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シャイロック 16
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心を無にする。よくマンガである表現だが、無とはなんだ。無を考えれば無ではないし、考えないことを考えてしまう。日差しが強ければ暑い。風が吹けば涼しい。通り過ぎる人が美人なら、おっと思う。
「うるさい。何も考えないで」
街の中にシュウジとテルハは立っていた。ため息をついて歩道の柵に座るシュウジ。
何も考えない。何も考えないでいようとすると、何も考えないことを考える。それはダメだと、頭の中を白くする。頭の中を白くすることを考える。これでは何も考えていない状態ではない。
「君ぃ。君はふざけてるのかな?」
ふざけてねえよ。
「何も考えないのなんて簡単でしょ」
「じゃ、お前がやれよ」
「僕は聞く専門なの」
「俺を外せばいいだろ」
「それは……」
テルハが言葉を詰まらせる。今度はシュウジのターンだ。
「なんだ? 偉そうなこと言ってて、お前が出来無いのかよ。なんだなんだ? 大した能力だな」
テルハは鬼の形相でシュウジに迫る。振り上げた拳でシュウジを威嚇すると、シュウジの両手が顔を守ろうと自動的に伸びてくる。
意外に痛いからやめてくれ。
「除外は出来る。でも、必要な情報のためには出来るだけ残しておきたいの。例えるならね、百台のラジオを回りに並べて、それを一斉に聞いてその中から和也って言う人の情報を探すのよ。わかる?」
「悪かったよ」
テルハは答えずに街の中に振り返る。
シュウジは、その背中を見守る。その小さな背中が、とても可愛く見えた。テルハが振り返る。耳が赤い。
「君、バカだろ」
シュウジの口が開く前にテルハはまた街の中に顔を向ける。
「和也って子のこと考えてれば」
和也……。
シュウジの脳裏に、横たわる和也の姿があった。死んだ和也は体中痣だらけで、笑いながらふざけた和也と比べると、それは作り物の人形のようだった。マネキン。死んだ和也はマネキンのようだった。魂なんていうものがあると人は言う。魂が抜けると、人間は人形になる。まだ生きている細胞がいても、魂が無ければ、それは生きていない。まだ生きているなら、生きている細胞が動かしに行けばいい。でも、人間の体はそんな風にはできていない。なんてお粗末な物なんだろうか。不完全が完全な生き物。
空から落ちてくる日差しが痛い。肌に突き刺さってくるこの光の雨は、紫外線の粒だ。粒子が人間の肌に矢のように降り注いでいるのだ。
白いもやが目の前に下りてくる。それは全身の力を奪い、シュウジの目を閉じさせる。
霊安室だ。和也はまだそこにいた。天井から裸電球が下がる四角いコンクリートの部屋の中に細いキャスター付の台の上に静かに眠っている。
痣は今も消えずに残っている。絶望と言う表情があるのなら、これがそうなのかもしれない。半分だけ白目をむいた右目。くぼんで垂れ下がる左目。潰れた耳。切れた額。シワの寄る眉間。乾燥しぱっくりとひび割れた唇。いまでもうめき声が聞こえてきそうだった。
「……」
和也の唇の皹から、音が洩れてくる。
「ここじゃない。……気がついたんだろ」
ああ。気がついた。
「じゃあ、なんでここにいるんだ?」
ここじゃないからさ。
「俺をおちょくってんのか? バケモノの癖に。肉しか消せないバケモノの癖に」
落ち着けよ和也。ここ以外のどこかだって言うのなら、そいつらの狙いがここにあるって事だろう? お前の雇い主の街かも知れないじゃないか。そうだよ。お前の雇い主は誰なんだ? 言えよ。
「言えない」
言えよ。
「忘れたから言えないんだよ!」
額の傷から和也の声が聞こえてくる。
「脳みそが削れちまったからな、もう忘れちまったよ。お前がすんなり受けてくれれば、俺は死ななかったんだ。お前があいつらを殺してくれれば俺は死ななかったんだ」
悪かった。
「あぁ、悪いね。俺は俺の女と子供と、新しいスタートを切るはずだった。こんな俺にも幸せがつかめるんだと思ってた。幸せって言うのは、貪欲だぜ。昨日の幸せはもう幸せじゃないんだからな。だがよ、俺は違う。階段を上るように幸せを感じていたんだ。毎日一歩ずつ、幸せを上っていたんだ。子供が出来るんだ。親に捨てられた俺は親になるんだ。子供は俺なんだ。俺は俺を幸せに出来るんだ。出来るはずだったんだ……」
