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シャイロック 1
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この世界にある愛はどれも自己愛ばかりで、他人を受け入れる愛情など入り込む隙間はない。
シュウジは左手の親指と中指をこすり合わせて音を鳴らす。その音を聴いていると頭の中のスイッチが次々と切り替わり、気分を変えてくれる。
だが、楽しくはならない。
楽しくは、ならない。
平井川の河川敷に来ると、気分が滅入る。空色のキャンバスに白い雲を書きたいのに白いクレヨンは水色と混ざり合うだけで少しも白くなくて、こんなことならば最初から塗らなければよかったと思うときのような感じだった。
今のシュウジは絵を書かない。
それでも児童院にいた頃、お絵かきの時間があったことは覚えている。
「シュウジ君。お空の色は青でしょ。太陽が出てるなら朝でしょ? どうして黒く塗るの?」
児童院の女は小さなシュウジのさらに小さい手から黒のクレヨンを取り上げて青いクレヨンを持たせようとした。
パチン。
小さなシュウジが青いクレヨンを投げ捨てると、児童院の女は反射的にシュウジの頬を張った。小さなシュウジは女をにらみつけると黒いクレヨンを取り返すべく女の手に飛びついた。その手首に血がにじむほどの痕をつけるほど強く噛み付く。
「何よ、この子!」
女は全力で小さなシュウジを弾き飛ばすと、クレヨンをシュウジに投げつけた。そして、右の手首を押さえてシュウジを見下ろし睨みつける。
「どこにも行く当てがないのに、あたしに逆らうんじゃないわよ!」
ドコニモイクアテガナイノニアタシニサカラウンジャナイワヨ。小さなシュウジにもその魔法の言葉の意味はわかっていた。言うことを聞かない子には児童院の大人たちは魔法の言葉を浴びせることが出来た。その言葉を聴けば、どんなにわがままな子どもだって一瞬で消沈する。小さなシュウジの力が消えた瞬間、女はその首をつかんで物置の中に彼を投げ入れる。そう、まるで枕を押入れに入れに投げ込むようにだ。
パチン。
悲しい響きの鍵が閉まり、小さなシュウジは闇の中に閉じ込められるのだった。
そんなことが一定の周期で何年も繰り返された。
「子どもがいなきゃ、補助金が出ないくせによく言うぜ」
大きくなれば知恵がつく。社会の仕組みも徐々にわかってくる。それでも児童院では守られていた。あんなくそったれのろくでもないクズの集まりがやっているところでも、身寄りの無い子どもが一人で社会に放り出されるよりはましだった。世間で騒がれてもすぐに忘れられる。役所の人間が前もって連絡をしてからやってきて、その時にはどいつもこいつも余所行きの対応になって、悪事はばれることは無い。どんなことが起こっても。
どんなことにひどいことが起こってもニュースになるだけ。
そう、ニュースになるだけ。どれだけ悲惨な死に方をしても、どれほど過酷な思いを持っていても、小さなシュウジが社会の仕組みから飛び出して生きて行こうと思っても、何も出来ずに死ぬだけだ。そして、もっともらしい大人たちが、社会の歪だの闇だのこんな悲惨な事故がだの言って、どんなに長くても五分程度で死んだ子どもの存在などこの社会では忘れ去られてしまう。
いつだって次はかわいい動物の赤ちゃんのニュースだ。それで皆がいとも簡単に忘れてしまう。
思い出されるのは、家族のある奴だけ。愛されている奴だけ。帰る場所のある奴だけ。
パチン。
シュウジは始めから一人だったわけではない。父も母もいた。いた。自然発生的に生まれ出てくることができたなら、胸の中に開いた大きな、それこそ自分の肩幅を越えるような穴なんて開くことは無かっただろう。心の穴は見えない。見えないからこそ、そこに存在するのだ。最初に開いた穴は、極小さな針の先ほどの穴だった。
「うるせぇ!」
