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前篇
20.得体の知れない生き物(1)
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「おい、聞いているのか」
「聞いてるよ」
想像していたよりも、返事ははっきりとしていた。
「そうか。なら僕に言うことがあるだろう」
「なにを、言えっての」
傘を持ち直す。それを差しだすことはしない。
「貴様には恥をかかされた。チェンバレー家の当主ともあろうものが稀人ごときも教育できないのかとな……まさか、これだけのことを仕出かしておいて謝罪も無しか?」
「うん、ない」
きっぱりと言い切られて、雨に濡れ落ちた髪を耳にかけようとしていた手が止まる。
「……もう一度、言ってみろ」
「謝罪する気はない。だって俺は、間違ったことは、してない」
ゆっくりを稀人が顔を上げた。
「どんなに無様でも恥晒しでも、惨めでみっともない姿だったとしても、俺は──俺は間違ったことはしてない。だから後悔もしない。絶対に」
たらりと垂れた鼻血をぐいっと擦る腕の、なんと勇ましいことか。
稀人が必死になって庇っていた少年はすぐに荷台に乗せられた。くたりと投げ出された両腕は動いていたし、薄っすらと目も開いていたので死んではいないだろう。当たり散らす相手が切り替わったことで、バートンの怒りもある程度は治まったはずだ。
稀人が間に入ったことにより、あの少年はあれ以上殴られずに済んだ。
そもそもバートンの怒りは長く続かない。瞬間的に頭に血が昇り、やり過ぎてしまうのだ。ここで殴り殺されなかったのであれば、命は助かったのだろう。
それは確かに事実ではある。が、しかし。
「貴様の行動は無意味だ。どいつもこいつも我が身可愛さにおまえを感謝をするどころか見捨てたじゃないか。それでもそんなことが言えるのか。後悔はしない、と」
「なんで? 俺が自分で決めて自分で勝手に行動しただけだ。後悔するくらいならはなからやってないよ。それに……もしも同じ立場だったら、俺も同じ行動取ってたと思うしね」
全てを受け入れ達観しているかのようなその表情に、稀人を心地よく嘲笑っていた気持ちが急速に萎えていく。
「身勝手にしゃしゃり出てったのは俺なんだから、感謝もクソもねーだろ。あの子たちに責任はない」
稀人の瞳は闇と同化してしまいそうな漆黒なのに、相変わらずはっきりとした白が見えた。夜の水面に揺蕩う、月のように。気にくわなかった。
もうずっと、この生き物の表情、口調、目線、立ち振る舞い、一挙一投足の全てが気にくわなかった。
「……そうか。貴様とは一生仲良くなれる気がしないな」
「奇遇だね、俺も同じこと思ってた」
「──はっ」
「アレクは、冷たいね」
冷たいのは貴様だろう。ここで雨に打たれているのは、おまえ1人だというのに。
『貴方は、冷たい子ね』
幼子だった頃にも散々吐き捨てられた、煩わしいセリフ。稀人にそれを言われたのは今ので二度目だ。今すぐにでもこいつを馬車の前に引きずり出し、轢き殺して壊してやりたい気分だった。この稀人が壊した、あの花瓶のように。
いや、あれよりももっと粉々に。
「さっさと立て。いつまでそこに座り込んでいるつもりだ」
「言われなくとも、立つよ」
誰の手も必要ないとばかりに、しっかりと地に足つけて立ち上がった稀人に、ぎしりと奥歯が軋む。
なぜ、こんな稀人に苛立たなければいけないのか。
「僕が冷たいからといって何だというんだ。貴様は、人間ですらないだろうが」
低く吐き捨てれば、気丈だった稀人の目に、初めて傷付いたような色が走った。これまで一切ぶれることのなかった白い光が、微かに揺れる。見たいと思っていたはずなのに、その目がじっと向けられ続けるのもまた不快で、アレクシスの方から視線を背けた。
これ以上、この卑しい生き物を眺めておく必要はない。
「馬車に戻るぞ」
雨が降りしきる中、踵を返す。
「……それでも」
か細い声は、先ほどとは打って変わり擦り切れていて。
「それでも俺は、人間だよ……」
