シャイロック

大秦頼太

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シャイロック 29

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 鳴り止まないサイレン。揺れる大地。見知らぬ男がこっちを見下ろしている。動かない体。サイレンの中に溶け込む言葉から意味を拾い上げることは出来なかった。まぶたが重く、もう持ち上げていることが出来なかった。

 シュウジが目を開く。クリーム色のカーテンに囲まれたベッド。両腕にギプスがつけられている。かろうじて親指が出ているだけだった。体にかかっていたシーツを親指に引っ掛けて剥ぎ取ると、薄いブルーの患者衣に身を包まれていた。そのまま体を起こして、カーテンを開く。
 大きな窓があり、外が昼であることを教えてくれた。
「目が覚めたんですか?」
 後ろから聞こえた声に身構える。カーテンをあけ切った女性看護師が笑っている。
「ここは病院ですよ」
「病院」
 行かないと。
 看護師を追い越して廊下に出ようとする。看護師はあわててシュウジの腕を取り、引き止める。シュウジの顔がゆがむ。
「あ、ごめんなさい。でも、どこに行くんですか?」
 どこに?
 シュウジの足が止まる。
 どこに……。テルハを探しに行かなければならない。だが、彼女がどこにいるのかわからない。
「一応規則ですから、しばらくここにいてもらえますか?」
「規則?」
「身元不明者は警察に連絡するようになってるんです」
 よくない流れを感じた。ここで警察なんかの相手をしていれば、時間だけが無駄に過ぎていくに決まっている。
「身元不明だって?」
 シュウジは大げさに驚いて見せた。
「電話貸してくれない? 家に電話するよ。大げさなことはしないでくれ」
 看護師は少しだけ安心したようだ。
「案内するわ」

「……もしもし、マサコか? ああ、俺。シュウジ。みんな無事だったか? あぁ、俺は大丈夫。おばさんは? そうか……」
 受話器に話しかけるシュウジのその後ろで看護師がにこやかな笑顔を向けている。きっとこの看護師の頭の中ではおめでたいストーリーが進行している事だろう。
「それで、悪いんだけど身元不明って事で病院に運ばれちまってさ。すまない。え? 小包? 中身は? いい。開けずに持ってきてくれ。ここは……」
 シュウジは辺りを見回す。
「山東病院よ」
 看護師が視界に入り込んでくる。胸のプレートには米村と書いてあった。
「どうも……。山東病院だって。うん、待ってる」
「妹さん?」
 そんなもんですよ。シュウジはそう答えて受話器を下ろす。左手を見る。とんでもない不器用な奴が作った不細工なミトン。おいおい、親指が出てるじゃないか。失敗作を人に押し付けるなよ。
 米村看護師は側にあった長椅子にシュウジを促す。シュウジは逆らわずにそこに腰を下ろす。
 手がかりが無い。武器も無い。手がこの状態では、指を鳴らすことが出来無い。だから、仕方がない。テルハが誰かにさらわれたことは確かだ。おそらくは後藤田の部下だろう。だとすれば、それは俺のミスだ。本当にそうか? 殺すのは後藤田一人のはずだった。それを俺はテルハを救いに行った。何故だ? 当たり前だろう。当たり前じゃない。まだ報酬を貰ってなかったからだ。そう、今もそうだ。だから助ける。それが正解だ。
「嘘じゃないわよね?」
 急にシュウジを覗き込む米村看護師に驚くが、彼女にはシュウジの心を覗く力は無いはずだ。
「俺、施設の育ちなんだ」
 米村看護師が小さな声で「ぁ」と言った。この反応も懐かしいものだった。これを聞くと、大抵のやつらはイコール可哀相な奴というレッテルを貼る。施設暮らしが可哀相なんじゃない。そういう思考しか出来無い奴が可哀相なんだ。
「だからって、施設を飛び出してケンカをしてここに運ばれたわけじゃないよ」
 シュウジの説明に米村看護師は少し残念そうな顔をした。おそらく半分以上は似たようなことを妄想していたに違いない。
 嘘だ。
 シュウジは胸を押さえる。
「どうしたの? 胸が苦しいの? そこにも怪我してるの?」
 米村看護師の問いに首を横に振る。これは、医者には治せない。俺の問題だ。
 そうだ。お前の問題だ。お前は嘘をついている。違う。嘘なんかついていない。いや、嘘だ。
 カチ。カチッ。
 廊下を通り過ぎる看護師がノック式のボールペンを取り出して、ファイルに何かを書き込んでいく。いつまでもその姿に見とれていると、米村看護師がにやけながらシュウジを肘でつつく。
「なあに? ああいう人がタイプ? 最近の子は、ませてるなぁ。えへへ、お姉さんが紹介してあげようか?」
「ち、ちがうよ」
「顔、赤いわよ」

 ヨシエおばさんとマサコが来た。ヨシエおばさんは、目を真っ赤に晴らしたまま俺を抱きしめた。小さな声で、何度も「ゴメンネ」とつぶやいていた。
 悪いのは、おばさんじゃないのに。
 手続きを済ませると、三人でタクシーに乗り込んだ。
 助手席にシュウジが乗り、マサコとヨシエが後ろに乗った。無言が続く車内の中、シュウジははマサコから小包を受け取る。開けてみると、中にはDVDが一枚入っていた。その表面にマジックで敵は全部で八人だ。と書いてあった。
「園には、DVDのプレイヤーってあったっけ?」
「ない」
 マサコが即答する。
「そうか」
「ネッカならあるんじゃない?」
 ヨシエが会話に参加してくる。
「なあに? ネッカって」
「ネットカフェ。略してネッカ」
「ネカフェって略さないの?」
「何? ネカフェって。お母さん、それじゃあ寝てるカフェみたいじゃないの」
「ああ、そうね。シュウちゃんはどっち?」
「ネカフェ」
「ほら」
 マサコがむっとして、運転席のヘッドレストをつかむ。
「運転手さんは?」
 年配の運転手は、苦笑いをする。
「私たち、そういう世代じゃないんで」
 やんわりと逃げ込む。マサコは鼻息荒く後部座席にふんぞり返る。
「近くにネカフェありますか?」
「ネッカ」
 マサコが即訂正に入る。
「ネッカ」
「シュウちゃん」
「見たら園に帰るから、心配しないで」
「嘘」
「戻るよ」
「嘘だね」
「マサコ」
「だって……」
「今度は戻るよ」
「そうね。待ってるわ」
「お母さん! ダメよ」
「マサコ、シュウちゃんはいつでも私たちを助けてくれたでしょ? だったら、私たちは信じて待ってるしかないの」
「でも」
「デモもストもなし」
「なにそれ、つまんない」
 タクシーが停車する。
「ありましたよ。ネカフェ」
「ネッカ!」
 マサコがタクシーの中で叫んだ。
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