彼女の優しい理由

諏訪錦

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彼女の優しい嘘の理由 25

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 翌朝、俺は下駄箱の前に立ち尽くしていた。
 また、二枚折りにされた手紙が入っていたからだ。中身は前回と同じ「胎児の夢」という短文。前回の手紙は悪戯として処分してしまったので、もう手元に残っていない。だが、筆跡と内容の一致から同一人物が入れたとみてまず間違いないだろう。
 テスト明けということもあり、俺の登校時間は普段通りに戻っていた。ホームルーム十分前のこの時間だと、既に多くの学生が登校しているに違いない。昨日の放課後も含めると、犯人を特定するのはほとんど不可能に近かった。
 懸念すべきは沙良のことである。俺の下駄箱に再び入っていたということは、当然、沙良のもとにも届いていると考えるべきだ。そうすると、この時間に登校していないはずがないから、もう見付けてしまっていることだろう。もう解決したと思っている沙良は、再び手紙が届いたのを知って、きっと不安に思っているに違いない。
 俺は周囲を見回した。もしこれが悪戯の類だとしたら、狼狽する俺の姿をどこかで見ているかもしれない、と思ったからだ。
 内心で諦めながら周囲を窺うと、はたと一人の女子生徒と目が合った。見たこともない生徒だが、その生徒は俺と目が合うと、挙動不審な動きを見せ、見るからに怪しい。
 迷っている場合ではない。俺はそう自分に言い聞かせ、勇気を振り絞って声をかけてみることにした。
「少し聞きたいことがあるんだけど、いいかな?」
 相手は一瞬驚いたように目を見開いた。
「あたしのこと知ってるの? それなら話しが早いや。あたしも伝えておきたいことあるんだけど、藪坂君は、皆勤賞とか狙ってる人?」
「まさか。典型的な不良学生だよ、俺は」
「よかった。それじゃあ、少し外に出て話しをしましょう」
 そうして俺は見知らぬ女子生徒の隣を歩きながら、頭の中を回転させていた。
 この女子生徒のことを俺は知らない。だというのに、向こうは俺の名前を知っている。これはもしかしたら本当に手紙の主かもしれない、と内心で期待した。
「この辺でいいかな」
 学校の敷地を出て五分ほど歩いてようやく立ち止まり、女子生徒はそう言った。
 そこは桜通りを右に逸れた道沿いにある、小さな空き地だった。そこにはもともと金網が張ってあったようだが、自然に、あるいは人為的に切断されていて、丁度いい具合に空き地に侵入することができた。
「この町は、半分ゴーストタウンなんじゃないかって思うことがあるよ。そこらに空き地ばかりあるし、廃工場の膨大な敷地だって遊ばせたままだ。そんなにこの町には利用価値がないのかね」
「そんなこと知らない。無駄話をしにきたわけじゃないわ」
 女子生徒は、俺の軽口を制してそう言った。
「そう言ってもらえるこっちとしても有難いな。誰だかわからない相手と雑談に興じるつもりはないからさ」
「あたしのこと知らないの? だったらどうして声かけてきたの」
 俺は溜息を吐いてポケットに手を突っ込んだ。カサッと音を立てながら、二枚折りの手紙を取り出して相手に向ける。
「これを俺の下駄箱に入れたのはあんたじゃないのか。俺はその理由を問い質すためにここに来たんだ」
 しかし、女子生徒は訝しむように首を傾げた。
「下駄箱ってなにそれ、ラブレター? あたしが出す理由がないわ」
 白々しい態度に俺が懐疑的な目を向けると、女子生徒は、「本当よ」と言って睨みつけてきた。
「藪坂君はあたしの彼氏の友達だから、助言してあげようと思ってわざわざ声をかけたんじゃない。なにか勘違いしてるわよ」
「彼氏の友達………誰のこと言ってるんだ?」
 そう問うと、彼女は呆れたようにかぶりを振った。 
「あたしは棚田美歩。あなたのクラスメイト、福部君の彼女よ」
 思わず、あっ、と声をもらしてしまい、俺は口をつぐんだ。
 この見るからに男受けしそうな女子生徒が、達夫から聞いていた彼女か。
