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前篇
掴めない感情(3)
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「昨晩、新人のメイドが白状しました。もうこれ以上黙っていることはできないと。以前、奥様のお部屋のカーテンを開けに行った際、壁に取り付けられていた花瓶を誤って落として割ってしまったようです」
「花瓶……?」
「はい。フィリップ・モンテがデザインした花器です」
「それは……」
言葉が続かない。それはまさしく、つい先ほどアレクシスが話題に出した花器のことじゃないか。
「割った瞬間を奥様に見られてしまったようです。出稼ぎに出てきたメイドです。とても賠償できる額ではなかったため、旦那様に知られるのが恐ろしくてパニックになり逃げだしてしまったと……それは、奥様がお部屋の改装を始める日の、ちょうど朝の出来事だったようです」
「……」
「旦那様。奥様は割れた花瓶について、なんとおっしゃっておりましたか?」
『あれ廊下に置いた時ちょっとガチャンっていっちゃったんだよね。割れてたらごめん。弁償はどう考えても無理だから体で払うよ。今晩はあんたのお好きな体位でズコバコどーぞ』
一言一句覚えていたのは、それほど衝撃的だったからだ。
「つまり、あれが敢えて自分のせいにしたとでも?」
「無造作に家具を廊下に置いていたのも、わざなのではないでしょうか。自分がやったのだと思わせるために」
「……意味が、わからない。一体何が目的で」
「本当に、わかりませんか?」
クレマンが毎朝時間をかけてセットしている口ひげが、柔らかく下に伸びた。
「旦那様は、奥様のそのようなところを、見たことがあるのではありませんか?」
ぱっと頭に浮かんだのは、あの雨の日の出来事だ。
リョウヤはバートンに殴られていた忌人を、なんの迷いもなく助けに行った。逆に自分が殴打され、誰にも庇ってもらえなくとも誰も責めなかった。しゃしゃり出ていった自分の責任だときっぱり明言していた。
確か、罰を与えた夜も例の花瓶を話題に出したな。リョウヤは珍しく、どこか焦っているようにもみえたが──はたと、思い出す。そういえばあの時。
「その花瓶を割ったメイドはもしかして……キャシーとかいう名前か?」
クレマンが微かに目を見張ったことで、事実を悟る。
「御存じでしたか」
「……いや」
苦虫が、喉の奥まで這いずってくるような気分になった。
「キャシーが言うには、特別奥様のお世話をしていたわけではなかったそうです。むしろ他のメイドと同様に冷たく接していたと……奥様にはこう言われたそうです。見ていられなかったから、と。だからこそ申し訳が立たないと終始泣いておりました」
クレマンはアレクシスに用事を言い付けられていたためそ、あの出来事は人伝にしか知らない。動揺したキャシーがグラスを落とした瞬間、リョウヤに強く呼びかけられたが、それはきっと、アレクシスの意識を自分に向かせるためだろう。
不穏な空気を感じ取り、怯えていたわけではなかったのか。そうか。
「処罰はどういたしますか」
「おまえに任せる……元々あれは母のものだ、壊れようがどうでもいい。オークションにかけるつもりも美術館に寄贈するつもりもなかった。万展にもな。あれをいたぶる道具にしただけだ」
「承知いたしました」
同時に、納得もした。リョウヤがここに連れてこられるまで、群れることなく1人で生きてきたのだろうと自然と断言してしまっていた理由も。
国境沿いの貧民街に住む忌人たちは、目立たないよう静かに暮らしている。そんな中、希少種である稀人がいると噂になれば、群れ全体が忌人狩りの連中に目を付けられるだろう。
リョウヤが、他者を危険な目に合わせる道を選ぶだろうかと、無意識のうちに考えていた。
そう、アレクシスも気付いていたのだ。自覚していなかっただけで。
「……わかり辛い方ですね」
誰がとは、言われなくともわかる。
「私は、奥様のなさる行動全てに、何かしらの理由があるのではと思えてなりません」
だがクレマンのように素直に認めるのは癪で、ふいと顔を背ける。
「それは考えすぎだろう」
「旦那様は、奥様をどうなさりたいのですか」
「……」
眉根が寄る。
「奥様に何をお望みなのですか」
「なにを?」
「はい。随分と、気になさっていらっしゃるように見えましたが」
