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前篇
16.ルディアナ・グラスノーヴァ(1)
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アレクシスが帰ってくると、馬車が館の前で停まっていた。正門玄関ではなくここまで入ってくるということは、アレクシスが許可をしている家であることは遠目からでも察しがつく。
ある程度近づいたところで、馬車に描かれている紋章が見えた。大輪の華をモチーフにしたそれに、漏れそうになったため息。それを瞬時に呑み込んだのは、どこで見られているかわからないからだ。
いつものごとく侍女を3、4人は引き連れてきているはずだし、そろそろかとは思っていた。
億劫ではあるが、チェンバレー家の将来のためにご機嫌取りは欠かせない。
「旦那様、お帰りなさいませ。ルディアナ様がお見えです」
「……わかっている」
頬をいつも以上に引き締めながら客室の扉を開ければ、熱烈に出迎えられた。
「アレクシス様……!」
お待ちくださいお嬢さま、という侍女たちの制止を振り切り、アレクシスへと一直線で駆け寄ってくる年若い女。後ろで編み込まれたふわふわとした金色の巻き毛に、白磁のような肌。形のよいぱっちりとした目は可憐な花を思わせる。この潤んだ瞳で見つめられれば落ちない男はいないだろう。実際彼女は、そのあまりの愛らしさから舞踏会では数多くの男たちからダンスを申し込まれ、彼女に貢いだ男は星の数ほどいると言われている。
アレクシスと並んでも引けを取らないほどの美貌を持つこの女性は、ルディアナ・グラスノーヴァ。
この社交界では知らぬ者は1人もいないほどの、令嬢だった。
「──あっ」
「お嬢さま!」
悲鳴が上がる。唯一の欠点は、気が急いると何もないところでよく転んでしまうところかもしれない。アレクシスは靴を鳴らして近づき、躓いて転びかけた華奢な体をしっかりと抱き留めた。
「ぁ……」
「久しぶりだな、ルディアナ」
「も、申し訳ありません、私ったらまた……!」
「相変わらずのお転婆っぷりで安心したよ」
「も……もうっ、アレクシス様った酷いですわ。イジワルしないで……」
「すまない、君があんまりにも可愛いものだからつい、な。怪我はなかったか?」
「はい、アレクシス様が受け止めてくださいましたもの……」
「そうか──会いたかったよ。僕のルディ」
「きゃ……」
腰からすくいあげるようようにしかと抱きしめれば、ルディアナはぽっと頬を赤く染めた。そして長い間引き裂かれていた恋人の如く身を委ねてきた。
アレクシスとルディアナの関係は社交界でもかなり有名だ。なぜならルディアナは、アレクシスが見定めた将来のチェンバレー夫人その人だからだ。つまり、稀人に産ませる跡継ぎの母親となる存在だ。
ルディアナ以上に、アレクシスに相応しい女性はいない。彼女は侯爵令嬢としてのプライドはしかと持つが、心優しく、男性を立てる奥ゆかしさも兼ね備えている。またその優雅な立ち振る舞い、礼儀作法はどの淑女と比べてみても完璧で、サロンにおいても常に注目の的だ。
ガツガツと食事に食らいつき、口の周りを食べかすだらけにするどこぞのガサツな稀人とは違う。
「しばらくお手紙も頂けなかったものですから、すっかり忘れられてしまったのかとばかり」
「まさか、なんてことを言うんだ可愛いルディ。僕が君に夢中なことは、君が一番よくわかっているだろう?」
「だって、だって……全く会いに来てくださらないんですもの。私、アレクシス様にお会いできる日を指折り数えておりましたのよ? それなのに……ぁ」
続きを言わせないため、人差し指で軽く唇を押す。象牙のように真っ白な歯がのぞいた。
「許してくれ、色々と立て込んでいたんだ。僕の方こそ早く早く君に会いたかったよ、こうして君に触れているだけで、連日の疲れもかき消えるようだ」
初心なルディアナは耳まで薔薇色に染まった。
