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歩道橋の幽霊
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まさか、ユカラとコンビを組まされるとは思わなかった。
最悪だ。サトシは深々とため息をつく。
よりによって、社交性ゼロの女の子と、町の人に話を聞いて回ることになるなんて。
全ての発端は、文化祭に出す文集だ。
サトシの所属する文芸部は毎年、創作文集を出す。部員はみんな発行のため何か役割を与えられるけれど、それは書くことに限定されるわけではない。サトシは本が好きでも自分で文章を書きたい側ではなかったので、入部した昨年から、制作側に回っていた。原稿を集めたり、印刷の手配をしたり。
ところが、執筆者側に問題が発生した。
スランプ。他ならぬ部長のヤナセ先輩が、書きたいのに書けない、ネタが浮かばない、と悶絶する事態に陥ったのである。
今回の文集のテーマは「幽霊」。
他の部員は、怖い話や意外に心暖まる話、はたまた切ない話など、各自それなりに練り込んだ幽霊話を仕上げていた。周囲が順調だから逆に、締め切りが近くなりヤナセ先輩の焦ること焦ること。ついには、執筆を担当していない後輩(サトシとユカラのことだ)をネタ集めに行かせるという暴挙に出た。
何でも、港の近くの古い歩道橋に幽霊が出るという噂があるので、町の人から情報収集してくれという。自分で行けばいいものを、もしかしたら天啓のように別の物語を思いつくかもしれないから、念のためキーボードの前を離れたくないのだとか。サトシからすれば迷惑なことこの上ない。
まして、割り当てられた相方が、およそ役には立ちそうにないユカラだし。
ユカラは使えない。彼女には友だちがいない。いつもあさっての方向を見て、ぶつぶつと独りで何かを呟いている不気味な女の子。
文芸部の中でもとにかく浮いた存在で、かつ当人はそのことを何も気にしていない。そもそも、彼女は他の部員とコミュニケーションを取る気などさらさらないようだ。
「噂話の聞き取りとか、できそう?」
試しにサトシが聞いてみると、彼女は目を逸らして、無理、と即座に答えた。
「普通の人は呼吸が合わないから苦手」
呼吸が合わないとはすごい言い草だ。ならどんな人なら呼吸が合うんだ、おまえは?
サトシは再びため息をつき、頭を抱えた。
彼女はあてにならない。男だけより男女二人の方が印象が良さそうだから連れてはいくけれど、独力で何とかするしかないか……。
*
あの港では昔、花火大会があったんだ。
あれ、聞いたことないの?
無理もないか。中止になってから、もう随分経つからね。
全国的に有名な催しではなかったけれど、この辺りでは、そこそこ人が集まるイベントだった。花火も綺麗だったよ、それはもう。特に最後の、ええと、スターマインっていうんだっけ? 連射で打ち上げられた花火が、空を埋めつくすやつ。あれはよかったな。一瞬、爆発的に空が輝く瞬間が最高だった。
でも、花火大会はなくなった。
開催が中止されたんだ。
儲からなかったからとか、そういうわけじゃないよ。事故が起きてしまったからさ。
死人が出た。そこの歩道橋でね。
だから、俺がチヅルに会ったのは、あの夏が最後だった。
*
私たち五人は、いつも一緒だったの。
別に、何か約束をしてたとか、狙ってやっていたわけじゃないんだけどね。
単に気が合ったのかな。映画に行ったり、バーベキューをしたり、小学校の頃から、中学高校も、気がついたらいつも五人一緒で。
だから何となく、このまま大人になってもずっと一緒にいられるような気がしてた。
でも違った。
チヅルだけ、仲間外れになっちゃった。あの子が一番寂しがりやだったのに。
あの日も、私たち五人は一緒に花火を見に行ったの。
蒸し暑い夜でね。チヅルは朝顔の柄の浴衣を着てた。あの子は小柄だから、まだ小学生みたいだねってからかわれて、口を尖らせて拗ねてた。その顔がまた可愛いくてさ。
でも、それがチヅルと過ごした最後の夜。
今でも忘れられないよ。あの子の悲鳴。
そう、私がチヅルの声を聞いたのは、歩道橋で聞いたあの悲鳴が最後だった。
*
僕が思うに、あれは人災だよ。
あの事故は起こるべくして起きた。歩道橋がボトルネックになることくらい、想定しておくべきだったんだ。警備は配置されていたんだから、きちんと誘導して、人の流れが滞らないようにしないといけなかったのにさ。
