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前篇
散歩(2)
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「このガキ……熱が出て惚けていた時はあんなに殊勝だったくせに」
「だから、俺はガキじゃないってば」
「傍にいてほしいだのなんだのと、縋ってきたのまおまえだろうが」
ふわりと、朝の清々しい風が吹く。新緑に乗って鼻孔をくすぐる香りは生に満ち溢れていて、はつらつと青々しい──ふと、何かの匂いに似ているなと思った。
風にあおられて浮かんだリョウヤの黒髪が、ばさりとその顔を隠して。
「俺は誰にも縋らない」
それは小さな声だった。風に、かき消されてしまえるほどの。
だが、気付いた。風はすぐに止み、アレクシスを見上げてくる黒と目が合った。周囲の濃い緑の影がリョウヤの瞳にちらちらと映り込み、朝の光が散った黒髪の、息を呑むような姿に視線を絡めとられる。
この瞬間、不思議と確信していた。
「あんたにだって、縋ったりしない……俺はそこまで弱い人間じゃない」
リョウヤは覚えているのだ。
あれほどの熱だ、意識もかなり朦朧としていた。もちろん全てではないだろうが、きっと……ある程度のことは、覚えている。
忘れているフリを、しているだけで。
これは誰のためだ。自分のためか? 弱っていた自分を、アレクシスには見せたくないのか。
それとも、誰にも見せたくないのか。
「ただ、ありがとな。膝枕してくれて」
「……長椅子に放り投げられた方がまだマシだとほざいたのは、どこのどいつだ」
「それはそれ、これはこれだよ。嬉しかったからさ」
居心地が悪かったというのに嬉しいとはなんだ。相変わらずの緩急差についていけない。
難しい顔をしているであろうアレクシスに、リョウヤが朝露の重みで沈む葉のように、まつ毛を伏せた。
「してくれた気持ちが、嬉しかったって話だよ」
アレクシスの目も自然と細くなる。そうだ、リョウヤはこういう奴だ。
「……花瓶を、割ったな」
唐突な話題展開に、今度はリョウヤが目を瞬かせた。くるくると変わる表情が、自然と目に焼き付く。
「ちゃんと謝っただろ? そりゃ、モンモンの作ったものは高価なのかもかしんねーけどさ、今更弁償しろって言われたって金ないよ……あっ、でももう普通に立って歩けるし、いいよ。イラついてんなら今晩好きに使っても」
たぶん血も出ないし、なんて。
ぺらぺらと息を吸うように嘘をつく。自分ではない誰かを庇うために。
「フィリップ・モンテだ。この国の絵画の巨匠だぞ、名前ぐらいは覚えろ」
「そういうのは必要だと思う奴が覚えればいい。強制するのは違う」
雑草を栽培していたリョウヤは、花で腹が膨れるかとはっきりと明言していた。リョウヤは出会った時から変わらない。アレクシスとの距離も、全くと言っていいほど縮まらない。
今アレクシスが一歩踏み出せば、リョウヤは同じ歩数だけ後退るか、負けてなるものかと肩肘を張り、しかと顎を引き、「なに?」と瞳を鋭くさせるかのどちらかだろう。
ならば、変わる必要があるのはアレクシスの方か。
以前であれば、「教養の欠片もない乞食だな」と薄笑いすら浮かべず、一瞥していたところだが。
「メイドが、壊したと聞いたが」
こくりとリョウヤの喉仏が軽く動いた。リョウヤの表情は至って普通に見えた。冷静すぎた。不足の事態に陥ると、リョウヤの顔からはすっと表情が消え失せるのだ。
「……ふうん、なにそれ、誰から聞いたんだよ。俺の方が初耳なんだけど?」
「キャシー、とかいう名前のメイドだな?」
しらを切り通そうとしていたリョウヤの視線が、アレクシスの胸の辺りで定まった。
「泣きながら白状しに来たぞ。おまえは、自分を庇って嘘をついたんだとな」
「……ねえ、もしかしてしばらく見かけなかったのって、それ?」
一瞬にして、アレクシスに激しくぶつけられる敵意。4日前のあの交わりが嘘のようだ。
「あの子に何かしたのかよ」
そうであればただでは済まないと、強く非難されている。こうやって敵意を向ければ向けるほど、アレクシスの不興を買うことはわかっているだろうに。
リョウヤの意思の強さは折り紙付きだ。
アレクシスは黙ってリョウヤを見つめ返した。リョウヤが顎を引く。
「……、キャシーがなんて言ったかは知らねーけどさ、あれ、最初に俺が動かしちゃってたんだよね。位置が嫌だなと思って、右……いや左だったかな、ずらしてて。だから朝、キャシーがいつも通り通り過ぎた時にぶつかっちゃって。まあ最初は俺も? 俺別に悪くねーしって思ってたんだけど、やっぱりキャシーの死にそうな顔見てたら」
