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前篇
落ちる(6)
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がたんと、リョウヤが抱えていた絵が落ちる。肩にごつんとリョウヤの額がぶつかり、「いてっ」とリョウヤが呻いたが、構えなかった。
細い腰に腕を回し、後頭部に顔を埋めるようにかき抱く。
いや、縋り付いたと表現したほうが、正しかったのかもしれない。
「な──なに……え、なに?」
動揺したリョウヤが抜け出そうとわたわたと動いた。首筋に当たるリョウヤの唇の柔らかさに、かっと体の奥に火が灯る。衝動に突き動かされるがまま、その体を逃すまいと更に深く腕の中に囲い込んだ。
「な、なんだよ、くるし……っ」
けほ、とリョウヤが肩口から顔を出した。背中にリョウヤの手が回ってくる。その紅葉のような手の小ささを服越しに強く感じ、更にかき抱いた腰の細さに、弾けた情動がぶわりと膨らんだ。
たまらず、リョウヤの首筋に顔を埋めた。
「ひゃあっ、ちょ、くすぐったいっ……いた、いたたッ」
無我夢中で腕の中に閉じこめて、柔らかな首に鼻を埋める。すうと息を吸えば、肺にまでじんわりと染み込んでくる澄んだ香り。
ここにくる途中、緑の葉の匂いが何かに似ていると思っていたのだが、わかった。これだ。
人工的な香りなど微塵も付着していない──素直なリョウヤの、匂いだ。
「あ、アレク……! な、なあっ、離して、いた、痛いって……あたたッ、折れる、腰折れるっ!」
リョウヤを無視して首筋からうなじに鼻を移動させれば、リョウヤの匂いが濃くなった。
ぎゃあ、と色気の欠片もないリョウヤの悲鳴までもが、耳に甘い。口内はもっと大変なことになっていた。口に巣食っていた苦虫が、どこからともなく溢れてきた甘さに一匹残らず吞み込まれてしまっていた。
その奇妙な甘ったるさはリョウヤの匂いを嗅げば嗅ぐほどとろけ、じゅわっと体全体に広がってくる。
今はただリョウヤを一秒でも長く、腕の中に留めておきたくて仕方がなかった。
「ど、どうしたんだよ、急に……なに、具合悪いのか? おい……」
わかっている。離さなければならない。このままでは本当にリョウヤをへし折ってしまう。けれどもリョウヤを抱きしめるこの両腕が、硬直したかのように動かせないのだ。
リョウヤは困惑しているが、実のところアレクシス自身も酷く混乱し、驚愕していた。
どうして今自分は、リョウヤを死に物狂いでかき抱いているのか。言い訳が、どこにも見つからない。けれども、このまま黙っているわけにもいかない。
何か、何かないか。この場をこのまま乗り切れる簡単な話題が。1つや2つ、いつもだったら簡単に出てくるはずなのに、どういうわけだかさっぱり浮かんでこない。
「きょ、今日、は……」
どんなものでもいいはずだ。いつも触れ合う女たちを相手にしている時のように、不審がられないよう、堂々とスマートな会話をすればいいだけだ。できるはず、なのに。
「いい天気、だな……」
「──は?」
大失敗した。しかも声が少し裏返った。
「な、なんだそりゃ……ちょっと、アレク、おい……大丈夫か?」
なんだそれはと、アレクシス自身も自分に突っ込んだ。
自分らしくない言動と行動の全てにただただ困惑する。どくどくと耳に響く心音が死ぬほど煩い。
極限まで密着しているリョウヤのものかと思ったのだが、違う。
張り裂けんばかりに蠢いているのは、己の鼓動だ。
そう、おかしいのはアレクシスの方だった。今更、じわじわと、1つ1つの出来事を自覚していく。
なぜ僕は……僕、は。こんなにも、リョウヤが──こんなに、も?
