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第二話
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1
怨念とはなんだろうか。誰かを憎んでその意思がこの世に残るのだとしたら、生前、無残に殺された人間はずっと残留しているだろう。ずっとこの世にあり続け苦しみ続ける。地獄とはこういうものだろうか。
そうだとするのならばあまりにも無念すぎるし、救いがないと思う。
僧侶が経を読み死者を極楽浄土へ導く。そうして、苦しみ抜いた死者はこの世を離れるはずである。それなのにしばらく経つと、怨念は甦る。神主でも司祭でも、結局は戻ってくる。それはなぜか。
知人の葬儀であるお坊さんがこんなことを言っていた。
「死者はもう別の道を歩き出しました。私たちはまだこちらの道を歩いていますから死者のことを思い出して、さぞ無念だっただろうとかもっと生きていたかっただろうと思い起こすのです。すると、死者の方もこちらを気になって成仏とならないのです。死者が仏になろうと言うのを妨げているのは我々生者なのです」
とするならば、怨念を生み出しているのは死者ではなく生者である我々なのだ。死者に対する恐れや興味が念という形で放出される。それが吹き溜まりの埃のように集まった時に怨念が生ずるのではないだろうか。
怨念を生み出しているのは不特定多数の生者なのだ。有名であればあるほど怨念の復活が早く、祓っても祓っても蘇ってくる。これは都市伝説でも同じことが言えるだろう。
こんな話がある。
金縛りというのは全世界共通の出来事であるという。しかし、そこで出現するある種の存在に違いが現れるという。
映画で有名なあの国の国民の多くはそこに「宇宙人」がやってくるという。宗教信者であれば「天使」や「悪魔」が現れ、日本人であれば「武士」「着物の幽霊」「軍人」「知人」となるわけだ。
睡眠時にある種の念を拾うことにより、金縛りになりこのような体験をするのではないだろうか。
2
「川相さん」
山本氏はメガネを掛けた長身で細身の男で姿勢が悪いのでそれほど背が高いとは思えないのだが、声は微妙に低く聞き取りづらい。出版社に資料を受け取りに来て、駅前で昼食を食べて帰る予定だったが山本氏に呼び止められて自販機の前でコーヒーを飲むことになった。
「川相さん、知ってますか? 田沼なんとかっていう怨霊がいるっていう話」
「なんですか? 田沼意次か何かの話ですか? 怨霊になるような人物かなぁ」
「違うんですよ。女です」
「あぁ。じゃあ、わからないなぁ」
「川相さんが知らないって言うと、相当マイナーな怨霊なんだなぁ」
「なにそれ。で、どんな怨霊なんですか?」
私は趣味で心霊現象を調べている。それを時々まとめてホームページなどで公開していたら、この出版社から書籍化しないかという話が来て、それ以来ときどき来ては資料をもらって現行を書き本を出してもらっている。怨霊考察シリーズはあまり売れていないが、その手の雑誌では人気の本である。
「それがよくわからないんですよ」
「よくわからない?」
山本氏の話では、田沼なんとかという女の怨霊は姿形も不明で、しばらくするとその名前も忘れてしまうようなそんな存在だという。私の研究では、そう言った怨霊は非常に珍しい。怨霊は常に名前を残す。名前を残すことでこの世に生き続けるのだ。そのために忘れられてしまうようなものは怨霊にはなりにくい。今までの考察ではそう考えてきた。
「変わってますね」
忘れられる存在が怨霊として存在する。何か理由があるのか、それとも怨霊のレベルそのものが低いのか。事実、このことはすぐに忘れてしまった。通常であればどんな話でも一応はメモに残すのだが、この件については何も残していなかった。確か、この後すぐに別の都市伝説で盛り上がってしまって、そのせいかもしれない。
