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前篇
あふるる理由(3)
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『だって、さ。いっつも、世界で自分は1人きりみたいな顔……してるよ……?』
あの時、自分はどんな顔になっていたのだろうか。リョウヤが陽だまりのように目を細めたことだけが、鮮明で。
『誰かに、抱きしめて、もらえばいいんだよ……』
頬に伸びてきた震える指先が、淀んでいた視線の先を示す、道しるべのように見えた。
深く深く、胸にかき抱いてきた両腕は、今にも折れてしまいそうなほど、か細かった。しかしアレクシスの全てを包み込もうとしてくるかのように、力強かった。
振り払うことなど簡単にできたはずなのにできなかった。しようとさえ思わなかった。
腕を解かれても、顔を上げることすら不可能だった。
じわじわと、胸の奥が温もりで満ちる感覚は、離しがたいものだった。
とくとくと、耳に馴染む心音も。鼻孔をくすぐるリョウヤの匂いも。薄い象牙色の肌も。唇に押し付けられる、肌の柔らかさも。聴覚も、味覚も、視覚も、触覚も、全てがリョウヤのぬくもりに溶けた。
残るは、味覚だけだった。
頭の片隅にちくりと刺さっていたクレマンの「あの言葉」が脳裏を過ぎったのは、まさにその瞬間だ。
御心のままに、接してあげてください、と。
心のまま、ほんの少し口に含んでみるだけだった胸の粒の甘さに、なだれ込むように箍が外れた。
リョウヤとの情事は子種を仕込むためのもので、それ以上でもそれ以下でもなかったはずなのに。あの時間は、あれほど渇望していた跡継ぎの存在など頭からすっぽり抜け落ちていた。
そしてリョウヤの中をじっくりと味わないながら、そうかと納得した。
この手を伸ばした先で、自分はリョウヤにこんな風に触れてみたかったのかと。
「ね、え……ほんとに、いかな、い?」
はっと顔を上げる。くんっと引かれる感覚に腕を見れば、そろそろと這い上がってきた小さな手が、いつのまにかアレクシスの袖をきゅっと握りしめていた。
「ここに、いる……?」
やはり泣いてはいない。けれどもどこか、心細そうに見えた。まるで帰り道がわからず、彷徨い歩く迷子の幼子のように。反射的に立ち上がりかけ、中腰になる。膝を折り曲げてベッドに乗せた。
「ああ、いる」
「そば、に、いる……?」
「ああ」
はっきりと頷いてやれば、ほうっと、安堵したようにリョウヤが目を閉じた。不思議と、アレクシスの感情までもが凪いでいく。
リョウヤに手を伸ばしたかった理由は判明した。穏やかに、柔らかに、リョウヤに触れてみたかったからだ。
だが1つだけ疑問は残る。何故、リョウヤにそんな風に触れてみたかったのか。
僕に聞くなと吐き捨てたのは、本気でそう思っていたからだ。
いつか、わかるだろうか。
アレクシスとリョウヤを隔てる一枚の布さえも邪魔だと、手袋を外してしまった理由が。マティアスに犯されるリョウヤを見た時は、心の底から疎ましく感じていた喘ぎ声が、あんなにも耳に心地よかった理由が。
その甘い声をもっともっと耳朶に響かせたいと、深く深く抱きしめてしまった理由が。
「ねえ、あんた……だ、れ? ナ……ギサ、なの?」
リョウヤが常に愛おしそうに呼んでいるその名前が、酷く耳障りだと思うこの気持ちも。
「違う。僕はアレクだ」
「あれ、く……?」
舌足らずなリョウヤに名前を呼ばれると、少しだけ、急ぎ足になるこの胸の鼓動も。
「……いいからさっさと寝ろ。また抱き潰されたくなければな」
ぽんと、どさくさにまぎれて胸を叩いてやる動作が、どうしてもぎこちなくなってしまう理由も。
「ふ……ふふ、ぶきよー……だなぁ、やっぱり……」
ふにゃふにゃと緩んだ頬はくちゃっとしていて、あまり美しいとは言えないだろう。それどころか不格好だ。歯茎だって丸見えだし、紳士淑女のような上品さだって欠片もない。
サロンなどで披露していれば、こそこそと扇を広げた女どもに陰口でも叩かれている。
教養も何もない、みっともない笑い方だと。
だというのに、そんなリョウヤの笑みを、もっともっと見てみたいと思うこの胸を擽られるような気持ちも。
全て、わかるだろうか。
冷たい水を張った大きなボウル、清潔かつ大量の真っ白なタオル、ふかふかとした替えのシーツや、ぴしっとアイロンがかけられた新しい服。
特別に医者に処方させた、普通の家庭ではなかなか手に入らないであろう、薬。
それらを全て持って駆けつけてきた使用人たちの驚いた顔が視界の隅に入ったが、全く構うことなく。
アレクシスは中途半端に腰を浮かせたみっともない体勢のまま。