父親が二つになる幼いシュウジを殴り飛ばした。中学生が低学年の小学生に向かってその力を誇示するかのように、シュウジの父親は幼い彼をゴムマリのように殴り飛ばした。人形のように力に逆らうことが出来ずに壁に激突し、幼いシュウジはフローリングの上に転がった。視界の右上の方にうっすらと灰色のもやがかかった。
もう一度泣けば、もっとひどい目に合わさられる。
そう思っても、幼いシュウジには泣いて助けを求めることしかできなかった。
「俺は仕事で疲れてるんだよ!」
陶器のマグが幼いシュウジの頭上で破裂した。耳の中に広がる乾いた音。その音は何度も耳の奥でこだまのように響いている。母親は、携帯をいじってばかりで幼いシュウジを見ることもなかった。
パチン。
泣き止まない幼いシュウジに向かって父親が歩いてくる。息の根を止めにやってくる。もやは大きくなっていく。父親の足が大きくなる。その足音にかき消され乾いた音はもう聞こえない。
幼いシュウジが、左手を上げて親指と中指をこすって音を鳴らした。いや、音は聞こえなかった。
その代わり、父親がフローリングの上に倒れこんだ。糸を切られた操り人形のように力なくきれいに、すっきりと。大きな影がなくなったことに気がついたのか母親が父親に駆け寄った。息をしていないのを見ると、幼いシュウジを見た。
「あんたがやったの?」
シュウジは母親の顔を見ていた。
「ねえ、あんたがやったの?」
いつまでも答えない二歳の息子に怯えた母は頭がおかしくなったかのようにわめき散らしだした。
「お前なんか生まなきゃよかったお前なんか生まなきゃよかったお前なんか生まなきゃよかったお前なんか生まなきゃよかったお前なんか生まなきゃよかったお前なんか生まなきゃよかったお前なんか生まなきゃよかったお前なんか生まなきゃよかったお前なんか生まなきゃよかったお前なんか生まなきゃよかったお前なんか生まなきゃよかったお前なんか生まなきゃよかったお前なんか生まなきゃよかったお前なんか生まなきゃよかったお前なんか生まなきゃよかったお前なんか生まなきゃよかったお前なんか生まなきゃよかった」
幼いシュウジの左手が音を立てると、母親が仰向けに倒れた。今度の音はさっきよりも大きかったような気がする。
パチン。
二人とも心不全だったという。両親を失い一人になったとき、胸に最初のかすかな穴が出来た。
同じアパートに住んでいた母の不倫相手が二人の死体と餓死寸前のシュウジを見つけた。
親類は皆口を閉ざし、シュウジの引取りを拒否した。シュウジの両親は共に厄介者だったらしい。そうして仕方なく預けられた先が「小峰幸福の児童院」だった。自らの名前に幸福とつけてしまうようなところには真の幸福は無い。それは辞めていく小さくも良識のある大人たちの絶望がこもった送る言葉だ。幾度と無く事故が頻発している大分問題のある施設であったが、地元政治家に便宜を図ることが上手かったのだろう。シュウジが来てから十一年ほどは存続していた。
そこでは儀式があった。院長の小峰和夫が酒臭い息を振りまいて児童院に寄ってくるときは、大抵の場合、生贄が必要であった。大人たちは自分の身が可愛くて、喜んで子供たちを捧げた。男女の区別など関係なく。いや、むしろ男の子のほうが好まれていたかもしれない。
児童院が閉鎖される年、シュウジの番が回ってきた。
小峰は荒く鼻で呼吸し、興奮を抑えられない様子だった。シュウジは目をつけられていたのかもしれなかった。児童院の女はシュウジを小峰の元に連れてくると、目を伏せたまま足早に去っていった。ご丁寧に鍵まで閉めて。小峰の左手には、茶色い水の入ったグラスが握られている。
「僕はね。シュウジ。この日を待ちわびていたんだよ」
呪いの言葉が独特の粘着性のある声で発せられる。その声と言葉を聴くと、大抵誰もが足がすくんで逃げ出すことが出来なくなってしまう。いや、体が背を向けてもこの閉ざされた空間では、最初から逃げることなんて出来無い。誰も、この芋虫ギョウチュウ野郎から逃げることなんて出来無い。
「シュウジ。君が欲しい物を言ってご覧」
シュウジ。名前を呼ばれるたびに肺の中を蛆虫がのた打ち回っているのを感じるか?