毎年、花火大会の夜はすごい混雑だったから。周辺一帯が人だらけ。なかでも歩道橋はひどかった。上は位置が高くなるから、花火がよく見えるせいで、どうしても足が止まるしね。階段を上るときは角度が悪くて空が見えないから急ぎがちになるし、逆に階段を降りるときはベストスポットを離れるわけだから、やっぱり足の動きがゆっくりになるし。
まあつまり、詰まって当然。
だから、危険なドミノの列が完成する前に手を打たなきゃいけなかったのに。
僕たちは、運が悪かった。
確かにあの事故は、いつ起きてもおかしくはないものだった。どこの誰の身の上にも。でもそれが自分たちの身に起こるなんて、やっぱり運が悪いとしかいいようがない。
本当はあの日、僕、チヅルに告白しようと思ってたんだ。うまくいっていたか、駄目だったかはわからない。あまりに友だち付き合いが長かったからね。何にしろ、今となってはわかりようがないよ。
事故のせいで僕らは離ればなれ、二度と告白なんてできなくなったわけだから。
本当に、運が悪い。ひどい話さ。
今でも覚えている。
遠くでさ、誰かが言ったんだ。
「危ない!」
僕はチヅルと顔を見合わせた。
歩道橋の上で、人混みに挟まれて、前にも後ろにも身動きのできない状態で。
チヅルは不安そうに僕を見て言った。
「え、何? 何があったの?」
「わからない。何だろう?」
それが僕とチヅルの、最後の会話だった。
*
あたしはさ、ちょっとチヅルに嫉妬してたんだよね。
あの子は小さくて可愛いから。のっぽでがさつなあたしとは大違い。やっぱり、男はチヅルみたいな女の子を好きになるんだよねって、いつも思ってた。あたしの髪は癖ばかりの猫っ毛で、でもチヅルの髪は綺麗に流れる黒髪で、見下ろして彼女の髪を撫でながら、いつも羨ましくて、妬ましかった。
でも、あの子のことは嫌いじゃなかった。
守ってやらないとって、いつも思ってた。もしかしたら、弱いやつだからあたしが庇ってやろう、みたいな優越感を持つことで、あの子への羨ましさや妬ましさをごまかしていたのかもしれないけれど。
「危ない!」
だから、そう遠くで誰かが言ったとき、あたしはすぐチヅルを庇おうとした。歩道橋の上は人がぎゅうぎゅう詰めになっていて、小さいチヅルはほとんど何も見えてない状態だったから。盾にならないと、と思って。
結局、うまくいかなかったんだけどね。
今思えば、あの「危ない!」って叫び声もよくなかったと思う。結果的には、あれが全ての引き金になったんだし。
いきなり「危ない!」って聞かされたら、みんな身構えたり、振り返ったり、予想外の動きをして当然。花火大会で大混雑した歩道橋でそんなことが起きれば、パニックの波紋が広がって、ドミノ倒しが起きるから。
そしてあの日は、ドミノ倒しが同時に二つの方向から起きてしまって。
人の壁に潰されて、死人が出た。
多分、チヅルは何もわかっていなかった。
何が起きたのかわからないまま、折り重なる人と人に押し潰されて、悲鳴を上げてた。
あたしは必死で彼女を守ろうとして、でも伸ばした腕はチヅルの身体を抱えてやることはできず、ただその髪に触れるばかりで、
あの、長い黒髪が、
いつも羨ましいと撫でていた髪が、
指の隙間をすり抜けて、
目の前で乱れて、ぐちゃぐちゃになって、
そう、それが、
あたしがチヅルに触れた最後だった。
*
今回の調査は失敗だったな、と歩道橋を見上げながらサトシは思う。
噂話の聞き取りは、正直あまりうまくいかなかった。考えてみたら当然だ。幽霊が出るなんて不吉な話、その近所に住んでいる人が好んで喋りたがるわけがない。
辛うじてサトシが聞けたのは、かつて港で花火大会があって、それを見に集まった人たちが大混雑になり、歩道橋でドミノ倒しが起きて、死人が出てしまったということ。
これは駄目だ。気軽に学生の文集のネタにしていい内容じゃない。話が重すぎる。
実際の事故を想起させないよう、徹底的に別物語にすればいいかもしれないけれど、多分ヤナセ先輩にはそこまで話を練り込む時間がない。サトシは今日何度目かのため息をついた。残念、無駄足だったな、これは。
そういえば、肝心の幽霊がどうのという話は、結局聞くことができなかった。ヤナセ先輩はどこでそんな噂話を聞いたのだろう?
