彼女の優しい理由

諏訪錦

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真っ赤な嘘8

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 オレとサーヤは、電話を終えると合流してその足で喜楽園に向かった。
 道すがら、サーヤはなにを思ったのか家族の話をし出した。両親は離婚していて、母親の養育下にあること。だが、その母親とは折り合いが悪く殆ど話もしないこと。そして、唯一の兄妹だった兄を亡くしているということを淡々と話した。
 別に促された訳でもないが、話の流れ上、オレも自分の身の上話をした。と言っても、オレのは至極簡単だ。物心付いた頃から施設にいて、兄妹がいるのかも知らないし、そもそも親のこともなに一つ知らない。
 オレにとって家と呼べる場所が、目の前に見えてきた喜楽園という施設だった。
 話を終え、園内に入り、長い廊下を歩きながら壁に目を向けると、NPOやらNGOが発行している啓発系の張り紙が貼られていて、それを横目に見ながら歩みを進める。
 通路を進んだ先にかぁさんの姿を発見する。
 向こうもオレたちに気付いて、茶化すように、
「最近よく顔を出すじゃない」
「悪いか?」
 オレのぶっきら棒な言葉を受けたかぁさんは、緩んでいた口角を引き締めて、
「いいえ。いつでも戻ってきていいのよ。ここはあなたの家なんだから」
 と言った。
オレの・・・じゃねぇ。ここは子供たちみんなの家だ」
「ええ、そうね。その通りだわ。でも、そんなわかり切ったことを言いにきたの?」
「そうじゃねえよ。ただ、ちょっとあんたに話があってな。いいか?」
 オレの言葉を聞くなり、場所を移しましょうか、と言って移動をはじめる。オレとかぁさんの険悪なムードを見て、側にいた職員が怯えたような目をしていたためだろう。建物の奥に人がいない学習室を見つけ、かぁさんとオレ、そしてサーヤが順番に中に入った。
 扉が閉まるのを確認すると、オレは事務的に今日あったことを説明した。

 話を聞き終えたかぁさんは、
「ーーそう。歩美の身にそんなことが。でも、命に別状がなくて良かった」
「本当にそうだな。オレもそう思うよ」
 そう答えたオレは、続け様に言った。
「でも、あんただよな? そもそも歩美を家に帰すと決めたのは」
 施設職員の責任者で、なおかつ施設内で強い発言力を持っているのは彼女だ。つまり、歩美を家に帰すという判断も、かぁさんによってされたと考えられる。
 その答えはとてもシンプルなもので、
「そうだけど、だから?」
 と、答えるだけだった。
 オレはその冷たい言い方が許せなかった。
「だからじゃねえ。わかってんのか、あんたのせいで歩美は大怪我を負ったんだぞ!」
「私のせいっていうのは言い過ぎよ。あの子が傷ついたのはバカな母親のせいでしょう?」
「その母親のもとにあの子を帰したのはあんただろうが、中上奏子・・・・!」
 オレの怒号が学習室の中に響いた。
「呼び捨てにするなんて酷いわね。また前みたいにかぁさんって呼んでくれないの?」
 茶化すような言葉。だが、どこか寂しさを帯びた瞳に見えた。
「中上奏子って名前。そっか、漆木さんのところで聞いた名前」
 隣でサーヤがボソッとそう言った。彼女の言う通り、漆木の所でオレの初恋の相手として挙がっていた名前が、目の前に立つ職員の中上奏子だった。恋愛感情云々は置いておいて、彼女を慕っている人は職員や子供の中にも多い。元々は、中上子という名前から、愛称でぁさんと呼ばれるようになったが、傷付いた子供たちを献身的に世話する姿から、いつの間にか子供たちの間で別の意味も含むようになっていた。
「あんたを本当の母親のように慕って、かぁさんと呼んでる子供たちも、同じように一言で切り捨てることができるのか?」
 黙り込む中上奏子を、睨み付けたままオレは続ける。
「あんたが戻れと、家に帰れば優しくなった母親と再び幸せに暮らせると言ったから、歩美はその言葉を信じたんじゃないのか? どうしてあんたはあの子を母親の元に戻してしまったんだ」