再び眠りの世界へと旅立ったリョウヤの胸に手を置いていた。
包み込むように、そっと。
あの時、自分はどんな顔になっていたのだろうか。リョウヤが陽だまりのように目を細めたことだけが、鮮明で。
『誰かに、抱きしめて、もらえばいいんだよ……』
頬に伸びてきた震える指先が、淀んでいた視線の先を示す、道しるべのように見えた。
深く深く、胸にかき抱いてきた両腕は、今にも折れてしまいそうなほど、か細かった。しかしアレクシスの全てを包み込もうとしてくるかのように、力強かった。
振り払うことなど簡単にできたはずなのにできなかった。しようとさえ思わなかった。
腕を解かれても、顔を上げることすら不可能だった。
じわじわと、胸の奥が温もりで満ちる感覚は、離しがたいものだった。
とくとくと、耳に馴染む心音も。鼻孔をくすぐるリョウヤの匂いも。薄い象牙色の肌も。唇に押し付けられる、肌の柔らかさも。聴覚も、味覚も、視覚も、触覚も、全てがリョウヤのぬくもりに溶けた。
残るは、味覚だけだった。
頭の片隅にちくりと刺さっていたクレマンの「あの言葉」が脳裏を過ぎったのは、まさにその瞬間だ。
御心のままに、接してあげてください、と。
心のまま、ほんの少し口に含んでみるだけだった胸の粒の甘さに、なだれ込むように箍が外れた。
リョウヤとの情事は子種を仕込むためのもので、それ以上でもそれ以下でもなかったはずなのに。あの時間は、あれほど渇望していた跡継ぎの存在など頭からすっぽり抜け落ちていた。
そしてリョウヤの中をじっくりと味わないながら、そうかと納得した。
この手を伸ばした先で、自分はリョウヤにこんな風に触れてみたかったのかと。
「ね、え……ほんとに、いかな、い?」
はっと顔を上げる。くんっと引かれる感覚に腕を見れば、そろそろと這い上がってきた小さな手が、いつのまにかアレクシスの袖をきゅっと握りしめていた。
「ここに、いる……?」
やはり泣いてはいない。けれどもどこか、心細そうに見えた。まるで帰り道がわからず、彷徨い歩く迷子の幼子のように。反射的に立ち上がりかけ、中腰になる。膝を折り曲げてベッドに乗せた。
「ああ、いる」
「そば、に、いる……?」
「ああ」
はっきりと頷いてやれば、ほうっと、安堵したようにリョウヤが目を閉じた。不思議と、アレクシスの感情までもが凪いでいく。
リョウヤに手を伸ばしたかった理由は判明した。穏やかに、柔らかに、リョウヤに触れてみたかったからだ。
だが1つだけ疑問は残る。何故、リョウヤにそんな風に触れてみたかったのか。
僕に聞くなと吐き捨てたのは、本気でそう思っていたからだ。
いつか、わかるだろうか。
アレクシスとリョウヤを隔てる一枚の布さえも邪魔だと、手袋を外してしまった理由が。マティアスに犯されるリョウヤを見た時は、心の底から疎ましく感じていた喘ぎ声が、あんなにも耳に心地よかった理由が。
その甘い声をもっともっと耳朶に響かせたいと、深く深く抱きしめてしまった理由が。
「ねえ、あんた……だ、れ? ナ……ギサ、なの?」
リョウヤが常に愛おしそうに呼んでいるその名前が、酷く耳障りだと思うこの気持ちも。
「違う。僕はアレクだ」
「あれ、く……?」
舌足らずなリョウヤに名前を呼ばれると、少しだけ、急ぎ足になるこの胸の鼓動も。
「……いいからさっさと寝ろ。また抱き潰されたくなければな」
ぽんと、どさくさにまぎれて胸を叩いてやる動作が、どうしてもぎこちなくなってしまう理由も。
「ふ……ふふ、ぶきよー……だなぁ、やっぱり……」
ふにゃふにゃと緩んだ頬はくちゃっとしていて、あまり美しいとは言えないだろう。それどころか不格好だ。歯茎だって丸見えだし、紳士淑女のような上品さだって欠片もない。
サロンなどで披露していれば、こそこそと扇を広げた女どもに陰口でも叩かれている。
教養も何もない、みっともない笑い方だと。
だというのに、そんなリョウヤの笑みを、もっともっと見てみたいと思うこの胸を擽られるような気持ちも。
全て、わかるだろうか。
冷たい水を張った大きなボウル、清潔かつ大量の真っ白なタオル、ふかふかとした替えのシーツや、ぴしっとアイロンがかけられた新しい服。
特別に医者に処方させた、普通の家庭ではなかなか手に入らないであろう、薬。
それらを全て持って駆けつけてきた使用人たちの驚いた顔が視界の隅に入ったが、全く構うことなく。
アレクシスは中途半端に腰を浮かせたみっともない体勢のまま。
再び眠りの世界へと旅立ったリョウヤの胸に手を置いていた。
包み込むように、そっと。
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