「何でも買ってあげるよ。その代わり」
地獄に悪魔がいるならば、正に今目の前にいるこの芋虫ギョウチュウ野郎がその手先だった。
「今からすることは、内緒だよ」
前の年。大好きだった今では名前も思い出せなくなったキレイな女の子が自殺した。あんなに好きだったのに。いつも無口で独りぼっちで、でもそんなところが自分に似ていて好きだった。儀式の後、数日して誰からも触れられたくないと言って灯油をかぶって自分に火をつけた。
みんな知っていた。
こいつが実は人間じゃないことを。
小峰は、グラスをシュウジに差し出してくる。
「さあ、飲んでごらん。今日はお祝いなんだ」
身動きをしないシュウジに小峰は近づき、ナメクジのような滑らかさで右手を握る。グラスを持たせ、シュウジの口に茶色い水を含ませようとする。強い香りがシュウジの鼻腔に広がった。シュウジは目を見開いた。
力いっぱい小峰を押し倒すと、グラスの中身が胸にかかった。グラスは床の上に落ち砕けた。アルコールの匂いが部屋に広がっていく。
小峰は笑顔を引きつらせながら起き上がった。
「ここを出て行かされたくなかったら、おとなしくいうことを聞くんだ。服を脱げ」
お前を今から調教してやるぞ。小峰は、木刀を取り出してシュウジに迫ってくる。
シュウジはゆっくりと、小峰を見ながらシャツを脱ぎ始めた。
「そうだ。それでいい」
シュウジは左手を前にしてシャツを床に落とす。
「酒くせえからだよ」
「何?」
パチン。
左手で音を鳴らすと、小峰の視線がシュウジから外れて虚空を捕らえる。おそらく小峰はあっちの世界を見ていることだろう。シュウジはドアを蹴飛ばした。空間が揺れて、小峰が床に転がった。小峰は死んだ。
確かめなくてもわかる。この音は、そういう音なんだ。
「院長が! 院長が死んだ!」
それは喜びの叫びだったはずだった。楽しくは無かった。胸に開いた穴が大きくなる。
「早く開けろ」
くそったれの大人たちめ、お前たちは今から失業者だ。誰でもいい、ここから出してくれ。早くしろ、荒野のハイエナたちのほうがお前たちよりも高級な生き物だぞ。早くここを開けろ。お前たちの親玉は死んだんだ。
パチン。
扉が開き、小峰が運ばれ、脳溢血で死んだと言う話を聞かされた。実際に院が閉鎖されたのはそれから二週間がたってからのことだった。
大人たちはめでたく失業者に、僕たちは晴れて自由の身になった。彼らは罪無き虜囚だった。罪人は僕一人だ。そして、僕は彼らから安全を奪ってしまった。
「シュウジ」
ここだったんだ。また、ここだったんだ。お前は何時もここにいるな。みんなで逃げ出してから二年以上経つのに、ここがお前の家なのか? お前は川で生まれたのか? 何で俺たちと一緒に園で暮らさないんだ?
