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彼女の優しい嘘の理由 32
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中上家をあとにし、それからどうやって家路に着いたのかまるで覚えていない。気が付くと俺は、自室の布団に包まってあれこれと考えを巡らせていた。それは取り留めのない物事から、楽しかった思い出、辛かった思い出、様々だった。
今日が何月何日で、あの辛い真実を知らされてから、どれだけの時間が経過したのかも定かではない。時間という概念は、既にこの空間には存在しないように思えた。
このまま、まどろみとともに溶けて消えてしまいたいというのに、部屋の戸を叩く慎ましい音が部屋に響いた。
俺は布団から顔だけ出して、音の方向を凝視した。
少しして、返事がないと諦めたのか、声が聞こえてきた。
「七季、入るからね」
そうしてゆっくりと開かれたドアから新鮮な空気が入り込むと、部屋に充満した淀んだ空気が一掃され、朦朧とした意識までもが覚醒される。
部屋に踏み込んできた彩香は、俺と目が合うなり顔を曇らせた。だが、すぐに笑顔を繕って近付いてくる。
「なんだ、いるなら返事くらいしてよ」
床に散乱したゴミや、学校の鞄から溢れた教科書類を拾い集めながら、道を形勢してゆく。窓際に到達した彩香は、「今日は良い天気だよ。少し、窓を開けるね」と不自然なまでに明瞭な声でそう言った。
「どこかへ遊びに行かない? こんなに天気いいんだし、ね?」
俺は彩香の言葉を無視した。いまは誰にも会いたくない気分だった。とくに彩香の顔は見たくない。見れば、甘えてしまいたい衝動に駆られると思ったからだ。
「ねえ、なんとか言ってよ」
俺に近付き、膝を付いた彩香は、そっと布団の上から体に触れてきた。
「ずっとこんな生活していたら体に悪いわ。もう、あれから八日も経つのよ」
そうか。沙良と決別を果たしてから、八日も経つのか。
俺は漠然と思った。沙良はどうしているのだろう。奏子はどうしたのだろう。康一郎はどうなったのだろう。考えればきりがない。
「もう色んなこと、割り切らないと。いつまでもそうやって閉じ籠っているわけにはいかないでしょう。そのためなら私、なんだって手伝うから。また一緒に頑張ろうよ。ね、七季?」
また繰り返すのか。甘えて、頼って、縋って、傷付けて。まるで進歩していない。
「だったら、俺を慰めてくれ」
布団から出て、彩香の手を握ると、その暖かさにひどく驚いた。女性の体とは、こんなにも温かいものなのか。いまこうして触れている彩香とは異なり、沙良の手はまるで死人のように冷たかった。だが、こうして別の女性の体に触れていても、鮮明に思い出されるのは、あの氷のように冷たい手だった。
ドクン、ドクンと血の流れる音だけが耳打ち、胸を叩く。急かされるように、俺は彩香の腕を掴み、思いきり引き寄せた。
痛がる彩香を胸に抱くと、彼女は簡単に頭を預けた。まるで、布切れを思わせる軽い体。これは沙良と同じ感触だった。
俺は翻って、その上に覆いかぶさる。彼女の衣服の下に手を滑り込ませ、露わになった肌膚に唇を這わせた。執拗に舌を転がし、彼女自身の味を確かめるように、ただがむしゃらに吸いついた。
それなのに、彩香は抵抗を見せない。
息が荒くなるのを見て、俺も、その熱を体の中から感じたいと思った。唇と唇を近付けても、彩香は拒もうとしない。
小さく口を開いた俺は、慈しむように、「さ……」と名前を口にしようとする。
すると、それまで身を委ねていた彩香が、俺の言いかけた言葉に体を強張らせたのがわかった。なにかの拍子で、触れ合ってしまいそうな距離まで近付いたお互いの唇。彩香もそっと口を開いた。そこからなまめかしい吐息が漏れ、それを体内に受け入れようと口づけを交わそうとすると、制するように彩香は言った。
「私は、更級さんじゃないよ」
俺は思わず、飛び退くようにして彩香から離れた。
いま、どうしてそんなことを言うのだろう。込み上げていた熱が冷めていくような、そんな倦怠感に襲われる。あれほど熱くたぎった体が、驚くほど冷めていった。