「愚問ね。本来、子供は親と暮らすべきだと私は思うわ。だから、歩美には家に戻って親との絆を取り戻して欲しかった」
「本当にそうですか?」
 そう言ってオレと中上奏子の会話に割って入ったのはサーヤだった。
「私は中上さんのことをなにも知らない。でも、以前アカサビさんは、中上さんのことを施設の子供たちのことを考える立派な人なんだと言っていました。そのことを考えると、今回の判断はやっぱり納得いかない。そもそも児童養護施設っていうのは、様々な理由で親と一緒に暮らせない子供の面倒を見る所でしょう? つまり大前提として、家庭環境に問題がある子供ばかりなはず。そんな子供を大勢見てきた中上さんの口から、子供は親と暮らすべきなんて言葉が出るとは思えないし、そんな軽はずみな判断をするとも思えない」
「過大評価よ。私はそんなに完璧な人間じゃない。判断ミスくらいするわ」
「本当にそうでしょうか? その辺の違和感については、アカサビさんの方がわかるんじゃない?」
 確かにそこがオレも引っかかっているところだった。この人は子供に対してどこまでも真面目だった。子供たちを一人の人間としてきちんと見守ってくれていた。
「オレを含めて、施設の人間はあんたを尊敬していたんだ」
 だからこそ、信じられなかった。
 歩美を家に戻すという判断はあまりにも早計だと言わざるを得ない。
「だから、あんたが歩美を家に帰したことにはなにか理由があったとしか思えない。そうだよな、サーヤ」
 オレが促すように顎をしゃくると、サーヤは頷いて言葉を継いだ。
「覚えてますか? 前に私たちが施設にお邪魔したとき、子供たちがお絵描きをしていましたよね」
「ええ、確かそうだったわね」
「あの日、歩美ちゃんがどんな絵を描いていたかお二人は覚えてますか?」
 オレの方に目を向けたサーヤ。
 そこまでは覚えていなくて、オレは首を横に振った。
「歩美ちゃんが描いていたのは、大きな四角の中に小さな四角を描いた記号のようなものです」
 四角の中に四角。言われてみれば、確かにそうだった気がする。
「その絵が今回の話といったいなんの関係があるんだ?」
 一瞬、目を細めたサーヤはまた淡々と話を進めた。
「私の兄は警察官でした。それで、ある時、捕まえた犯人に同情できるところがあったのか、兄がその犯人に手紙を送ったことがあって、それから手紙のやり取りが始まりました」
「なんの話をしてるんだよ、サーヤ」
「最後まで話を聞いて。兄宛に刑務所から手紙が送られてきたんだけど、その封筒には記号のような判が判押されていました。兄に聞いてわかったことなんですけど、一部の刑務所にはその刑務所を表す記号があるらしくて、興味を抱いた私は、他にどんな記号があるのか調べたことがありました」
「それで?」
 と、中上奏子が促す。
「ええ、その中にあったんですよ。四角の中に四角が囲まれた記号が」
「待ってくれよ、歩美の描いた絵と同じ記号ってことか? でもどうして歩美が刑務所の記号なんて描いていたんだよ 」
「特別複雑な記号でもないですし、偶然とういうことも考えられます。ただ、歩美ちゃんが他に描いていた絵は、少し問題はありそうな画風でしたけど、人物や動物を描いたものばかりでした。それなのに、私たちが行った日だけ・・は記号を描いていましたよね」
 話を切り替えるように、ふっと息を吐き出すサーヤ。
「さっき仰っていた通り、歩美ちゃんを家に戻すと判断したのは中上さんでした。そしてその判断は、中上さんを知るアカサビさんにとって不可解に思える判断と言える。そうですよね?」
 オレが首肯するのを見て、サーヤも頷いた。
「では、なぜ中上さんは歩美ちゃんを家に戻したのか。それは歩美ちゃんを施設に置いておきたくなかったからじゃないですか?」
「ちょっと待てよ。置いておきたくないって、それこそありえねぇよ。かぁさんは・・・オレの知ってるこの人は、少なくとも問題児を見放すような真似はしない。だったらとっくの昔に、オレは見捨てられてた」