後ろから声をかけてきたのは罪無き虜囚の一人だった。あの頃から背が伸びて、顔も少し大人になっている。名前は、
「和也か」
和也は誰か連れていた。見知らぬ少年だった。
「殺して欲しいやつがいるんだけどよ」
幸薄そうな少年がガムをかみながら話しかけてくる。
「殺すか殺さないかは、俺が決める」
幸薄そうな少年は、「あぁ?」と粋がってくる。
ナイフで刺したいんなら自分でやれよ。人にやらせようとする奴は、糞転がし以下だ。テロリストでもヤクザでも。偉ぶる奴ほど下の世話は他人任せになる。
「俺は、人は殺さない。殺すのは、人間じゃない奴だけさ」
シュウジの光の無い目に幸薄そうな少年は飲まれてしまった。
この世界にある愛はどれも自己愛ばかりで、他人を受け入れる愛情など入り込む隙間はない。
シュウジは左手の親指と中指をこすり合わせて音を鳴らす。その音を聴いていると頭の中のスイッチが次々と切り替わり、気分を変えてくれる。
だが、楽しくはならない。
楽しくは、ならない。
平井川の河川敷に来ると、気分が滅入る。空色のキャンバスに白い雲を書きたいのに白いクレヨンは水色と混ざり合うだけで少しも白くなくて、こんなことならば最初から塗らなければよかったと思うときのような感じだった。
今のシュウジは絵を書かない。
それでも児童院にいた頃、お絵かきの時間があったことは覚えている。
「シュウジ君。お空の色は青でしょ。太陽が出てるなら朝でしょ? どうして黒く塗るの?」
児童院の女は小さなシュウジのさらに小さい手から黒のクレヨンを取り上げて青いクレヨンを持たせようとした。
パチン。
小さなシュウジが青いクレヨンを投げ捨てると、児童院の女は反射的にシュウジの頬を張った。小さなシュウジは女をにらみつけると黒いクレヨンを取り返すべく女の手に飛びついた。その手首に血がにじむほどの痕をつけるほど強く噛み付く。
「何よ、この子!」
女は全力で小さなシュウジを弾き飛ばすと、クレヨンをシュウジに投げつけた。そして、右の手首を押さえてシュウジを見下ろし睨みつける。
「どこにも行く当てがないのに、あたしに逆らうんじゃないわよ!」
ドコニモイクアテガナイノニアタシニサカラウンジャナイワヨ。小さなシュウジにもその魔法の言葉の意味はわかっていた。言うことを聞かない子には児童院の大人たちは魔法の言葉を浴びせることが出来た。その言葉を聴けば、どんなにわがままな子どもだって一瞬で消沈する。小さなシュウジの力が消えた瞬間、女はその首をつかんで物置の中に彼を投げ入れる。そう、まるで枕を押入れに入れに投げ込むようにだ。
パチン。
悲しい響きの鍵が閉まり、小さなシュウジは闇の中に閉じ込められるのだった。
そんなことが一定の周期で何年も繰り返された。
「子どもがいなきゃ、補助金が出ないくせによく言うぜ」
大きくなれば知恵がつく。社会の仕組みも徐々にわかってくる。それでも児童院では守られていた。あんなくそったれのろくでもないクズの集まりがやっているところでも、身寄りの無い子どもが一人で社会に放り出されるよりはましだった。世間で騒がれてもすぐに忘れられる。役所の人間が前もって連絡をしてからやってきて、その時にはどいつもこいつも余所行きの対応になって、悪事はばれることは無い。どんなことが起こっても。
どんなことにひどいことが起こってもニュースになるだけ。
そう、ニュースになるだけ。どれだけ悲惨な死に方をしても、どれほど過酷な思いを持っていても、小さなシュウジが社会の仕組みから飛び出して生きて行こうと思っても、何も出来ずに死ぬだけだ。そして、もっともらしい大人たちが、社会の歪だの闇だのこんな悲惨な事故がだの言って、どんなに長くても五分程度で死んだ子どもの存在などこの社会では忘れ去られてしまう。
いつだって次はかわいい動物の赤ちゃんのニュースだ。それで皆がいとも簡単に忘れてしまう。
思い出されるのは、家族のある奴だけ。愛されている奴だけ。帰る場所のある奴だけ。
パチン。
シュウジは始めから一人だったわけではない。父も母もいた。いた。自然発生的に生まれ出てくることができたなら、胸の中に開いた大きな、それこそ自分の肩幅を越えるような穴なんて開くことは無かっただろう。心の穴は見えない。見えないからこそ、そこに存在するのだ。最初に開いた穴は、極小さな針の先ほどの穴だった。