それと同時に、冷静になった思考が働き始める。もしかしたら俺は、彩香の優しさに甘えて、沙良の影をそこに見出そうとしたのではないか。
俺はようやく気付いた。あるいは、気付かないようにしていたのかもしれない。いまでも、沙良のことが好きなままなのだと。
沙良は俺に嘘を吐いた。江藤先生との関係を隠して、従順な彼女を演じ続けた。そこには恋愛感情なんてない、あくまで利用するためだけの関係しかなかった。
だけど、俺が許せないのはそんなことじゃない。沙良はもっと残酷な嘘を俺に吐いていたのだ。
沙良は江藤先生を殺害し、それを実行するのに協力した弟までその手にかけた。確かに辻褄は合っているし、事実関係としてはそれでいいのだろうが、俺にはどうしても納得いかないことがあった。それは順序だ。そもそも、江藤先生を殺害して問題を解消しようとする短絡的な選択肢があったのなら、江藤先生に惨殺魔の写真で脅しを掛けられた時点で、その方法を選んでいればよかったのだ。そうすれば自分の体を差し出す必要もなかったし、妊娠することもなかった。半年もの間、脅しに耐え続けたというのに、このタイミングになって江藤先生を殺害しようと思ったのはなぜなのか。もっと言えば、自分の体を犠牲にしてまで守ろうとした弟を、どうして簡単に殺してしまったのだろうか。それでは彼女が半年間も江頭先生の言いなりになって苦痛に耐え続けてきたことが、まるきり無意味になってしまう。
つまり、沙良はこの半年間の間に人を殺すことに躊躇しなくなったのだ。その理由を少し考えて、すぐに答えは出た。それは至極簡単なことだった。
俺と出会い、彼女は変わってしまったのだ。正確に言えば、妊娠の話を聞かされ、俺が喜んでしまったから、沙良はそれを真実にする道を選んだ。
沙良から妊娠したと打ち明けられたあの日、彼女は同時に別れ話も持ち出してきた。恐らく、俺が責任逃れの言葉を口にすると思っていたのだろう。だから、責任なんて取らなくていい、お金だっていらないと言って、別れるつもりだった。沙良にとっては、妊娠させた相手が江藤先生ではなく、俺であると両親や学校に思わせられればそれでよかったのだから。
だが、実際のところ俺は喜んだ。沙良との繋がりとして、妊娠という目に見える形を与えられたことに安心したのだ。
沙良はさぞ戸惑ったことだろう。妊娠を理由に別れようと思っていたのに、逆にそれが絆を深める要因となってしまったのだから。
そして、いつからそう思うようになったのかはわからないが、沙良も俺との未来を少しずつ望んでくれるようになった。だから江藤先生を殺害したのだ。妊娠の真実を知る人間を、生かしておくわけにはいかなかったから。
同じ理由で弟も殺害された。あるいは、惨殺魔であることを隠し続けるのも、そろそろ限界だと思ったからかもしれない。どちらにしても、すべては俺との未来を守るためだった。
それこそが、いつまでも堕胎しようとしなかったことの裏付けにもなる。殺害するほど憎い相手の子を身籠っているのなら、本来、堕胎のできる内にさっさとしてしまうはずだ。それをせずに、俺と一緒になって子供の名前を考えたりしたのは、きっと俺との未来を本気で望んでくれていたからだと、いまなら思える。
誰からも望まれずにこの世に生を受けた子供を、俺だけが大切な絆だと言ったから、沙良はそれを守り抜こうとしてくれた。
子供の名前には俺の名前から一字取りたい。沙良はそう言った。いま思うと、あれは血縁関係のない子供と俺との繋がりを、せめて名前を通じて結ばせようとしたように感じる。そうだとしたら、なんて意地らしい話なのだろうか。
これらはあくまで、俺の身勝手な想像でしかない。だけど、不思議と確信めいたものを感じるのはなぜだろう。
彼女は本当に不幸で、そして誰よりも優しい女性だった。いつだって沙良は、誰かのために自分を犠牲にする。俺に真実を知られたときもそうだ。自らを悪者に貶め、俺に恨まれることを選んだ。そうすれば、沙良に騙された可哀想な被害者として、俺は彼女を恨んで生きてゆける。江藤先生を殺した動機に俺が関わっていたなんて、口が裂けても言わないはずだ。恨まれてもいいから、最後まで俺を守り抜こうとしてくれたのだ。そんな彼女を、俺自身を許すことが、どうしてできるだろう。だから俺は、決して忘れないと心に誓った。