ルディアナは年頃の少女らしく夢見がちなところがある。彼女が見惚れるような男を演じなければならないのは少々骨が折れるが、ルディアナはグラスノーヴァ侯爵の次女で、チェンバレー家に嫁いできたどの娘たちよりも爵位が高い。つまりルディアナは、社交界という海に揺蕩う黄金の魚だ。これまで出会ってきたどの女よりも価値があり、決して逃がしてはならない存在。
出会った瞬間に恋の釣り針をその身に深く穿ち、2年かけて糸を何重にも絡ませてきた。手繰り寄せた糸を緩めることなど、一瞬たりともあってはならない。
それに、そもそもアレクシスに迫られて落ちない女などいるはずがない。
父親譲りの、この美しい顔があるのだから。
「その……立て込んでいたというのは、噂になっている例の稀人のことでしょうか……?」
「……そうか。もう君の耳にも入ってしまったんだな」
自分のこの顔が、貴族社会を生き抜くために有効活用できる代物だということは重々承知している。己の美醜に酔いしれているわけではない、これはただの事実だ。こうして視線を横にずらし、できるだけ沈痛な面持ちに見えるようまつ毛を伏せて角度を作れば、どこからどうみても憂い顔の美青年だろう。
体を寄せ合う美男美女に、ルディアナの侍女たちもほう……見惚れるような息をついている。
「ええ、夜会でもサロンでもその話で持ちきりですわ。アレクシス様がついに稀人を譲り受けたのだと……その噂は、本当……なのですか?」
アレクシスを見上げてくるルディアナの目は、既に涙で潤んでいた。
「他でもない君だけには自分の口から伝えたかったんだが、なかなか時間が取れず……こうして君に足を運ばせる事態になってしまった……」
壊れ物にでも触れるようにルディアナの頬を包み込み、柔らかい目尻を親指で撫でる。
「ルディ。今から言うことを、よく聞いてくれ」
「は……い」
「予定通り、稀人を最初の妻として迎えることになった」
大きく見開かれた瞳は、今にも零れ落ちてしまいそうだった。自分も苦しくて仕方がないのだと顔を歪ませ、じっと揺れる金色の瞳を見つめる。
「やはり、父の意向は覆せなかった。すまない。必ず事前に伝えると約束していたというのに」
ぽろりと、ルディアナの瞳から真珠のような涙が零れ落ちた。
ある程度近づいたところで、馬車に描かれている紋章が見えた。大輪の華をモチーフにしたそれに、漏れそうになったため息。それを瞬時に呑み込んだのは、どこで見られているかわからないからだ。
いつものごとく侍女を3、4人は引き連れてきているはずだし、そろそろかとは思っていた。
億劫ではあるが、チェンバレー家の将来のためにご機嫌取りは欠かせない。
「旦那様、お帰りなさいませ。ルディアナ様がお見えです」
「……わかっている」
頬をいつも以上に引き締めながら客室の扉を開ければ、熱烈に出迎えられた。
「アレクシス様……!」
お待ちくださいお嬢さま、という侍女たちの制止を振り切り、アレクシスへと一直線で駆け寄ってくる年若い女。後ろで編み込まれたふわふわとした金色の巻き毛に、白磁のような肌。形のよいぱっちりとした目は可憐な花を思わせる。この潤んだ瞳で見つめられれば落ちない男はいないだろう。実際彼女は、そのあまりの愛らしさから舞踏会では数多くの男たちからダンスを申し込まれ、彼女に貢いだ男は星の数ほどいると言われている。
アレクシスと並んでも引けを取らないほどの美貌を持つこの女性は、ルディアナ・グラスノーヴァ。
この社交界では知らぬ者は1人もいないほどの、令嬢だった。
「──あっ」
「お嬢さま!」
悲鳴が上がる。唯一の欠点は、気が急いると何もないところでよく転んでしまうところかもしれない。アレクシスは靴を鳴らして近づき、躓いて転びかけた華奢な体をしっかりと抱き留めた。
「ぁ……」
「久しぶりだな、ルディアナ」
「も、申し訳ありません、私ったらまた……!」
「相変わらずのお転婆っぷりで安心したよ」
「も……もうっ、アレクシス様った酷いですわ。イジワルしないで……」
「すまない、君があんまりにも可愛いものだからつい、な。怪我はなかったか?」