「うるせぇ!」
父親が二つになる幼いシュウジを殴り飛ばした。中学生が低学年の小学生に向かってその力を誇示するかのように、シュウジの父親は幼い彼をゴムマリのように殴り飛ばした。人形のように力に逆らうことが出来ずに壁に激突し、幼いシュウジはフローリングの上に転がった。視界の右上の方にうっすらと灰色のもやがかかった。
もう一度泣けば、もっとひどい目に合わさられる。
そう思っても、幼いシュウジには泣いて助けを求めることしかできなかった。
「俺は仕事で疲れてるんだよ!」
陶器のマグが幼いシュウジの頭上で破裂した。耳の中に広がる乾いた音。その音は何度も耳の奥でこだまのように響いている。母親は、携帯をいじってばかりで幼いシュウジを見ることもなかった。
パチン。
泣き止まない幼いシュウジに向かって父親が歩いてくる。息の根を止めにやってくる。もやは大きくなっていく。父親の足が大きくなる。その足音にかき消され乾いた音はもう聞こえない。
幼いシュウジが、左手を上げて親指と中指をこすって音を鳴らした。いや、音は聞こえなかった。
その代わり、父親がフローリングの上に倒れこんだ。糸を切られた操り人形のように力なくきれいに、すっきりと。大きな影がなくなったことに気がついたのか母親が父親に駆け寄った。息をしていないのを見ると、幼いシュウジを見た。
「あんたがやったの?」
シュウジは母親の顔を見ていた。
「ねえ、あんたがやったの?」
いつまでも答えない二歳の息子に怯えた母は頭がおかしくなったかのようにわめき散らしだした。
「お前なんか生まなきゃよかったお前なんか生まなきゃよかったお前なんか生まなきゃよかったお前なんか生まなきゃよかったお前なんか生まなきゃよかったお前なんか生まなきゃよかったお前なんか生まなきゃよかったお前なんか生まなきゃよかったお前なんか生まなきゃよかったお前なんか生まなきゃよかったお前なんか生まなきゃよかったお前なんか生まなきゃよかったお前なんか生まなきゃよかったお前なんか生まなきゃよかったお前なんか生まなきゃよかったお前なんか生まなきゃよかったお前なんか生まなきゃよかった」
幼いシュウジの左手が音を立てると、母親が仰向けに倒れた。今度の音はさっきよりも大きかったような気がする。
パチン。
二人とも心不全だったという。両親を失い一人になったとき、胸に最初のかすかな穴が出来た。
同じアパートに住んでいた母の不倫相手が二人の死体と餓死寸前のシュウジを見つけた。
親類は皆口を閉ざし、シュウジの引取りを拒否した。シュウジの両親は共に厄介者だったらしい。そうして仕方なく預けられた先が「小峰幸福の児童院」だった。自らの名前に幸福とつけてしまうようなところには真の幸福は無い。それは辞めていく小さくも良識のある大人たちの絶望がこもった送る言葉だ。幾度と無く事故が頻発している大分問題のある施設であったが、地元政治家に便宜を図ることが上手かったのだろう。シュウジが来てから十一年ほどは存続していた。
そこでは儀式があった。院長の小峰和夫が酒臭い息を振りまいて児童院に寄ってくるときは、大抵の場合、生贄が必要であった。大人たちは自分の身が可愛くて、喜んで子供たちを捧げた。男女の区別など関係なく。いや、むしろ男の子のほうが好まれていたかもしれない。
児童院が閉鎖される年、シュウジの番が回ってきた。
小峰は荒く鼻で呼吸し、興奮を抑えられない様子だった。シュウジは目をつけられていたのかもしれなかった。児童院の女はシュウジを小峰の元に連れてくると、目を伏せたまま足早に去っていった。ご丁寧に鍵まで閉めて。小峰の左手には、茶色い水の入ったグラスが握られている。
「僕はね。シュウジ。この日を待ちわびていたんだよ」
呪いの言葉が独特の粘着性のある声で発せられる。その声と言葉を聴くと、大抵誰もが足がすくんで逃げ出すことが出来なくなってしまう。いや、体が背を向けてもこの閉ざされた空間では、最初から逃げることなんて出来無い。誰も、この芋虫ギョウチュウ野郎から逃げることなんて出来無い。
「シュウジ。君が欲しい物を言ってご覧」
シュウジ。名前を呼ばれるたびに肺の中を蛆虫がのた打ち回っているのを感じるか?
