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繋がれた手
182.
しおりを挟む皮膚を傷付けた感触はなかった。
このままもっと力を込めて横に引けば、ソンリェンの首からはさらに赤が滴り落ちるのだろう。そしてあっと言う間に、ソンリェンの呼吸は止まる。
「ああ」
「……このまま横に、引いても?」
「ああ」
力を込めれば込めるほど、ソンリェンの身体は無防備になった。ソンリェンはもう微動だにしない。
「切られても、いいのかよ。絶対痛いよ」
「お前ほどじゃ、ねえだろ」
「──っは」
間髪入れずに笑って見せようとしたが、口の端が痺れて無理だった。
ソンリェンの表情もいけない。いつもみたいにトイを愚かだと嘲笑ってくれればいいものを、あまりにも一途にトイだけを見上げてくるから。
まるで彼の中の世界に、トイしかいないみたいに。
手の震えが大きくなる。これでは狙いも定められない。
一歩間違えれば、本当にソンリェンの首を掻っ切ってしまいそうだ。
「……殺して、やりたい」
もう、ナイフすら持っていられなくなった。手のひらから力が抜けていく。
「殺してやりたいよ……」
「やれ」
トイの残酷な言葉にもソンリェンは怯まない。トイには出来ないだろうと高を括っているわけではないのだろう。
きっとトイが本当に彼の首にナイフを突き立てても、ソンリェンは最後まで抵抗せず、トイから視線も外さないはずだ。両手を広げて受け入れるかもしれない。
それは本当に、トイが望んでいることだろうか。ソンリェンの命を奪うことが、トイの──幸せ?
「お前には、その権利が、ある」
一言一言噛みしめるように囁かれ、完全に力が抜けた。
「そんりぇん」
からんと、ナイフが床に落ちた。自由になった両手でソンリェンの胸ぐらを掴む。綺麗な服が皺になるほどに強く。
「なんで、オレを壊そうとしたの」
「……んなの、お前が女とイチャついてんの見て腹立ったからだろ」
「なにそれ。嫉妬、したの?」
「そうだ」
そんなことわざわざ聞かなくとも、知っている。
「じゃあなんで、途中でやめたんだ」
「壊しても、意味ねえってわかったんだよ」
「なんで、いつもオレを抱きしめるの」
「……お前に触れたいから」
「なんで、なんでオレ以外どうでもいいの」
「お前が、一番だから」
ぽたりと涙がソンリェンの服に落ち黒い染みを作った。
「なんで、キスしてくるの」
「──かわいいから」
ぐっと唇を噛みしめても、それはとめどなくぽたぽたと零れていく。止まらない。
「誰よりも、お前がかわいいから。その顔も、目も、髪も、唇も、手も足も……お前を形作るもん、全部」
ソンリェンが透明な青を滲ませ、静かに瞼を閉じた。
「かわいくて、しょうがねえんだよ……」
その瞬間、ディアナの目を見るたびいつもソンリェンを思い出していた理由がわかった。ディアナに笑いかけられると心が温かく、そして切なくなった理由も。
簡単なことだった。そしてトイはその理由を初めから知っていた、ただ認めたくなかった。
これ以上傷つくのが恐くて、ソンリェンの言葉も遮って来た。
でももうここまで来たら、聞かずにはいられない。
エミーの言葉ではなく、ソンリェンの口から本当の言葉を聞きたいと強く思った。
「ソンリェン……オレのこと好きなの」
これまで流れるように答えていたソンリェンが、押し黙った。だがそれは返答に困っているというより、伝えたい言葉を探しているような素振りに見えた。
「好き、っつー言葉一つで、片付けられれば楽だな……」
ゆっくりとソンリェンの目が開かれる。
「──愛おしい」
好きの一言で片づけてくれれば、まだ耐えられたのに。
「お前の全部が愛おしくてたまんねえんだよ──トイ」
そんなことを言われてしまったら、もう耐えきれない。
血に濡れた指が近づいてきて、頬に添えられた。トイは避けなかった。
ソンリェンの指先が、零れるトイの涙を何度も拭う。
「優しくしてえんだ……ほとんど、できなかったけどな」
かわいいは、優しくしたい。
「少しでも、お前に関わりたかった。傍にいたかった」
優しくしたいは、一緒にいたい。
「お前をボロボロにしたくせに何言ってんだって、話だよな……けど止まんねえんだよ。お前が」
一緒にいたいは、かわいい。
そしてそれらの気持ちを全てひっくるめて、愛おしいという包み込むような感情に帰結する。
「お前が好きで、愛しくて、しょうがねえんだよ……」
『つまりそういうことだと思うのよ』
どういうことなのシスター。
オレにはまだ、わかんないよ。
「トイ、言えよ」
ふるふると首を振る。身体中の水分を出し過ぎているせいで喉が渇く。口元に伝う涙を舐めてもしょっぱくて喉が焼けて、何も喋れない。あと一歩が、踏み出せない。
壊された心を必死に繋ぎ止めて、ここまで来た。
もしもまた、お前に飽きたと酷いことをされて捨てられたら。
トイをやっとトイとして見てくれた人に、お前は玩具だと突き放されてしまったら。
もうトイは、立ち上がれないから。
「言いたいこと言えよ」
ソンリェンが、そっとトイの強張る拳に手を重ねてきた。
「何言われても、もうお前を壊したりしない。傷つけたりもしねえよ」
ソンリェンの言葉一つ一つが心に染み込んでくる。
粉々に砕かれたものは戻らない。けれども優しい人たちに拾われて、必死で散らばってしまった心をかき集めて、なんとかこの1年で元の形になるようにくっ付けた。
それは痛々しく穢れ、今にも崩れてしまいそうな、ハリボテのような歪な心だったけれど。他人から見たらガラクタのようなものかもしれないけれど、毎日毎日頑張ってきたんだ。崩れないように。
「全部聞く──離さねえから」
もう、信じてもいいのだろうか。
こうして掴まれた手は本物なのだと。
「溜めてるもん全部、言えよ。あるんだろ、ずっとここに」
自分の心と、向き合ってもいいのだろうか。
「……言ってくれ」
心の内を叫んでもいいのだろうか。
汚いとバカにされないだろうか、知るかと冷たく突き放されたりしないだろうか。
もう手を、振り払われないだろうか。
「今更、なんなんだよ……」
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