「はい、アレクシス様が受け止めてくださいましたもの……」
「そうか──会いたかったよ。僕のルディ」
「きゃ……」
腰からすくいあげるようようにしかと抱きしめれば、ルディアナはぽっと頬を赤く染めた。そして長い間引き裂かれていた恋人の如く身を委ねてきた。
アレクシスとルディアナの関係は社交界でもかなり有名だ。なぜならルディアナは、アレクシスが見定めた将来のチェンバレー夫人その人だからだ。つまり、稀人に産ませる跡継ぎの母親となる存在だ。
ルディアナ以上に、アレクシスに相応しい女性はいない。彼女は侯爵令嬢としてのプライドはしかと持つが、心優しく、男性を立てる奥ゆかしさも兼ね備えている。またその優雅な立ち振る舞い、礼儀作法はどの淑女と比べてみても完璧で、サロンにおいても常に注目の的だ。
ガツガツと食事に食らいつき、口の周りを食べかすだらけにするどこぞのガサツな稀人とは違う。
「しばらくお手紙も頂けなかったものですから、すっかり忘れられてしまったのかとばかり」
「まさか、なんてことを言うんだ可愛いルディ。僕が君に夢中なことは、君が一番よくわかっているだろう?」
「だって、だって……全く会いに来てくださらないんですもの。私、アレクシス様にお会いできる日を指折り数えておりましたのよ? それなのに……ぁ」
続きを言わせないため、人差し指で軽く唇を押す。象牙のように真っ白な歯がのぞいた。
「許してくれ、色々と立て込んでいたんだ。僕の方こそ早く早く君に会いたかったよ、こうして君に触れているだけで、連日の疲れもかき消えるようだ」
初心なルディアナは耳まで薔薇色に染まった。
ルディアナは年頃の少女らしく夢見がちなところがある。彼女が見惚れるような男を演じなければならないのは少々骨が折れるが、ルディアナはグラスノーヴァ侯爵の次女で、チェンバレー家に嫁いできたどの娘たちよりも爵位が高い。つまりルディアナは、社交界という海に揺蕩う黄金の魚だ。これまで出会ってきたどの女よりも価値があり、決して逃がしてはならない存在。
出会った瞬間に恋の釣り針をその身に深く穿ち、2年かけて糸を何重にも絡ませてきた。手繰り寄せた糸を緩めることなど、一瞬たりともあってはならない。
それに、そもそもアレクシスに迫られて落ちない女などいるはずがない。
父親譲りの、この美しい顔があるのだから。
「その……立て込んでいたというのは、噂になっている例の稀人のことでしょうか……?」
「……そうか。もう君の耳にも入ってしまったんだな」
自分のこの顔が、貴族社会を生き抜くために有効活用できる代物だということは重々承知している。己の美醜に酔いしれているわけではない、これはただの事実だ。こうして視線を横にずらし、できるだけ沈痛な面持ちに見えるようまつ毛を伏せて角度を作れば、どこからどうみても憂い顔の美青年だろう。
体を寄せ合う美男美女に、ルディアナの侍女たちもほう……見惚れるような息をついている。
「ええ、夜会でもサロンでもその話で持ちきりですわ。アレクシス様がついに稀人を譲り受けたのだと……その噂は、本当……なのですか?」
アレクシスを見上げてくるルディアナの目は、既に涙で潤んでいた。
「他でもない君だけには自分の口から伝えたかったんだが、なかなか時間が取れず……こうして君に足を運ばせる事態になってしまった……」
壊れ物にでも触れるようにルディアナの頬を包み込み、柔らかい目尻を親指で撫でる。
「ルディ。今から言うことを、よく聞いてくれ」
「は……い」
「予定通り、稀人を最初の妻として迎えることになった」
大きく見開かれた瞳は、今にも零れ落ちてしまいそうだった。自分も苦しくて仕方がないのだと顔を歪ませ、じっと揺れる金色の瞳を見つめる。
「やはり、父の意向は覆せなかった。すまない。必ず事前に伝えると約束していたというのに」
ぽろりと、ルディアナの瞳から真珠のような涙が零れ落ちた。
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