彼女の優しい理由

諏訪錦

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嘘に足はない 3

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 ―――市内某所の体育館。そこで毎夜のように、バタン、バタンという何かが倒れる音が聞こえてくるのだという。そこでは、同時にシクシクと女の泣き声がしていた。
 夜間の警備にあたっていた男が、物音を調べに体育館に入ると、そこで白いドレスに身を包んだ女性がうずくまっている姿を発見する。急いで駆け寄ると、その女性は言った。
「踊れないの」
 警備員は、それが異常な状況であることにすぐに気付いて、一歩また一歩と後退し始める。
 だが、女性はそれでも話しを続けた。
「だって……だって……」
 女性が顔を上げると、言った。

「足が、ないんだもの!」

 その血走った目で、警備員の方をギロリと睨みつけると、女性は腕の力だけで移動を開始した。
 慌てて逃げる警備員の背後に、徐々に迫る女。足が無いはずなのに、腕の力だけで這いずる女の影が、徐々に近づいてくるのを感じる。警備員は、いけないとわかっていながらも逃げた先はトイレの個室の中で、それでも鍵を締められる安心感が、警備員の心を辛うじて平常心に保たせていた。だが、それもすぐに終わりを迎えた。
 便座に腰を下ろしていた警備員は、ようやく外の様子が普段通りの静けさに戻り、そろそろ外に出ようか立ち上がろうとしたそのとき、バランスを崩して床に顔を思いきり打ちつけてしまった。
「痛っ」
 警備員は、自らの両足に走る痛みを確認するために、自分の足を見ると、膝から下が切り落とされたあとだった。
 トイレに響く絶叫だけが、残響する。

「―――おい」
 ぼくは空気をまるで読まない碓井好(うすいよしみ)を睨み付けて、言った。
「何の話だ。いきなりそんな怪談を話す理由がわからない」
 ぼくはチラと隣を歩く高槻先輩の顔色を窺う。
 案の定、むっつりした表情は、碓井のした怪談話の所為でさらに険しいものに変わっていた。意外なことに、高槻先輩は怪談話が苦手なようだ。
 説明しておくと、碓井はボクのクラスメイトで、変わり者が多く所属するという新聞部の紅一点、自称、期待のホープなのだそうだ。ちなみにぼくらは同じ中学出身で昔から存在は知っていたが、〝変なやつ〟という認識が強かったため、まともに話したことはなかった。
 そんな碓井が、今日に限って、いきなり話しかけてきたのである。
 あけすけに彼女は、「いま話題のカップルにインタビューがしたい」と言い出し、ボクと高槻先輩の下校に無理やりついてきたのである。
 せっかく二人で帰れるチャンスを不意にしたことで、高槻先輩が渋い顔をするのは当然のことで、ぼくは何とかして彼女の機嫌を取らなければならないと思い、いろいろと頭を働かせていたが、その間も碓井の不躾な質問は続いていた。
「お二人の仲はどこまで進展してるんですか? 全校生徒憧れの的である高槻先輩なんですから、もちろん、もうキスくらいしてるんですよね?」
 ぴくっと高槻先輩の眉が動く。
 その動きに、ぼくの肩も連動するようにビクリと動いた。
「キス、ねえ?」
 そう言って向けられた高槻先輩の目があまりにも冷たかったため、ぼくは耐えきれずにサッと逸らしてしまう。

 あれは先日のことだった。

 ぼくは高槻先輩の家に呼ばれ、彼女の部屋で一冊の雑誌を二人で並んで読んでいた。
 というか、読まされていた。内容は現代のカップルの生態について赤裸々に記した若者向けファッション誌のコーナーで、『いま、肉食系女子が求められている』と太字で強調されていた。

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 肉食系女子の三ヶ条。
①自ら行動、自ら告白。
②大胆に手を握るのも肉食女子の仕事!
③部屋で二人きり。初めては彼の部屋じゃない。自分のテリトリーで。
 以上の内、二つ以上が当てはまっていた場合あなたは肉食系女子です。
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 ぼくの彼女、全部当てはまってる!
 思わず息を呑んでちらりと高槻先輩を盗み見ると、彼女は本当に舌なめずりでもしだしそうだった。
 そして目が合うと、恥ずかしがるどころかさらに笑みを深くし、ぼくの肩に手を添えた。
 ―――あ、あれ? これってまさか。
 慌てふためくぼくを他所に、高槻先輩の顔が、唇が徐々に近づいてくる。
 もちろん嫌、というわけではなかった。徐々に近づくにつれてハッキリ見える彼女の潤んだ瞳も、ほのかにリップの塗られた艶やかな唇も、ぼくを誘っているのは明白だった。その誘因力に負けそうになり、ぼくの体も徐々に高槻先輩に近づいて行った。
 唇と唇が触れ合う、その直前、
 けたたましい音が室内に響く。
 それはぼくの携帯電話の着信音だった。気が付くと、音に驚いたぼくは高槻先輩との間に埋めがたい距離を作っていた。それと同時、まるで催眠にかかったように吸い寄せられていた意識も、正常なものに戻っていた。
 だが、そこで引き下がらないのも肉食系女子。
 ずい、ずい、と力技で距離を縮めてくる高槻先輩に対し、ぼくは覚悟を決められず、ほんの少し後ずさりながらも、強く拒否する勇気も持てずにいた。
 やがてぼくの体が逃げ道を失うと、高槻先輩の艶めく唇が今度こそぼくの唇を捉えよう―――としたところでまた携帯電話の着信音が鳴る。
 ギリ、と歯ぎしりする音が聞こえた。でも、あくまで高槻先輩は笑顔を崩さない。それがまた怖かった。
「ねえ、さっきから、携帯鳴ってるよ?」
 奥歯に力を込めているためか、彼女の話し方がどこかぎこちない。
「相手、誰?」
 ぼくは慌てて携帯電話を取り出し、確認する。相手は想像通り、お姉ちゃんからだった。
「お姉さんから?」
 こくこくと頷き、履歴を見せると、高槻先輩は「はあ?」と頓狂な声をあげた。
「着信履歴、お姉さんばかりじゃない。しかも、一日に何回連絡来てるのよ!」
 携帯電話の着信履歴の名前は、ほとんどすべて『姉』で埋め尽くされていた。
 なにかおかしいのだろうかと首を傾げると、高槻先輩は嘆くように溜息を吐き出してから、「異常だわ」と呟いた。
「こんなに弟を溺愛して分刻みに連絡入れてくる姉も十分やばいけど、それをおかしいとも思わない君も異常だよ。このシスコン!」

