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前篇
交渉(2)
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「にいちゃんの最期の言葉は、『僕のことを二ホンに連れて帰って』だったんだ。こっちに来てからすぐに死に別れちゃったけど、ナギサにいちゃんはずっと俺の心の中にいる。だから、俺が二ホンに帰れば、にいちゃんの心も故郷に連れ帰ってあげれるんだ……にいちゃんの夢は、絶対に俺が叶えてやる。弟だからね」
かん、かん、と大きな音を立てて皿を叩き続ける。紫色のソースが高級そうな真っ白いクロスにぴぴっと飛び散った。あまりの行儀の悪さに、周囲に控えていた使用人たちの視線がリョウヤの手に集中した
それが狙いだった。
「だからさ、急にこんなところに連れてこられて子どもを産め! なんて迫られても困るよ。俺はにいちゃんと一緒に元の世界に帰りたいんだ。そのためには、あんたみたいな男に自由を奪われるわけにはいかない」
「つまり、何が言いたい」
「あんたと交渉がしたい」
「……稀人が人間と交渉だと?」
「そうだ」
「──は」
屋敷の主人の冷笑がじわじわと周囲に伝染していく。アレクシスの瞳に、冷え冷えとした色が宿った。
「貴様は馬鹿なのか?」
「いや、普通に本気なんだけど」
「どの世界に、動物と交渉する愚か者がいる」
「……やっぱあんたってサイテーだね。なんであんたみたいなのに買われちゃったかな……あーあ」
機嫌を損ねたふりをして、ソースがついたフォークをテーブルの向こう側へぽいっと放り投げれば、この部屋にいる全員の視線が一瞬だけそちらに移動した。もちろんアレクシスも。「汚いな」という顔をして。
その隙を見計らい、音を立てないよう静かに腰に巻き付けたシーツの中に手を入れる。
「だっ、旦那様……!」
丁度良く、使用人の1人が切羽詰まった様子でリビングルームへ飛び込んできた。見覚えがある顔だ。昨日リョウヤの体を痛いくらいにごしごししまくった女性の1人だろう。皆の視線が一斉に扉へ向いた。今だ。
「何事だ」
「たっ、短剣が! リュミエールの間の扉にかけられていた短剣が、一本外されております……!」
「短剣?」
するりと、流れるように引き抜き鞘をからんと床に落とす。立ち上がり、と、とん、とん、と飛び跳ねるように後退し、壁に背を預けるまで3秒もかからなかった。
これで背後から奪われる心配もないし、注視するのは前左右だけでいい。リョウヤの不審な行動に、真っ先に気付いたのはテーブルの側に控えていた使用人だ。その次は配膳をしていた年配の男性数人。
そして最後は、アレクシスその人だった。
「……おい、なんの真似だ」
「見てわかんないの?」
今まさに話題に上がった短剣を、顔の前にギラリと立てる。
「はっ。稀人の癖に手癖も悪いとは、つくづく救いようのない奴だな」
「まあね。結構盗みとかやってたし、このぐらい朝飯前だよ」
「底辺め」
「お褒めに預かりどーも」
ひもじさの中、生きるために露店の果物や野菜を盗むことだって日常茶飯事だった。
朝に、リョウヤが体の汚れを流した浴室。股が痛むからと、周囲を観察しながらガニ股で歩いた廊下。腹が痛いからと、長らく籠り唸っていた手洗い場。それらの全てをしっかりと確認しなかったのはそちらの落ち度だ。
使用人が別に使用人に呼び止められた隙を狙い、扉にかけられていた短剣をするりと外した。時間にして5秒ほど。鞘ごと取ったのもあえてだ。常日頃からそこにあるものが完全無くなると、人間は異変に気付きにくい。
カシャ、ガシャンと鳴り響く手枷足枷の金属音が、巻き付けていたシーツの中へと忍ばせた新しい金属音を隠すいい隠れ蓑になってくれた。露出度の高い服に短剣など隠せるはずがないと、皆が皆、思っていたはずだ。
稀人如きが、人に対して反撃に出るはずがないという奢りが招いた結果だ。
「まさか、それで僕を刺して逃げるつもりじゃないだろうな」
「そんなことしねーよ。こんなお飾りの短剣じゃ、あんたの首を掻っ切ることだってできやしない」
するならこんな飾り用のモノではなくちゃんとした剣じゃないと。短剣にいささか緊張気味の自分の顔が映っているが、悟られるわけにはいかない。堂々と背筋を伸ばし、短剣の切っ先をくるりと自分の喉へと向ける。それでもアレクシスの表情は何も変わらず、愚かなリョウヤをせせら笑ったままだ。
「ならばその剣で自害でもする気か。随分となめられたものだな、貴様の命にどれほどの価値がある」
別に傷つかない。そんな侮蔑の言葉、言われ慣れている。
「馬鹿だね。なめてんのはアレクの方だろ」
アレクシスの笑い方をこれ見よがしに真似してみせる。挑発に乗ってくるかどうかは、賭けだ。馬鹿馬鹿しいと一蹴されたらそれで終わり。リョウヤの未来は絶たれる。
手が震えそうになって、気合いで止めた。
「俺の命に価値はなくとも……こっちはどうだろうね」