 オレの疑問に答えるまでに、少し間があったのは、中上奏子の口から真実を聞き出したかったからだろうか。少し残念そうにサーヤは口を開いた。
「中上さんが歩美ちゃんを施設から追い出すことを選んだのは、あの子に問題があったからじゃない。その原因が、あのお絵描きだったんですよ。さっきお話した、刑務所の記号。その記号が押された手紙を中上さんは受け取っていたんじゃないですか?」
「どうしてそう思うの?」
「消去法ですよ。まず、歩美ちゃんの描いた絵が刑務所からの手紙に押されていたマークだとして、それほど特徴的でもないマークをお絵描きの時間に描いたということは、記憶に新しい、つまり直前に見たマークだったからだと考えられます。施設で生活する歩美ちゃんがそれを目撃したとすれば施設内。つまり、施設にいる大人の誰かが刑務所から手紙を受け取っていたということになります。そして、あの日子供たちがお絵描きをしている場には中上さんもいた。つまり、中上さんは歩美ちゃんの描いた絵を目撃していた可能性が高いです。加えて言うと、私が歩美ちゃんに絵について 聞いていると、お昼寝の時間だという理由で中上さんが話を切り上げるように言ってきました。まるで、その絵について触れられたくないと言わんばかりに」
 オレも中上奏子も、口を挟む余地がないほどにサーヤの言葉に引き込まれていた。
「そして、中上さんは職員の中でも責任者を務めるほどの人物。つまり、発言力があり、歩美ちゃんを家に帰すという判断をできる立場の職員だということです。だから、中上さんは歩美ちゃんを家に帰す決断ができた。自分が持っている刑務所からの手紙を見られてしまったから。それほど手紙のことを他の人物に知られたくなかったということでしょう。では、中上さんが隠したかった手紙とはなんなのか。刑務所から手紙を受け取っていること自体は問題ないはず。だから、隠したかったのは手紙の内容か、あるいは差出人だと考えられます」
 サーヤは淀みなく言葉を続ける。
「歩美ちゃんはまだ五歳児。大人が書く手紙の内容を正確に理解できるとはとても思えないし、そもそも子供とはいえ人の手紙の中身を見ようとはしないでしょう。でも、差出人の名前はどうでしょう。あくまでも例え話ですけど、偶然中上さんの鞄からはみ出した封筒を、外側だけ見てしまったってことは考えられます。その封筒に押されたマークを見て、お絵描きの時間にそれを描いた。そして、その絵を見た中上さんは自分の鞄に入っていた封筒を見られたことに気づき、焦った。そして、考えた末に歩美ちゃんを施設から追い出すことを決めた」
 そこまで話を聞いて、オレは我慢できず口を挟む。
「待てよ。差出人の名前なんて子供がいちいち気にするか?」
「そこまではわかりません。でも記号として文字を好む子供は多いと聞きます。歩美ちゃんはお絵描きのときに刑務所の記号を書くくらいですから、同じ封筒に書いてあった名前を記号として覚えていて書いてしまうかもしれない。だからあの日、歩美ちゃんが描いた記号を見て中上さんは焦ってしまったんでしょうね。来たばかりでまだ殆ど歩美ちゃんとお話しができてないアカサビさんと私に、子供のお昼寝の時間を理由に帰るように促していました。でもそれはおかしな話です。お昼寝の時間が決まっていて殆ど話ができないなら、そもそも通したりしないでしょう。ではなぜ嘘をついてまで私たちを帰らせたかったのか。考えられる理由としては、歩美ちゃんとのあの短いやり取りの中で中上さんにとって不都合となるものがあったから」
「それがあの記号だってことか。だけど、サーヤの推測が正しかったとして、その手紙の差出人って誰なんだよ?」
「さぁ、そこまでは私にもわかりません。でも、なんとなく想像はできます。本来であれば中上さんが誰から手紙を受け取っていようが誰にも文句など言えないはず。ただ、現実として手紙を見てしまった歩美ちゃんは中上さんにとって邪魔者となり、施設から追い出された。五歳の子供が差出人の名前を正確に理解できたとは思えませんけど、そんな風に正常な判断ができなくなるほど、中上さんは焦っていた。歩美ちゃんを切り捨ててでも、手紙の存在を知られたくない人物が施設の中にいる、と考えられます」