「いい、やめろ」
すっと手で制すればリョウヤが押し黙った。
「無用な庇い立てはするな。あのメイドの心象が悪くなるだけだ」
「だから、俺はガキじゃないってば」
「傍にいてほしいだのなんだのと、縋ってきたのまおまえだろうが」
ふわりと、朝の清々しい風が吹く。新緑に乗って鼻孔をくすぐる香りは生に満ち溢れていて、はつらつと青々しい──ふと、何かの匂いに似ているなと思った。
風にあおられて浮かんだリョウヤの黒髪が、ばさりとその顔を隠して。
「俺は誰にも縋らない」
それは小さな声だった。風に、かき消されてしまえるほどの。
だが、気付いた。風はすぐに止み、アレクシスを見上げてくる黒と目が合った。周囲の濃い緑の影がリョウヤの瞳にちらちらと映り込み、朝の光が散った黒髪の、息を呑むような姿に視線を絡めとられる。
この瞬間、不思議と確信していた。
「あんたにだって、縋ったりしない……俺はそこまで弱い人間じゃない」
リョウヤは覚えているのだ。
あれほどの熱だ、意識もかなり朦朧としていた。もちろん全てではないだろうが、きっと……ある程度のことは、覚えている。
忘れているフリを、しているだけで。
これは誰のためだ。自分のためか? 弱っていた自分を、アレクシスには見せたくないのか。
それとも、誰にも見せたくないのか。
「ただ、ありがとな。膝枕してくれて」
「……長椅子に放り投げられた方がまだマシだとほざいたのは、どこのどいつだ」
「それはそれ、これはこれだよ。嬉しかったからさ」
居心地が悪かったというのに嬉しいとはなんだ。相変わらずの緩急差についていけない。
難しい顔をしているであろうアレクシスに、リョウヤが朝露の重みで沈む葉のように、まつ毛を伏せた。
「してくれた気持ちが、嬉しかったって話だよ」
アレクシスの目も自然と細くなる。そうだ、リョウヤはこういう奴だ。
「……花瓶を、割ったな」
唐突な話題展開に、今度はリョウヤが目を瞬かせた。くるくると変わる表情が、自然と目に焼き付く。
「ちゃんと謝っただろ? そりゃ、モンモンの作ったものは高価なのかもかしんねーけどさ、今更弁償しろって言われたって金ないよ……あっ、でももう普通に立って歩けるし、いいよ。イラついてんなら今晩好きに使っても」
たぶん血も出ないし、なんて。
ぺらぺらと息を吸うように嘘をつく。自分ではない誰かを庇うために。
「フィリップ・モンテだ。この国の絵画の巨匠だぞ、名前ぐらいは覚えろ」
「そういうのは必要だと思う奴が覚えればいい。強制するのは違う」
雑草を栽培していたリョウヤは、花で腹が膨れるかとはっきりと明言していた。リョウヤは出会った時から変わらない。アレクシスとの距離も、全くと言っていいほど縮まらない。
今アレクシスが一歩踏み出せば、リョウヤは同じ歩数だけ後退るか、負けてなるものかと肩肘を張り、しかと顎を引き、「なに?」と瞳を鋭くさせるかのどちらかだろう。
ならば、変わる必要があるのはアレクシスの方か。
以前であれば、「教養の欠片もない乞食だな」と薄笑いすら浮かべず、一瞥していたところだが。
「メイドが、壊したと聞いたが」
こくりとリョウヤの喉仏が軽く動いた。リョウヤの表情は至って普通に見えた。冷静すぎた。不足の事態に陥ると、リョウヤの顔からはすっと表情が消え失せるのだ。
「……ふうん、なにそれ、誰から聞いたんだよ。俺の方が初耳なんだけど?」
「キャシー、とかいう名前のメイドだな?」
しらを切り通そうとしていたリョウヤの視線が、アレクシスの胸の辺りで定まった。
「泣きながら白状しに来たぞ。おまえは、自分を庇って嘘をついたんだとな」
「……ねえ、もしかしてしばらく見かけなかったのって、それ?」
一瞬にして、アレクシスに激しくぶつけられる敵意。4日前のあの交わりが嘘のようだ。
「あの子に何かしたのかよ」
そうであればただでは済まないと、強く非難されている。こうやって敵意を向ければ向けるほど、アレクシスの不興を買うことはわかっているだろうに。
リョウヤの意思の強さは折り紙付きだ。
アレクシスは黙ってリョウヤを見つめ返した。リョウヤが顎を引く。
「……、キャシーがなんて言ったかは知らねーけどさ、あれ、最初に俺が動かしちゃってたんだよね。位置が嫌だなと思って、右……いや左だったかな、ずらしてて。だから朝、キャシーがいつも通り通り過ぎた時にぶつかっちゃって。まあ最初は俺も? 俺別に悪くねーしって思ってたんだけど、やっぱりキャシーの死にそうな顔見てたら」
「いい、やめろ」
すっと手で制すればリョウヤが押し黙った。
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