女の名前だったらわかるだろう? 俺に教えてくれよ。
「言っただろ。脳みそが削れちまったんだって。カラスが知ってるぜ。俺の脳みそをほじくったからな。横にいる女に聞けよ。カラスを探してください。カラスを探してください。ってな。バケモノ同士仲良くやれよ」
和也。
和也の頭の中から誰かがのぞいている。そいつは頭の内側から傷口に口をつけると、和也の中からシュウジに向かってつぶやく。
「……お前だ。俺を殺したのはお前だ。俺は、お前を許さないぞ。絶対にだ。俺の幸せを返してもらうからな。俺は、お前を呪い殺してやる」
「聞いてんの!」
テルハの平手がシュウジの頬をはたく。
「人のこと無視して寝るなんて、いい度胸だな」
シュウジは道路の上で起き上がる。日差しのせいか体中汗だくだった。
「寝てたのか」
テルハは、シュウジの肩を軽く叩く。
「気がついてたらそこに寝てた。変な夢を見てたぞ」
「え?」
「なんでもない。行くぞ」
テルハはシュウジの腕を引く。無理やり立たされるシュウジ。
「行く?」
どこに? ほとんど同時に言葉と思考が生まれ出た。
「見つけた」
「わかったのか?」
「多分ね」
テルハはそう言うと、駅から離れる道を歩いていく。くるりと振り返ると、テルハの顔に水に広がる波紋のように笑顔が生まれた。
「君はどうする? そこで待ってるかい?」
行くさ。そいつも同罪さ。
テルハに追いつくと、彼女は口を開く。
「話を聞き終えても殺しちゃダメだよ」
「殺さなければいいんだな?」
全身の肉を切り取って何も出来無いようにしてやる。舌も切り取ってやる。一生後悔をさせてやるんだ。そいつは泣きながら自分のやったことを悔いるだろう。でも、そいつには自殺をすることも誰かに助けを求めることも出来無い。病院でずっと飼われ続けるんだ。
テルハはため息をつく。
「なら、僕の頼みを聞いてからにしてね」
「なんだよ」
「君が死んだら、まだ困るんだからさ」
「まだか」
「まだね」
心を無にする。よくマンガである表現だが、無とはなんだ。無を考えれば無ではないし、考えないことを考えてしまう。日差しが強ければ暑い。風が吹けば涼しい。通り過ぎる人が美人なら、おっと思う。
「うるさい。何も考えないで」
街の中にシュウジとテルハは立っていた。ため息をついて歩道の柵に座るシュウジ。
何も考えない。何も考えないでいようとすると、何も考えないことを考える。それはダメだと、頭の中を白くする。頭の中を白くすることを考える。これでは何も考えていない状態ではない。
「君ぃ。君はふざけてるのかな?」
ふざけてねえよ。
「何も考えないのなんて簡単でしょ」
「じゃ、お前がやれよ」
「僕は聞く専門なの」
「俺を外せばいいだろ」
「それは……」
テルハが言葉を詰まらせる。今度はシュウジのターンだ。
「なんだ? 偉そうなこと言ってて、お前が出来無いのかよ。なんだなんだ? 大した能力だな」
テルハは鬼の形相でシュウジに迫る。振り上げた拳でシュウジを威嚇すると、シュウジの両手が顔を守ろうと自動的に伸びてくる。
意外に痛いからやめてくれ。
「除外は出来る。でも、必要な情報のためには出来るだけ残しておきたいの。例えるならね、百台のラジオを回りに並べて、それを一斉に聞いてその中から和也って言う人の情報を探すのよ。わかる?」
「悪かったよ」
テルハは答えずに街の中に振り返る。
シュウジは、その背中を見守る。その小さな背中が、とても可愛く見えた。テルハが振り返る。耳が赤い。
「君、バカだろ」
シュウジの口が開く前にテルハはまた街の中に顔を向ける。
「和也って子のこと考えてれば」
和也……。
シュウジの脳裏に、横たわる和也の姿があった。死んだ和也は体中痣だらけで、笑いながらふざけた和也と比べると、それは作り物の人形のようだった。マネキン。死んだ和也はマネキンのようだった。魂なんていうものがあると人は言う。魂が抜けると、人間は人形になる。まだ生きている細胞がいても、魂が無ければ、それは生きていない。まだ生きているなら、生きている細胞が動かしに行けばいい。でも、人間の体はそんな風にはできていない。なんてお粗末な物なんだろうか。不完全が完全な生き物。
