シャイロック

大秦頼太

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シャイロック 22

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22

 目を開けると鈍い明かりが目に入ってくる。薄ら明かりの中で何度か見たことがある風景がそこにあった。
 シュウジは二段ベッドの下の段から這い出ると、その縁に座り込む。備え付けの壁掛け時計を見ると十時を回ったところだった。
 パタタッ。
 灰色のカーペットの上に黒い染みが広がる。シュウジは右手で鼻を押さえる。指の隙間から血が染み出してくる。その量が劇的に増し、シュウジは咳き込むように部屋の中に血を吐き出す。フラフラと立ち上がると、カーペットから外れ木の床の上に出来た血だまりに足を取られてその上に転がる。
 血はすぐに固まっていく。
 シュウジは溶けたアスファルトのような赤黒いカーペットの上に起き上がる。もう血は出てこなかった。
 なんだ? 何が起こっているんだ?
 考えてもわからないことを考えるのは、不安を募らせるだけだった。だが、それでも考えずにはいられない。考えている間だけは、意味のわからない恐怖から逃れていられる。思考を止めたときに、奴らは襲い掛かってくるのだ。
 時計の進む音がする。カーテンの隙間からは陽の光も見えた。それにしてはおかしい。昼の十時なのにこんなに静かだなんて。子供たちが騒いでいても良いはずなのに。
「お前が殺したんだ」
 急に聞こえた声に驚いて振り返る。ベッドの下の段には誰もいない。上の段を覗く。そこにも誰もいない。
「マサコもヒロキもヨシエおばさんもここに集まってくるガキも、みんなお前が殺したんだよ」
 血のついたシャツをめくると、胸の痣が大きく黒ずんでいる。そこに深い闇が穴を開けていた。声はそこから洩れてきていた。
「見ろよ。お前は肉だけじゃなく、血も取り込んだんだ。だが、俺は血は好きじゃない。鉄のにおいがたまらなく嫌なんだ。小学校の頃を覚えていないか? 鉄棒をした後に手の臭いをかぐと、鉄の臭いがするだろう? 俺は鉄の臭いをかぐと、あの頃の嫌な思い出を思い出すんだ。友達が誰もいなかったあの時代を。だから、俺は血を切り取りはしない。切り取るのは肉だけさ。血は何で鉄の臭いがするのか知っているか? 血は酸素を運ぶのに鉄を利用してるからなんだとよ。あぁ、なんだ。知ってたか。だけどどうせなら、水にすればよかったのにな。そうすれば、献血なんて要らなくなるぜ。水道水で十分だからな。お偉い政治家先生になると、きっと日本の名水百選に選ばれたような水が流れてるんだぜ。いや、ひょっとすると泥水かも知れねえが」
 シュウジは胸の痣を押さえる。声は聞き取れないほど小さくなった。
 時計を見る。さっき見たときから一分程度しか経っていない。その割には体は疲労していた。
 ドアに向かって歩き出すと、足にカーペットが張り付いてきた。姿勢を崩し両手を床につける。
「……と言うことなのさ。よろしくな」
 声はそれきり聞こえなくなった。
 ドアが開く。マサコが床やカーペットの血を見て悲鳴を上げた。
「大丈夫だ」
 シュウジは起き上がる。手についた血をこすり合わせて落とす。
「俺の血じゃない」
 オレノチジャナイ。じゃあ、誰の血だって言うんだ。殺してきた連中の血か? 切り取るのは肉だけのはずだった。これはレベルアップのせいか? それとも何か違っていたのか。
 風呂を借りるぞ。と言って、マサコの横をすり抜ける。廊下に出ると、見慣れた顔と見たことのない子供の顔があった。シュウジが顔を向けると、ほとんどの子供が逃げていった。
「悪い。後で掃除するから」
 つぶやきながら風呂場を目指す。共同浴場は男子トイレと女子トイレの真ん中にある。
途中で引っかかる引き戸をすり抜けて脱衣場にたどり着くと、血のついた服を脱ぎ捨てる。胸の痣は、今は青紫で十円玉位の大きさだった。何度さすっても鈍い痛みがあるだけで穴は開いていない。
 改めて脱衣所の鏡を見ると、右目の下から鼻にかけて黄色くなっている。腫れてはいなかった。顔をさすりながら浴場へ向かう。
 シャワーの蛇口をひねると、冷たい水が勢いよくシュウジに降り注いでくる。そのせいで呼吸が荒くなる。
 昼間はボイラーのスイッチを入れてないんだ。
 だが、水の流れから外には出ない。身が縮む感覚だが、頭ははっきりしてくる。思い出せ。思い出すんだ。何で俺はここにいる? あのおでこ女はどうなった?
 蛇口をさらにひねりシャワーの勢いを倍化させる。肌を押す水圧が、シュウジの体を強く叩き続ける。

 事務所を出て、階段を降り、街を歩き、駅にたどり着いた。駅の構内を歩いていると突然、頭痛と吐き気に襲われた。床に倒れこむと、光が目の前に下りてきて、それ以外何も見えなくなった。ざわつく周囲の声や物音が混乱に拍車をかけた。体が震えだす。想像を絶する痛みに、もだえ苦しみ様は周囲から見れば狂人の舞にしか見えなかっただろう。
「落ち着いて。僕の声だけを聞いて」
 テルハの声がして、誰かに右手がつかまれる。暴れる左手が鞭のように何度も何かを叩くが、それは俺の手を離さなかった。やがて、その左手も押さえ込まれた。
 ざわつく人や物の音が痛みと重なり合い世界の終わりはもうそこまで来ているようだった。出来ることなら、今すぐ世界が終わればいいとさえ思った。
「ちょっとすいません。シュウちゃん? シュウちゃん!」
 ヨシエおばさんの声がして、白い光の中に何もかもが溶けていった。

 不意に体を突き刺す水が湯に変わった。湯気が辺りを包んでいく。
 誰かがボイラーに火を入れたのか。きっと、マサコだろう。体に熱が伝わってくる。こびりついた血がゆっくりと落ちて行く。流れるうっすらと赤い水が排水溝の中へ吸い込まれていく。空気を道連れに苦しみの叫びが聞こえてくるようだった。
「会いに行こう」
 まずは和也の携帯を充電する。それから和也の彼女に電話をする。彼女に会って、和也の死を伝えよう。
 なんと言われるだろうか。きっと、非難される。責められる。人殺しと罵られる。和也を返してと物を投げつけられるかもしれない。
 それでもいい。俺が和也を殺したんだ。彼女には、俺を殺す権利がある。
 蛇口を閉める。
 頭を振って水を飛ばす。
「次は犬にでも生まれ変わろうかな」
 脱衣所に戻ると、側にあったタオルをつかむ。
 ヒロキが入り口からシュウジを見ていた。
「おじさん。誰?」
 シュウジはぞっとして鏡を振り返った。そこには、別段変わらない自分の姿があった。もう一度振り返ると、ヒロキの姿はもう無かった。
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