彼女の優しい理由

諏訪錦

文字の大きさ
上 下
27 / 57

彼女の優しい嘘の理由 18

しおりを挟む
 放課後になり、バイトに向かうため俺は一人で昇降口に向かっていた。
 今朝、達夫が話してくれたことは俺たちだけの秘密ということで、それ以降は普通に振る舞えたつもりだったが、やはり康一郎には見透かされているような気がして、そそくさと下駄箱にやってきた。下駄箱を開くと、スニーカーの上に丁寧に折りたたまれたルーズリーフが置かれている。ラブレターにしては飾り気がないなと思いながら手に取り、ひとしきり眺めてから、半分に折りたたまれた紙を開く。

『胎児の夢』

 紙の中心部に、その四文字だけが記されていた。
 文字は手書きだが、定規かなにかで一画ずつ線を引いて書いたと思える不自然さが見られる。そんな手間をかけて悪戯を仕掛けてくるくらいだから、当然、記名などはない。
 俺は再び手紙に目を落した。胎児の夢という言葉に聞き覚えはないが、胎児という部分だけを切り取って考えると心当たりがあった。もしこの紙に書かれている胎児が、沙良のお腹に宿る命を指しているのだとしたら、問題が浮上してくる。
 沙良が妊娠していることを知っているのは、俺と沙良を除いて他にいないはず。この紙は自作自演で置いた物ではないし、もちろん沙良の仕業でもないだろう。それじゃあ、いったい誰が?
 考えを巡らせていると、制服のポケットで携帯電話が震えた。確認してみると、部活動へ向かった沙良からだった。
 前置きを省き、俺は告げる。
「おかしな手紙が届いたんじゃないか?」
 数秒の沈黙のあと、はい、と小さい声が返ってきた。
 やはりそうか。沙良の声が受話器越しでもわかるくらい憔悴し切っていたのは、恐らく受け取った手紙に恐怖心を抱いているからだろう。下駄箱を開いたら差出人不明の不気味な手紙が入っている。しかも、紙に書かれた〝胎児〟とは沙良の妊娠を示唆したものだろう。自分たちの秘密が書かれた紙が置かれていれば、怯えてしまうのも仕方のないことだろう。
 俺は唇を噛み締めながら言う。
「悪いな。この手紙の差出人に、少し心当たりがあるんだ」
 考えている内に、俺の中で一つの可能性が浮かんでいた。
「誰なんですか?」
「ごめん、それは言えない。だけど安心してくれ。どういうつもりか知らないけど、こんな手紙は二度と出させないようにするから」
 俺はそう言って通話を切った。二つ折りにされたルーズリーフを握り締め、すぐに携帯電話を睨み付ける。
 何度目かのコールのあと、通話は繋がった。
「彩香か?」
 開口一番、強い口調でそう言った。
「なによ、突然」
 俺の態度から不愉快さを覚えたのか、彩香も不遜な態度になる。
 だが怯むことなく、俺は返した。
「全部知ってるんだよ。この手紙、お前の仕業なんだろ? 」
「手紙……? なんの話しだかわからないわ」
「しらばっくれるなよ。俺と沙良の下駄箱に入っていた、嫌がらせの手紙のことさ」
「知らないわよそんなの。どうして私がそんな物を―――」
 彩香はそこまで言って言葉を切った。
「いえ、理由は確かにあるかもしれないわね。沙良って、七季の彼女の名前だもんね? 私がその子に対して嫌がらせをするというのは、確かに道理に合ってるのかもしれない」
「やっぱりお前が」
「でも私はやってない。そもそも、その沙良って子のことも詳しく知らないのよ。それに、さっき手紙は下駄箱に入っていたとか言ってたけど、私がどうやって七季の学校に忍び込めたと言うの?」
 言われてみると確かにそうだ。今日は平日で普通に授業もある。他校の生徒が、授業が行われている時間に忍び込んで目立たないはずもない。下駄箱のある校舎に辿り着くためには、どうあってもグラウンドの脇を通らなくてはならない。人の目を盗んで忍び込めるとはとても思えなかった。
 ましてや、俺だって沙良の下駄箱の位置を知らないというのに、彩香が知っている道理がなかった。
 頭に血が昇っていたとはいえ、俺の推測は穴だらけだった。少し考えれば容易に気付けていたはずだ。
「でも、じゃあどうして。俺は彩香にしか話していないのに」
 思わずこぼした言葉に、「なんの話しよ?」と彩香は訝った。
「前に話しただろ。俺が沙良を、彼女を妊娠させたって話」
 一瞬、受話器の向こうで息を呑むのがわかった。
 彼女としては、まだ割り切れていないことだったのだろう。
 彩香のことを案じながらも、俺は可能性を口にした。
「俺と沙良の下駄箱に入っていた手紙には、妊娠のことを示唆する文章が書かれていたんだ。だけど、妊娠のことはまだ俺と沙良しか知らない秘密なんだよ。他に知っている人はいない。お前以外にはな」
「そんなの知らないわよ。七季かその沙良って人のどちらかが恨まれてるんじゃない。あるいは両方か。そうでなければ変な手紙が送られるなんておかしいもの」
 恨みなんて言われても心当たりがない。かといって、沙良が他人の恨みを買うとも思えなかった。
「本当に、彩香じゃないのか?」
「だから違うって言ってるじゃない。そもそも、その手紙にはなんて書かれていたの?」
「紙はルーズリーフが一枚。二つ折りにされて下駄箱に入っていた。手紙の文字は手書きだが、差し出し人を特定することはできないだろう」
「それで、中にはなんて?」
「胎児の夢。そう書かれていた」
 彩香は小さく息を吐き出し、
「胎児の、夢」
 そう反芻した。
「意味わかるのか?」
 彩香の意味深な言い方に期待したが、「役に立てそうにないわ。ごめんなさい」とすぐに彼女は否定した。
「……そうか」
 思わず落胆の色が声に出てしまったので、自らを鼓舞する意味でも、俺は明るい声を務めた。
「いや、いいんだ。悪かったな、疑ったりして」
 手紙の主が彩香ではないとわかり、喜ばしい半面、振り出しに戻ったという落胆はあった。あんなに怯えていた沙良を、早く安心させてやらなければならなかったのだが。
「そろそろ切るわね」
 素っ気ない声とともに、彩香は通話を切った。いままでのように笑い合ったまま通話を終えるようなことは、決してない。少なくとも俺は彩香を傷付けた。その事実がなくなることはないのだ。
しおりを挟む

処理中です...