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雨音
134.
しおりを挟むコートに包まれたトイは身体を丸め、胎児のようだった。なるべく刺激を与えないようにしているのだがいかんせん車内だ。動きに合わせて揺れてしまう。
頬が赤いのは快楽と熱のせいか、額や耳の下から噴き出し始めた汗が手に垂れてきた。
「あ……ぅ、ぁ」
薬を飲ませてから数分経ってもトイの異常な発汗は治まらず、震えも増すばかりだった。幼い身体がガタガタと痙攣し唇の色が青から紫へと変わっていく。
最初に飲ませたものは即効性が強いというのに、緩和薬はなかなかトイの身体を巡ってゆかない。
舌打ちをする。ろくに調べてもいないので効くのかも怪しい代物なのだ。
焦りばかりが募る。
「トイ」
触れて発散させるだけでどうにかなるならそうするが、それでは苦しさが増すだけだ。
気が狂いそうになるほどの快楽は、高められるほど吸収力も強まる。その恐ろしさは1年前にトイの身体で検証済みだ。小さな1瓶だけでもここまでの状態になるのだからあの時はもっと辛かっただろう。
何もすることが出来ず、ただ柔らかな身体を抱き抱える。
「ぁ……ぁあ、あ」
「どうした、どこが苦しい」
「……ぁ、か、ゆい」
トイはかりかりと剥き出しになった首を爪で引っ掻き始めた。
ソンリェンが首を絞めたことで、すっかり手形がついてしまっている。苦い液体を飲み込ませた口の中も喉の奥も、それが行き渡っている体のありとあらゆるところが疼くはずだ。
「どこが、痒い」
トイは答えなかった。ぎゅっと唇を噛みしめて首を振る。
噛み合わないのか、トイの歯がガチガチと鳴り始めた。
「寒いのか」
僅かだが、トイがこくりと頷いた。
「わかった。車の温度を」
「ぁ、つい……」
トイが車の天井を見上げた。
さむい、あつい、とうわ言のように相反する言葉を繰り返す様子は異常だった。トイの頬に付着していた泥がトイの眦から溢れた涙と交わり、溶ける。
それがトイの唇まで落ちて来そうだったので、なるべく刺激を与えないようにそっと拭う。
ソンリェンが頬に触れた途端、トイは目を大きく見開き唇を戦慄かせながら悲鳴を上げた。
「あ、ぁあ……! ああ、あ!」
「おい」
「ぁ、う…あ、は……はぁ! あ、あぁ……」
「おい、トイ!」
落ち着けと声をかけるが効果はない。ひゅうひゅうとトイの胸から苦し気な音が聞こえる。1年前、こんな状態のトイを嘲笑っていたのが嘘のように思えた。それどころか少しでも苦しみを取り除くことは出来ないかと、そんなことばかりを考える。
狂わせようとしたのは、他でもない自分の癖に。
「や、ぁああ……ぁ、あ、はな、し、てぇえ……!」
「トイ」
「はなし、て……こわ、あぃ……ッ」
「落ち着け」
「こわい、痛い…いたい、のっ……やだ、やだぁ……ぁああ」
いつの記憶が蘇っているのかはわからないが、ソンリェンが傍にいることでトイの恐怖と混乱が倍増していることだけはわかった。ソンリェンを見上げる恐怖に満ちた瞳がそれを物語っていた。
「しす、たー……、しすたぁ……ッァ、ああ、あ……」
いつもは嫉妬に狂っていたその名前も、今はただ苦いだけだ。
「トイ、落ち着け」
「い、やァあ……いたぃ、痛い、いた……ぁあ、あ……」
「もうしない。痛いことも、しねえから……トイ」
結局、同じ言葉を繰り返すことしかできない。唇を噛みしめる。ぽたりとトイの頬に汗が落ちてしまった。急いで歩いていたために、今になって汗が噴き出てきた。
この状態のトイを落ち着かせられるのは一人しかない。あの女は今以上に酷い状態のトイを救い、看病し回復するまでトイを支えた人間だ。けれどもその人物はここにはいない。
自分の屋敷に着くまであと40分はかかるだろう。それよりも育児院へ向かった方が早い。あの女はソンリェンよりもうまく看病することだって出来るはずだ。
けれどもあそこへトイを連れて行く気にはなれなかった。
育児院は環境が整っていないだとか、ソンリェンの方がいい医者を呼べるだとか、自分の屋敷の方が人手もあるので看護しやすいだとか。
もっともらしい様々な理由を並べ立ててはみるが、結局は一つの答えに行きつく。
こんなの、醜い独占欲だ。
こんな時だというのに、あのディアナとかいう少女の頬に焦がれるように口付けたトイの姿が脳裏を過ぎる。
トイが心の底から慕う女性とトイが好きな少女。そしてトイが可愛がる子どもたちがいるあそこへはどうしても連れて行きたくない。トイを奪われることはソンリェンにとって何よりも耐えがたい恐怖だ。
皮肉なものだ。あの3人がトイを攫ってきた時は途中参加だったくせに、今トイを攫おうとしているのはソンリェンなのだから。
「あ、ぁあ、しす、た……やぁ、ぁぁ……」
こうして、ソンリェンに怯えて泣くトイを、逃がさぬよう腕の中に強く抱きしめてしまうのだから手に負えない。
『傷つけるなって、なんだよ! 傷つけてたのはソンリェンだろ!?』
『わかってんだよ!』
エミーの叱責を思い出して自嘲する。全くもってその通りだ、口ではそう言いながらも何も理解していなかった。わかっていないから、またトイを傷つけようとした。
そして今、ソンリェンの身勝手がトイを途方もない闇に突き落としかけている。
「──バカは俺だな」
ソンリェンの独白を聞いていたのがハイデンだったことは幸いだろうか。彼なりにスピードを上げてくれていることを有り難く思う。
不揃いの音色が強く窓を叩き始めた。本格的に雨が降ってきたのだ。
確か、トイを捨てた日も同じような雨だった。
怪我だらけで、死にかけた状態で、素っ裸で、こんなにも細く小さな身体で、路地裏に一人寂しく捨てられたトイはどんな気持ちだったのだろうか。雨の中、冷たい身体がさらに冷えて、動くこともままならなかったはずだ。今のように。
怖かったはずだ、苦しかったはずだ、辛かったはずだ、痛かったはずだ、寂しかったはずだ。
『オレ──死ねる、の?』
それこそ、死を救いのように感じてしまうほどに。
トイが生きていたことは、奇跡だった。
それなのに、他でもないソンリェンが再びトイを踏みにじってしまった。
引きちぎったミサンガが足元に落ちていた。すっかり存在を忘れていたせいで、汚れた靴で踏み潰していたらしい。それは見るも無残な姿で泥に塗れていた。
ソンリェンは激しい雨音から覆い隠すように、腕の中で震えるトイを強く搔き抱いた。
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