シャイロック

大秦頼太

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シャイロック 3

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「もう時間がないんだよ」
 携帯電話を片手に山本は鈴木の家に向かう。何のために。鈴木を殺すためにだ。本当ならこんなことはしたくない。それでもやらなければ殺されるのは自分の番なのだ。悪いのは俺じゃない。悪いのは俺じゃないんだ。福島を殺すように頼んだ。頼んだからには、鈴木が時間切れで死ぬのは俺のせいじゃない。あの訳のわからない変な男のせいだ。和也のせいだ。和也が、助けてやれるかも知れないと言ったからこんなことになったんだ。そうでなかったら、俺は、俺の力で福島を殺すことを考えていたはずだ。それが出来なかったのは、あの変な男のせいで、あの男は姿を見せないんだと言う。冗談じゃない。逃げたんだ。遠くから、それこそ衛星写真で福島を見て、逃げ出したんだ。
「和也。俺、お前の友達だろう? 助けてくれよ。俺は人殺しなんかしたくねえよ」
 やらなきゃ俺が殺される。冗談じゃない。やらなきゃ俺が殺される。人殺しなんか嫌だ。やらなきゃ俺が殺される。鈴木を殺さなければ。やらなきゃ俺が殺される。詐欺だけしてればいいのに。やらなきゃ俺が殺される。どうして殺人なんてする必要があるんだ。やらなきゃ俺が殺される。どうしてこんなことになったんだ。やらなきゃ俺が殺される。逃げようか。やらなきゃ俺が殺される。福島は絶対に追って来る。やらなきゃ俺が殺される。自首すればいい。やらなきゃ俺が殺される。詐欺ならそんなに罪にならない。やらなきゃ俺が殺される。俺は命令されて鈴木を殺すんだ。やらなきゃ俺が殺される。だったら罪は軽いはずだ。やらなきゃ俺が殺される。刑務所に入っても安心なんか出来無い。やらなきゃ俺が殺される。人殺しなんかさせられたくねえよ。やらなきゃ俺が殺される。死にたくもねえ。やらなきゃ俺が殺される。
 鈴木のアパートはボロだった。
 いつ来ても二階へ上る鉄階段は錆びて抜けそうだったし、窓ガラスにはひびが入っていた。ここには人は住んでいない。近隣ではそう思われていた。確かに昼間に来れば誰も住んでいないと思うだろう。だが、夜は流石に漏れる光がある。
 ふと山本の頭の中に真夜中のオーストラリアで道路に飛び出してくるカンガルーの話が思い浮かんだ。寝ぼけてるのかヘッドライトに驚きもしないで車で弾き飛ばされるカンガルーが年に何百頭もいるという。カンガルーは夜行性だと妹がメールをしてきたのを思い出した。動物園でゴロゴロしているからあれが毎日のことだと思っていたが、カンガルーは夜型人間なんだ。バカヤロウ。カンガルーは人間じゃないぜ。嘘をつけ。カンガルーのオスには人間臭いしぐさをする奴がいるだろう? アレは絶対中身にその辺の仕事帰りのサラリーマンみたいなオヤジが入っている。
 鈴木の部屋のドアを叩く。部屋の明かりはついている。ノブをひねる。ドアが開く。いっそのこと開かなければ良かった。でも、そうしたら俺が死ぬことになるから、このドアは結果的に開くことになる。
「悪い」
 奥から声がする。かすれた鼻声だ。嘘じゃなかったんだな。可哀相に。本当に可哀相に。
「まだ起き上がれないんだ」
 それは好都合だよ。ひょっとしたら、俺が来たのを誰かに見られたかもしれないんだからな。お前を殺しに来たんだぞ。「悪い」なんて言うなよ。
「お前、カンガルーなら良かったな」
 山本の言葉に、鈴木が笑った。なんだか耳が遠くなって、自分の声が自分の声じゃないみたいだ。
「そしたら飛んで跳ねてるだけで、毎日がハッピーだろうな」
 鈴木の額に浮かぶ汗。おい、もう薬は飲んだのか?