「何でも買ってあげるよ。その代わり」
地獄に悪魔がいるならば、正に今目の前にいるこの芋虫ギョウチュウ野郎がその手先だった。
「今からすることは、内緒だよ」
前の年。大好きだった今では名前も思い出せなくなったキレイな女の子が自殺した。あんなに好きだったのに。いつも無口で独りぼっちで、でもそんなところが自分に似ていて好きだった。儀式の後、数日して誰からも触れられたくないと言って灯油をかぶって自分に火をつけた。
みんな知っていた。
こいつが実は人間じゃないことを。
小峰は、グラスをシュウジに差し出してくる。
「さあ、飲んでごらん。今日はお祝いなんだ」
身動きをしないシュウジに小峰は近づき、ナメクジのような滑らかさで右手を握る。グラスを持たせ、シュウジの口に茶色い水を含ませようとする。強い香りがシュウジの鼻腔に広がった。シュウジは目を見開いた。
力いっぱい小峰を押し倒すと、グラスの中身が胸にかかった。グラスは床の上に落ち砕けた。アルコールの匂いが部屋に広がっていく。
小峰は笑顔を引きつらせながら起き上がった。
「ここを出て行かされたくなかったら、おとなしくいうことを聞くんだ。服を脱げ」
お前を今から調教してやるぞ。小峰は、木刀を取り出してシュウジに迫ってくる。
シュウジはゆっくりと、小峰を見ながらシャツを脱ぎ始めた。
「そうだ。それでいい」
シュウジは左手を前にしてシャツを床に落とす。
「酒くせえからだよ」
「何?」
パチン。
左手で音を鳴らすと、小峰の視線がシュウジから外れて虚空を捕らえる。おそらく小峰はあっちの世界を見ていることだろう。シュウジはドアを蹴飛ばした。空間が揺れて、小峰が床に転がった。小峰は死んだ。
確かめなくてもわかる。この音は、そういう音なんだ。
「院長が! 院長が死んだ!」
それは喜びの叫びだったはずだった。楽しくは無かった。胸に開いた穴が大きくなる。
「早く開けろ」
くそったれの大人たちめ、お前たちは今から失業者だ。誰でもいい、ここから出してくれ。早くしろ、荒野のハイエナたちのほうがお前たちよりも高級な生き物だぞ。早くここを開けろ。お前たちの親玉は死んだんだ。
パチン。
扉が開き、小峰が運ばれ、脳溢血で死んだと言う話を聞かされた。実際に院が閉鎖されたのはそれから二週間がたってからのことだった。
大人たちはめでたく失業者に、僕たちは晴れて自由の身になった。彼らは罪無き虜囚だった。罪人は僕一人だ。そして、僕は彼らから安全を奪ってしまった。
「シュウジ」
ここだったんだ。また、ここだったんだ。お前は何時もここにいるな。みんなで逃げ出してから二年以上経つのに、ここがお前の家なのか? お前は川で生まれたのか? 何で俺たちと一緒に園で暮らさないんだ?
後ろから声をかけてきたのは罪無き虜囚の一人だった。あの頃から背が伸びて、顔も少し大人になっている。名前は、
「和也か」
和也は誰か連れていた。見知らぬ少年だった。
「殺して欲しいやつがいるんだけどよ」
幸薄そうな少年がガムをかみながら話しかけてくる。
「殺すか殺さないかは、俺が決める」
幸薄そうな少年は、「あぁ?」と粋がってくる。
ナイフで刺したいんなら自分でやれよ。人にやらせようとする奴は、糞転がし以下だ。テロリストでもヤクザでも。偉ぶる奴ほど下の世話は他人任せになる。
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