彼女の優しい嘘の理由を、この胸に刻み込みながら。
「……さ」
俺は再び口を開き、今度はしっかりと愛する人の名前を呼ぶ。
「〝沙良〟」
そう口にした途端、視界がぼやけて涙が溢れた。頬を伝う涙は、一向に止まる気配がない。
涙の理由を理解した彩香は、俺の肩を乱暴に揺すった。
「ねえどうして! どうして私じゃ駄目なの? 言ってくれたらどんなことだってするよ。キスだってセックスだって、七季が望むことをしてあげる。だから私を見てよ!」
だけど、もう俺の瞳には彩香の姿は映らない。沙良の笑顔が、いまでも瞳に焼き付いて消えてくれない。
「もう、いいだろう。勘違いは終わりにしよう」
「なにを言っているの?」
彩香は、強く掴んだ手の力を緩めた。
「まだわからないのか? お前はただ、俺に引け目を感じているだけなんだよ。飼っていた猫を殺されて、塞ぎ込んでいたのを俺に救われたから、その恩を返そうとしているだけだ」
「違う。私は七季を愛してるのよ! だから心配だし、力になってあげたいと思うの。それのどこが勘違いだというの?」
俺はかぶりを振って否定した。
「彩香は、俺に同情しているだけなんだよ。そんな偽善を認めたくなかったから、それを虚飾するために、恋に落ちたと自分に言い聞かせた。お前の自己満足に俺を巻き込むな、迷惑なんだよ!」
瞬間、パン、と渇いた音がして、頬に傷みが走った。彩香の温かい手の感触が、そのまま頬に移ったように熱を持つ。
俺が顔をあげられずにいると、数瞬の沈黙のあと、彩香は謝罪の言葉を置いて部屋を出て行った。最後の言葉が震えていたことに俺は気付いていた。こんな自分のためにまだ泣いてくれるのだな、と不謹慎にも嬉しく思った。
「謝るのは俺の方だよ。本当にごめんな」
布団から顔を上げ、彩香の去って行った扉の方向を見つめる。
彼女と過ごした長い月日を思い浮かべると、いくら謝罪の言葉を述べてもきりがないことに気付いた。
「それから、ありがとう」
彩香の残像をそこに見出すかのように、俺は胡坐を掻いたまま、深く頭を下げた。
少しして階段を上ってくる不躾で荒々しい、耳障りな音がした。
部屋の前で止まると、いきなり扉が開かれ、そこには酒に酔ってふらついた足取りの、鉄郎が立っていた。
「お前、彩香ちゃんになにをしたんじゃ。あの子、泣いとったぞ」
正直、いまは相手をする気分ではなかったので、俺は無視した。
「ふん。どうせ女の話やろ? 聞いたで。お前の女、人を殺したらしいな」
俺は言葉を失った。沙良のことをどうして鉄郎が知っているのか、そんなことはこの際どうでもよかった。どうせパチンコの帰りにでも仲間内で話したのだろう。そういう噂話しは、狭いこの町では簡単に広まる。それよりも、この八日間で、沙良は自首していたというのか。安心したような、だけど、彼女を待ち受けているであろう苦労を考えると、やはり複雑な気分になる。
俺が黙り込むと、
「まさか、おめぇ関係してねえだろうな?」
その言葉に驚いて顔を上げると、鉄郎の瞳は猜疑心に染まっていた。
「待てよ、なんだよそれ。もしかして、俺が事件に関与していると思ってるのか?」
鉄郎はなにも答えない。肯定しない代わりに否定もしない。しかし、その目が如実に物語っていた。
「なぁ父さん、俺のことを疑ってるのかよ?」
俺のすがりつくような言葉に、鉄郎は鼻を鳴らした。
「おめえはあの淫売な母親と一緒じゃ。平気な顔して人を裏切る、最低な人間と同じなんだよ。疑われて当然じゃ。だいたい、いまとなっちゃ俺のガキかどうかも怪しいもんだ。おめえの母親がどっかの男と作った可能性だってある。いいや、そうに違えねぇ。俺とおめぇにはなんの繋がりもねぇ」
俺はガツンと頭を殴られたときよりも、ずっと強い衝撃を受けたような気がした。血の繋がりは絶対だと盲信して、どれだけ鉄郎に虐げられても、家族だからとずっと我慢してきた。きっとその繋がりが俺を支えてくれるものだと信じて、これまで耐えてきたのだ。
だけど、それも今日でお終いなのだろう。鉄郎は、息子との繋がりを自ら断ち切る選択をしたのだ。
