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限界
03.
しおりを挟む瀬戸の手から滑り落ちたジョッキは割れなかった。
けれどもガチャンと大きな音を立ててテーブルに落ち、氷とレモン色の液体がどばっと溢れて座卓から床に滴り落ち、染みた。
「──聞いてもらってなんになるって?」
しんと静まり返る半個室の空間。
「仲直り? 仲直り、ね……はは。仲直りもクソもないだろこんな関係」
瀬戸の腕をあらん限りの力で吹っ飛ばした犯人は、もちろん姫宮。
「ねぇ、そうだよね、橘」
「……」
「ああ、まただんまり?」
「──姫宮」
伏せた目線のまま、静かに遮る。
「やめろよ」
それ以外に言いようが、なかった。
「どうして?」
「おまえ酔ってるぜ」
「馬鹿をいうな。酔うわけないだろうこんな安酒で」
にべもなく吐き捨てた姫宮に、溶けかかっていた空気が再び凍り付いていく。姫宮が、人前でこんな乱暴な口調になることはまずありえない。
ありえないものだから、全員が姫宮を見てぽかんとしていた。
「ひ……めみやくん、ど、どうしたの?」
「うるさい」
そろそろと隣から伺ってくる女子たちを一瞥すらせず、姫宮は吐き捨てた。
「僕は橘と話してるんだ、部外者は引っ込んでてくれる?」
(この野郎、俺に合わせる気ねぇのかよ……っ)
てめぇと怒鳴りそうになるが、ぐっと怒りを堪える。ここでいつものような口論に発展してしまえばもう誤魔化せなくなるし、場の雰囲気をこれ以上壊したくない。
荒ぶる気持ちを落ち着かせるため息をゆっくり吸い、吐いた。
「──やめろ、姫宮。当たり散らすな」
姫宮の、伏せたまつ毛がふるりと震えた。
「へえ、そう。ここまで来ても隠そうとするんだね」
姫宮の口角が、くっと嫌な形に上がる。
「君は本当にお人よしだなぁ。僕のことですらそうやって庇おうとするんだものね。僕はね、君のそういうところが昔から不快で、不愉快で、忌々しくて、気に食わなくてたまらなかったんだよ」
「……姫宮」
姫宮がふと真顔になった。
「ねぇ、橘」
その切れ長の瞳は、水底のように暗くぼんやりとしていて、口調もどこか投げやりで。
「もう全て、話してしまおうか」
「──姫宮!」
強く握りしめていたジョッキの底をテーブルに叩きつけ、俺は歯の隙間から、唸った。
「……やめろ」
残り少ないウーロン茶が、たぷんと揺れる。
「必死だね。どうして?」
「ここで話す内容じゃない」
「じゃあどこで話せって? 君は僕を避け続けているのに。また君の家にでも無理矢理押しかければいいのかな。それともいつもみたいに僕の家にでも引きずり込もうか? それかベッドの上……か」
「──いい加減にしろ。なに悪ノリしてんだ」
極限まで声を落として牽制しても、逆効果だった。
「悪ノリ? いい加減にするのは君の方だろう」
姫宮の顔から全ての表情がかき消え、ぞっとするほどの冷たさに取って代わった。
その顔を見てしまった全員が色を失うような、恐ろしい表情だった。
なんだよ怖ぇ顔して疲れてんのか? とりあえず外行こうぜ……そんなノリ、もう作り出せる雰囲気じゃない。氷像のような姫宮と真正面から睨み合う。
「ねぇ、橘」
目が逸らせない。姫宮の目は、逃げは許さないと言っていた。
「君、ここに来る前にカフェにいたね」
「……なんで」
声が震える。主語はないが十中八九義隆のことだろう。どうしてバレているのか。
「知ってるかって? 君のことで知らないことなどあるものか。あんなくたびれたカフェで一体何をこそこそ話していたんだろうね。ああ、もう耐えきれないから僕を説得してほしいとかそういう話?」
笑みはおろか、もはや抑揚すら無い。不穏すぎる空気に風間と綾瀬がそろりと腰を上げるのが見えた。
タイミングを見計らって間に入ろうとしてくれているのがわかる。
瀬戸はえ、え、と俺と姫宮を交互に見てはおろおろし、女子は口を押えてただただびっくりしている。
「ねぇ、教えてよ橘。あの人と何を話していたの?」
「ただの世間話だ」
「1時間以上も?」
「……そうだよ」
「嘘をつくな」
唇を噛む。
「答えろ」
眦に力を込めて、射殺さんばかりの視線を真正面から受け止める。
こいつにこんなに厳しい目で見据えられたのも、久しぶりだった。
──言えるかよ。
おまえの父親に、おまえとのことを相談してただなんて、言えるかよ。
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