「もういい」
 中上奏子が嘆息し、そう言った。
「あなたの言う通りよ。あの日は迂闊だった。出勤の際に家のポストを確認したら手紙が入っていたから、それを鞄に入れて施設に来てしまった。まさか、鞄の中身を歩美に見られるなんて思っていなくてね」
「手紙を見られただけって、そんなことで歩美を施設から追い出したのか、あんたは!」
 オレが怒りに声を荒げても、中上奏子は淡々とした口調で答える。
「そんなことと言うけれど、私にとっては重要なことだったのよ。それに、歩美だって家に帰ることを望んでいたわ」
「子供の身の安全より重要なことっていったいなんだよ。そんなもんあるわけないじゃねぇか。子供ってのは親に支配されるもんだろう。あんな碌でもない母親だって、歩美にとっては絶対的な存在だと思っちまう。だからそんな親から引き離す場として、児童養護施設があるんじゃねえのかよ」
「わかってるわよそんなこと。私が悩まなかったと思うの? そうする必要があると判断したから、仕方ないじゃない」
 ふぅ、と嘆息した中上奏子に、サーヤは言った。
「お二人の関係は本当に特別なんですね」
「特別って、前にも言ったが、オレは中上奏子に対してお前が思うような特別な感情を抱いたりはしていない。勘違いするな」
 オレがまだ幼い頃から施設で面倒を見てくれていた職員だから情はもちろんある。だが、以前サーヤに聞かれたような色恋の感情は本当に抱いたことはない。
「勘違いしているのはあなたの方ですよ。特別な感情を抱いているのは、アカサビさんじゃなく中上さんの方です」
「中上奏子が、オレに?」
「ええ。でも、特別な感情と言っても、それはもちろん色恋の話ではないと思います。そうでしょう、中上さん?」
「余計な詮索しなくていいのよ」
「本当に余計なことですか? あなたが歩美ちゃんにしたことは許されないことですけど、だからってこのままでいいとは思えません」
「サーヤさんには関係のないことでしょう」
「ああ、確かにそうだな」
 オレは二人の口論に割って入る。
「サーヤには関係ない。でも、オレには知る権利があるはずだ」
 中上奏子がいったいなにを隠しているのか。オレはただそれが知りたいと思う。サーヤの言うように、中上奏子が歩美に対して取った行動は決して許されるものではない。だが同時に、十年以上世話になってるオレには、彼女が施設の子供を傷つけるような選択をしたことがどうしても信じられなかった。だからこそ知りたい。中上奏子がいったいなにを隠しているのか。
「無粋かもしれませんけど、中上さんが話すつもりがないなら私の口から話させてもらいます」
 サーヤの言葉に、中上奏子は沈黙のままだった。オレが知る権利を訴えたためか、あるいはサーヤの推測が間違っていると考えているのか、どちらにしてもただ口を閉ざすばかりだった。
「話を少し前に戻しますけど、中上さんはそもそも仕事に誰よりも誠実な職員だった。そんな人が、施設の子供を追い出すような真似をするなんて考えられない。たかが手紙の差出人を見られただけで、ですよ」
「ああ、それはオレも考えていたところだ」
「だとすると、彼女の行動理由として考えられることは一つ。さっきも言いかけましたけど、歩美ちゃんを切り捨ててでも手紙の差出人は守りたい秘密であり、どうしても知られたくない相手が施設内にいたということです。そしてあの日、歩美ちゃんの描いた記号を見ていたのは私とアカサビさんだけでした。それなのに、中上さんは私たちと歩美ちゃんとのやり取りを急に終わらせようとした。いいえ、正確に言えば私ではなく、アカサビさんとのやり取りを終わらせたかった、と考えられます」
「つまり、手紙の差出人を隠しておきたかった相手っていうのが、オレってことなのか?」
 こくんと頷くサーヤ。
