月に泣く

宝楓カチカ🌹

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前篇

19.冷たい雨(1)

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 稀人は、全く言う通りにならない。
 歯に衣着せぬ稀人に対する苛立ちは膨らみ続け、この日ついに弾けた。

 

 * * *



 それは、朝から冷たい雨が降っていた日のこと。

 結婚証明証の発行の前準備として、特定指定住民の登録をしに、近場の役所まで稀人本人を連れて行った帰り道。大した距離ではなかったが、ぬかるみと濃い霧のせいで馬車が滑り、斜面の泥の溝にはまり立往生してしまった。
 街燈がぼうっと灯り始めた薄闇の中、危険を避けるため外に出て、傘のように広く茂った樹木の下へと移動した。すると後方で、アレクシスたちと同じように右往左往している馬車を見かけた。
 どうやら車輪が滑って岩に乗り上げ壊れたらしい、遠くから、馬車に描かれている紋章が、蛇が巻き付いている兜の形であることに気付く。
 がっちりとした体格の、太った男性が馬車から降りてくる。あの特徴的な髭面はバートン伯爵だ。こんなところで見かけるのは珍しい。バートンは何やら喚いて怒りに顔を真っ赤にしながら、後方の荷台に乗せられていた忌人の1人を引きずり下ろし、その場で激しい折檻を始めた。
 相変わらずの気性の粗さだなと呆れる。
 
「貴様が! 貴様が……この道を通れば近道だと……!」
「も……もう……わ、け、あり、せっ……でも、私は、この道……危ない、と……ちゃんと、言っ……」
「口答え……な! 申し……せんですむか! もう開演時間……とっくに、過ぎ……2か月ぶりだったというのに、貴様……せい……!」

 忌人の悲鳴が響く。雨のせいで途切れ途切れにしか聞こえないが、内容で察する。彼は奥方の目を盗み年若い愛人を囲っていることで有名だ。大方、その愛人と観劇にでも行く予定だったのだろう。時間に間に合わなかったので、腹を立て忌人に当たり散らしているらしい。まあ確かに、バートンの愛人は気が強い。
 忌人の茶色い髪をわし掴みにし、バートンは杖が折れんばかりに叩きつけている。くだらない光景だ。少なくとも往来の真ん中であのような振舞い、貴族の男がすることではない。
 あそこの家は、忌人に対する扱いが惨いことでも有名だ。豪邸の裏にある広い森、庭園には、バートンが手に掛けた多くの忌人たちが埋められているとかいないとか。
 あの忌人も、このまま残酷に嬲り殺されるのだろう。関係のないことだが。
 ふと、背後で立ち尽くしていた稀人の靴先が、ひれ伏して許しを乞い続ける忌人の少年に向けられていることに気付いた。まさか──と思った矢先、案の定駆けだした足。
 咄嗟に腕を掴んで引き留める。

「……離せよ」

 獣の唸りに近いような声に舌打ちをする。

「何をする気だ」
「見てらんないだろ。あのままじゃ殴り殺されるよ、あの子」

 稀人が指さした先では、バートンの暴虐はさらに苛烈さを増しているところだった……が、だからなんだ。あれを助けたところで何になると、呆れを込めて片眉を吊り上げる。

「愚か者が。忌人を生かすも殺すも、雇い主の権利であり自由だ。貴様が関与するべき問題ではない。特にバートンの気性の粗さは有名だ。ここで手を出したところで根本的な解決にはならん」
「バートンだかなんだか知んないけど、何が権利だよ。残虐な体罰は忌人なんちゃら保護法で禁じられてるはずだ」
「忌人種良生活安全保護法だ。あれが機能しているとでも?」

 本当にそう思っているのならただの世間知らずだ。そもそも法が機能していれば、この稀人はアレクシスに買われていない。それに、伯爵であるバートンの行為を政府に訴える者などこの世のどこにもいやしない。
 法など、あってないようなものなのだ。

「そうだとしても、あんなのはおかしいだろ」
「価値のないものは価値のないまま死んでいく、それが道理だ」
「それはあんたの勝手な道理だろ。俺には俺の道理がある、押し付けてくんな」

 唾を吐く勢いの稀人のもう片方の腕を捻り上げ、顔を寄せる。濡れた銀の前髪が稀人の額にぺたりと落ちた。あと数センチで唇が重なりそうな近さに、稀人が驚いたように見上げてくる。この瞳が、酷く鬱陶しい。
 初めて見た時から、この目が気に食わなかった。だから買ったのだ。

「……おまえの聞き分けのなさは異常だな」
「そっくりそのまま、あんたに返してやるよ」

 凄められた眦にちらちらと見え隠れする確固たる意志というものは、アレクシスにとっては苛立ちの元凶だ──身の程知らずの奴隷風情が、どうしてここまで逆らうのか。

「なるほど、な。そうやって自分をアピールして、僕の気を引こうとかいう魂胆か……?」
「……はあ?」
「うるぼれるなよ下種が。生憎と、貴様以外に愛人はいる、婚約者であるルディアナもな。貴様のような稀人ごときに心を奪われるほど、僕は落ちぶれてはいない。よこしまな期待は捨て置け。どれだけおまえが望んだとしても、おまえを愛する気は一切無い」

 稀人は、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていた。

「意味、わかんねーよ……なんで俺が、あんたの気を引かなきゃなんないんだよ」

 心外だとばかりにぽかんと口を開けた稀人に、やはりこちらの方が、焦れる。

「ならば何故言うことを聞かない」
「なぜって……」

 だんだんと本降りになってきた雨が、しとしとと稀人の黒髪と肩を濡らしていく。水分を帯びた薄い布がぴったりと稀人の肌に張り付き、やけに影が濃く見えた。布越しに現れた濡れそぼった肌が、視線の端をちらちらとくすぐってくる。
 その瞬間、じわじわと、これまでに何度か感じていた得体の知れない黒い感情が湧き上がってきた。
 追い立てられるように手首を解放し、今度は10の指で、二の腕を持ち上げるようにぎっちりと掴み上げる。身長差があるため、稀人のかかとはすぐに浮いた。

「痛っ……ッ」

 両手で簡単に一周できてしまった腕は、このまま力を込めただけでぐしゃりと潰れてしまいそうだった。いつも組み敷く時に触れるのはほとんど足だけだったので、これほどまでに細いとは知らなかった。しかも手袋越しであってもやけに柔らかく、肌も生暖かく感じられる。

「い、たい、離せ、よ」

 苦悶に歪む眉が、近い。至近距離から吐き出される白い息が、アレクシスの唇に触れてくる。薄く開かれた唇は雨に濡れ、妙に赤赤としているように見えた。
 ごくりと、自然に口内に溜まった唾を飲み込む。

「痛い、はなしてってば……ッ、あんたに迷惑はかけないから!」

 きっと睨まれたことで、ぱらぱらと散っていた思考は直ぐに戻った。

「……ふざけたことを抜かすな。貴様の身勝手な行動は全て所有者である僕に跳ね返ってくるんだ。そこまでの自由を、おまえに与えたつもりはない」
「なにそれ、じゃあ黙ってみてろっての?」
「そうだ」
「嬲り殺されるのを!?」
「そうだ」

 得体の知れない化け物を見るような目が、ちりりと癪に障った。





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