3
この怨霊について思い出すきっかけになったのは、山本氏の突然死が原因だった。葬儀で話を聞いているとすぐに変なワードが集まってくるのだった。
「隣って空き部屋だったんだろ?」
「それがね、その女。前に住んでいたわけじゃ無いんだってさ。なんか前に住んでいた男の別れた彼女とかなんかそんなんだったらしい」
「なんか隣の部屋から覗かれてたんじゃないかって。その女ストーカーだったみたいなのよ」
「自殺した女には身寄りがないらしいのよ。警察からあたしのところまで電話が来たのよ。タヌマテイコさんをご存知ですか? って」
「最近の山本さ、ちょっとおかしかったよな。なんか調べ物に没頭していたっていうか、ちょっと忙しすぎっていうか」
「ご両親も気落ちしててなんか可愛そうだったな」
山本氏はアパートで隣の部屋のガス自殺に巻き込まれた。
自殺した女は以前にこの部屋に住んでいた男の元交際相手で男が引っ越したことを恨みに思いガス自殺を図った。不運にも隣の部屋との壁に穴が生じており、その穴からガスが山本氏の部屋に入り、山本氏を巻き添えにする形で女は死んだのだ。その女の名前を聞いた時、どこかで聞き覚えのある名前だと思ったのだ。
タヌマテイコ。
生前の山本氏と最後にあった時に出てきた田沼という女の怨霊と同じ名字だ。偶然というものは恐ろしくもある。山本氏は田沼という苗字の女の自殺に偶然にも巻き込まれて死んだのだ。これがもし、隣に誰もおらずに山本氏だけが死んでいたならば、怨霊の存在を考えたかもしれない。
不運な事故だった。
帰りのタクシーの中で同行していた編集者から変な話を聞いた。
「隣の部屋、アパートが建ってからずっと女性しか借り手がいなかったそうですよ。それで当時となりに住んでいた男が壁に穴を開けて覗きをしていて、女性の苦情を受けて大家が何度も注意をしていてそれでも聞かないんで退去させられて、壁の穴はすぐに塞いだそうなんですけど、変な噂が続いてどの部屋もしばらく借り手がなかったそうです。最近になって山本が会社に近いところを借りたいってことで入居したそうなんですよ」
「自殺したストーカーの女って言うのは交際相手の彼女の家で自殺したっていう感じになるんですかね」
「そうなりますかね」
「山本さんも不運でしたね」
しんみりした気持ちになると不意に車内が静かになり、ラジオのニュースの声が耳に入った。
「この事故で亡くなったのはタカヤスミキオさん、タカヤスハナコさん、タカヤスリョウスケさん、イケダモリオさん、タヌマテイコさん、タナカロクロウさんの6名です。事故は高速道路を逆走した車を避けようとして発生したものと警察で……」
タクシーの運転手は、ニュースが終わらないうちにラジオを変えてしまった。
「すみません。野球が気になっちゃって」
4
タヌマテイコについて思い出すきっかけになったのは、先日不運にも自殺に巻き込まれて亡くなった山本氏から電子メールが来ていたことだった。
迷惑メールフォルダを処理しようとぼんやり眺めていたら、その一覧に入っていた山本氏からのメールが目に止まった。件名は「すみません。忘れてください」と書いてある。何のことだろうと思いメールをクリックする。一瞬、ディスプレイが明滅する。
そこには短い文が一行だけ書かれていた。
田沼汀子のことは忘れてください。
日付は、時刻はわからなかったが山本氏が亡くなったその日だった。メールの内容が謎だったので一瞬、誰かの悪戯なのかと思ったがここでも出てきた田沼の名前になにか嫌なものを感じたのも事実だった。
その昔、生け贄を選ぶ際に候補の家の屋根に白羽の矢が立てられるというが、このメールにも何かそのような不気味さを感じたのだ。正直、このメールを開くまで女の怨霊田沼のことなどすっかり忘れていたからだ。それが、「忘れてください」と言う言葉で、返って強調される結果になった。明らかに呼び込まれた。