刃を喉から胸へつうっ……と下げ、腹の上を辿る。ちょうど子宮の真上で、ぴたりと静止する。ここに来て初めて、アレクシスの表情が目に見えて険しくなった──賭けに、勝った。
笑みを、さらに深めてみせる。
「これをここにぶっ刺して掻き回せば、どうなると思う?」
「貴様……」
「もしもあんたの子どもができてたら、死んじゃうね」
かん、かん、と大きな音を立てて皿を叩き続ける。紫色のソースが高級そうな真っ白いクロスにぴぴっと飛び散った。あまりの行儀の悪さに、周囲に控えていた使用人たちの視線がリョウヤの手に集中した
それが狙いだった。
「だからさ、急にこんなところに連れてこられて子どもを産め! なんて迫られても困るよ。俺はにいちゃんと一緒に元の世界に帰りたいんだ。そのためには、あんたみたいな男に自由を奪われるわけにはいかない」
「つまり、何が言いたい」
「あんたと交渉がしたい」
「……稀人が人間と交渉だと?」
「そうだ」
「──は」
屋敷の主人の冷笑がじわじわと周囲に伝染していく。アレクシスの瞳に、冷え冷えとした色が宿った。
「貴様は馬鹿なのか?」
「いや、普通に本気なんだけど」
「どの世界に、動物と交渉する愚か者がいる」
「……やっぱあんたってサイテーだね。なんであんたみたいなのに買われちゃったかな……あーあ」
機嫌を損ねたふりをして、ソースがついたフォークをテーブルの向こう側へぽいっと放り投げれば、この部屋にいる全員の視線が一瞬だけそちらに移動した。もちろんアレクシスも。「汚いな」という顔をして。
その隙を見計らい、音を立てないよう静かに腰に巻き付けたシーツの中に手を入れる。
「だっ、旦那様……!」
丁度良く、使用人の1人が切羽詰まった様子でリビングルームへ飛び込んできた。見覚えがある顔だ。昨日リョウヤの体を痛いくらいにごしごししまくった女性の1人だろう。皆の視線が一斉に扉へ向いた。今だ。
「何事だ」
「たっ、短剣が! リュミエールの間の扉にかけられていた短剣が、一本外されております……!」
「短剣?」
するりと、流れるように引き抜き鞘をからんと床に落とす。立ち上がり、と、とん、とん、と飛び跳ねるように後退し、壁に背を預けるまで3秒もかからなかった。
これで背後から奪われる心配もないし、注視するのは前左右だけでいい。リョウヤの不審な行動に、真っ先に気付いたのはテーブルの側に控えていた使用人だ。その次は配膳をしていた年配の男性数人。
そして最後は、アレクシスその人だった。
「……おい、なんの真似だ」
「見てわかんないの?」
今まさに話題に上がった短剣を、顔の前にギラリと立てる。
「はっ。稀人の癖に手癖も悪いとは、つくづく救いようのない奴だな」
「まあね。結構盗みとかやってたし、このぐらい朝飯前だよ」
「底辺め」
「お褒めに預かりどーも」
ひもじさの中、生きるために露店の果物や野菜を盗むことだって日常茶飯事だった。
朝に、リョウヤが体の汚れを流した浴室。股が痛むからと、周囲を観察しながらガニ股で歩いた廊下。腹が痛いからと、長らく籠り唸っていた手洗い場。それらの全てをしっかりと確認しなかったのはそちらの落ち度だ。
使用人が別に使用人に呼び止められた隙を狙い、扉にかけられていた短剣をするりと外した。時間にして5秒ほど。鞘ごと取ったのもあえてだ。常日頃からそこにあるものが完全無くなると、人間は異変に気付きにくい。
カシャ、ガシャンと鳴り響く手枷足枷の金属音が、巻き付けていたシーツの中へと忍ばせた新しい金属音を隠すいい隠れ蓑になってくれた。露出度の高い服に短剣など隠せるはずがないと、皆が皆、思っていたはずだ。
稀人如きが、人に対して反撃に出るはずがないという奢りが招いた結果だ。
「まさか、それで僕を刺して逃げるつもりじゃないだろうな」
「そんなことしねーよ。こんなお飾りの短剣じゃ、あんたの首を掻っ切ることだってできやしない」
するならこんな飾り用のモノではなくちゃんとした剣じゃないと。短剣にいささか緊張気味の自分の顔が映っているが、悟られるわけにはいかない。堂々と背筋を伸ばし、短剣の切っ先をくるりと自分の喉へと向ける。それでもアレクシスの表情は何も変わらず、愚かなリョウヤをせせら笑ったままだ。
「ならばその剣で自害でもする気か。随分となめられたものだな、貴様の命にどれほどの価値がある」
別に傷つかない。そんな侮蔑の言葉、言われ慣れている。
「馬鹿だね。なめてんのはアレクの方だろ」
アレクシスの笑い方をこれ見よがしに真似してみせる。挑発に乗ってくるかどうかは、賭けだ。馬鹿馬鹿しいと一蹴されたらそれで終わり。リョウヤの未来は絶たれる。
手が震えそうになって、気合いで止めた。
「俺の命に価値はなくとも……こっちはどうだろうね」
刃を喉から胸へつうっ……と下げ、腹の上を辿る。ちょうど子宮の真上で、ぴたりと静止する。ここに来て初めて、アレクシスの表情が目に見えて険しくなった──賭けに、勝った。
笑みを、さらに深めてみせる。
「これをここにぶっ刺して掻き回せば、どうなると思う?」
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