「馬鹿を言え。気にしてなどいない」
「そうでしょうか、昨晩も一昨日の夜も、奥様のお部屋の前をうろうろしていたではありませんか」
「……」
メイドが居なくなったのを見計らって少し様子を見ようとした。しかし、部屋の中には入れなかった。
ドアノブに手をかけられなかった理由が、わからない。故にクレマンの質問には答えようがない。なにしろ当のアレクシスでさえ、リョウヤに対する予測不能な感情の揺れを、把握しかねているのだから。
リョウヤを見ていると胸がざわつく。
確かに、強い精神の持ち主であるリョウヤに対して、畏れのようなものは一瞬、抱いた。それは認める。だが自身の胸の奥には、畏れとは違う何かが潜んでいるような気がしてならない。
それは形が不鮮明で、掴もうとしても掴めないものだ。いや、掴んでしまったら全てが終わるような気がする。それも、良くない方向で。だから、目を背けていたいと願っているのだ。
「なぜ、僕は……あいつを泣かせたいんだ……」
感情のままに、ぽつりと呟く。
ふっと、隣でクレマンが嬉しそうに笑んだ気配。
「──御心のままに、接してあげてください」
顔を上げる。やはりクレマンは、分かりやす過ぎるほど穏やかな顔をしていた。
「心の、まま……」
「はい。そうすれば、何かお分かりになるかもしれませんよ。坊ちゃん」
「……だから坊ちゃんはやめろ」
何が心のまま、だ。心のままに接したからこそ、今こうなっているというのに。
「今の私がお話できるのは、ここまでです」
だがクレマンは答えを与えてはくれなかった。
突き放されたようで、考えろと促されている。なくなったグラスも、そっと取り上げられた。
「……おい」
「飲み過ぎです、そろそろお控えください。明日もきっと、奥様は早く起床されるでしょうから」
* * *
次の日の朝早く。目が覚めたアレクシスがダイニングルームへと向かえば、いつも通り定位置に座っているリョウヤがいた。
前日まで寝込んでいたことが嘘のように、けろっとした顔をして。
そして、リョウヤは相変わらずの質素な朝食を、「これうまいね」なんて言いながらもきゅもきゅと頬張り。
扉の前で立ち尽くすアレクシスに、リスのように膨らんだ顔を向けて、平然と言った。
「あんた今起きたの? 相変わらずだね、おそようアレク」
───────────────
アレクシスは素人童貞です。
「花瓶……?」
「はい。フィリップ・モンテがデザインした花器です」
「それは……」
言葉が続かない。それはまさしく、つい先ほどアレクシスが話題に出した花器のことじゃないか。
「割った瞬間を奥様に見られてしまったようです。出稼ぎに出てきたメイドです。とても賠償できる額ではなかったため、旦那様に知られるのが恐ろしくてパニックになり逃げだしてしまったと……それは、奥様がお部屋の改装を始める日の、ちょうど朝の出来事だったようです」
「……」
「旦那様。奥様は割れた花瓶について、なんとおっしゃっておりましたか?」
『あれ廊下に置いた時ちょっとガチャンっていっちゃったんだよね。割れてたらごめん。弁償はどう考えても無理だから体で払うよ。今晩はあんたのお好きな体位でズコバコどーぞ』
一言一句覚えていたのは、それほど衝撃的だったからだ。
「つまり、あれが敢えて自分のせいにしたとでも?」
「無造作に家具を廊下に置いていたのも、わざなのではないでしょうか。自分がやったのだと思わせるために」
「……意味が、わからない。一体何が目的で」
「本当に、わかりませんか?」
クレマンが毎朝時間をかけてセットしている口ひげが、柔らかく下に伸びた。
「旦那様は、奥様のそのようなところを、見たことがあるのではありませんか?」
ぱっと頭に浮かんだのは、あの雨の日の出来事だ。
リョウヤはバートンに殴られていた忌人を、なんの迷いもなく助けに行った。逆に自分が殴打され、誰にも庇ってもらえなくとも誰も責めなかった。しゃしゃり出ていった自分の責任だときっぱり明言していた。
確か、罰を与えた夜も例の花瓶を話題に出したな。リョウヤは珍しく、どこか焦っているようにもみえたが──はたと、思い出す。そういえばあの時。
「その花瓶を割ったメイドはもしかして……キャシーとかいう名前か?」
クレマンが微かに目を見張ったことで、事実を悟る。
「御存じでしたか」
「……いや」
苦虫が、喉の奥まで這いずってくるような気分になった。