聞こえなかったのは、強まる雨音のせいにした。
初めての遠出で、2人の溝は更に深まった。
「聞いてるよ」
想像していたよりも、返事ははっきりとしていた。
「そうか。なら僕に言うことがあるだろう」
「なにを、言えっての」
傘を持ち直す。それを差しだすことはしない。
「貴様には恥をかかされた。チェンバレー家の当主ともあろうものが稀人ごときも教育できないのかとな……まさか、これだけのことを仕出かしておいて謝罪も無しか?」
「うん、ない」
きっぱりと言い切られて、雨に濡れ落ちた髪を耳にかけようとしていた手が止まる。
「……もう一度、言ってみろ」
「謝罪する気はない。だって俺は、間違ったことは、してない」
ゆっくりを稀人が顔を上げた。
「どんなに無様でも恥晒しでも、惨めでみっともない姿だったとしても、俺は──俺は間違ったことはしてない。だから後悔もしない。絶対に」
たらりと垂れた鼻血をぐいっと擦る腕の、なんと勇ましいことか。
稀人が必死になって庇っていた少年はすぐに荷台に乗せられた。くたりと投げ出された両腕は動いていたし、薄っすらと目も開いていたので死んではいないだろう。当たり散らす相手が切り替わったことで、バートンの怒りもある程度は治まったはずだ。
稀人が間に入ったことにより、あの少年はあれ以上殴られずに済んだ。
そもそもバートンの怒りは長く続かない。瞬間的に頭に血が昇り、やり過ぎてしまうのだ。ここで殴り殺されなかったのであれば、命は助かったのだろう。
それは確かに事実ではある。が、しかし。
「貴様の行動は無意味だ。どいつもこいつも我が身可愛さにおまえを感謝をするどころか見捨てたじゃないか。それでもそんなことが言えるのか。後悔はしない、と」
「なんで? 俺が自分で決めて自分で勝手に行動しただけだ。後悔するくらいならはなからやってないよ。それに……もしも同じ立場だったら、俺も同じ行動取ってたと思うしね」
全てを受け入れ達観しているかのようなその表情に、稀人を心地よく嘲笑っていた気持ちが急速に萎えていく。
「身勝手にしゃしゃり出てったのは俺なんだから、感謝もクソもねーだろ。あの子たちに責任はない」
稀人の瞳は闇と同化してしまいそうな漆黒なのに、相変わらずはっきりとした白が見えた。夜の水面に揺蕩う、月のように。気にくわなかった。
もうずっと、この生き物の表情、口調、目線、立ち振る舞い、一挙一投足の全てが気にくわなかった。
「……そうか。貴様とは一生仲良くなれる気がしないな」
「奇遇だね、俺も同じこと思ってた」
「──はっ」
「アレクは、冷たいね」
冷たいのは貴様だろう。ここで雨に打たれているのは、おまえ1人だというのに。
『貴方は、冷たい子ね』
幼子だった頃にも散々吐き捨てられた、煩わしいセリフ。稀人にそれを言われたのは今ので二度目だ。今すぐにでもこいつを馬車の前に引きずり出し、轢き殺して壊してやりたい気分だった。この稀人が壊した、あの花瓶のように。
いや、あれよりももっと粉々に。
「さっさと立て。いつまでそこに座り込んでいるつもりだ」
「言われなくとも、立つよ」
誰の手も必要ないとばかりに、しっかりと地に足つけて立ち上がった稀人に、ぎしりと奥歯が軋む。
なぜ、こんな稀人に苛立たなければいけないのか。
「僕が冷たいからといって何だというんだ。貴様は、人間ですらないだろうが」
低く吐き捨てれば、気丈だった稀人の目に、初めて傷付いたような色が走った。これまで一切ぶれることのなかった白い光が、微かに揺れる。見たいと思っていたはずなのに、その目がじっと向けられ続けるのもまた不快で、アレクシスの方から視線を背けた。
これ以上、この卑しい生き物を眺めておく必要はない。
「馬車に戻るぞ」
雨が降りしきる中、踵を返す。
「……それでも」
か細い声は、先ほどとは打って変わり擦り切れていて。
「それでも俺は、人間だよ……」
聞こえなかったのは、強まる雨音のせいにした。
初めての遠出で、2人の溝は更に深まった。
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