ちなみにユカラは役に立たなかった。
いつものように、あさっての方向を見てぶつぶつ独り言を呟いていただけ。知らない間に歩道橋の途中で座っていたり、振り返ると随分後ろで立ち止まっていたりと猫のように気ままで、サトシも途中で諦めて好きにさせておいた。すがすがしいほど予想通りだったから、別に腹も立たない。
もう帰ろうか、とサトシが現場から撤収をしかけたそのとき、歩道橋のすぐ近くで小さなトラックが止まった。荷台に花のマーク、花屋の車のようだ。おや、と思う。そういえば、歩道橋のすぐ近くにこじんまりとした花壇があって、どうやら花屋はそこに植えられている花の手入れをしにきたらしい。
車から降りたのは、背の高い男性だった。
「すみません、ちょっといいですか」
サトシが声をかけると、彼はこちらを振り向いた。年齢は三十代の後半くらい。優しそうな顔をしている。
「おや、何だい?」
「お聞きしたいことがあるんですが」
花壇のことを聞くと、半ば予想通り、これはここで起きた事故の被害者を弔うために造られたものだよ、と痛ましげな顔で男性は言った。彼は歩道橋を見上げて、
「実は、僕の妹も事故に巻き込まれてね」
「そうだったんですか」
「この花壇も、彼女の希望で作ったものだ」
相手は少し肩をすくめて言葉を続ける。
「本人は未だここには来られないけど」
「事故のトラウマってやつですか」
「そう。だから僕が妹の代理をしている」
話をしていると、辺りをふらふらしていたユカラが、いつの間にかサトシの隣に戻ってきていた。彼女はいきなり口を開く。
「妹さんの名前、チヅルさん、ですか?」
「え? ああ、よく知っているね」
花屋の男性は戸惑いながらうなずく。サトシはびっくりした。チヅルって、どこからその名前が出てきたんだ?
こちらの驚きを無視して、ユカラは静かに言葉を続ける。
「チヅルさんの友人が亡くなったのね?」
「うん。彼女を庇って、四人が同時にね」
妹はそのときの恐怖と後悔がよみがえってしまうから、亡くなった友人たちに花を供えたくても、どうしてもこの歩道橋の近くに来られないんだ、と花屋の男性は哀しそうに言った。サトシは慌ててユカラの耳元で囁く。
「何それ、おまえ、どこで聞いたの?」
ユカラは歩道橋を振り返って言う。
「さっき、ここで」
「いやいや、誰もいなかっただろ?」
「いたよ。四人ほど」
あたしね、とユカラは小声で呟く。
「呼吸してない人の話を聞くのは得意なの」
最悪だ。サトシは深々とため息をつく。
よりによって、社交性ゼロの女の子と、町の人に話を聞いて回ることになるなんて。
全ての発端は、文化祭に出す文集だ。
サトシの所属する文芸部は毎年、創作文集を出す。部員はみんな発行のため何か役割を与えられるけれど、それは書くことに限定されるわけではない。サトシは本が好きでも自分で文章を書きたい側ではなかったので、入部した昨年から、制作側に回っていた。原稿を集めたり、印刷の手配をしたり。
ところが、執筆者側に問題が発生した。
スランプ。他ならぬ部長のヤナセ先輩が、書きたいのに書けない、ネタが浮かばない、と悶絶する事態に陥ったのである。
今回の文集のテーマは「幽霊」。
他の部員は、怖い話や意外に心暖まる話、はたまた切ない話など、各自それなりに練り込んだ幽霊話を仕上げていた。周囲が順調だから逆に、締め切りが近くなりヤナセ先輩の焦ること焦ること。ついには、執筆を担当していない後輩(サトシとユカラのことだ)をネタ集めに行かせるという暴挙に出た。
何でも、港の近くの古い歩道橋に幽霊が出るという噂があるので、町の人から情報収集してくれという。自分で行けばいいものを、もしかしたら天啓のように別の物語を思いつくかもしれないから、念のためキーボードの前を離れたくないのだとか。サトシからすれば迷惑なことこの上ない。
まして、割り当てられた相方が、およそ役には立ちそうにないユカラだし。
ユカラは使えない。彼女には友だちがいない。いつもあさっての方向を見て、ぶつぶつと独りで何かを呟いている不気味な女の子。
文芸部の中でもとにかく浮いた存在で、かつ当人はそのことを何も気にしていない。そもそも、彼女は他の部員とコミュニケーションを取る気などさらさらないようだ。
「噂話の聞き取りとか、できそう?」
試しにサトシが聞いてみると、彼女は目を逸らして、無理、と即座に答えた。
「普通の人は呼吸が合わないから苦手」
呼吸が合わないとはすごい言い草だ。ならどんな人なら呼吸が合うんだ、おまえは?