「これはひどいよ。山本さん」
色々な怨霊を研究している私としては、これは非常に良くないことだと思った。山本氏の善意は「完全なる無意識による悪意」で、怨霊の持つ伝染性を意味しているのだ。この伝染性が強くなった時、怨霊はこの世に蘇る。それはなんだろう。男の子なら誰しもが子どもの頃にブロックを組み立てて遊んだことがあると思うが、あれと同じような感じで怨霊は様々な人の念をブロックのように集めては組み立て、ある瞬間に不意に姿を現すのだ。
そのブロック集めの1ピースとして私は選ばれたのだ。厄介なことにこの怨霊は相当なしつこさを持っていて、山本氏はおそらく自殺に巻き込まれたのではなく、怨霊に殺されたのだ。
怨霊にとっては我々のような怨霊について調べている人間ほど、ブロック集めの対象に適した人材はないだろう。我々や我々の知識は一般人よりも怨霊を具現化しやすい。
当然、こんな時はどうするかもよく理解している。怨霊に向かう場合、忘れるということが一番有効な手段だ。引きずってしまえば逆に引きずり込まれてしまう。だから、山本氏のようなおそらく「死に際の善意の忠告」はかえって逆効果になる。山本氏もそれをよく知っていたと思うが、とすれば怨霊の存在は相当に大きく強いのだろう。山本氏の意識を操るくらいの恐怖を与えたのだ。
迷惑メールを一斉削除する。パソコンの前で深く溜息をつく。こんな時は慌ててはいけない。この怨霊がどんなパターンを持っているのかを冷静に判断しなければいけない。
まずは田沼汀子がどこの誰なのかを知らなければいけない。聞き慣れないこの名前はおそらく最近になって発生した怨霊なのだろう。その出処が解れば対応は容易い。
ブラウザを立ち上げて、早速この名前を検索してみる。
田沼汀子。田沼汀子と言う名前が死亡事故によく出てくる名前。また田沼汀子が死者の名前に。田沼汀子ってなにもの? 田沼汀子を調べるな。田沼汀子は怨霊。田沼製薬。田沼汀子病院。田沼沼田。……。
などと様々だった。その中で死亡事故によく出てくる名前というのが気になったのでクリックしてみる。それは書きかけだったが、どうやら都市伝説のようだ。
5
この記事を書いたAさんは死亡事故のニュースの中で、かなりの頻度出てくる名前を偶然発見する。それが田沼汀子だった。気になったAさんは担当した警察に電話をかけるなどしてできうる限りの調査をしてみたようである。協力的な地域もあれば対応を拒否する地域もあったようだ。その中でわかったことを幾つか記しておく。
田沼汀子とは名前が身元がよくわからない者に使われる偽名ではないか。
間違った資料の混在によって田沼汀子という名前になってしまったのではないか。
たまたまの同姓同名。または本人。
または本人とはどういうことなのか。このことについて触れることなくAさんの調査報告は尻切れトンボのような形で終わってしまっていた。
気になったので今はどういう結果にたどり着いたのか聞いてみたいと思っているとちょうどホームページにメールアドレスがあったので申し込んでみる。
そのまま別のサイトを見て回ったり、適当に飯をくったり時間を潰しているといつの間にか返信が来ていた。残念ですが、という件名で送られてきた返信にはAさんの奥さんを名乗る女性からでこう書かれていた。
この度はご連絡をいただきまして誠に嬉しく思っております。
主人は先月亡くなったため、取材をお受けすることは出来ません。
本サイトも近々閉鎖いたしますので、これ以上のご連絡はご遠慮願います。
と、こんな感じだった。Aさんがどんな亡くなり方をしたのかメールで聞いてみたがこの返事はいくら待っても来なかった。
となればである。こちらから先方の家に出向きせめてデータだけでも譲ってもらえないかの交渉をしようと思いついた。