「もし警察がきても俺を巻き込むなや。おめえで勝手に対処しろ」
それが理由。面倒事に巻き込まれるのが嫌で、実の息子と縁を切るのか。そんな些細なことで、切り捨てるのか。俺には、父親の考えが手に取るようにわかった。そんな小さな理由で、鉄郎は責任から逃れようとしているのだ。親は子供に対して責任を負うべきだ。それなのに、無関係だと息子を目の前にしてはっきりと言った。
無愛想な表情と厳つい眉目。そういう意味で、俺は母親ではなく父親によく似ていた。それでも、鉄郎は無関係だと言う。
「よくわかった。俺とあんたは無関係、それでいいんだな?」
「ああ、そうじゃ。俺たちゃ親子でもなんでもねえ。俺に迷惑を掛けるんじゃねぇぞ」
面倒くさそうに鉄郎が吐き捨てるのを見て、俺は、可笑しくて笑ってしまった。いままで、この男を最低だと罵りながらも、それでも父親として認識していたことが信じられない。
血の繋がりは絶対。そんなものは〝絆〟を求めていた俺の、ささやかな幻想に過ぎなかったのだ。
結局、手元にはなにも残らなかった。沙良との絆も、彩香との絆も、親子の絆すらも、なにもかも瓦解してまった。
可笑しくて笑っているはずなのに、目を閉じると涙が溢れる。腹の底から笑いが込み上げてくるのに、次々と涙が頬を伝う。
「気味の悪ぃガキだな」
鉄郎の侮蔑を込めた言葉が耳に届いた。
「泣きながら、笑っていやがる」
俺は、それでも気にせず笑い続けた。
もうどんな言葉も聞きたくない。
自分の笑い声でなにも聞こえなくなればいいと、そう思った。
鉄郎が呆れた様子で部屋を出て行くと、また一人きりの空間が形成される。だけど、耳鳴りのように鉄郎の言葉が頭をグルグルと回っていた。親に否定されるということは、存在事体を否定されたのと同じことだ。
これでもう、俺は鉄郎の呪縛に繋がれたままでいる必要はなくなった。それならもう、あの男は俺にとってまるで必要のない存在。いやむしろ、邪魔な存在と言ってもいいだろう。
俺は尚も笑い続ける。
彩香の手によって開かれたカーテンから、眩しいまでの陽光が差し込んでいた。薄暗い部屋に、不気味に照らし出された影が、まるで悪魔か魔物を模ったシルエットのように壁に映る。ただそこには、大きく口を開いて笑う、魔人の姿があるだけだった。
今日が何月何日で、あの辛い真実を知らされてから、どれだけの時間が経過したのかも定かではない。時間という概念は、既にこの空間には存在しないように思えた。
このまま、まどろみとともに溶けて消えてしまいたいというのに、部屋の戸を叩く慎ましい音が部屋に響いた。
俺は布団から顔だけ出して、音の方向を凝視した。
少しして、返事がないと諦めたのか、声が聞こえてきた。
「七季、入るからね」
そうしてゆっくりと開かれたドアから新鮮な空気が入り込むと、部屋に充満した淀んだ空気が一掃され、朦朧とした意識までもが覚醒される。
部屋に踏み込んできた彩香は、俺と目が合うなり顔を曇らせた。だが、すぐに笑顔を繕って近付いてくる。
「なんだ、いるなら返事くらいしてよ」
床に散乱したゴミや、学校の鞄から溢れた教科書類を拾い集めながら、道を形勢してゆく。窓際に到達した彩香は、「今日は良い天気だよ。少し、窓を開けるね」と不自然なまでに明瞭な声でそう言った。
「どこかへ遊びに行かない? こんなに天気いいんだし、ね?」
俺は彩香の言葉を無視した。いまは誰にも会いたくない気分だった。とくに彩香の顔は見たくない。見れば、甘えてしまいたい衝動に駆られると思ったからだ。
「ねえ、なんとか言ってよ」
俺に近付き、膝を付いた彩香は、そっと布団の上から体に触れてきた。
「ずっとこんな生活していたら体に悪いわ。もう、あれから八日も経つのよ」
そうか。沙良と決別を果たしてから、八日も経つのか。
俺は漠然と思った。沙良はどうしているのだろう。奏子はどうしたのだろう。康一郎はどうなったのだろう。考えればきりがない。
「もう色んなこと、割り切らないと。いつまでもそうやって閉じ籠っているわけにはいかないでしょう。そのためなら私、なんだって手伝うから。また一緒に頑張ろうよ。ね、七季?」