サトシは再びため息をつき、頭を抱えた。
彼女はあてにならない。男だけより男女二人の方が印象が良さそうだから連れてはいくけれど、独力で何とかするしかないか……。
*
あの港では昔、花火大会があったんだ。
あれ、聞いたことないの?
無理もないか。中止になってから、もう随分経つからね。
全国的に有名な催しではなかったけれど、この辺りでは、そこそこ人が集まるイベントだった。花火も綺麗だったよ、それはもう。特に最後の、ええと、スターマインっていうんだっけ? 連射で打ち上げられた花火が、空を埋めつくすやつ。あれはよかったな。一瞬、爆発的に空が輝く瞬間が最高だった。
でも、花火大会はなくなった。
開催が中止されたんだ。
儲からなかったからとか、そういうわけじゃないよ。事故が起きてしまったからさ。
死人が出た。そこの歩道橋でね。
だから、俺がチヅルに会ったのは、あの夏が最後だった。
*
私たち五人は、いつも一緒だったの。
別に、何か約束をしてたとか、狙ってやっていたわけじゃないんだけどね。
単に気が合ったのかな。映画に行ったり、バーベキューをしたり、小学校の頃から、中学高校も、気がついたらいつも五人一緒で。
だから何となく、このまま大人になってもずっと一緒にいられるような気がしてた。
でも違った。
チヅルだけ、仲間外れになっちゃった。あの子が一番寂しがりやだったのに。
あの日も、私たち五人は一緒に花火を見に行ったの。
蒸し暑い夜でね。チヅルは朝顔の柄の浴衣を着てた。あの子は小柄だから、まだ小学生みたいだねってからかわれて、口を尖らせて拗ねてた。その顔がまた可愛いくてさ。
でも、それがチヅルと過ごした最後の夜。
今でも忘れられないよ。あの子の悲鳴。
そう、私がチヅルの声を聞いたのは、歩道橋で聞いたあの悲鳴が最後だった。
*
僕が思うに、あれは人災だよ。
あの事故は起こるべくして起きた。歩道橋がボトルネックになることくらい、想定しておくべきだったんだ。警備は配置されていたんだから、きちんと誘導して、人の流れが滞らないようにしないといけなかったのにさ。
毎年、花火大会の夜はすごい混雑だったから。周辺一帯が人だらけ。なかでも歩道橋はひどかった。上は位置が高くなるから、花火がよく見えるせいで、どうしても足が止まるしね。階段を上るときは角度が悪くて空が見えないから急ぎがちになるし、逆に階段を降りるときはベストスポットを離れるわけだから、やっぱり足の動きがゆっくりになるし。
まあつまり、詰まって当然。
だから、危険なドミノの列が完成する前に手を打たなきゃいけなかったのに。
僕たちは、運が悪かった。
確かにあの事故は、いつ起きてもおかしくはないものだった。どこの誰の身の上にも。でもそれが自分たちの身に起こるなんて、やっぱり運が悪いとしかいいようがない。
本当はあの日、僕、チヅルに告白しようと思ってたんだ。うまくいっていたか、駄目だったかはわからない。あまりに友だち付き合いが長かったからね。何にしろ、今となってはわかりようがないよ。
事故のせいで僕らは離ればなれ、二度と告白なんてできなくなったわけだから。
本当に、運が悪い。ひどい話さ。
今でも覚えている。
遠くでさ、誰かが言ったんだ。
「危ない!」
僕はチヅルと顔を見合わせた。
歩道橋の上で、人混みに挟まれて、前にも後ろにも身動きのできない状態で。
チヅルは不安そうに僕を見て言った。
「え、何? 何があったの?」
「わからない。何だろう?」
それが僕とチヅルの、最後の会話だった。
*
あたしはさ、ちょっとチヅルに嫉妬してたんだよね。
あの子は小さくて可愛いから。のっぽでがさつなあたしとは大違い。やっぱり、男はチヅルみたいな女の子を好きになるんだよねって、いつも思ってた。あたしの髪は癖ばかりの猫っ毛で、でもチヅルの髪は綺麗に流れる黒髪で、見下ろして彼女の髪を撫でながら、いつも羨ましくて、妬ましかった。
でも、あの子のことは嫌いじゃなかった。
守ってやらないとって、いつも思ってた。もしかしたら、弱いやつだからあたしが庇ってやろう、みたいな優越感を持つことで、あの子への羨ましさや妬ましさをごまかしていたのかもしれないけれど。
「危ない!」
だから、そう遠くで誰かが言ったとき、あたしはすぐチヅルを庇おうとした。歩道橋の上は人がぎゅうぎゅう詰めになっていて、小さいチヅルはほとんど何も見えてない状態だったから。盾にならないと、と思って。
結局、うまくいかなかったんだけどね。