「その反応、福部君から話を聞いてるみたいね。だったらもう知ってるんでしょう? あたしが、援助交際をしていたことも」
 唐突な問いに、素直に答えていいものかどうか悩んだ。じっくりと考えた結果、俺は頷くことにした。
「確か、亡くなった江藤先生と肉体関係を持っていた、とか」
 顔色を窺うように棚田さんを見ると、彼女は一瞬だけ目を伏せた。思い出したくないことだったのかもしれない。
 だが、顔を上げた棚田さんはなにごともなかったかのように言った。
「そこまで知ってるなら話は早いね。私は江藤先生にホテルに連れ込まれて、好き放題体を弄くり回され、本番までされちゃった。しかもお金と引き換えに。私はそういう女なのよ」
 いきなり始まった独白に、俺は面食らってなにも言えなかった。
「福部君を裏切ったっていう罪悪感よりも、自分の体があんな男の唾液に、体液に汚されたかと思うと虫唾が走った。一回だけでも辛かった。もう二度とごめんだと思った。なのに、江藤先生は大きな顔して『これからも金が欲しいなら相手してやる』って言ったのよ。本当にキモいよね。思わず、その場にあった灰皿でぶん殴ってやろうかと思ったくらいだよ」
 えへへ、と棚田さんは空笑いをした。
 冗談にしても性質が悪い。江藤先生は何者かに殺されたのだ。
「ああ、違うからね。あの男が不審死を遂げたのは聞いてるけど、犯人は私じゃないよ。あんなやつ殺されて当然だと思うし、正直言って良い気味だと思ってるけど、私はなにもしていない」
 そんな言葉を、俺は鵜呑みにできなかった。彼女には江藤先生を恨むだけの理由がある。その口で無実を訴えても、初対面の俺には信じるだけの確証がなかった。
「ここからが本題よ」
 棚田さんは、仕切り直すようにそう言った。表情も先ほどまでと比べて固くなった気がする。
 俺もつられて表情を引き締めた。喉を鳴らして唾を飲み込む。
「さっきの話の続きだけど、私は江藤先生の誘いを断ったのよ。もう二度とあの男に触られるなんて耐えられなかったから」
 自分の体を抱き締めるようにして、棚田さんは震えを抑えようとしていた。
「だけど、本当は怖かった。断ったら、一度関係を持ったことを理由に脅されるんじゃないかって、ビクビクしていたのをいまでも思い出すことがあるわ。だって、江藤先生って無駄にプライドが高そうじゃない。でもね、拍子抜けするほどあっさりとあたしから手を引いたの」
「なあ、その話を俺にして、なんの意味があるんだ?」
 生々しい彼女の体験談など聞かされても、正直不愉快でしかない。
「これでもかなり削って話してるのよ。最後まで聞けばわかるわ」
 俺は憮然として腕を組んだ。そうまで言われたら、黙って話しを聞こう。
「江藤先生がどうして私を簡単に解放したのか、そのときはわからなかった。ただの強がりか負け惜しみとも考えられたけど、それにしてはあっさりし過ぎていたのよ。だって、自分の教え子に援助交際を持ち掛けるような男よ? 卑劣な手の一つや二つ考えていてもおかしくないじゃない。なにか裏があるんじゃないかって思うのが普通でしょう?」
 俺は取り敢えず首肯しておくことにした。話を長引かせたくなかったからだ。
「私は受け取ったお金をすぐに破り捨てたわ。本末転倒かもしれないけど、でも、心まで穢されたくなかったのよ。アイツのお金を受け取るってそういうことじゃない。都合良いかもしれないけど、私は、心だけでも綺麗なままでいたかったの」
 俺は話を聞きながら思った。やはり、彼女の罪を許すことができるのは彼氏である達夫だけだ。そして、彼女の心の傷を癒すことができるのも。
 だからこそ不思議だった。こんな話を無関係の俺に聞かせて、意味があるのだろうか。自分の古傷を抉るような真似をして、なんの得があるのか。
 それらの疑問に答えるように、棚田さんは話す。
「私から興味をなくした江藤先生は、携帯電話で誰かに連絡を入れたのよ。私がまだ近くにいることも気にもしないで、平然と。その電話は一方的なものだったわ。私に対する口調よりもさらに横柄な言葉づかいだった。とても酷い、一方的にホテルの場所を伝えて、すぐに来るようにと告げていた。電話の相手はなにか反論したみたいだったけど、江藤先生はそれを許さなかった。『お前に拒否権はないんだ!』って濁声で」
