シャイロック

大秦頼太

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シャイロック 32

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32

 そこはかつて観光ホテルだったようだ。窓ガラスは全て砕けて地面に落ちていた。むき出しのコンクリートが、今はもうただの廃墟であることを語っていた。
 シュウジは正面の入り口から入っていく。入り口を入ると人影が二つシュウジを迎えた。
「遅かったな。車は?」
 返事をしないシュウジを不審に思ったのか、男たちは携帯電話を取り出して電源を入れる。男たちの顔が光に照らされる。その光をシュウジに向かって反転させる。突き出されたギプスの両腕にボールペンが握られていた。

 カチカチカチカチカチカチカチカチカチ。

 二人の男が震えながら埃だらけの地面に転がる。しばらく痙攣を続けた二人は、すぐに動かなくなった。
「あと五人」

 ベッドの上で天井を見上げるテルハは、入り口の方にいる片腕の男を見た。
「これ、外してくれないの?」
 テルハが頭の上の縄を解くように訴えても、片腕の男は、残された左腕で右腕の付け根を掻くだけだった。
 テルハの言葉は届いていない。この男の中にあるのはシュウジへの憎しみだけだった。
 そうはさせない。ここから戻ったら、シュウジに連絡をしてここに来てはいけないと伝えるのだ。
 ザザザザ。近くにあったラジオが壊れて雑音が入りだした。あわてて頭の中の音量を下げる。
 何かが起きている。
 テルハ。
 誰かが僕を呼んだ。それはとても強い衝撃だった。そして、また全てのラジオが停止した。

 カチ。
 階段付近で音楽を聞いていた男が、ゆっくりと階段に倒れこむ。その脇をシュウジが上っていく。
「あと四人」

 どうしよう。シュウジが来てしまった。それなのに僕はまた何も聞こえなくなってしまった。シュウジが呼ぶ声に応えることも出来無い。
「アスパラガスは白い方が上手いよな。俺はニラの方が好きだけど」
 片腕の男が口を開いた。腰から鋭い両刃のナイフを抜くと、部屋の中でも特に暗い隅へと消えていく。入り口から入ってきたら、まず気がつかないだろう。

 階段を上りきると広い空間に出る。奥の明るいところに三人の男がいる。
 キャンプ用のランタンの明かりの中で、どこからか持ってきた汚いソファーに寝転がってマンガ雑誌を読んでいる。フォークでカップラーメンをすすりながら、近づいてくるシュウジに気がつくものもいる。もう一人は、ビデオカメラの小さなモニターを食い入るように見つめていた。
「誰だ? お前」
 シュウジは後ろから声をかけられて一瞬硬直した。振り返ると、角材を握った男がそれを振りかぶっている。シュウジは両腕のギプスを盾にしてそれを受ける。痛みで右手のボールペンが階段の下に吸い込まれていく。
 雄たけびのような悲鳴が廃墟に響いた。
 カチカチカチカチ。
 角材男が胸を押さえる。シュウジは角材男を階段の下に押し倒す。
 その間にすっかり明かりの中の三人は体制を整えていた。マンガの男はナイフを握り、ビデオの男は鉄パイプ。カップヌードルの男はフォークを握って立ち上がる。
 右手でズボンのポケットからボールペンを引き抜く。落とさないように慎重に。
 一番最初に飛び出してきたのはナイフの男だった。
 シュウジは突き出した右手のボールペンを二度鳴らす。ナイフの男は両目を押さえて勢いを落とす。その後ろから鉄パイプの男が飛び掛ってくる。
 シュウジは歯を食いしばりながら、両手のボールペンを打ち鳴らす。鉄パイプの男の頭部があっという間に骨に変わっていく。それをフォークの男が見て足を止めてしまう。
 ナイフの男は、腕を振り回し始める。そしてそのまま足を踏み外して階段を転げ落ちる。激しい衝突音とうめき声が聞こえてくる。それも程なくして消える。
「女はどこだ?」
 フォークの男は震えながら奥をチラ見する。
「知らない」
 男はフォークを投げ捨てて、両手を上げて跪く。
「頼む! 助けてくれ」
 シュウジは腕を下げる。そのままボールペンを打ち鳴らす。フォークを持っていた男は前に向かって崩れ落ちた。
「八人目!」