今思えば、あの「危ない!」って叫び声もよくなかったと思う。結果的には、あれが全ての引き金になったんだし。
いきなり「危ない!」って聞かされたら、みんな身構えたり、振り返ったり、予想外の動きをして当然。花火大会で大混雑した歩道橋でそんなことが起きれば、パニックの波紋が広がって、ドミノ倒しが起きるから。
そしてあの日は、ドミノ倒しが同時に二つの方向から起きてしまって。
人の壁に潰されて、死人が出た。
多分、チヅルは何もわかっていなかった。
何が起きたのかわからないまま、折り重なる人と人に押し潰されて、悲鳴を上げてた。
あたしは必死で彼女を守ろうとして、でも伸ばした腕はチヅルの身体を抱えてやることはできず、ただその髪に触れるばかりで、
あの、長い黒髪が、
いつも羨ましいと撫でていた髪が、
指の隙間をすり抜けて、
目の前で乱れて、ぐちゃぐちゃになって、
そう、それが、
あたしがチヅルに触れた最後だった。
*
今回の調査は失敗だったな、と歩道橋を見上げながらサトシは思う。
噂話の聞き取りは、正直あまりうまくいかなかった。考えてみたら当然だ。幽霊が出るなんて不吉な話、その近所に住んでいる人が好んで喋りたがるわけがない。
辛うじてサトシが聞けたのは、かつて港で花火大会があって、それを見に集まった人たちが大混雑になり、歩道橋でドミノ倒しが起きて、死人が出てしまったということ。
これは駄目だ。気軽に学生の文集のネタにしていい内容じゃない。話が重すぎる。
実際の事故を想起させないよう、徹底的に別物語にすればいいかもしれないけれど、多分ヤナセ先輩にはそこまで話を練り込む時間がない。サトシは今日何度目かのため息をついた。残念、無駄足だったな、これは。
そういえば、肝心の幽霊がどうのという話は、結局聞くことができなかった。ヤナセ先輩はどこでそんな噂話を聞いたのだろう?
ちなみにユカラは役に立たなかった。
いつものように、あさっての方向を見てぶつぶつ独り言を呟いていただけ。知らない間に歩道橋の途中で座っていたり、振り返ると随分後ろで立ち止まっていたりと猫のように気ままで、サトシも途中で諦めて好きにさせておいた。すがすがしいほど予想通りだったから、別に腹も立たない。
もう帰ろうか、とサトシが現場から撤収をしかけたそのとき、歩道橋のすぐ近くで小さなトラックが止まった。荷台に花のマーク、花屋の車のようだ。おや、と思う。そういえば、歩道橋のすぐ近くにこじんまりとした花壇があって、どうやら花屋はそこに植えられている花の手入れをしにきたらしい。
車から降りたのは、背の高い男性だった。
「すみません、ちょっといいですか」
サトシが声をかけると、彼はこちらを振り向いた。年齢は三十代の後半くらい。優しそうな顔をしている。
「おや、何だい?」
「お聞きしたいことがあるんですが」
花壇のことを聞くと、半ば予想通り、これはここで起きた事故の被害者を弔うために造られたものだよ、と痛ましげな顔で男性は言った。彼は歩道橋を見上げて、
「実は、僕の妹も事故に巻き込まれてね」
「そうだったんですか」
「この花壇も、彼女の希望で作ったものだ」
相手は少し肩をすくめて言葉を続ける。
「本人は未だここには来られないけど」
「事故のトラウマってやつですか」
「そう。だから僕が妹の代理をしている」
話をしていると、辺りをふらふらしていたユカラが、いつの間にかサトシの隣に戻ってきていた。彼女はいきなり口を開く。
「妹さんの名前、チヅルさん、ですか?」
「え? ああ、よく知っているね」
花屋の男性は戸惑いながらうなずく。サトシはびっくりした。チヅルって、どこからその名前が出てきたんだ?
こちらの驚きを無視して、ユカラは静かに言葉を続ける。
「チヅルさんの友人が亡くなったのね?」
「うん。彼女を庇って、四人が同時にね」
妹はそのときの恐怖と後悔がよみがえってしまうから、亡くなった友人たちに花を供えたくても、どうしてもこの歩道橋の近くに来られないんだ、と花屋の男性は哀しそうに言った。サトシは慌ててユカラの耳元で囁く。
「何それ、おまえ、どこで聞いたの?」
ユカラは歩道橋を振り返って言う。
「さっき、ここで」
「いやいや、誰もいなかっただろ?」
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あたしね、とユカラは小声で呟く。
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