出版社に連絡をしてAさんとの繋がりがある人物がいないか調べてもらうと、案外あっさりと仲介をしてくれるJ氏を紹介してくれた。
J氏は時々テレビに出る方でAさんの奥さんとも面識があるようでとても心強い存在だった。
数日後に家の鍵が入った封筒が送られてきた。その中に入っていた手紙にはAさんの仕事場であったマンションまでの簡単な地図が書かれていて、資料は好きな物を自由に持ってください。と書かれていた。
6
マンションというとどこか高そうなイメージを持っていたがA氏の仕事場のあるマンションは文字にして表記するならば団地だ。おそらく築30年以上は経っているだろう。それでも近隣ではエレベータのある物件は少ないのだろう。マンションという看板を誇らしげに掲げていた。
入り口ホールの共有部分にある郵便受けはどの部屋もチラシが詰まっている。そういえば人気があまり感じられない。今時の人はこういう古いマンションよりももっと暮らしやすい小綺麗なアパートを選ぶのかもしれない。
ホールを奥に進んでいくとエレベータがある。Aさんの仕事場は6階だ。上着のポケットの中を探る。大丈夫だ。鍵はここにある。
エレベータに乗り込もうとすると、後ろから追い抜いてきた女が先に乗り込んだ。中肉中背。猫背のせいでやや背が小さく見える。ホールが薄暗いせいで顔は見えない。上は灰色のニット、下も灰色でスキニーパンツのようだ。長い黒髪は手入れが悪くはねていた。わりとどこにでもいる迷惑な住人と言う感じだった。
ため息をついてエレベータに乗る。ボタンを押そうとすると灰色の女がまたも割り込んでくる。ボタンを押す灰色の手袋の指先には、黄ばんだプラスチックの爪のようなものが……。灰色の手袋?
ドアが閉まる。
灰色の女をよく見る。エレベータの中の明かりでさっきより見えるようになって気がついた。この灰色の女は、裸だった。その肌は泥が塗られた後すっかりと乾ききったようにボロボロだった。女はなにかつぶやきながら、イライラをボタンにぶつけるように定期的だったが何度も何度も滅茶苦茶に押しまくっている。この状況は明らかに普通じゃない。
エレベータは動き出す。灰色の女の隙を突いて2階と3階のボタンを押すが反応はしなかった。2階も3階もあっという間に通り過ぎていく。4階、5階も同じだった。6階に着くとエレベータが止まった。
扉が開いたら、逃げ出そう。ここにいちゃダメだ。
扉が開く瞬間を今か今かと待った。だが、いつまで経っても扉は開かなかった。
天井の蛍光灯が瞬く。女は身動きせずに静かに立っている。不気味なほどの静けさ。
耳元で女の声が聞こえた。
「死にたくない死にたくない死にたくない」
がくんとエレベーターが揺れた。ふわっと体が浮いた感じがして外を見ると景色が下から上にあっという間に流れていった。
最後は真っ暗になった。
怨念とはなんだろうか。誰かを憎んでその意思がこの世に残るのだとしたら、生前、無残に殺された人間はずっと残留しているだろう。ずっとこの世にあり続け苦しみ続ける。地獄とはこういうものだろうか。
そうだとするのならばあまりにも無念すぎるし、救いがないと思う。
僧侶が経を読み死者を極楽浄土へ導く。そうして、苦しみ抜いた死者はこの世を離れるはずである。それなのにしばらく経つと、怨念は甦る。神主でも司祭でも、結局は戻ってくる。それはなぜか。
知人の葬儀であるお坊さんがこんなことを言っていた。
「死者はもう別の道を歩き出しました。私たちはまだこちらの道を歩いていますから死者のことを思い出して、さぞ無念だっただろうとかもっと生きていたかっただろうと思い起こすのです。すると、死者の方もこちらを気になって成仏とならないのです。死者が仏になろうと言うのを妨げているのは我々生者なのです」
とするならば、怨念を生み出しているのは死者ではなく生者である我々なのだ。死者に対する恐れや興味が念という形で放出される。それが吹き溜まりの埃のように集まった時に怨念が生ずるのではないだろうか。