また繰り返すのか。甘えて、頼って、縋って、傷付けて。まるで進歩していない。
「だったら、俺を慰めてくれ」
布団から出て、彩香の手を握ると、その暖かさにひどく驚いた。女性の体とは、こんなにも温かいものなのか。いまこうして触れている彩香とは異なり、沙良の手はまるで死人のように冷たかった。だが、こうして別の女性の体に触れていても、鮮明に思い出されるのは、あの氷のように冷たい手だった。
ドクン、ドクンと血の流れる音だけが耳打ち、胸を叩く。急かされるように、俺は彩香の腕を掴み、思いきり引き寄せた。
痛がる彩香を胸に抱くと、彼女は簡単に頭を預けた。まるで、布切れを思わせる軽い体。これは沙良と同じ感触だった。
俺は翻って、その上に覆いかぶさる。彼女の衣服の下に手を滑り込ませ、露わになった肌膚に唇を這わせた。執拗に舌を転がし、彼女自身の味を確かめるように、ただがむしゃらに吸いついた。
それなのに、彩香は抵抗を見せない。
息が荒くなるのを見て、俺も、その熱を体の中から感じたいと思った。唇と唇を近付けても、彩香は拒もうとしない。
小さく口を開いた俺は、慈しむように、「さ……」と名前を口にしようとする。
すると、それまで身を委ねていた彩香が、俺の言いかけた言葉に体を強張らせたのがわかった。なにかの拍子で、触れ合ってしまいそうな距離まで近付いたお互いの唇。彩香もそっと口を開いた。そこからなまめかしい吐息が漏れ、それを体内に受け入れようと口づけを交わそうとすると、制するように彩香は言った。
「私は、更級さんじゃないよ」
俺は思わず、飛び退くようにして彩香から離れた。
いま、どうしてそんなことを言うのだろう。込み上げていた熱が冷めていくような、そんな倦怠感に襲われる。あれほど熱くたぎった体が、驚くほど冷めていった。
それと同時に、冷静になった思考が働き始める。もしかしたら俺は、彩香の優しさに甘えて、沙良の影をそこに見出そうとしたのではないか。
俺はようやく気付いた。あるいは、気付かないようにしていたのかもしれない。いまでも、沙良のことが好きなままなのだと。
沙良は俺に嘘を吐いた。江藤先生との関係を隠して、従順な彼女を演じ続けた。そこには恋愛感情なんてない、あくまで利用するためだけの関係しかなかった。
だけど、俺が許せないのはそんなことじゃない。沙良はもっと残酷な嘘を俺に吐いていたのだ。
沙良は江藤先生を殺害し、それを実行するのに協力した弟までその手にかけた。確かに辻褄は合っているし、事実関係としてはそれでいいのだろうが、俺にはどうしても納得いかないことがあった。それは順序だ。そもそも、江藤先生を殺害して問題を解消しようとする短絡的な選択肢があったのなら、江藤先生に惨殺魔の写真で脅しを掛けられた時点で、その方法を選んでいればよかったのだ。そうすれば自分の体を差し出す必要もなかったし、妊娠することもなかった。半年もの間、脅しに耐え続けたというのに、このタイミングになって江藤先生を殺害しようと思ったのはなぜなのか。もっと言えば、自分の体を犠牲にしてまで守ろうとした弟を、どうして簡単に殺してしまったのだろうか。それでは彼女が半年間も江頭先生の言いなりになって苦痛に耐え続けてきたことが、まるきり無意味になってしまう。
つまり、沙良はこの半年間の間に人を殺すことに躊躇しなくなったのだ。その理由を少し考えて、すぐに答えは出た。それは至極簡単なことだった。
俺と出会い、彼女は変わってしまったのだ。正確に言えば、妊娠の話を聞かされ、俺が喜んでしまったから、沙良はそれを真実にする道を選んだ。
沙良から妊娠したと打ち明けられたあの日、彼女は同時に別れ話も持ち出してきた。恐らく、俺が責任逃れの言葉を口にすると思っていたのだろう。だから、責任なんて取らなくていい、お金だっていらないと言って、別れるつもりだった。沙良にとっては、妊娠させた相手が江藤先生ではなく、俺であると両親や学校に思わせられればそれでよかったのだから。
だが、実際のところ俺は喜んだ。沙良との繋がりとして、妊娠という目に見える形を与えられたことに安心したのだ。
沙良はさぞ戸惑ったことだろう。妊娠を理由に別れようと思っていたのに、逆にそれが絆を深める要因となってしまったのだから。
