シャイロック

大秦頼太

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シャイロック 6

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 シュウジはエレベーターに乗った。一階まで降りきると夢遊病者のような足取りで街の中を歩き出した。
 気持ちが悪い。キモチガワルイ。きもちがわるい。最悪だった。力を使って人を殺してこんなに気分が悪いのは初めてだった。今までは、何も感じることも無かったのに。息が苦しい。もっと空気をくれ。もっと、もっと、もっと……。
 胸が痛い。
 穴の開いた掃除機のようにいくら空気を吸い込んでも肺が満たされることは無かった。
 開いたんだ。俺の肺に穴が開いたんだ。
 シュウジは地面にうずくまって、細かい呼吸を何度も続ける。徐々に顔から血の気が引いて額に大粒の汗が浮かんでくる。
 道行く人々が奇異の視線を向けてくる。
「殺されてえのか!」
 そう叫んだつもりだったが、声は風の強い日に少しだけ開かれた窓のような音が出て行くだけだった。壁に手をつきながら立ち上がろうとするが、足にまったく力が入らない。前へのめるような形で地面に飛びつく。額を強打し、血がにじむ。側によって来る者はいない。
 こいつは何かヤバイ薬をキメている。振り返る人はそう思ったに違いない。遠巻きにして事の成り行きを見守っている。
「クソが……」
 シュウジは両手で頭を押さえる。急に起き上がったと思えば、壁に手をついて起き上がり、口から嘔吐した。
 体に寒気を感じ、腹の中のものを吐き出す。吐き出すと気分が少しよくなった。靴に少しかかったのが癪に障るが、あんな苦しみよりはまだましな方だった。ゆっくりと足に力を込める。右足は大分いい。左足はしびれているようだ。もう少しかかるだろう。
 壁を伝いながら道を進む。ガラスの窓を触れながら進むと、嫌な顔をして文句を言いに来る店主がいたが、シュウジの顔を見てすぐに店の中に戻った。
 口元はだらしなく緩み、涎が顎の先を伝う。半開きの目は、正気の人間だとは到底思えないような鈍い輝きを放っている。
 駅のトイレまで来るとシュウジは洗面所に頭を突っ込んだ。頭の上から水をかぶる。
 このまま魚になりたい気分だった。溶けてしまうんでもいい。無くなってしまえばいい。自分が何をやっているのかわからない。朝の時点で殺すはずだった。脳のどこかか心臓の一部を消してしまえばそれで終わりだったはずだ。
そうさせなかった理由はなんだ。
 山本が捨てた血のついたリュックのせいか? 山本と、若林というチンピラが捨てた何かが気になっていたからか?
 違う。
「福島の雰囲気が気になったからだ」
 トイレに入って来た男が不審そうな目を向けるが、シュウジは気にせずに頭を流し続ける。
 徐々に頭がスッキリしてくる。頭を上げると、切れた額とは別に頬が腫れていることに気がついた。シャツを脱ぐ。胸に紫色の打ち身があった。首の傷は深くなかった。
 左手を見る。
 消した。どこを消すかあまり考えなかったが消した。消すところ次第では、喉を切り裂かれていただろう。消す。表現するのはそれが一番わかりやすい。どこを消すか考える。頭なら頭。出来るだけ真ん中を狙う。心臓を消すときは相手の左胸を狙う。そして、スイッチを押す。そうすれば消すことが出来る。消したものがどこに行くかなんて知らないし、どうして消えるのかなんて事も知らない。それでも肉は消えていく。
 もう大丈夫だ。
 シャツを着てトイレを出る。駅は地下食品街と通じている。左手を鳴らしながら、店を見て回る。
 児童院にいた頃に、よくスーパーに遊びに行った。その頃には小指の先ほどの肉片を消せるようになっていたから、生肉店の店先で遊んだ。生肉店の店主にとっては災難だったろうが、あの頃はアレしか楽しみが無かった。指をはじくたびに肉は小さくなっていった。小さくなっていく肉を見ると心が和らいだ気がした。心に開いた穴を埋めていくのは、この力を使い続けることが必要なんだと思った。