怨念を生み出しているのは不特定多数の生者なのだ。有名であればあるほど怨念の復活が早く、祓っても祓っても蘇ってくる。これは都市伝説でも同じことが言えるだろう。
こんな話がある。
金縛りというのは全世界共通の出来事であるという。しかし、そこで出現するある種の存在に違いが現れるという。
映画で有名なあの国の国民の多くはそこに「宇宙人」がやってくるという。宗教信者であれば「天使」や「悪魔」が現れ、日本人であれば「武士」「着物の幽霊」「軍人」「知人」となるわけだ。
睡眠時にある種の念を拾うことにより、金縛りになりこのような体験をするのではないだろうか。
2
「川相さん」
山本氏はメガネを掛けた長身で細身の男で姿勢が悪いのでそれほど背が高いとは思えないのだが、声は微妙に低く聞き取りづらい。出版社に資料を受け取りに来て、駅前で昼食を食べて帰る予定だったが山本氏に呼び止められて自販機の前でコーヒーを飲むことになった。
「川相さん、知ってますか? 田沼なんとかっていう怨霊がいるっていう話」
「なんですか? 田沼意次か何かの話ですか? 怨霊になるような人物かなぁ」
「違うんですよ。女です」
「あぁ。じゃあ、わからないなぁ」
「川相さんが知らないって言うと、相当マイナーな怨霊なんだなぁ」
「なにそれ。で、どんな怨霊なんですか?」
私は趣味で心霊現象を調べている。それを時々まとめてホームページなどで公開していたら、この出版社から書籍化しないかという話が来て、それ以来ときどき来ては資料をもらって現行を書き本を出してもらっている。怨霊考察シリーズはあまり売れていないが、その手の雑誌では人気の本である。
「それがよくわからないんですよ」
「よくわからない?」
山本氏の話では、田沼なんとかという女の怨霊は姿形も不明で、しばらくするとその名前も忘れてしまうようなそんな存在だという。私の研究では、そう言った怨霊は非常に珍しい。怨霊は常に名前を残す。名前を残すことでこの世に生き続けるのだ。そのために忘れられてしまうようなものは怨霊にはなりにくい。今までの考察ではそう考えてきた。
「変わってますね」
忘れられる存在が怨霊として存在する。何か理由があるのか、それとも怨霊のレベルそのものが低いのか。事実、このことはすぐに忘れてしまった。通常であればどんな話でも一応はメモに残すのだが、この件については何も残していなかった。確か、この後すぐに別の都市伝説で盛り上がってしまって、そのせいかもしれない。
3
この怨霊について思い出すきっかけになったのは、山本氏の突然死が原因だった。葬儀で話を聞いているとすぐに変なワードが集まってくるのだった。
「隣って空き部屋だったんだろ?」
「それがね、その女。前に住んでいたわけじゃ無いんだってさ。なんか前に住んでいた男の別れた彼女とかなんかそんなんだったらしい」
「なんか隣の部屋から覗かれてたんじゃないかって。その女ストーカーだったみたいなのよ」
「自殺した女には身寄りがないらしいのよ。警察からあたしのところまで電話が来たのよ。タヌマテイコさんをご存知ですか? って」
「最近の山本さ、ちょっとおかしかったよな。なんか調べ物に没頭していたっていうか、ちょっと忙しすぎっていうか」
「ご両親も気落ちしててなんか可愛そうだったな」
山本氏はアパートで隣の部屋のガス自殺に巻き込まれた。
自殺した女は以前にこの部屋に住んでいた男の元交際相手で男が引っ越したことを恨みに思いガス自殺を図った。不運にも隣の部屋との壁に穴が生じており、その穴からガスが山本氏の部屋に入り、山本氏を巻き添えにする形で女は死んだのだ。その女の名前を聞いた時、どこかで聞き覚えのある名前だと思ったのだ。
タヌマテイコ。