 そんなやり取りがあって、結局その日、ぼくの唇が高槻先輩によって奪われることはなかった。

「なるほど」
 話しを聞き終えた碓井は、メモを取りながら、「シスコン」とぼくにとって不名誉な言葉を口にする。
「そんなことはメモ取らなくていいよ」
「だって事実じゃない」
 高槻先輩がまるで碓井を擁護するようにそう言った。というよりも、ぼくを非難する意味でそう言ったのだろう。
 ぼくらのやり取りを見逃さなかった碓井は、「関係、あまりよろしくない」と口に出しながらメモを取った。
「そんなことない!」
 今度は一転して高槻先輩が否定する番だった。
 そのあまりの剣幕に、ぼくはもちろんのこと、マイペースな碓井まで虚をつかれたように驚いていた。
 ずっと着いて回ってきた碓井だったが、高槻先輩が声を荒げたことで委縮してしまったのか、挨拶もそこそこにぼくらの前から姿を消した。彼女はまるで嵐のように身勝手で、自由な人間だと呆れてしまう。
 おかげでぼくは、この重苦しい空気の中で彼女と二人の時間を過ごさなければらならなくなった。
 それにしても不思議なのは、さっきの高槻先輩の変容ぶりである。
 いつもはどこか飄々としていて、常にぼくをリードする余裕を見せる彼女が、碓井の軽口ぐらいであんなにも怒りをあらわにしたのはなぜだろう。どうして高槻先輩は、そこまでぼくに固執するのだろうか。
 その疑問は、数分間続いた沈黙が破られたと同時に、明らかになった。
「私がムキになった理由が、わからないって顔だね? 恋人との仲が不仲だって言われたら、誰だって不機嫌になると思うんだけど、そんな答えじゃ納得してくれそうもないわね?」
 ぼくは首肯していた。碓井の言葉が軽口であると見抜けない高槻先輩ではないだろうし、そもそも声を荒げるほど、ぼくが高槻先輩に想われている理由が浮かばないのだ。
 一目惚れなんて、まさか言うはずもない。だとしたら、考えられることは一つだろう。
「ぼくたち、前にどこかで会ってる?」
 その疑問に、高槻先輩は小さく頷いた。
 それは、いつ? と追いすがろうとした所で、ぼくの懐で携帯電話が鳴り響いた。
 途端、雰囲気を壊されたためか、高槻先輩は溜息を吐き、気遣うように「電話、出たら?」と言った。
 そのあまりに真剣な表情に、ぼくは逆らうことができず、普段なら無視している電話に出ることにした。
 ディスプレイに映る姉の文字に辟易しながら、通話ボタンを押す。
 すると、途端に受話器の向こうから慌てた様子の声がした。
『ちょっと、私からの電話にはすぐに出てっていつも言ってるじゃない』
 こっちにも都合がある。そう答えると、
『私よりも重要なことってなに。まさか、誰かと一緒にいるの?』
 答えないでいると、『ねえ、どこで誰といるのよ』と姉の追及は続いた。
 今、恋人と一緒にいる。
 本当はそう答えるべきだったのだろうが、姉に恋人のことは極力知られたくない。そう思い、ぼくは、つい「友達と一緒」と嘘を吐いてしまった。
 軽い気持ちだったのは間違いない。ただ、それが大きな間違いだったと気づいたのは、ぼくの言葉を聞いてひどくショックを受けた表情の高槻先輩を見たためだった。
 思わず姉からの電話を切り、ぼくは高槻先輩に言い訳を並べた。
「うちの姉、ほんと過保護で、こうやってやたらと電話してくるし、それに、恋人ができたなんて話すの恥ずかしいし、きっと面倒くさいことになるから」
「面倒くさい?」
 高槻先輩の肩が、ぴくりと動いた気がした。
「君にとって、私ってなんなの? 面倒くさい存在? 恥ずかしい存在?」
「ち、ちがっ」
 慌てて否定しようとしたが、その言葉は高槻先輩によって邪魔された。
「ごめん、やっぱりいい。いまはなにも聞きたくない。一人にして欲しいから、ここで別れよう。後で、ちゃんと話し聞くから」
 ばいばい、と言って高槻先輩は走り去って行った。
 今のぼくにできるのは、彼女の言うことを聞き、背中が見えなくなるまでその場で立ち尽くすことだけだった。
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