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前篇
唇の味(2)
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「グラスノーヴァ公爵の娘、見たことあるわよ? 世間知らずそうな、とっても可愛らしいお嬢さんだったわね」
「そうだろう? あの金色の巻き毛は金のなる木だ」
「やだ、じゃあ私は葡萄のなる木かしら?」
「冗談。君は葡萄よりももっと甘い」
葡萄色の髪を梳く。
「数度、あのお嬢さんのお父様のお相手をしたことがあるのだけれど、下手くそだったわ」
「……はは」
びっくりするほどド下手くそ、と罵倒されたことを思い出した。どうにも、ちらつく。
「腰を振るしか脳のないお猿さんだったのよ。あの子も貴方と夜を明かしたら、あとは腰を振るしか脳のない雌のお猿さんになってしまうのかしら。心配だわ」
「こら、愛しいベラ。誰かに聞かれてしまうよ」
「貴方が告げ口しなければ済むお話よ? 内緒にしてね、お美しいチェンバレー様」
「もちろんだ」
つん、と指で唇を突かれたので、美しい赤で彩られた爪に舌を這わせ、かしりと歯を立てる。応えてやったというのに、ベラは曖昧に唇を吊り上げた。
「口封じに私が欲しいとは言ってくださらないのかしら? しばらく会っていない間に腕が鈍ったわね」
言われて初めて自覚した。確かにいつもであればそう返していたはずだ。ここのところ、あの愚直すぎる稀人を相手にし過ぎてそういった言い回しがぱっと出てこなくなっていたのか。
これは、少々屈辱だった。男として。
「なあベラ、今君が身に着けているその髪留めは、前に僕が送ったものだろう?」
「あら、覚えていてくださったの?」
「忘れるものか。君のためだけにわざわざ他国から取り寄せたんだからな。この髪留めを見た瞬間、君に似合うと思ったんだ。僕の、僕だけの美しいベラに」
ふくりと膨れた女の頬にキスを送る。どの女にどのプレゼントを送ったのかはしっかりとリストにまとめてある。それに最高級の女は最高級のもので飾らなくては、チェンバレー家の名が廃る。
ベラが妖艶な笑みを浮かべた。
「じゃあ、今すぐ私と夢の中に入ってくださらない?」
早急に膝に乗り上げてきた女が、わざとらしくしなを作った。むっとベラの谷間から膨れ上がる、欲情の匂い。
「それとも、稀人を結婚相手を持つようなお人じゃ私との逢瀬は毒かしら……忌人よりも具合がいいんですって? 一介の娼婦の私じゃ敵いそうにないわね」
「馬鹿を言うな。僕が人間でないものに心奪われるとでも? 君も近くで見ればわかる、あの黒い髪と目……まるでこの世の汚泥を凝縮したような汚らわしさだ」
「あら、そうですの」
「ああ。それに、君の言う具合のいい結婚相手は今頃、僕の友人と愉しく夢の中だ」
「……それ本当?」
「ああ」
今頃、まともに悲鳴すら上げられなくなっていることだろう。
「ふうん……その様子じゃ心を奪われたわけじゃなさそうね」
「当たり前だ。で、僕はいつまで、君という極上の女を目の前に尻尾を振り続けなければならないんだ?」
ベラとの関係ももう数年になるが、彼女は基本的にとある伯爵に囲われている。以前リョウヤを杖で打ち据えたバートンだ。バートン家についての情報は、随分とベラから流してもらっていた。体の相性もよく、使い勝手のいい女な上に、金の1つで簡単に縁も切れるような割り切った関係だ。いつかくる終わりに駄々をこねることもないだろう。男を惑わす紫色の瞳を覗き込むと、甘えるような視線が返ってきた。
「やっとその気になったの?」
「最初からその気だ」
「まあいいわ、そういうことにしておいてあげる」
「拗ねないでくれ。ただ、今夜の君は伯爵とオペラ鑑賞だと聞いていたから」
「そうよ? でも言ったでしょう、私、あんな髭面の豚野郎が相手じゃ濡れないの。でもきっと今夜はお相手することになるわ。だから……ね」
貴方が代わりに、濡らしてくださらない?
