彼女の優しい理由

諏訪錦

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嘘に足はない 5

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 さっきから携帯電話がずっとなり続いていたが、ぼくは出ようとしなかった。今はそれどころではない。
 扉が開いた瞬間、ぼくは相手を確認もせずに殴りかかった。
 高槻先輩の居場所は十中八九この家で間違いない。そう確信していた。
 いきなり鼻っ面を殴られた男は、傷みと驚きで息を荒くしながら、それでもぼくの侵入を拒むように足にしがみつく。
「離せよ。高槻先輩はこの中にいるんだろう」
「な、なんのことだよ。だいたい君、誰だよ?」
 ぼくから見たら一回りほど年齢を重ねているその男は、よれたスウェットに身を包み、頬から顎にかけて薄汚れた無精髭を生やしている。
 この人物こそ、先輩を誘拐した人物に違いなかった。
「証拠は挙がってるんだよ」
 碓井から聞いた警察の調べで、仕掛けられていた盗聴器の機種から割り出した発信電波と、受信機の感応距離を考えると、スポーツ用品店のバッグから発せられる電波を受信できる距離はおよそ五〇〇メートル。つまり犯人の居場所はスポーツ店のすぐ近くだと特定することができる。スポーツ店を拠点に、五〇〇メートル内に入っていなければ犯人はバッグの盗聴器からの電波を受信できない。
恐らく、盗聴器を仕掛けた犯人は店舗内での話し声を盗聴しており、盗聴器入りのバッグが購入されそうな場合にのみ、何食わぬ顔して店舗に顔を出し、購入者の後を追って身元を明らかにするのだろう。
 そしてターゲットは、女性。高槻先輩も盗聴器が仕掛けられたスポーツ店でバッグを購入しているし、家もこの場所から一キロも離れていない。十分に尾行できる距離である。そして決定的だったのは、そのスポーツ用品店の店主の証言だった。店主は長年店をやっているが、学生の顔を忘れたことがないという。
「あんたは、あのスポーツ用品店に監視カメラがないから売り物の鞄に盗聴器を仕掛けたんだろう。でも、店主はあんたの顔と名前をはっきり覚えていたよ。学生じゃなくなってもいまだに店に顔を出してくれるのは彼くらいだってさ」
 個人商店であることが、逆に裏目に出たということだ。
「それに、友人に警察関係者がいてね。いろいろ教えてもらったんだ。もうあんたのやったことが発覚するのも時間の問題だ」
 脅し文句に、男はみるみる内に顔を青くしていった。特に警察という言葉のあとには、その動揺も最高潮に達した。男が動揺している隙をついて一階の捜索を終えたが、高槻先輩の姿を発見することはできなかった。
 まさか間違いだったのか?
 いや、そんなはずはないと、ぼくはかぶりをふった。
 スポーツ店からの距離と、店主からの証言。そしてなにより、この家に停められていた〝車〟が雄弁に物語る事実。この一帯は開発が進み、新興住宅地として町づくりが行われた。もちろん、道路もしっかり舗装されている。だというのに、この家の車庫に停まっていた車のタイヤには、多くの飛沫した〝泥〟が付着していた。近隣の家を回ったがこの家だけだった。
 タイヤにこれほどの泥が付着する場所が町内にあるとしたら、それは元工場地帯として開発の枠から外れた、町外れの一帯しかあり得ない。そして、その場所は高槻先輩の鞄から外れたストラップが落ちていた場所なのである。
 ぼくは念のためにと持ってきた大型鞄から金属製のバットを取り出す。そしてまだ探していない二階へと足を踏み入れた。
 二階にあがってすぐの部屋の扉を開くと、ぼくは思わず目を見開く。天井の梁から伸びたロープが、小柄な女性の首に巻き付き体を支えていた。こちらに背中を向けた女性の足は宙に浮き、その足元には転倒した椅子がある。
 息を呑んだ。男の足音が階段を上り始めたのも忘れて、ゆっくりと回り込み女性の顔を確認する。
 見るからにくたびれた表情の女性は、恐らく高槻先輩を誘拐した男の母親だろう。状況を見る限り、これは自殺。自分の息子が若い女性を誘拐したと知り、恐らく人生に絶望し、現実から逃れようと首を括ったのだろう。 
 しかし、ぼくが探しているのは死体ではない。男の足音が完全に二階に上がりきる前に部屋を出て、次々と部屋を検めていく。
 やがて二階の突き当たりの部屋に差し掛かると、鍵が掛かっていて閉ざされたままの部屋を発見し、ぼくはバッドを振り上げてドアノブに振り下ろした。
 背後から慌てた様子で近付いてくる男に、牽制の意味を込めてバッドを一振りすると、再びドアノブを殴る、その動作を繰り返した。
 三度目の殴打によってドアノブは完全に破壊され、その勢いで施錠された鍵も一緒に壊れた。
 開かれた扉から勢いよく中に入り込むと、そこに両手両足を縛られた高槻先輩を発見する。
 ぼくの後ろで、
「……違うんだ。俺は彼女を守ってるんだ。彼女もそれを望んでる。そうに決まってる」
 男はぶつぶつと、呟くようにそう言った。
「思い込みも、そこまでくると哀れだよ」
「うるさい!」
 男は、先ほどまでの臆病さはどこかへ消え、吹っ切れた様子で掴みかかってきた。小柄なぼくよりも二回りほど大きい体に突進されたことで、ぼくは後方に思いきり弾き飛ばされた。
 したたか打った後頭部が熱を持ったように熱く痛む。
 だが、ぼくは不思議と冷静であった。
 部屋の中を見渡すと、アニメやアイドルのポスターがいたる所に張られていて、乱雑とした部屋の隅には、黄色い液体が入ったペットボトルがちらほら見受けられる。
 この男の世界は、この小さな四畳半の部屋で完結しているのだ。だからこそ、唯一外の世界と繋がれる盗聴器に依存し、なにか思い込みをしてしまったのだろう。
 相手の声を盗み聞きし、やがて電波の繋がりを心の繋がりとでも勘違いしてしまうようになったのだろうか。
 ぼくは立ち上がると、男に向けてバットを振り下ろした。今度こそ、迷いも躊躇いもなかった。
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