「おそらくそうでしょう。初めて施設に来させてもらったときから思っていましたけど、中上さんのアカサビさんに対する執着のようなものは異常でした。本人は隠せてるつもりかもしれませんけど、他の子供たちより明らかに特別視しているように感じました」
 サーヤの言ってることはあながち間違いではないだろう。施設には中上奏子の他にも多くの職員がいるが、オレ自身、その中でも間違いなく彼女を一番信頼していただろう。生意気なんて言葉では片付けられないくらい問題児だったガキの頃のオレを、見捨てず、見下さず、側で支えてくれたのが中上奏子だった。だからこそお互い、情のようなものは深いと思う。
 彼女に対して恋愛感情など抱いたことがないのは本当だ。最初から彼女は、オレにとって特別な存在だった。多分、この施設で生活する誰よりも、本当の意味でかぁさんのように思っていたのだから。
「中上さんにとって、アカサビさんは他の子供たちよりも優先すべき特別な存在。だとすると、中上さんが手紙を隠したかった相手というのはアカサビさんということになります」
 つまり、中上奏子が受け取っていた手紙の差出人はオレに関係のある人物ということなのだろう。そして、その手紙は刑務所からの手紙、つまり差出人は犯罪者ということになる。加えて言うと、オレと中上奏子の間で共通の知り合いが刑務所に入っているなんて話、聞いたことがない。
 オレには決して知られたくない相手で、中上奏子がやり取りをしていても不自然じゃない人。そこまで考えて、気づいた。
「もしかして、手紙の差出人はオレの親か?」
 それがオレの行き着いた答えだった。
 物心ついた頃から施設で育てられていたオレには、親の思い出がない。ガキの頃は、親について施設の人間に聞いたこともあるがはぐらかされて終わった。それも当然だ。ガキの頃のオレの質問に、正直に答えるわけにはいかなかったのだろう。お前の親は犯罪者だ、なんて言えるわけがないのだから。
 オレは答え合わせを求めるように中上奏子を見た。十数年前の質問に、いまこそ答えてもらうときだ。
「もう、隠し通せ無いみたいね。すべてあなたたちの言う通りよ。歩美のことも、手紙のことも、そしてあなたの親のこともね」
 オレを見つめた中上奏子は、申し訳なさそうに俯いた。
「いままで隠していてごめんなさい。でも、あなたに両親の話をしたら傷つくかもしれない。そう思ったらどうしても言い出せなかったの」
 確かにショックじゃないと言えば嘘になる。ガキの頃は、オレの両親はどんな人たちなんだろうと思いを馳せたこともあった。いつか迎えに来てくれるだろうと夢見た日もあった。だが、成長するにつれて、そんな幻想は抱くこともなくなった。もし親が生きていたとしてもまともな人間ではないだろうと思っていたが、まさか犯罪者だったなんて。
 ただ、オレだってもうガキじゃない。取り乱すことなく聞いた。
「手紙のやり取りをしていたのは、オレの母親と父親、どっちなんだ?」
「あなたのお母さんよ」
「名前は?」
 一瞬だけ言うのを躊躇った中上奏子だが、すぐに考えをあらためたのか、答えを口にする。
更級沙良・・・・。それがあなたの母親の名前よ」
 母親。そう言われても実感が湧かなかった。オレにとってはそんな聞いたこともない名前の人よりも、幼い頃から面倒を見てくれている中上奏子の方がよほど母親のように感じるから。
 だから、寂しくもある。頭ではわかっていたことだが、オレたちは所詮他人なのだと改めて告げられているような気がして。
「でも、どうして。なんで歩美を見捨てた。オレはそんなこと望んでねぇぞ」
 オレの母親は犯罪者だった。しかも、オレが施設に預けられている理由がそれなんだとしたら、母親はもう十年以上刑務所に入っていることになる。かなり重い罪だ。だからこそ、オレに隠したかったことは理解できる。
 しかし、それは他の子供を犠牲にしてまでやるべきことではないと思う。
「いまになって思えば間違った判断だったって思うわ。でも、歩美に手紙を見られたことがわかって、もしも手紙の差出人をあなたが知ってしまったらって思ったら怖くなったのよ」
「オレがそんなことをいまさら気にすると思ったのか? なにが怖いっていうんだよ」