ささやかれた直接的な言葉に目を細める。バートンとはこの間顔を合わせたばかりなので、今日ベラから得られる情報は少ないかもしれない。
それに、つい先ほど散々リョウヤをいたぶってきたばかりだ、性欲を発散する必要もない。普段であれば、何かと理由を付けて断っているだろう。
だが、よくよく考えてみればここしばらく、リョウヤ以外で欲を発散していない。寸胴ではなくくびれた腰、まっ平ではない豊満な胸──男性器の付随していない、ふくよかで、柔らかな曲線を描く女の体。
『成り上がりのミスターチェンバレー、あんたは犬畜生よりレベルが低い』
アレクシスに跨る女の濃い紫色の髪に、かすかに黒を見た。本物の女を抱けば、瞬間的に頭をよぎるこの鬱陶しいざわめきも消えてくれるかもしれない。
御者に一言、「カルナ・ストリートへ」と告げる。ベラでも満足するような高級街で、高い宿を一室借りるために。
馬車が揺れ始め、ベラが今度こそ満足げな笑みをこぼした。
「カルナ・ストリートまでは時間がかかるわね」
「そうだな」
「じゃあここで、私たちも揺れないこと……?」
そっと頬に手を添えられる、黒ずんでもいない、染み1つないなまめかしい指。今ここで誘いを断る理由もない。女の胸をはだけさせ、優しく揉みこみながらゆっくりと甘い吐息を重ねる。
女の舌を味わいながら、リョウヤの口の中はどんな味がするのだろうかと、やはりどうでもいいことをチラリと考えた。
* * *
「そうだろう? あの金色の巻き毛は金のなる木だ」
「やだ、じゃあ私は葡萄のなる木かしら?」
「冗談。君は葡萄よりももっと甘い」
葡萄色の髪を梳く。
「数度、あのお嬢さんのお父様のお相手をしたことがあるのだけれど、下手くそだったわ」
「……はは」
びっくりするほどド下手くそ、と罵倒されたことを思い出した。どうにも、ちらつく。
「腰を振るしか脳のないお猿さんだったのよ。あの子も貴方と夜を明かしたら、あとは腰を振るしか脳のない雌のお猿さんになってしまうのかしら。心配だわ」
「こら、愛しいベラ。誰かに聞かれてしまうよ」
「貴方が告げ口しなければ済むお話よ? 内緒にしてね、お美しいチェンバレー様」
「もちろんだ」
つん、と指で唇を突かれたので、美しい赤で彩られた爪に舌を這わせ、かしりと歯を立てる。応えてやったというのに、ベラは曖昧に唇を吊り上げた。
「口封じに私が欲しいとは言ってくださらないのかしら? しばらく会っていない間に腕が鈍ったわね」
言われて初めて自覚した。確かにいつもであればそう返していたはずだ。ここのところ、あの愚直すぎる稀人を相手にし過ぎてそういった言い回しがぱっと出てこなくなっていたのか。
これは、少々屈辱だった。男として。
「なあベラ、今君が身に着けているその髪留めは、前に僕が送ったものだろう?」
「あら、覚えていてくださったの?」
「忘れるものか。君のためだけにわざわざ他国から取り寄せたんだからな。この髪留めを見た瞬間、君に似合うと思ったんだ。僕の、僕だけの美しいベラに」
ふくりと膨れた女の頬にキスを送る。どの女にどのプレゼントを送ったのかはしっかりとリストにまとめてある。それに最高級の女は最高級のもので飾らなくては、チェンバレー家の名が廃る。
ベラが妖艶な笑みを浮かべた。
「じゃあ、今すぐ私と夢の中に入ってくださらない?」
早急に膝に乗り上げてきた女が、わざとらしくしなを作った。むっとベラの谷間から膨れ上がる、欲情の匂い。
「それとも、稀人を結婚相手を持つようなお人じゃ私との逢瀬は毒かしら……忌人よりも具合がいいんですって? 一介の娼婦の私じゃ敵いそうにないわね」
「馬鹿を言うな。僕が人間でないものに心奪われるとでも? 君も近くで見ればわかる、あの黒い髪と目……まるでこの世の汚泥を凝縮したような汚らわしさだ」
「あら、そうですの」
「ああ。それに、君の言う具合のいい結婚相手は今頃、僕の友人と愉しく夢の中だ」
「……それ本当?」
「ああ」
今頃、まともに悲鳴すら上げられなくなっていることだろう。
「ふうん……その様子じゃ心を奪われたわけじゃなさそうね」
「当たり前だ。で、僕はいつまで、君という極上の女を目の前に尻尾を振り続けなければならないんだ?」
ベラとの関係ももう数年になるが、彼女は基本的にとある伯爵に囲われている。以前リョウヤを杖で打ち据えたバートンだ。バートン家についての情報は、随分とベラから流してもらっていた。体の相性もよく、使い勝手のいい女な上に、金の1つで簡単に縁も切れるような割り切った関係だ。いつかくる終わりに駄々をこねることもないだろう。男を惑わす紫色の瞳を覗き込むと、甘えるような視線が返ってきた。
「やっとその気になったの?」
「最初からその気だ」
「まあいいわ、そういうことにしておいてあげる」
「拗ねないでくれ。ただ、今夜の君は伯爵とオペラ鑑賞だと聞いていたから」
「そうよ? でも言ったでしょう、私、あんな髭面の豚野郎が相手じゃ濡れないの。でもきっと今夜はお相手することになるわ。だから……ね」
貴方が代わりに、濡らしてくださらない?
ささやかれた直接的な言葉に目を細める。バートンとはこの間顔を合わせたばかりなので、今日ベラから得られる情報は少ないかもしれない。
それに、つい先ほど散々リョウヤをいたぶってきたばかりだ、性欲を発散する必要もない。普段であれば、何かと理由を付けて断っているだろう。
だが、よくよく考えてみればここしばらく、リョウヤ以外で欲を発散していない。寸胴ではなくくびれた腰、まっ平ではない豊満な胸──男性器の付随していない、ふくよかで、柔らかな曲線を描く女の体。
『成り上がりのミスターチェンバレー、あんたは犬畜生よりレベルが低い』
アレクシスに跨る女の濃い紫色の髪に、かすかに黒を見た。本物の女を抱けば、瞬間的に頭をよぎるこの鬱陶しいざわめきも消えてくれるかもしれない。
御者に一言、「カルナ・ストリートへ」と告げる。ベラでも満足するような高級街で、高い宿を一室借りるために。
馬車が揺れ始め、ベラが今度こそ満足げな笑みをこぼした。
「カルナ・ストリートまでは時間がかかるわね」
「そうだな」
「じゃあここで、私たちも揺れないこと……?」
そっと頬に手を添えられる、黒ずんでもいない、染み1つないなまめかしい指。今ここで誘いを断る理由もない。女の胸をはだけさせ、優しく揉みこみながらゆっくりと甘い吐息を重ねる。
女の舌を味わいながら、リョウヤの口の中はどんな味がするのだろうかと、やはりどうでもいいことをチラリと考えた。
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