そして、いつからそう思うようになったのかはわからないが、沙良も俺との未来を少しずつ望んでくれるようになった。だから江藤先生を殺害したのだ。妊娠の真実を知る人間を、生かしておくわけにはいかなかったから。
同じ理由で弟も殺害された。あるいは、惨殺魔であることを隠し続けるのも、そろそろ限界だと思ったからかもしれない。どちらにしても、すべては俺との未来を守るためだった。
それこそが、いつまでも堕胎しようとしなかったことの裏付けにもなる。殺害するほど憎い相手の子を身籠っているのなら、本来、堕胎のできる内にさっさとしてしまうはずだ。それをせずに、俺と一緒になって子供の名前を考えたりしたのは、きっと俺との未来を本気で望んでくれていたからだと、いまなら思える。
誰からも望まれずにこの世に生を受けた子供を、俺だけが大切な絆だと言ったから、沙良はそれを守り抜こうとしてくれた。
子供の名前には俺の名前から一字取りたい。沙良はそう言った。いま思うと、あれは血縁関係のない子供と俺との繋がりを、せめて名前を通じて結ばせようとしたように感じる。そうだとしたら、なんて意地らしい話なのだろうか。
これらはあくまで、俺の身勝手な想像でしかない。だけど、不思議と確信めいたものを感じるのはなぜだろう。
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彼女の優しい嘘の理由を、この胸に刻み込みながら。
「……さ」
俺は再び口を開き、今度はしっかりと愛する人の名前を呼ぶ。
「〝沙良〟」
そう口にした途端、視界がぼやけて涙が溢れた。頬を伝う涙は、一向に止まる気配がない。
涙の理由を理解した彩香は、俺の肩を乱暴に揺すった。
「ねえどうして! どうして私じゃ駄目なの? 言ってくれたらどんなことだってするよ。キスだってセックスだって、七季が望むことをしてあげる。だから私を見てよ!」
だけど、もう俺の瞳には彩香の姿は映らない。沙良の笑顔が、いまでも瞳に焼き付いて消えてくれない。
「もう、いいだろう。勘違いは終わりにしよう」
「なにを言っているの?」
彩香は、強く掴んだ手の力を緩めた。
「まだわからないのか? お前はただ、俺に引け目を感じているだけなんだよ。飼っていた猫を殺されて、塞ぎ込んでいたのを俺に救われたから、その恩を返そうとしているだけだ」
「違う。私は七季を愛してるのよ! だから心配だし、力になってあげたいと思うの。それのどこが勘違いだというの?」
俺はかぶりを振って否定した。
「彩香は、俺に同情しているだけなんだよ。そんな偽善を認めたくなかったから、それを虚飾するために、恋に落ちたと自分に言い聞かせた。お前の自己満足に俺を巻き込むな、迷惑なんだよ!」
瞬間、パン、と渇いた音がして、頬に傷みが走った。彩香の温かい手の感触が、そのまま頬に移ったように熱を持つ。
俺が顔をあげられずにいると、数瞬の沈黙のあと、彩香は謝罪の言葉を置いて部屋を出て行った。最後の言葉が震えていたことに俺は気付いていた。こんな自分のためにまだ泣いてくれるのだな、と不謹慎にも嬉しく思った。
「謝るのは俺の方だよ。本当にごめんな」
布団から顔を上げ、彩香の去って行った扉の方向を見つめる。
彼女と過ごした長い月日を思い浮かべると、いくら謝罪の言葉を述べてもきりがないことに気付いた。
「それから、ありがとう」
彩香の残像をそこに見出すかのように、俺は胡坐を掻いたまま、深く頭を下げた。
少しして階段を上ってくる不躾で荒々しい、耳障りな音がした。
部屋の前で止まると、いきなり扉が開かれ、そこには酒に酔ってふらついた足取りの、鉄郎が立っていた。
「お前、彩香ちゃんになにをしたんじゃ。あの子、泣いとったぞ」
正直、いまは相手をする気分ではなかったので、俺は無視した。
「ふん。どうせ女の話やろ? 聞いたで。お前の女、人を殺したらしいな」
俺は言葉を失った。沙良のことをどうして鉄郎が知っているのか、そんなことはこの際どうでもよかった。どうせパチンコの帰りにでも仲間内で話したのだろう。そういう噂話しは、狭いこの町では簡単に広まる。それよりも、この八日間で、沙良は自首していたというのか。安心したような、だけど、彼女を待ち受けているであろう苦労を考えると、やはり複雑な気分になる。
