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シャイロック 19
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岩崎が牧野に渡したのは、ぬるい缶コーヒーが一本だった。
凶悪犯が出たら、こいつを後ろから撃ち抜いてやろう。いや、銃を抜く振りをして、凶悪犯に銃を渡してしまう方がいいか。いや、そうすると他の連中に当たるかもしれない。やはり自分で撃ち殺してやろう。
牧野は不適に笑った。岩崎が相変わらずの高い声で話しかけてくる。
「グッフィーが見つかったんだよ」
電話で聞いた。だからこうして戻ってきたんじゃないか。お前は鳩か鶏か?
「それは良かったです」
「だよねー。これで僕の株も上がるなぁ」
部下の手柄は上司の手柄。実にシンプルでわかりやすいシステムだ。それだけにこのやるせなさは超巨大隕石級だ。
「牧野君って、死体を見たことある?」
「ありますよ」
初めて死体を見たのは、三歳くらいだった。あれは、
「でねぇ」
調子の外れた声で人の回想に割り込んでくるな。
「これから死体を見に行くんだけど、運転してくれない?」
「いいですよ」
殺人事件の現場だ! いよいよ刑事のレールに乗ったようだ。俺もまだあきらめるにはまだ早い系の熱い人間なのだ。
「現場はどこですか?」
「えっとね、もう病院の方に運ばれてるから」
予想はしてたぜ。いや、本当に。次に言う言葉は、そうだな、牧野君は見なくても大丈夫だよ。だな。
「じゃ、行こうか」
スルー。まぁ、こういうことも想定してる。
「ところで」
本当に岩崎の声は高くてイライラする。
「いつまで私服でいるの?」
頭の中に一つ疑問が湧いた。ぬるい缶コーヒーで人を殺すことが出来るのだろうか?
「まぁ、いいから行こうか」
前を歩き出す岩崎にこのぬるい缶コーヒーを激突させても、おそらくは怪我だ。奇跡が起これば記憶障害が起こるかもしれないが、そうさ、これは試練だ。岩崎はわざとやっているんだ。俺が本当に刑事になれるのか。こいつはテストしている。おお、そうだ。俺はもう怒らないぞ。イライラなんかするもんか。お前の見え見えの作戦なんかに引っかかる俺じゃないぜ。
総務課の事務員に車の手配を依頼していると、岩崎が高い声で止める。
「いらないいらない。牧野君の車で行くから」
「はぁ」
「節税節税」
「節税……」
自分の車を玄関に回すまで呪文のように節税と言う言葉を繰り返す。正面玄関に車を回すと、岩崎がR33の助手席に乗り込んでくる。
「戦闘機みたいな車だね」
誉め言葉だと受け取っておこう。好みのスカイラインを探しやっとたどり着いたこのR33。隣には誰も乗せる気はない。ない。……なかった。よりによって岩崎が乗り込んでくるなんて、車にも俺にも不運だ。
「なんかの事件ですか?」
さりげなく死体の話を聞いておく。都内は本当に走りにくい。燃費が良い方ではないので、出来れば短距離走行はしたくない。ゴチャゴチャはイライラに通じる。イライラは刑事の道の邪魔である。これは正に修行だ。負けるものか。
「うん」
岩崎の次の言葉を待つが、沈黙が続いた。
「やっぱりそうだ。道が違うね」
しゃべったかと思えば、こいつはとんでもないことを言う。いやいやいや、こいつは仮にも刑事だ。署長の覚えもいいのだろう。こういう奴を味方につけておいた方が、人生は渡りやすいものだ。俺も大人になった。
「どっちですか?」
「うん、待ってね」
待つ間だって進むしかない。だから都内は嫌いだ。俺が生まれたチバラギの田舎道なら、道路のど真ん中に止めていても三十分は誰も来ないだろう。
「うーん」
岩崎はかの羽音のような声で考え事を始めた。
では、ここで俺が始めて見た死体の話をしよう。終わる頃には、岩崎の脳も正常に動き出しているだろう。
三歳の私は父に連れられ冬の海へ行った。父の趣味が釣りだったので、この時もおそらくそうであったと思う。父は多分こう言った。
「今日は大物を釣るぞ」
防波堤の上で釣りの準備をする父を無視して、私はテトラポットの組み具合がとても気になりそれを見ていると、テトラポットの最前線と波の尖兵との間にもまれている一つの人形があった。
人形は、白く青い不気味な線が浮かび所々が千切れていた。衣類に身を包まれていたが、はだけて切ると言うよりはくっついているといった方が正しかった。かろうじて接合されている頭部、その顔には目のところにくぼんだ穴が二つ並んでいた。黄色い歯が並び、だらしなく開かれた口から私に向かって何かをささやくのだ。
「牧野」
そう、牧野と。……。
岩崎の終末的な高い声が、またも私の回想を打ち破った。
「やっぱり合ってたわ。この道でいいみたいだ」
そうですか。
そうですか。
あっそうですか。
牧野は、精一杯の笑顔を作る。岩崎も釣られて満面の笑顔になる。
突然、牧野の目が見開かれる。
「あ!」
「どうしたの?」
目を丸くした岩崎が牧野を見る。
「節税って、俺の自腹ってことですか?」
岩崎の目が細くなる。牧野は深いため息をついた。
これは、テストなんだ。こいつの性格が悪いのも、全部テストのためのものなんだ。我慢。我慢。
牧野は祈りを捧げるように念じ続けた。
岩崎が牧野に渡したのは、ぬるい缶コーヒーが一本だった。
凶悪犯が出たら、こいつを後ろから撃ち抜いてやろう。いや、銃を抜く振りをして、凶悪犯に銃を渡してしまう方がいいか。いや、そうすると他の連中に当たるかもしれない。やはり自分で撃ち殺してやろう。
牧野は不適に笑った。岩崎が相変わらずの高い声で話しかけてくる。
「グッフィーが見つかったんだよ」
電話で聞いた。だからこうして戻ってきたんじゃないか。お前は鳩か鶏か?