 生肉店はすぐに見つかった。米国産和牛のブロックを狙う。親指程度の肉片が消えるはずだ。店から数メートル離れ、ゆっくりと呼吸を整える。左手を腰の位置で構える。
 パチン。
 指先から放たれた音と共に、カメラのフラッシュのような光が牛ブロックから発生した。ざわつく地下商品街。悲鳴を上げて逃げ出す人もいた。シュウジは焼きついた残像を消すように目を拭った。
 目が慣れた頃には、周囲に人だかりが出来ていた。牛ブロックは拳大の肉片が消失していた。
 レベルアップだ。福島を殺したからなのか、その前からなのか、それはわからないが。思いがけない大幅なレベルアップだった。
 人混みから離れ、別の生肉店に向かう。今度は、和牛でも狙ってみようか。シュウジは再び左手を構える。
「君、ちょっと奥まで来てくれるかな?」
 ぎくりとしてシュウジは振り返る。そこには誰も、いや、おでこが見えた。目線を落としていくと、おでこを出した黒髪の女の子が立っていた。同い年か一つ位したかもしれない。なんだかひらひらしている服装の子だった。皮製の大きなバッグを持っている。
 なんだこの女。いいや、今は関係ない。和牛を消そう。
 シュウジは振り返って左手を構える。
「失礼だな。君ぃ。そういうことは買ってからやるもんだぞ」
 どきんとして、シュウジは振り返って少女を見る。
「なんだと?」
「ちょっと待ってて」
 少女は生肉店に駆けていく。和牛を指差し、店のおじさんと談笑している。急に振り返ってシュウジに呼びかける。
「君ぃ、何グラム?」
「しらねえよ」
 好きなだけ買えよ。馬鹿馬鹿しい。
 シュウジは背を向けてその場を離れる。その背中から信じられない言葉が聞こえてくる。
「おじさん。じゃあ、全部頂戴」
 振り返って足を止めたシュウジに両手に和牛肉の入った袋を抱えながら少女が笑顔で向かってくる。
「はい、君」
 和牛ブロックの包みをを押し付ける少女。シュウジは勢いで思わず受け取ってしまう。    ズシリと重い。少女はそのままシュウジの前に出る。
「ほら、行くぞ」
 どこにだよ。
「どこにしようか」
 冗談じゃない。いつまでも付きまとわれてたまるかよ。人混みに紛れてまいてやる。
「ねえ君、こっちこっち」
「わかったよ」
 少女は先に行く。シュウジは和牛ブロックの包みを抱えたまま少女に背中を向ける。そしてそのまま人混みの中に紛れ込む。シュウジから少女も見えないし、少女からシュウジも見えない。
 思わず笑いがこみ上げる。さようなら。今日は和也たちと焼肉パーティでもするか。レベルアップのお祝いでもしてやるさ。それで全てを忘れる。それでいい。
 少女が目の前に現れる。
「何がいいって? 和也って友達?」
 何だこいつ。後ろに目でもあるのか?
「ないよ」
 まさか、俺の考えてることを、
「そういうこと」
「何の用だよ」
「もう一回、見たいなって」
「何を」
「さっきのあれ。見せてくれたら、また買ってあげてもいいよ。それ」
 シュウジは包みを少女に向かって放り投げる。やっとのことで包みをキャッチする少女。
「食べ物を粗末にしたらいけないんだぞ!」
 冗談じゃねえ。わけのわかんねえ奴から、施しなんか受けられるか。
 シュウジは人混みの中を駆け抜けた。人とぶつかったが、振り返りもせずに全力疾走する。
 考えるな。何かを考えるとあいつが出てきそうな気がする。特に場所のことは考えるな。とにかく走れ。

 いなくなったシュウジをきょろきょろと探す少女。両手に抱えた肉を見つめてぼそりとつぶやく。
「君ぃ、僕はこんなに食えないぞ」
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