 無音。時間の経過すらわからなくなる。僕は入り口が開かれるときを待っている。開かれた瞬間、「後ろ!」と叫べば、気がついてくれるはずだ。でも、今のままでは、全然別のことを言ってしまうだろう。そんなことになったら、君は殺されてしまう。
 目を瞑り、ラジオを探す。闇の中にラジオは一台も見つからない。焦れば焦るだけ集中することが出来なくなる。
 やり方が違う。もう一度始めから。でも、そんな時間はない。やるしかない。もう無理。あきらめないでがんばるしかない。
 力を使うと言うことがどういうことなのか、まるでわからなかった。空気を吸うように、歩くように他人の心の中を、頭の中を覗くことができたはずなのに、一番大事なところで使うことが出来無い。しかもそのためにまともに話すことも出来ないなんて。こんな力いらない。必要ない。僕は、声を出したい。君の声を聞いて、君に伝えたい。たったそれだけなのに、人と違う力が僕を不幸にした。この力は、僕を苦しみの底に落とす闇の力だ。
 僕は、君を守りたい。君を失いたくないんだ。
 こんな力、いらないんだ! ただ一言の声があればそれで良い。

 入り口の毛布が引き剥がされた。右手に蛍光の明かりを持ったシュウジが部屋の中に現れる。
 部屋の中にいるテルハを見つけ、シュウジは駆け寄ろうとする。
 テルハがシュウジの後ろを見ている。
「後ろよ! もう一人いるわ!」
 テルハの声が、シュウジを素早く振り向かせる。飛び掛ってくる男がいた。ランタンが床に落ち、振り上げた右腕の下を硬い何かが滑り落ちていく。
 両刃のナイフがシュウジの胸に突き落とされた。膝を突くシュウジの左手からボールペンが零れ落ちていく。
「借りは返したぞ……」
 片腕の男は左腕でシュウジを押し倒す。シュウジは天井を仰ぎながらそのまま床に倒れこんだ。埃が、シュウジの周りを包む。
「若林?」
「覚えててくれたか。お前が福島さんを殺すから、俺は泥水を舐める羽目になった。だが、それも今日までだ」
 シュウジの目が床に落ちたボールペンを探す。視界の中にボールペンは映らなかった。
「こいつを引き抜けば、お前は大量出血をして死ぬ」
 若林はシュウジの胸のナイフを握る。
「お願いやめて」
 テルハが、懇願する。
「心配するな。お前も送ってやるからよ。お前ら恋人同士なんだろ? 俺はそういう奴らを嬲り殺したかったんだよ」
 若林の左手に力が入る。刺し傷から赤い血がゆっくりと、そして強く流れ出てくる。
「あっちで福島さんによろしくな。もし会えたらイタリアンバカって言っといてくれよな」
 若林がナイフを引き抜くと同時にシュウジの胸から真っ黒な血があふれ出した。噴水のように吹き上がる黒い液体に若林が驚きの声を上げる。始めは楽しげに笑っていたが、その量がまともではないことを知ると急に怯え出した。
「こんなバカみたいな量の血があるかよ」
 ミシミシミシッ!
 木の幹が避けるような音が部屋の中に響く。音の先には、あふれ出す血の黒よりも真っ黒な裂け目があった。深い闇の渓谷。ミシミシミシ……。裂け目はどんどん大きくなる。若林は恐ろしくなってナイフをもう一度シュウジの胸に突き刺そうと振り下ろす。
 闇の渓谷から現れた真っ白な左腕が、若林のナイフを受け止める。ミシミシミシ。渓谷はシュウジの胸を割り、また誰かの右腕が現れる。やがて肩が見え、首から頭が裂け目の外へ出てくる。上半身が現れ、裸の男が崖を這い上がってきたようにコンクリートの床の上に降り立った。
 若林は、ナイフを手放した。
 闇の裂け目から一人の男がすっかりと姿を現していた。真っ黒な血に濡れた体が、若林に近づいていく。
「……福島さん」
 福島は左手を伸ばす。
「お、俺……」
 パチン。
 福島の指が弾かれた瞬間、若林が痙攣して床に倒れた。
「福島……」
 胸を押さえながらシュウジは立ち上がろうとする。
「よう」
 シュウジは床に転がるボールペンを見つけて飛び掛るように拾い上げると。力いっぱい連打する。

 カチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチ……。

 福島に変化は無かった。驚くシュウジに向かって福島は笑う。
「悪いな。これは俺が貰う」
 福島は若林から服を毟り取ると、それに身を包む。
「安物着やがって、体がかゆくなるぜ」
 そのまま部屋から出て行こうとする。
「何で?」
 福島の足が止まる。
「何で? 馬鹿なこと聞くなよ。誰かが決めたルールになんて、俺は従わない。俺は俺のルールで生きていく。それだけさ」
 高らかな笑い声を上げて福島は闇の中に消えていった。その声が聞こえなくなると、シュウジはテルハを振り返る。
「テルハ!」
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