「それは良かったです」
「だよねー。これで僕の株も上がるなぁ」
部下の手柄は上司の手柄。実にシンプルでわかりやすいシステムだ。それだけにこのやるせなさは超巨大隕石級だ。
「牧野君って、死体を見たことある?」
「ありますよ」
初めて死体を見たのは、三歳くらいだった。あれは、
「でねぇ」
調子の外れた声で人の回想に割り込んでくるな。
「これから死体を見に行くんだけど、運転してくれない?」
「いいですよ」
殺人事件の現場だ! いよいよ刑事のレールに乗ったようだ。俺もまだあきらめるにはまだ早い系の熱い人間なのだ。
「現場はどこですか?」
「えっとね、もう病院の方に運ばれてるから」
予想はしてたぜ。いや、本当に。次に言う言葉は、そうだな、牧野君は見なくても大丈夫だよ。だな。
「じゃ、行こうか」
スルー。まぁ、こういうことも想定してる。
「ところで」
本当に岩崎の声は高くてイライラする。
「いつまで私服でいるの?」
頭の中に一つ疑問が湧いた。ぬるい缶コーヒーで人を殺すことが出来るのだろうか?
「まぁ、いいから行こうか」
前を歩き出す岩崎にこのぬるい缶コーヒーを激突させても、おそらくは怪我だ。奇跡が起これば記憶障害が起こるかもしれないが、そうさ、これは試練だ。岩崎はわざとやっているんだ。俺が本当に刑事になれるのか。こいつはテストしている。おお、そうだ。俺はもう怒らないぞ。イライラなんかするもんか。お前の見え見えの作戦なんかに引っかかる俺じゃないぜ。
総務課の事務員に車の手配を依頼していると、岩崎が高い声で止める。
「いらないいらない。牧野君の車で行くから」
「はぁ」
「節税節税」
「節税……」
自分の車を玄関に回すまで呪文のように節税と言う言葉を繰り返す。正面玄関に車を回すと、岩崎がR33の助手席に乗り込んでくる。
「戦闘機みたいな車だね」
誉め言葉だと受け取っておこう。好みのスカイラインを探しやっとたどり着いたこのR33。隣には誰も乗せる気はない。ない。……なかった。よりによって岩崎が乗り込んでくるなんて、車にも俺にも不運だ。
「なんかの事件ですか?」
さりげなく死体の話を聞いておく。都内は本当に走りにくい。燃費が良い方ではないので、出来れば短距離走行はしたくない。ゴチャゴチャはイライラに通じる。イライラは刑事の道の邪魔である。これは正に修行だ。負けるものか。
「うん」
岩崎の次の言葉を待つが、沈黙が続いた。
「やっぱりそうだ。道が違うね」
しゃべったかと思えば、こいつはとんでもないことを言う。いやいやいや、こいつは仮にも刑事だ。署長の覚えもいいのだろう。こういう奴を味方につけておいた方が、人生は渡りやすいものだ。俺も大人になった。
「どっちですか?」
「うん、待ってね」
待つ間だって進むしかない。だから都内は嫌いだ。俺が生まれたチバラギの田舎道なら、道路のど真ん中に止めていても三十分は誰も来ないだろう。
「うーん」
岩崎はかの羽音のような声で考え事を始めた。
では、ここで俺が始めて見た死体の話をしよう。終わる頃には、岩崎の脳も正常に動き出しているだろう。
三歳の私は父に連れられ冬の海へ行った。父の趣味が釣りだったので、この時もおそらくそうであったと思う。父は多分こう言った。
「今日は大物を釣るぞ」
防波堤の上で釣りの準備をする父を無視して、私はテトラポットの組み具合がとても気になりそれを見ていると、テトラポットの最前線と波の尖兵との間にもまれている一つの人形があった。
人形は、白く青い不気味な線が浮かび所々が千切れていた。衣類に身を包まれていたが、はだけて切ると言うよりはくっついているといった方が正しかった。かろうじて接合されている頭部、その顔には目のところにくぼんだ穴が二つ並んでいた。黄色い歯が並び、だらしなく開かれた口から私に向かって何かをささやくのだ。
「牧野」
そう、牧野と。……。
岩崎の終末的な高い声が、またも私の回想を打ち破った。
「やっぱり合ってたわ。この道でいいみたいだ」
そうですか。
そうですか。
あっそうですか。
牧野は、精一杯の笑顔を作る。岩崎も釣られて満面の笑顔になる。
突然、牧野の目が見開かれる。
「あ!」
「どうしたの?」
目を丸くした岩崎が牧野を見る。
「節税って、俺の自腹ってことですか?」
岩崎の目が細くなる。牧野は深いため息をついた。
これは、テストなんだ。こいつの性格が悪いのも、全部テストのためのものなんだ。我慢。我慢。
牧野は祈りを捧げるように念じ続けた。
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