 一瞬、気遣わしげに俺を見た棚田さんは、躊躇いがちにこう言った。
「あの男は、その電話の相手をこう呼んだのよ。"サラ"って」
「は?」
 なにを言っているのだろう。俺は首を振って、無理やり忌まわしい想像を拭い去ろうとする。その言葉を受け入れたわけでもないのに、どうして心臓の音が速まるのだろうか。
「信じたくない気持ちはわかるよ。だけど間違いない。私、気になってホテルまで行って入り口を見張っていたの。そうしたら、若い女の子が中に入って行くのが見えたわ。そのときは誰だかわからなかったけど、あとになって、学校の体育が一緒で驚いた。その子は同じ学年の生徒だったのよ。名前は更級沙良。それが、いまから半年くらい前の話。梅雨の時期の、蒸し暑さをよく覚えているわ」
 愕然としながらも、俺はなんとか言葉をしぼり出す。
「つまり、なんだ。棚田さんは、沙良が江藤先生と肉体関係を持っていたと言いたいのか?」
 彼女は答えなかった。しかし、ホテルに呼び出されてなにもないはずがない。そこで沙良を見かけた事実が、なにを意味するかなど考えるに容易だ。
「正直、あたしは黙っておくべきだと思ったのよ」
 意気消沈とした俺を見て、棚田さんはそう言った。
「この問題は、更級さんと藪坂君の問題だから、私たちが関わるべきじゃないと思った。藪坂君と付き合うようになって、更級さんは変わったのかもしれない。いまさら過去を掘り返すことが、必ずしも正しいこととは思えなかったのよ。だけど、福部君はそう思わなかったみたい」
「達夫が?」
 ええ、と棚田さんは答えた。
「福部君は許せなかったのよ。江藤先生のことも、援助交際のことも、それに手を染めた私たちのことも、ね」
 彼女は辛そうに目を伏せた。いまでも罪の意識は消えず、達夫と付き合いながら、その後ろめたさに苦しんでいるように思えた。
 ふと思い返してみると、俺が沙良に告白する前、達夫は罰ゲームにあまり賛成していないようだった。その姿は、どうも達夫らしくないと感じたのを覚えている。あれは、俺が罰ゲームをすること事体に反対していたのではない。相手が沙良だと知って、否定的な意見を述べたのだ。援助交際に手を染めていた、沙良だから。
「福部君はね、きっと藪坂君を助けたかったんだと思う。だから告白にも反対したし、二人が付き合うようになってからは、あたしのことを相談する体を取って援助交際の話を持ち出し、そういうことが身近に起きているんだって知らせようと思ったんだよ」
 自嘲するように棚田さんは笑った。彼女が言葉を重ねれば重ねるほど、自分自身を貶めることになる。それでも俺に話そうと思ったのは、達夫への義理だてだろう。
「もう一度言うけど、あたしは更級さんと別れればいいと思ってこの話をしたわけじゃないのよ。もう半年も前のことなんだから、彼女を許してもいいんじゃないかって、そう思ってるの」
 確かにそうかもしれない。知り合うずっと前のことを引っ張り出して、沙良を糾弾する権利が俺にあるとも思えない。これまで生きてきて、俺だって多くの間違いを犯してきたのだから。
「あたしとしては、二人に上手くいってほしいと思ってるんだよ。更級さんと自分を重ねるつもりはないけど、やっぱり同じ過ちで別れたなんて聞かされたら、あたしも不安になるもの」
 その心配はないさ、と俺は言った。
 達夫は本当に棚田さんのことを大切に思っている。援助交際の話を聞いたときだって、裏切った棚田さんを責めるよりも、江藤先生を憎んでいるようだった。だからこそ、達夫をすごいと思った。
「俺はあいつみたいに寛大になれないよ。こんな話を聞かされて許せるはずがない。棚田さんには悪いけど、援助交際なんて最低だよ。持ち掛ける方も悪いけど、それに乗る方もどうかしてる」
「そうかもしれない。藪坂君がそう感じるのも無理はないわ。軽い気持ちだったのは認める。別にセックスなんて、大したことじゃないと思ってたんだもの。たかが一回やらせるだけで何万円も貰えるんだから割に良すぎると思った。でも、信じてもらえるかわからないけど、いまは本当に後悔しているんだよ。それはきっと、更級さんだって同じ」
 そう言って、棚田さんは自分の両手をぼんやり眺めた。