「昼間に飲んだけど」
 もう切れてるんじゃないのか? 俺、一応自分の家の奴持ってきたぜ。飲めよ。
「悪いな」
 悪いんだ。お前が悪いんだ。お前がやめようなんて俺に言うから、俺はどうしたらいいのかわからなくて、怖くて怖くてたまらないんだ。お前を殺さないと俺が福島に殺されるんだ。
「水、入れてくるからまだ寝てろよ」
「サンキュ」
 流しの中のコップに水を入れた。これから死ぬ奴なら、洗ってやるのがせめてもの礼儀なんだろうか。蛇口をひねり水を出し、コップの中に洗剤を入れてスポンジを突っ込む。手が震えた。二度ほど流しの中にコップを落としかけた。一つのコップをこれほどまでに丹念に洗う男がどこにいただろうか。知ってるか? 俺は今、人間国宝なのだ。知ってるか? 人間なのに国宝なんだぜ。国宝なんだ、俺は。だからこれからも生きていかなければならないんだ。そう、人間国宝だから、これから旅立つ者を送る最後の水を入れるコップを洗うのが俺の使命なのだ。
 最後の泡まできれいにゆすぎ落とすと、そのまま水を中に入れる。鈴木を振り返る。息苦しそうに横たわっているその目は硬く閉ざされている。鈴木を見たままジーンズの小さなポケットから白い包み紙を取り出す。水の入ったコップを見る。鈴木を見る。再びコップを見る。包みを開く。白い粉がそこにはあった。水の中に粉を落とし込む。白い粉は底に沈んでいく。
「福島さん、怒ってたか?」
 早く溶けろ溶けちまえ。何をぐずぐずやってるんだ。お前たちは水に溶けるくらいしか芸がないんだからさっさと溶けろ。
「風邪なら仕方がないさ」
 鈴木を見た。鈴木がこっちを見ている。おい、そんな目で見るんじゃねえよ。知っているのか? 俺がお前を殺しに来たって、知ってるのか? だから、俺をそんな目で見ているのか?
「やっぱ、怒ってたか」
 鈴木は再び目を閉じた。その瞬間、山本はコップの中に指を入れてぐるぐるとかき混ぜた。白い粉はやっと無色透明の液体の中に隠れることが出来た。よくやった。
「俺さ」
 声が上ずる。コップを見る。後は渦が消えるまで、待てばいい。
「福島さんを殺すよ」
 だから向こうで奴が来るのを待っててくれ。
「え?」
 鈴木がこっちを見た。驚いた顔をしている。そりゃ、当然だ。昨日まで、逃げるって話を散々してたのに、それなのに今日になったら殺すよだもんな。恐怖で頭が可笑しくなっちまったのかって普通は思うよな。
「正確には人に頼んだんだけどな。何かすげえ強くて、やばい奴だってさ。そいつ」
 何か不気味で、陰気で、気持ちが悪くて、人間じゃないみたいなそんな奴だったぜ。俺はあいつとは友達にはなれない。俺の友達は気が弱くて間抜けで、肝心なところでいつも貧乏くじを引くような奴だって俺は知ってるのさ。
「そんなに怖いのか?」
「たいしたことねえよ」
「じゃあ、何で泣いてるんだよ」
 俺が泣いてるだって?