「キャシーが言うには、特別奥様のお世話をしていたわけではなかったそうです。むしろ他のメイドと同様に冷たく接していたと……奥様にはこう言われたそうです。見ていられなかったから、と。だからこそ申し訳が立たないと終始泣いておりました」
クレマンはアレクシスに用事を言い付けられていたためそ、あの出来事は人伝にしか知らない。動揺したキャシーがグラスを落とした瞬間、リョウヤに強く呼びかけられたが、それはきっと、アレクシスの意識を自分に向かせるためだろう。
不穏な空気を感じ取り、怯えていたわけではなかったのか。そうか。
「処罰はどういたしますか」
「おまえに任せる……元々あれは母のものだ、壊れようがどうでもいい。オークションにかけるつもりも美術館に寄贈するつもりもなかった。万展にもな。あれをいたぶる道具にしただけだ」
「承知いたしました」
同時に、納得もした。リョウヤがここに連れてこられるまで、群れることなく1人で生きてきたのだろうと自然と断言してしまっていた理由も。
国境沿いの貧民街に住む忌人たちは、目立たないよう静かに暮らしている。そんな中、希少種である稀人がいると噂になれば、群れ全体が忌人狩りの連中に目を付けられるだろう。
リョウヤが、他者を危険な目に合わせる道を選ぶだろうかと、無意識のうちに考えていた。
そう、アレクシスも気付いていたのだ。自覚していなかっただけで。
「……わかり辛い方ですね」
誰がとは、言われなくともわかる。
「私は、奥様のなさる行動全てに、何かしらの理由があるのではと思えてなりません」
だがクレマンのように素直に認めるのは癪で、ふいと顔を背ける。
「それは考えすぎだろう」
「旦那様は、奥様をどうなさりたいのですか」
「……」
眉根が寄る。
「奥様に何をお望みなのですか」
「なにを?」
「はい。随分と、気になさっていらっしゃるように見えましたが」
「馬鹿を言え。気にしてなどいない」
「そうでしょうか、昨晩も一昨日の夜も、奥様のお部屋の前をうろうろしていたではありませんか」
「……」
メイドが居なくなったのを見計らって少し様子を見ようとした。しかし、部屋の中には入れなかった。
ドアノブに手をかけられなかった理由が、わからない。故にクレマンの質問には答えようがない。なにしろ当のアレクシスでさえ、リョウヤに対する予測不能な感情の揺れを、把握しかねているのだから。
リョウヤを見ていると胸がざわつく。
確かに、強い精神の持ち主であるリョウヤに対して、畏れのようなものは一瞬、抱いた。それは認める。だが自身の胸の奥には、畏れとは違う何かが潜んでいるような気がしてならない。
それは形が不鮮明で、掴もうとしても掴めないものだ。いや、掴んでしまったら全てが終わるような気がする。それも、良くない方向で。だから、目を背けていたいと願っているのだ。
「なぜ、僕は……あいつを泣かせたいんだ……」
感情のままに、ぽつりと呟く。
ふっと、隣でクレマンが嬉しそうに笑んだ気配。
「──御心のままに、接してあげてください」
顔を上げる。やはりクレマンは、分かりやす過ぎるほど穏やかな顔をしていた。
「心の、まま……」
「はい。そうすれば、何かお分かりになるかもしれませんよ。坊ちゃん」
「……だから坊ちゃんはやめろ」
何が心のまま、だ。心のままに接したからこそ、今こうなっているというのに。
「今の私がお話できるのは、ここまでです」
だがクレマンは答えを与えてはくれなかった。
突き放されたようで、考えろと促されている。なくなったグラスも、そっと取り上げられた。
「……おい」
「飲み過ぎです、そろそろお控えください。明日もきっと、奥様は早く起床されるでしょうから」
* * *
次の日の朝早く。目が覚めたアレクシスがダイニングルームへと向かえば、いつも通り定位置に座っているリョウヤがいた。
前日まで寝込んでいたことが嘘のように、けろっとした顔をして。
そして、リョウヤは相変わらずの質素な朝食を、「これうまいね」なんて言いながらもきゅもきゅと頬張り。
扉の前で立ち尽くすアレクシスに、リスのように膨らんだ顔を向けて、平然と言った。
「あんた今起きたの? 相変わらずだね、おそようアレク」
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アレクシスは素人童貞です。
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