「知ってた? 体と心は直結しているんだよ。体を壊されたら心だって壊れる。あたしの場合はね、心が穢れていたから、体まで汚されてしまったの。本当なら、そのまま心も体も壊れてしまっていたはずなのに、こんな私を好きだって言ってくれる人がいたから、いまも正気を保っていられる。更級さんは、どうなんだろうね?」
 沙良がなにを考えているのか、俺にはきっとわからない。だが、これだけは言える。沙良の心根の優しさは俺が誰より知っている。そのことを再確認したら、ポツリポツリとではあるが、自然と言葉が溢れてきた。
「沙良は、俺の弱さを受け入れてくれたんだ」
 父親との間に確執を抱えていた俺の弱音を、沙良は黙って聞いてくれた。
「だから、もし沙良が悩みを抱えているなら、今度は俺がそれを受け入れる番だ」
 棚田さんは頷き、今日一番の笑みを見せた。
「頑張ってね。応援してる」
 話し終え、時間を確認すると一時間目の授業の終わり頃だった。いまから戻れば二時間目に間に合うだろうと思い、このあとどうするか棚田さんに聞くと、彼女は授業に出ると答えた。俺はどうするか悩んだが、沙良と顔を合わせることを考えると、まだ平静を装える自信がなくて、結局は休むことにした。沙良にメールで、今日は学校を休む旨を伝えてバイト先に向かった。家に帰って鉄郎の顔を見るよりはずっといいと、そう思ったのだ。
 自動ドアを抜けると、相変わらず派手な容姿の笹田さんが俺を迎えた。
「あれ、どうしたのこんな時間に」
 自分のことを棚に上げて、レジの前に立っていた笹田は身を乗り出した。
「今日は平日ですよ。笹田さんこそ学校はいいんですか?」
「ああ、うちの学校創立記念日だから」
 ここまでわかりやすい嘘を吐かれると、それはそれで素直なのではないかと思えてしまうのが不思議だ。
「なんて、本当はテスト返却日で短縮日課だったからサボったのよ」
 人差し指を立てて、店長には内緒ね、と笹田は言った。
 どうやら、店長はこんな嘘に騙されてしまうくらい人が良いらしい。今度時給アップの交渉をしてみよう。
「それで、どうして藪坂君がここにいるのか教えてくれない? シフトは夕方からだったはずよね」
「創立記念日で休みです」
「よくそんな真顔で馬鹿みたいな嘘つけるわね。関心するわ」
「二、三個前の自分の言葉思い出せっ」
 自分のことを棚に上げるにもほどがある。
「で、結局なんでここにいるの?」
「一言で言うのは難しいんですけど、それでも簡潔に伝えようとするなら、自主休校です」
「はいはいサボりね」
 笹田さんは呆れたように目を細めた。
「だったら、暇みたいだし頼まれてほしいんだけど」
 笹田さんは手を打ってそう言った。
 面倒ごとは御免だが、さんざんお世話になってきた彼女の頼みを無碍にするわけにもいかず、俺は仕方なく話を聞くことにした。
「実は、彩香に渡してほしい物があるのよ。藪坂君、家が近いみたいだから大丈夫でしょう?」
 もちろん、幼馴染である彩香の家は知っている。だが、正直断りたい頼みだった。そもそも、俺と彩香の間で色恋トラブルがあったことを笹田も知っているはずなのに、無神経すぎやしないだろうか。
「明日にでも学校で渡せばいいじゃないですか。同じ高校なんですから」
「それでいいならわざわざ頼んだりしないわよ。だけど、彩香がどうしても必要だって言うから仕方ないじゃない。ずっと借りたままだったあたしが悪いし、文句も言えないからバイト終わりに渡しに行こうと思ってたんだけど、それだと夜遅くなって彩香に申し訳ないのよね」
 笹田の今日のシフト終わりは俺と同じ時間だから、夜の九時だ。すぐに帰れるわけじゃないことを考えると、かなり遅い時間になってしまう。それに、夜遅くに女性を一人で歩かせるのは少し忍びない。
 俺は溜息を吐いた。俺はどうやら、笹田さんに弱いらしい。
「わかりましたよ。どうせ暇ですから、いまからちょっと行ってきます」
「本当? 助かる」
 そう言って、拝む仕草をする笹田を無視して、俺は聞いた。
「借りてた物ってなんですか? あまり重いのは勘弁して下さい」
「文庫本だから大丈夫よ」
 彼女は答えると、すぐにバックヤードから紙袋を持ってきて、それを俺に手渡してきた。
