、線引屋の正体を暴く代わりに、手を貸すよう言われたこと。そして、線引屋の正体を知り、愕然としたこと。
「冴子、本当にごめんね……間久辺君が冴子と別れたのは、きっと私のせい。私の身勝手で、間久辺君が線引屋だってことが沢山の不良に知られてしまったから、間久辺君は自分と繋がりのある人を遠ざけようとしたのよ。大切な人をーーー冴子を守るために」
「それって、間久辺本人は無事でいられるの?」
「それはたぶん大丈夫だと思う。線引屋としての間久辺君の力を買われて、千葉連合の幹部に引き入れられたみたいなの。だから、彼の身の安全は、きっと保証されてるはず」
なにか事情があって別れを切り出されたことは、あいつの表情を見てなんとなくわかっていたけれど、そんな大変なことになっているなんて思いもしなかった。ウチの知らない間に、間久辺はそこまで遠くに行ってしまったのか。
「本当にごめんなさい。私、冴子にどう償ったらいいのか……」
何度も謝る百合の言葉を遮ってウチは言った。
「謝るのは、ウチの方だよ」
「どうして冴子が謝らないといけないの?」
「それは……」
思わず話すのを躊躇してしまい、これではいけないと思い、ウチは覚悟を決めて口を開く。
「知ってたのよ、間久辺のこと。知ってて百合に黙っていたの」
「知ってたって、なんの話?」
「間久辺がーーーあいつが、線引屋だってことよ」
そう言うと、電話の向こうで息を飲む音が聞こえた。
それでもウチは、話し続けた。
「知ってたの。あいつが線引屋だってことも、百合が線引屋に憧れていたことも、全部知ってて黙っていたの。だって、あいつも百合に憧れてたから。だから、百合に知られてしまうことが怖かったの」
そうなったら、間久辺を取られてしまうような気がして、言い出すことができなかった。
だけど、その結果、百合が正体を知ろうとして動くのは当然のことだった。
「だから、今回の件は百合のせいじゃない。ウチのせいよ」
そう言って謝ると、電話の向こうで否定の言葉が聞こえた。
ウチらは、お互いに相手の言葉を否定しながら、謝り続けた。そうしている内に、再び自然と涙が溢れてくる。
どこで間違ってしまったのだろう。どうしたら良かったのだろうか。
どうすれば、間久辺を失わずに済んだのか。
誰かに答えを求めたところで、返って来ないことはわかっているけれど、聞かずにはいられなかった。
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