 顔を押さえた。確かに涙が流れていた。
「なんだこりゃ」
「大丈夫か?」
 大丈夫なわけねえだろうが! 俺は今からお前を殺さなきゃいけないのに、このままじゃ頭が可笑しくなっちまう。
 コンコン。ガチャリ。
 若林が入ってきた。上から下まで黒い姿をしていた。
「なんだまだ起きてたの」
 ナンダマダイキテタノ。俺の耳には、そう聞こえた。そりゃあ、あんまりじゃないか。
「若林さんまで。何かすんません」
 若林は、苦笑いをした。これから殺す相手と和やかに会話する馬鹿がどこの世界にいるって言うんだ。そんな意味の笑いだった。
「これから薬を飲んで寝るところっす」
 若林の目は、「早く仕事をしろこのノロマ野郎」と言っている。山本はすっかり落ち着いたコップの水を鈴木の元に運んでやる。ポケットから錠剤を出す。
「何だよ。そのままかよ。きたねえな」
 拭けばいいだろ。山本はそう言ってコップと錠剤を渡す。鈴木は体を起こしてそれを受け取る。
「ありがとよ」
「箱のまま持ち出すとうるせえからさ」
 ごとん。
 若林が懐からダンベルを落とした。三キロのダンベルだ。山本は血の気が引くのを感じた。この間抜け野郎が! そう言ってやろうと思ったが、問題はなかった。
「筋トレですか?」
 鈴木の抜けた声に若林が鼻で笑った。
「お前のために持ってきたんだよ」
 おお、正に神が与えたベストな答え。嘘はついていない。彼は、嘘をついていないのだ。
 鈴木は錠剤を口の中に入れて水を含んで一気に流し込んだ。
「その錠剤は水を沢山飲まないと中まで行かないらしいから、全部飲んじゃえよ」
「わかった」
 鈴木はコップの水を全部飲んだ。後は時間が解決してくれる。鈴木は横になってゆっくりと目を閉じた。
 それを見た若林が部屋の隅にあったタオルをつかんだ。山本が気がついたときには流しでタオルを水に浸していた。
「悪いな。時間がないんだ」
 若林はタオルを適当に絞ると、素早い身のこなしで鈴木の顔面に、主に口と鼻だったが、濡れタオルを押し付けた。
 鈴木の目が見開かれる。少しどんよりとした瞳の色。それが徐々に充血していく。若林の手をつかみ、引き剥がそうとしている。
「バカヤロウ! 手伝え!」
 バカヤロウはお前の方だ。山本はそう思いながらも鈴木の手を若林から引き剥がした。カンガルーだ。こいつはカンガルーなんだ。人間だと思うから怖くて仕方がないんだ。こいつはあのカンガルーなんだ。車で引かれたカンガルーを、俺たち旅行者が安楽死させてやるんだ。
 鈴木の体が跳ね上がる。山本が弾き飛ばされる。鈴木は驚異的な力で若林をも跳ね除け部屋の中央に仁王立ちした。その目は真っ赤に光っている。
「何を飲ませた?」
 ヒューヒューと声に混じって変な音が聞こえた。
 鈴木がゆっくりと山本に迫ってくる。映画に出てくる出来損ないのゾンビのような動きだった。
 ごん。
 鈍い音がして鈴木の頭が揺れた。山本の目には鈴木が二人になったように見えた。
 ごん。
 また鈍い音がして部屋の中に赤い滴が舞った。山本の顔にも数滴飛んできた。鈴木が床に倒れた。
 若林が顔を引きつらせながら笑っていた。
「ほれ、さっさとやるぞ」
 鈴木の体を布団にくるむと、ビニール紐できつく縛りあげた。重りをつけようとした山本の手を若林がつかむ。
「重りは後だ。落とさないようにどっかにしまって置け」
 山本は部屋を見回した。手ごろなリュックを手に取ると重りを垢に押し込んだ。そうして二人は部屋の明かりを消して、ドアを少しずつ開きながら誰もいないことを確認して鈴木の小包を運び出した。外には、若林の軽トラックが止めてあった。

「睡眠薬なんて使うから面倒になったんだぞ」
 河川敷から鈴木の小包を川に投げ入れると、若林は急におしゃべりになった。
「人を殺したのは初めてか? 俺も始めてさ。こんなこと誰でも出来るわけじゃないさ。だが、裏切り者は生かしておけない。それが組織ってもんだろう? 組織には統制が必要だって福島さんはいつも言ってるのさ。統制っていい言葉だな」
 裏切り者は生かしておけない。山本の胸に響く言葉だ。その言葉を聞くと、心が暗くなる。鈴木は、裏切り者ではなかった。逃亡者だ。そして、この俺も。
 どうか、海まで流れてくれよ。途中でどこかに引っかかったりするなよ。
 山本は、鈴木のリュックを草むらに投げ捨てた。
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