空から落ちてくる日差しが痛い。肌に突き刺さってくるこの光の雨は、紫外線の粒だ。粒子が人間の肌に矢のように降り注いでいるのだ。
白いもやが目の前に下りてくる。それは全身の力を奪い、シュウジの目を閉じさせる。
霊安室だ。和也はまだそこにいた。天井から裸電球が下がる四角いコンクリートの部屋の中に細いキャスター付の台の上に静かに眠っている。
痣は今も消えずに残っている。絶望と言う表情があるのなら、これがそうなのかもしれない。半分だけ白目をむいた右目。くぼんで垂れ下がる左目。潰れた耳。切れた額。シワの寄る眉間。乾燥しぱっくりとひび割れた唇。いまでもうめき声が聞こえてきそうだった。
「……」
和也の唇の皹から、音が洩れてくる。
「ここじゃない。……気がついたんだろ」
ああ。気がついた。
「じゃあ、なんでここにいるんだ?」
ここじゃないからさ。
「俺をおちょくってんのか? バケモノの癖に。肉しか消せないバケモノの癖に」
落ち着けよ和也。ここ以外のどこかだって言うのなら、そいつらの狙いがここにあるって事だろう? お前の雇い主の街かも知れないじゃないか。そうだよ。お前の雇い主は誰なんだ? 言えよ。
「言えない」
言えよ。
「忘れたから言えないんだよ!」
額の傷から和也の声が聞こえてくる。
「脳みそが削れちまったからな、もう忘れちまったよ。お前がすんなり受けてくれれば、俺は死ななかったんだ。お前があいつらを殺してくれれば俺は死ななかったんだ」
悪かった。
「あぁ、悪いね。俺は俺の女と子供と、新しいスタートを切るはずだった。こんな俺にも幸せがつかめるんだと思ってた。幸せって言うのは、貪欲だぜ。昨日の幸せはもう幸せじゃないんだからな。だがよ、俺は違う。階段を上るように幸せを感じていたんだ。毎日一歩ずつ、幸せを上っていたんだ。子供が出来るんだ。親に捨てられた俺は親になるんだ。子供は俺なんだ。俺は俺を幸せに出来るんだ。出来るはずだったんだ……」
女の名前だったらわかるだろう? 俺に教えてくれよ。
「言っただろ。脳みそが削れちまったんだって。カラスが知ってるぜ。俺の脳みそをほじくったからな。横にいる女に聞けよ。カラスを探してください。カラスを探してください。ってな。バケモノ同士仲良くやれよ」
和也。
和也の頭の中から誰かがのぞいている。そいつは頭の内側から傷口に口をつけると、和也の中からシュウジに向かってつぶやく。
「……お前だ。俺を殺したのはお前だ。俺は、お前を許さないぞ。絶対にだ。俺の幸せを返してもらうからな。俺は、お前を呪い殺してやる」
「聞いてんの!」
テルハの平手がシュウジの頬をはたく。
「人のこと無視して寝るなんて、いい度胸だな」
シュウジは道路の上で起き上がる。日差しのせいか体中汗だくだった。
「寝てたのか」
テルハは、シュウジの肩を軽く叩く。
「気がついてたらそこに寝てた。変な夢を見てたぞ」
「え?」
「なんでもない。行くぞ」
テルハはシュウジの腕を引く。無理やり立たされるシュウジ。
「行く?」
どこに? ほとんど同時に言葉と思考が生まれ出た。
「見つけた」
「わかったのか?」
「多分ね」
テルハはそう言うと、駅から離れる道を歩いていく。くるりと振り返ると、テルハの顔に水に広がる波紋のように笑顔が生まれた。
「君はどうする? そこで待ってるかい?」
行くさ。そいつも同罪さ。
テルハに追いつくと、彼女は口を開く。
「話を聞き終えても殺しちゃダメだよ」
「殺さなければいいんだな?」
全身の肉を切り取って何も出来無いようにしてやる。舌も切り取ってやる。一生後悔をさせてやるんだ。そいつは泣きながら自分のやったことを悔いるだろう。でも、そいつには自殺をすることも誰かに助けを求めることも出来無い。病院でずっと飼われ続けるんだ。
テルハはため息をつく。
「なら、僕の頼みを聞いてからにしてね」
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「まだか」
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