「あなたに隠し事をしていたことを知られたくなかった。失望されることが怖かったのよ!」
 中上奏子の慟哭にも似た叫びが部屋に響きわたる。
「なんで。どうしてオレなんかのことをいつまでも気にかけるんだよ。オレはもうガキじゃない。あんたがもっと気にかけるガキがここには大勢いるはずだろ?」
 オレのその問いに、中上奏子は答えなかった。彼女がなにを考えているのか、いまのオレにはわからない。それでも、これだけは言っておかないといけない。
「あんたがやったことは絶対に許されることじゃない。でも、償えないわけじゃない。幸い、歩美は命に別状はないようだし、傷が癒えたらまたこの施設で面倒を見ることになるだろう」
「わかってる。それまでには、この施設から私はいなくなるわ」
 それはつまり、責任を取ってこの施設を辞めるということだろう。
「待てよ。そんなのただ逃げているだけじゃないか」
「どんな事情であれ、私は施設の職員としてあってはならないことをした。この場所にはもういられないわ」
 そうして、踵を返した中上奏子は、聞く耳を持たないつもりのようだ。そのまま歩いていくと、彼女の背中がどんどん
小さくなる。
 オレはそのとき、言いようのない寂しさに襲われ、思わず一歩踏み出していた。
 彼女の手を握ると、叫んぶ。
「待てよ、かぁさん!」
 首をほんの少しだけ傾けた彼女は、
「私はあなたの母親じゃないわ」
 いつものやり取り。だが、いまはその言葉が心に刺さる。
「そうだよ。あんたはオレの母親じゃない。この施設の子供、全員の母親だ。そうだろう?」
 今回、歩美を家に帰してしまったことは問題だったが、歩美を直接傷つけたのは彼女ではない。だったら、仕事を辞めることが責任の取り方にはならないだろう。
「今度こそ誠心誠意、子供に向き合えよ。昔のオレにそうしてくれたように」
 それこそが、彼女が取るべき責任の取り方だとオレは思う。
「これからも施設の子供たちをよろしく。中上さん・・・・
 オレは、敢えて彼女をそう呼んだ。それは、彼女から本当の意味で独り立ちするための意味を含んでいた。オレも彼女も、お互い長いこと一緒にいすぎたのかもしれない。だから、彼女がこの先、施設の子供たち全員を平等に見るためには、オレの存在は邪魔でしかない。
 彼女の手を離そうとしたとき、中上さんはそれを一瞬拒むように力を込める。
「いつの間にか、ずいぶん大きくなったのね。自分だけじゃなく、人のことまで助けられるくらい、大きく」
 そういえば、中上さんの手を握るなんて何年ぶりだろう。恐らく、オレが小学生の頃だっただろうか。その頃と比べたら、当然違って感じるだろう。
「もう、あなたは一人でも大丈夫なのね」
「オレだってもうガキじゃないからな。いつまでも守ってもらってばかりじゃねえよ。それに、生憎とオレは一人じゃない」
 そこで、サーヤを見た。彼女はオレの視線にどこか満足そうに頷く。
 それに、彼女だけじゃない。正義の味方なんて自己満足を貫いてる内に、街では多くの人と知り合い、親しくなった。
「オレはもう、昔とは違う。独りぼっちで遊んでたガキじゃねえからな」
 だから、もう心配しなくても大丈夫。オレは彼女にそう示す意味で、もう一度力強く手を握った。
「それなら良かった」
 そう言って中上さんはふっと微笑んだ。そして一言、
「でも、変わらないものもあるわ」
 オレが首を傾げると、中上さんは悪戯に口の端を上げた。
「ほら、こんなにも冷たい」
 最初はなんのことを言っているのかわからなかったが、それがオレの手の温度のことを言っているのだとわかった。
 変わっていくことを成長と喜びながら、変わらないことに安心する。そんな中上さんの姿はまるで、オレが想う母親像そのものだった。
 でも、そのことを伝えるのはやめておくことにした。たぶんそんなこと言ったら、私はあなたの母親じゃないわって言われるだけだろうから。
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