「重た。ぜんぜん軽くないですよ。いったい何冊借りてたんですか」
「いやぁ、彩香って読書家で面白い本いっぱい勧めてくるから、ついつい借りてそのままになっちゃってたのよね。返して欲しい本はその中の一つらしいんだけど、良い機会だし全部返しちゃおうかなって持って来ていたのよ」
 どうやらこの場所に来てしまったのは失敗だったようだ。だが、一度引き受けてしまった手前、断ることはできない。
 紙袋からチラッと見えた中身は、本当に本でいっぱいだった。昔から変わっていない。彩香はいまでも、自分が面白いと思った本を友人に貸しているんだ。昔の俺にしてくれていたように。
 懐かしさと同時に切なさが胸に込み上げてきて、俺は本の束から目を逸らした。そして、重たい紙袋の中身をそれ以上見ることなく、コンビニを出た。

 彩香の家の前まで到着すると、少し躊躇いの気持ちがあったためか、インターフォンを押す指に力がこもらなかった。かろうじて鳴った呼び出し音に出たのは、幸か不幸か彩香本人だった。
 短いながらも事情を説明すると、
「いらっしゃい」
 そう言って俺を迎え入れたのは、久しぶりに見る笑顔の彩香だった。そういえば彼女の家に入るのはいつ以来だろうか。恐らくは飼っていた猫が殺されて塞ぎこんでいた彼女を、励ましに行ったときが最後だと思う。あれは中学一年生の頃だから、もう四年も前のことになるのか、と感慨深く感じた。
 彩香の部屋に通されるなり、彼女は俺に向かって言った。
「びっくりしたわ。七季が、いきなり家にきたいなんて連絡してくるものだから、大慌てで片付けしてたのよ?」
「俺はただ、笹田さんから頼まれて本を返しにきただけだ」
「そうだったわね」
 どこか掴みどころなく、彩香は笑った。
 彩香はもう、俺への想いを割り切ったように見える。いつまでも意識しているこっちの方がずっと未練がましいのかもしれない。
 俺は紙袋をテーブルの上に置き、なるべく平静を装いながら言った。
「これ、頼まれてた本。確かに返したから」
 帰ろうとして立ち上がると、彩香に引き止められた。お茶くらい飲んで行ってというのを、頑なに拒むのも不自然かと思い、部屋に残ることとなった。
 彩香がキッチンで準備している間、俺は居心地の悪さを感じていた。部屋の中を見渡すと、勉強机の上がやけに散らかっている。これ見よがしに広げられた新聞や雑誌の切り抜きは、惨殺魔の事件を報じるものばかりだった。嫌でも、猫の墓標を作ったときの物悲しさが思い出される。
 彩香は、まだあの事件に縛られ続けているのか。
 切り抜きの束をパラパラとめくっていると、その中に手触りの違う紙が混じっているのに気付く。つるつるとした表面の紙を抜き取ると、それは一枚の写真だった。暗闇でフラッシュも焚かずに撮ったためか、被写体が不鮮明で一見しただけではなにが写っているのかも定かではない。俺はジッとその写真を眺めた。
 集中していた所為もあって、彩香が部屋に近付いていた足音に気付けなかった。彼女は部屋に戻ってくるなり、俺の手の中にある写真を見て言った。
「それ、惨殺魔の犯行を写した写真よ」
 言葉を受けて、再び写真に目を落すと、そのあまりの衝撃に写真から目が離せなくなった。
 再びよく見てみると、鋭利な刃物を持った人物が、犬らしきものの体から凶器を引き抜いた瞬間を写したものだった。写真の中心に写っていた犯人は、ゾッとするような笑みを浮かべて残酷な所業に手を染めているように見えた。
「この写真を撮るの、すごく苦労したんだよ」
 惨殺魔の犯行現場を写真におさめたとは聞いていたが、ここまで決定的な一枚だとは思わなかった。不鮮明な写りではあるが、それでも人物の表情がわかる程度には近付いている。彩香が言うようにこの一枚を押さえるのは相当な苦労だっただろう。
「顔色が悪いわね。ショッキングだったかしら。まあ、見ていて気分の良いものじゃないものね」
 俺の手から写真を奪い取ろうとするのを、慌てて避けて言った。
「待ってくれ。この写真俺に貸してくれないか?」
 呆気に取られたように目を数回瞬いた彩香は、すぐに神妙な顔つきになって問い質してくる。どうしてこの写真が気になるのかと。
