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お出かけ
38.
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そこは、トイたちがいた所からそこまで離れた場所ではなかった。
というのも、トイの秘密の場所は屋台立ち並ぶ市街から離れた、雑木林の奥深くにあるからだ。
誰も訪れない秘境の地、とまではいかないだろうが、市街の中心にはもっと綺麗に整備された森林公園があるから、ここを訪れる人はほぼいない。
道も泥だらけで舗装などされていないため危ないし、草木が生い茂り辿りつくまでかなり苦労する。
トイだからこそ見つけられた場所なのであって、他の人達は場所すらもわからないだろう。
現にソンリェンも苦労している様子だった。
だが自らが催促した手前辿り着く前に帰るとは言えないのか、「道じゃねえだろ」「ふざけんな」といつもの悪態をつきながら歩きにくそうに綺麗な靴とズボンを汚していた。
ソンリェンは貿易商を営む家柄の息子だ。こんな茨のような道、歩いたこともないに違いない。
澄ました顔に珍しく汗が滲んでいる様子を内心で笑ってしまい、そんなことを考えてしまった自分が酷く醜く思えてトイは歩くスピードを緩めた。ソンリェンが追い付いてこられるように。
どうせここでソンリェンを置き去りにしたとしても、あとで殴られ徹底的に痛めつけられるのがオチだ。
ふと、木々が開けた。
空が明るくなり、水の音が強くなる。一週間ぶりの自然の気配なのに、いつものように心が躍らないことが寂しい。まさかソンリェンをここに連れて来ることになるとは思ってもいなかった。
「……ここが、お前のお気に入りの場所ってか」
盛大に呆れた様子のソンリェンが、トイの前に出た。
視界に広がるのは大きな湖、とまでは言えない水の溜まり場だった。深さだってそこまでではないだろう。反対側にある大きな湖から派生した、土の窪みに溜まった広い水辺だ。
晴れ渡る空からそよそよとした風が吹き、水面を静かに揺らしている。鳥の囀りと、時折小さな魚が跳ねるぐらいの静かな場所だった。
「何がいいんだか。こんな廃れた泥まみれな水辺」
ここは舗装されていない分酷く湿ってもいる。腐った葉なども散らばっていてお世辞にも綺麗な場所だとは言えないだろう。だがトイは育児院に行かない日は、必ずと言っていいほどここに来て自然が造った石の椅子に座り込み、日がな景色を眺めていた。
トイには、友達と呼べる存在がいない。育児院には小さな子どもたちが多く年の近い子はいないのだ。もちろんシスターも年上だ。
ここは静かで、誰もいなくて、暖かい。
寂しさを紛らわすためでもあったがこの場所に来ると不思議と心が落ち着いた。自然の力は圧倒的だ。どんなに強い人間だって自然の猛威には敵いやしない。
トイはちっぽけな存在だが、トイを蔑む男たちだって広い空や大地や水、自然から見れば大した存在じゃない。トイに比べればソンリェンは権力や財力を持ち世の中から必要とされている存在かもしれないが、ここにくれば全ての人間が平等で、ちっぽけなのだ。その事実をいつも実感できる。
だからトイはこの空間が好きだった。自然と同化し、トイが人間として在れる場所だった。
「こんな場所しか行く当てもねえのかてめえは。寂しい奴だな」
むしろ、寂しいトイはここに来ると寂しくなくなる。ソンリェンには一生理解できない感覚だろう。
「ソンリェンにはわかんねえよな」
「……あ?」
地を這うような低い声に、はっと思考が引き戻された。ソンリェンを纏う気温が一気に下がった。ソンリェンの前で思ったことを口に出してしまうことほど、後が大変なものはない。
案の定、トイの反抗らしい反抗にソンリェンは大層苛ついたようだった。
「てめえ」
「ご、ごめん……」
誰にものを言っているんだと怒りをぶつけられる前に震える声で謝罪し、視線を逸らしてソンリェンから離れる。狭い場所だ、どこへ行こうとも彼から身を隠すことなどできないが、縮こまるように岩の陰にしゃがみ込んだ。
ソンリェンは舌打ちしただけで追いかけては来なかった。ほっと胸を撫でおろして、綺麗な水面を見つめる。
座り込んだ拍子に、手にしていた袋から林檎が1個、ぬかるんだ泥の上に落ちてしまった。汚れてしまった赤い果実を拾い、透明度の高い水の中にぽしゃりと入れて泥を落とす。
血色の悪い自分の顔が水面に反射して、林檎から剥がれた泥に覆われた。灰色になった世界が直ぐに透明度のある綺麗な水に戻っても、トイの瞳の奥にへばり付いている汚泥は消えないのだろう。
ぼんやりとしていると、また林檎が転がり落ちてしまった。ぽとんと水の中へと。慌てて掴み取ろうとしたが取り損ねてしまい、林檎は暗い底の方へと沈んでいってしまった。
残ったのは手のひらの上でぷかりと揺れる林檎だけ。甘い果実の赤が、今朝吐き出したトマトと重なって見えた。
──なんでいつも、こうなるのかな。
くしゃりと、水面のトイの顔が歪んだ。
トイの日常が暗闇に侵食されていく。1年かけて手に入れた平穏が、たったの数日で崩された。何度忘れようと思っても、いつまで経ってもおぞましい過去はトイの中から消えてくれない。
この林檎のように綺麗に汚れが落ちてくれればいいものを、どんなに身体を掻きむしっても掻きだしても、トイの身体のあちこちに染み付いた青臭さは消えない。いつだって臭う。
夜中に思い出したくもない記憶を闇に引きずり出されて、汗だくになって飛び起きるのはもうたくさんだ。
──なんでトイは、いつまでたってもこうなんだろう。
「おい」
押し付けられた煙草の痕も、殴られて切れた唇の端も、貫かれて傷つけられた下半身も、鞭打たれた背中も。全ての傷痕が、蚯蚓腫れのようにトイの身体のあちこちに残っている。
いっそのこと痕の残る皮膚を全て削り取ってしまいたかった。新たに血を流すことになっても構わない。それで目に見える過去が消えてくれるのなら。
そうすれば少しは、トイの中にじくじくと残り続ける膿も、痛みも、ましになるんじゃないだろうか。
だんだんと自分の顔が近づいてくる。睫毛に、瞳に、耳に、じんわりと水が染み込んでくる。冷たくて気持ちがいい。なんだか楽になれそうな気がした。
「……おい」
このまま水と同化してしまえば、痛いのも悲しいのも苦しいのも、全て流れてくれるかもしれない。黒ずんだこの身体が透明になるかもしれない。穢れの無い身体へと生まれ変われるかもしれない。
そうしたらトイは今度こそ、玩具じゃなくて人間になれるんじゃないだろうか。
「──おい!」
「……ッ」
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