「アレク?」
ようやく、腕から力が抜けていった。ぐい、と肩を軽く押されて、温もりが離れていってしまう。そろそろとリョウヤの浮いたかかとが床に戻った。
ひょこっと、下から顔をのぞかれる。見るからに、訝しまれている。
だが今はもう、どんな言い訳も使う気になれなかった。
「どうしたんだよ急に。なんか変だぞ、いつも以上に」
「何を、した」
「……なんだって?」
「おまえ、僕に……何をした。この稀人め、卑しく、汚らわ、しい……」
自分でも、もう何を言っているのやら。それ以上は続かず、口を噤む。どう足掻いても顔が歪んでしまい、手のひらで口元を覆った。
もはや動揺を隠せもしない。
わかってしまったのだ。アレクシスの視界の真ん中にはリョウヤだけがいて、他には何も、見えなくなってしまっている理由が。
リョウヤの唇を、目で追いかけていた理由も。マティアスに喘がされるリョウヤに苛立った理由も。シュウイチと微笑み合うリョウヤの姿に、弾けんばかりに激高した理由も。
リョウヤが愛おしそうに呼ぶ兄の顔を、切り刻んでやりたいと恨めしく思う理由も。
穏やかに、柔らかに、リョウヤの肌の全てに触れてみたかった理由も。
それらはきっと、全て、1つの感情に帰結する。
細い腰に腕を回し、後頭部に顔を埋めるようにかき抱く。
いや、縋り付いたと表現したほうが、正しかったのかもしれない。
「な──なに……え、なに?」
動揺したリョウヤが抜け出そうとわたわたと動いた。首筋に当たるリョウヤの唇の柔らかさに、かっと体の奥に火が灯る。衝動に突き動かされるがまま、その体を逃すまいと更に深く腕の中に囲い込んだ。
「な、なんだよ、くるし……っ」
けほ、とリョウヤが肩口から顔を出した。背中にリョウヤの手が回ってくる。その紅葉のような手の小ささを服越しに強く感じ、更にかき抱いた腰の細さに、弾けた情動がぶわりと膨らんだ。
たまらず、リョウヤの首筋に顔を埋めた。
「ひゃあっ、ちょ、くすぐったいっ……いた、いたたッ」
無我夢中で腕の中に閉じこめて、柔らかな首に鼻を埋める。すうと息を吸えば、肺にまでじんわりと染み込んでくる澄んだ香り。
ここにくる途中、緑の葉の匂いが何かに似ていると思っていたのだが、わかった。これだ。
人工的な香りなど微塵も付着していない──素直なリョウヤの、匂いだ。
「あ、アレク……! な、なあっ、離して、いた、痛いって……あたたッ、折れる、腰折れるっ!」
リョウヤを無視して首筋からうなじに鼻を移動させれば、リョウヤの匂いが濃くなった。
ぎゃあ、と色気の欠片もないリョウヤの悲鳴までもが、耳に甘い。口内はもっと大変なことになっていた。口に巣食っていた苦虫が、どこからともなく溢れてきた甘さに一匹残らず吞み込まれてしまっていた。
その奇妙な甘ったるさはリョウヤの匂いを嗅げば嗅ぐほどとろけ、じゅわっと体全体に広がってくる。
今はただリョウヤを一秒でも長く、腕の中に留めておきたくて仕方がなかった。
「ど、どうしたんだよ、急に……なに、具合悪いのか? おい……」
わかっている。離さなければならない。このままでは本当にリョウヤをへし折ってしまう。けれどもリョウヤを抱きしめるこの両腕が、硬直したかのように動かせないのだ。
リョウヤは困惑しているが、実のところアレクシス自身も酷く混乱し、驚愕していた。
どうして今自分は、リョウヤを死に物狂いでかき抱いているのか。言い訳が、どこにも見つからない。けれども、このまま黙っているわけにもいかない。
何か、何かないか。この場をこのまま乗り切れる簡単な話題が。1つや2つ、いつもだったら簡単に出てくるはずなのに、どういうわけだかさっぱり浮かんでこない。
「きょ、今日、は……」
どんなものでもいいはずだ。いつも触れ合う女たちを相手にしている時のように、不審がられないよう、堂々とスマートな会話をすればいいだけだ。できるはず、なのに。
「いい天気、だな……」
「──は?」
大失敗した。しかも声が少し裏返った。
「な、なんだそりゃ……ちょっと、アレク、おい……大丈夫か?」
なんだそれはと、アレクシス自身も自分に突っ込んだ。
自分らしくない言動と行動の全てにただただ困惑する。どくどくと耳に響く心音が死ぬほど煩い。
極限まで密着しているリョウヤのものかと思ったのだが、違う。
張り裂けんばかりに蠢いているのは、己の鼓動だ。
そう、おかしいのはアレクシスの方だった。今更、じわじわと、1つ1つの出来事を自覚していく。
なぜ僕は……僕、は。こんなにも、リョウヤが──こんなに、も?
「アレク?」
ようやく、腕から力が抜けていった。ぐい、と肩を軽く押されて、温もりが離れていってしまう。そろそろとリョウヤの浮いたかかとが床に戻った。
ひょこっと、下から顔をのぞかれる。見るからに、訝しまれている。
だが今はもう、どんな言い訳も使う気になれなかった。
「どうしたんだよ急に。なんか変だぞ、いつも以上に」
「何を、した」
「……なんだって?」
「おまえ、僕に……何をした。この稀人め、卑しく、汚らわ、しい……」
自分でも、もう何を言っているのやら。それ以上は続かず、口を噤む。どう足掻いても顔が歪んでしまい、手のひらで口元を覆った。
もはや動揺を隠せもしない。
わかってしまったのだ。アレクシスの視界の真ん中にはリョウヤだけがいて、他には何も、見えなくなってしまっている理由が。
リョウヤの唇を、目で追いかけていた理由も。マティアスに喘がされるリョウヤに苛立った理由も。シュウイチと微笑み合うリョウヤの姿に、弾けんばかりに激高した理由も。
リョウヤが愛おしそうに呼ぶ兄の顔を、切り刻んでやりたいと恨めしく思う理由も。
穏やかに、柔らかに、リョウヤの肌の全てに触れてみたかった理由も。
それらはきっと、全て、1つの感情に帰結する。
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