 俺は沈黙を貫いた。
 答えずにいると、彼女は溜息とともに言った。
「理由もなにも説明せずに写真を貸せなんて虫がよすぎると思わない? 七季の様子からして、この写真に心当たりがあるように思えてならないのだけれど」
 それでも答えずにいると、話にならないわね、と彩香は憤りをあらわにした。
「この写真は貸せない。だけど、コピーしたものならあげてもいいわよ」
 そう言って取り出したのは、先ほどの写真を印刷用紙にコピーしたもので、中心部に写る人物に黒い目線が入れられていた。
 どうしてそんなものがあるのかと聞くと、情報を得るためにインターネットのサイト上に貼り付けたからだと彼女は答えた。倫理的な面を考慮して、犯人の顔には目線が入れられ、犬の傷口には黒いマーカーでモザイクが施されていた。それでも、写真に写る人物の知人が見れば誰だかわかる程度には犯人の顔は隠れていなかった。
「少しでもいいからこの写真に写る人物の情報がほしくて、インターネットで拡散しようとしたんだけど、すぐに管理人権限で削除されてしまってなんの情報も得られなかったわ。友人に紹介された興信所からも、わざわざ写真のネガを渡したのに連絡がないし、もう八方塞がりだわ。写真を撮ったときは、これで惨殺魔を追い詰めることができると思ったのに」
 肩を竦めてから、彩香は瞳の奥を探るみたいに俺の顔を覗き込んだ。多くの言葉を重ねるよりも、ずっと効果的な尋問方法だと思った。そのまま見つめられ続けたら、耐えられなくなって話してしまっていたかもしれない。
 しかし、彩香はすっと身を引くと、悪戯に笑ってこう言った。
「七季は交渉事が下手ね。それとも、私を甘くみているのかしら。あなたが思っているほど、私は優しくないのよ」
 そう言って、彩香は俺の目の前でコピー紙を破り捨てた。
「交渉決裂。情報に見合う対価を支払わないんだから、当然よね?」
 反論することもままならず、俺は奥歯に力を込めた。
 心のどこかで、彩香なら俺の頼みを無碍に断ったりしないだろうと考えていた。そんな考えを持つ権利など俺にはないというのに。
「彩香、俺は」
「話はお終いよ。もう帰って」
 俺の言葉を遮ると、彩香はそれきり聞く耳を持たなかった。一度チャンスを逃すと、もう二度と交渉はできなくなるのだと言われているようだった。俺は荷物をまとめると、急かされるまま部屋を出た。
 玄関を出ようとすると、不意に背後から呼び止めてられ、なにかを胸部に突き付けられる。一歩あとずさってその正体を確かめると、それは一冊の文庫本だった。彩香は文庫本を突き出したまま、憮然とした顔をしている。
 俺が戸惑いあぐねていると、彩香はじれったそうに文庫本を無理やり渡してきた。
「それを七季にどうしても読んでほしかったの。だから、笹田さんに無理言って、急いで返してもらうようにしたの」
「でも、俺、本は」
手の内の本を見つめる。すると必然的に、以前、彼女からさまざまな本を借りていた時のことを思い出す。彼女が読み、思いを馳せた物語を何一つ理解できない無様な俺のことを。
 確かに本を受け取ったことを確認すると、「すぐに返しに来てよね」と言って、彼女は家の中へと戻って行った。
 そして、閑静な住宅街を歩きながら、彩香から本を借りるのは久しぶりだな、と思い出に浸った。少なくとも俺が読字障害を抱えていると知ってからは一度も貸してもらった覚えがない。
 感傷に浸りながら本を開こうとすると、そのとき、不自然にある頁が開かれた。原因は栞のような物が挟まっていたためだが、それにしては大きい。文庫本とほとんど同じ大きさの厚手の紙が挟まっていた。 
 厚紙を手に取って陽光にさらすと、それがなにか一目でわかった。俺は思わず振り返り、彩香の家がある方を眺める。
 あれだけハッキリと断っておいて、そこには惨殺魔の犯行現場をおさめた写真が挟まっていた。しかもモザイクの入れられたコピー紙ではなく、原本だった。
 やはり、昔から彩香はなにも変わっていない。優しい彼女のままだ。俺は深く頭を下げると、翻って走り出した。
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