俺が黙り込むと、
「まさか、おめぇ関係してねえだろうな?」
その言葉に驚いて顔を上げると、鉄郎の瞳は猜疑心に染まっていた。
「待てよ、なんだよそれ。もしかして、俺が事件に関与していると思ってるのか?」
鉄郎はなにも答えない。肯定しない代わりに否定もしない。しかし、その目が如実に物語っていた。
「なぁ父さん、俺のことを疑ってるのかよ?」
俺のすがりつくような言葉に、鉄郎は鼻を鳴らした。
「おめえはあの淫売な母親と一緒じゃ。平気な顔して人を裏切る、最低な人間と同じなんだよ。疑われて当然じゃ。だいたい、いまとなっちゃ俺のガキかどうかも怪しいもんだ。おめえの母親がどっかの男と作った可能性だってある。いいや、そうに違えねぇ。俺とおめぇにはなんの繋がりもねぇ」
俺はガツンと頭を殴られたときよりも、ずっと強い衝撃を受けたような気がした。血の繋がりは絶対だと盲信して、どれだけ鉄郎に虐げられても、家族だからとずっと我慢してきた。きっとその繋がりが俺を支えてくれるものだと信じて、これまで耐えてきたのだ。
だけど、それも今日でお終いなのだろう。鉄郎は、息子との繋がりを自ら断ち切る選択をしたのだ。
「もし警察がきても俺を巻き込むなや。おめえで勝手に対処しろ」
それが理由。面倒事に巻き込まれるのが嫌で、実の息子と縁を切るのか。そんな些細なことで、切り捨てるのか。俺には、父親の考えが手に取るようにわかった。そんな小さな理由で、鉄郎は責任から逃れようとしているのだ。親は子供に対して責任を負うべきだ。それなのに、無関係だと息子を目の前にしてはっきりと言った。
無愛想な表情と厳つい眉目。そういう意味で、俺は母親ではなく父親によく似ていた。それでも、鉄郎は無関係だと言う。
「よくわかった。俺とあんたは無関係、それでいいんだな?」
「ああ、そうじゃ。俺たちゃ親子でもなんでもねえ。俺に迷惑を掛けるんじゃねぇぞ」
面倒くさそうに鉄郎が吐き捨てるのを見て、俺は、可笑しくて笑ってしまった。いままで、この男を最低だと罵りながらも、それでも父親として認識していたことが信じられない。
血の繋がりは絶対。そんなものは〝絆〟を求めていた俺の、ささやかな幻想に過ぎなかったのだ。
結局、手元にはなにも残らなかった。沙良との絆も、彩香との絆も、親子の絆すらも、なにもかも瓦解してまった。
可笑しくて笑っているはずなのに、目を閉じると涙が溢れる。腹の底から笑いが込み上げてくるのに、次々と涙が頬を伝う。
「気味の悪ぃガキだな」
鉄郎の侮蔑を込めた言葉が耳に届いた。
「泣きながら、笑っていやがる」
俺は、それでも気にせず笑い続けた。
もうどんな言葉も聞きたくない。
自分の笑い声でなにも聞こえなくなればいいと、そう思った。
鉄郎が呆れた様子で部屋を出て行くと、また一人きりの空間が形成される。だけど、耳鳴りのように鉄郎の言葉が頭をグルグルと回っていた。親に否定されるということは、存在事体を否定されたのと同じことだ。
これでもう、俺は鉄郎の呪縛に繋がれたままでいる必要はなくなった。それならもう、あの男は俺にとってまるで必要のない存在。いやむしろ、邪魔な存在と言ってもいいだろう。
俺は尚も笑い続ける。
彩香の手によって開かれたカーテンから、眩しいまでの陽光が差し込んでいた。薄暗い部屋に、不気味に照らし出された影が、まるで悪魔か魔物を模ったシルエットのように壁に映る。ただそこには、大きく口を開いて笑う、魔人の姿があるだけだった。
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「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
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MayonakaTsuki
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