シャイロック

大秦頼太

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シャイロック 17

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17

 犬。
 イヌ。
 どこにもいぬ。
 牧野はハンカチを左手に、写真を右手に街の中を彷徨っていた。保健所では記録になかった。それらしい犬がいたら連絡をくれるように頼んでみたが、定期的に見に来るようにと断られた。役人は自分の仕事が増えることを歓迎しない。博愛精神を持っていない奴は、役人になるのは向いていないと思う。警察官の三分の一は博愛精神を持っている。どれだけ人を殺した憎いあんちくしょうも、刃物を振り回してる奴も、銃を振り回して騒いでいても、車でひき殺されかけても、犯人を愛しているから殺しはしない。まったくおめでたい。他の役人にもこの精神を見習ってもらいたいものだ。
「暑い」
 岩崎のおかげでとんでもない目にあっていたが、署長命令で私服で行動することが出来るのはよかった。制服の警官が犬を探しているなんて、誰に何を言われるか。
 こんなことは恥だ。マスコミにねじ込んでくれる。
 そしてクビになって、刑事の夢も完全に断たれる。だが、この特別任務に成功すれば、刑事の道が見えてくる。これはチャンスだ。チャンスはピンチに変わる。そう、今がピンチだ。このまま見つからなければ、俺は刑事になれないだろう。マスコミにねじ込むのはそれからでも間に合うだろうか。大したニュースにならないと、笑われるのが関の山だろうか。ピンチの時には、必ずと言っていいほどダメ押しがある。
 すれ違う人間の全てが犬に見えてくる。通り過ぎるオバちゃんの会話が日本語からかけ離れてくる。暑さが俺の言語中枢を崩壊させているようだ。一体、俺は何をしてるんだ。
 犬を探してます。
 グッフィー。お前は今どこにいるんだ。都会で迷子犬なんているのかよ。きっと小学生に拾われて、今はゴンザレスと言う名前に変わってる。だが、小学生の両親は犬が嫌いでゴンザレスを元のところに捨てて来いと言う。小学生は親に黙ってゴンザレスを飼おうとするが、それは小学生による犬の監禁事件になりそうだった。ゴンザレスは危機一髪ベランダから脱出し、OLに拾われてチョロと名づけられている。チョロは俺はまんざらでもないなと、美人のOLの部屋に住み込むことを決めるが、OLの部屋はペット禁止だ。OLは泣きながらチョロを捨てる。チョロは、繁華街でカラスと戦いながら、自分の名前をマックスと変える。マックスは77羽のカラスを討ち果たし、ついにカラスたちのボス青ガラスのジョージと決戦になる。
 ビルの谷間を駆けるマックス。青ガラスジョージの羽の嵐がマックスを襲う。マックスの体に青ガラスの羽が数本突き刺さる。だが、マックスはひるまない。ビルの渓谷を駆け上がり、青ガラスの喉元に牙を突き立てる。ビルの屋上にマックスは滑り込む。その口には青ガラスの死骸が咥えられていた。
 バササササッ!
 マックスは頭上を見つめる。無数の赤い羽根がマックスを襲う。そう、奴は、青ガラスの兄、赤羽の王ガラス、ヘンリーだった。
 マックスの口から血の塊が吐き出される。四肢はもう力を失い体を支えることは出来なかった。だが、負けるわけには行かなかった。そう、俺が負けてしまったら、あの美人OLの涙は嘘になる。
 マックスは怒りの咆哮を上げた。仲間よ! 集え! 飼い犬たちよ、今こそ立ち上がる時だ!
マックスの体が、屋上に崩れる。静寂の中に響く赤羽の王の嘲笑。彼切った薄汚い鳴き声がマックスを絶望の淵に落とそうとしていた。
 遠くから聞こえる遠吠え。最初は一つだけだった。マックスは精一杯の力を振り絞り立ち上がる。俺はまだ戦える。
 遠吠えが強く大きく数を増していく。
 赤羽の王ヘンリーはマックスに止めを刺すべく空高く舞い上がる。
 赤羽の王の体が太陽と合体する。そして、回転をしながらマックスめがけて降りてくる。絶体絶命だった。避けることは出来無い。相討ちを狙うしかない。マックスは口を大きく開いて赤羽の王を迎え撃つ。
 ガクッ。マックスの膝が折れる。限界はもう近かった。
 不意にマックスの体が持ち上がった。右足を、支えている奴がいる!
 チワワだ。確か名前は、アレクサンドル・ジョリーナ。飼い主からはアレクと呼ばれている。何しにきやがった! マックスの目がそう物語っているのを見て、アレクは笑った。見損なうなよ。チワワである前に、俺は男だぜ。
 今度は左足を持ち上げる奴がいた。
 トイプードルじゃねえか! そんなフワフワしてるお前が、何故……。
 あなたが死んだら、誰があの人を見守るのよ。
 力だ。力が湧いてくるのを感じた。
 ピリリピリリピリリ。
 マックスは、大空に向かって吼えた! それはまさしく戦士の咆哮だった。
 そうさ、携帯の電源を切っておくのがマナーだぜ。

 牧野は写真を左手に渡して携帯を取る。
「はい。牧野です。はい。マックス……、じゃないグッフィーなんですけど、保健所にはいませんでした。それで、いえ。まだ探してます。見つけますから、安心してください。え?」
 牧野の左手から写真とハンカチが滑り落ちる。
「ほんとですか? わかりました。戻ります」
 牧野は携帯を閉じた。恐れていたことが、起こった。
「終わった……」
 牧野はハンカチと写真を拾い上げる。
「戻ってくるくらいなら、逃げ出すんじゃねえよ!」
 牧野は、写真を地面に投げつける。
 それを見ていたカラスが高らかに笑った。
 そいつが赤羽の王ヘンリーかどうかは知らない。
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