生前の山本氏と最後にあった時に出てきた田沼という女の怨霊と同じ名字だ。偶然というものは恐ろしくもある。山本氏は田沼という苗字の女の自殺に偶然にも巻き込まれて死んだのだ。これがもし、隣に誰もおらずに山本氏だけが死んでいたならば、怨霊の存在を考えたかもしれない。
不運な事故だった。
帰りのタクシーの中で同行していた編集者から変な話を聞いた。
「隣の部屋、アパートが建ってからずっと女性しか借り手がいなかったそうですよ。それで当時となりに住んでいた男が壁に穴を開けて覗きをしていて、女性の苦情を受けて大家が何度も注意をしていてそれでも聞かないんで退去させられて、壁の穴はすぐに塞いだそうなんですけど、変な噂が続いてどの部屋もしばらく借り手がなかったそうです。最近になって山本が会社に近いところを借りたいってことで入居したそうなんですよ」
「自殺したストーカーの女って言うのは交際相手の彼女の家で自殺したっていう感じになるんですかね」
「そうなりますかね」
「山本さんも不運でしたね」
しんみりした気持ちになると不意に車内が静かになり、ラジオのニュースの声が耳に入った。
「この事故で亡くなったのはタカヤスミキオさん、タカヤスハナコさん、タカヤスリョウスケさん、イケダモリオさん、タヌマテイコさん、タナカロクロウさんの6名です。事故は高速道路を逆走した車を避けようとして発生したものと警察で……」
タクシーの運転手は、ニュースが終わらないうちにラジオを変えてしまった。
「すみません。野球が気になっちゃって」
4
タヌマテイコについて思い出すきっかけになったのは、先日不運にも自殺に巻き込まれて亡くなった山本氏から電子メールが来ていたことだった。
迷惑メールフォルダを処理しようとぼんやり眺めていたら、その一覧に入っていた山本氏からのメールが目に止まった。件名は「すみません。忘れてください」と書いてある。何のことだろうと思いメールをクリックする。一瞬、ディスプレイが明滅する。
そこには短い文が一行だけ書かれていた。
田沼汀子のことは忘れてください。
日付は、時刻はわからなかったが山本氏が亡くなったその日だった。メールの内容が謎だったので一瞬、誰かの悪戯なのかと思ったがここでも出てきた田沼の名前になにか嫌なものを感じたのも事実だった。
その昔、生け贄を選ぶ際に候補の家の屋根に白羽の矢が立てられるというが、このメールにも何かそのような不気味さを感じたのだ。正直、このメールを開くまで女の怨霊田沼のことなどすっかり忘れていたからだ。それが、「忘れてください」と言う言葉で、返って強調される結果になった。明らかに呼び込まれた。
「これはひどいよ。山本さん」
色々な怨霊を研究している私としては、これは非常に良くないことだと思った。山本氏の善意は「完全なる無意識による悪意」で、怨霊の持つ伝染性を意味しているのだ。この伝染性が強くなった時、怨霊はこの世に蘇る。それはなんだろう。男の子なら誰しもが子どもの頃にブロックを組み立てて遊んだことがあると思うが、あれと同じような感じで怨霊は様々な人の念をブロックのように集めては組み立て、ある瞬間に不意に姿を現すのだ。
そのブロック集めの1ピースとして私は選ばれたのだ。厄介なことにこの怨霊は相当なしつこさを持っていて、山本氏はおそらく自殺に巻き込まれたのではなく、怨霊に殺されたのだ。
怨霊にとっては我々のような怨霊について調べている人間ほど、ブロック集めの対象に適した人材はないだろう。我々や我々の知識は一般人よりも怨霊を具現化しやすい。
当然、こんな時はどうするかもよく理解している。怨霊に向かう場合、忘れるということが一番有効な手段だ。引きずってしまえば逆に引きずり込まれてしまう。だから、山本氏のようなおそらく「死に際の善意の忠告」はかえって逆効果になる。山本氏もそれをよく知っていたと思うが、とすれば怨霊の存在は相当に大きく強いのだろう。山本氏の意識を操るくらいの恐怖を与えたのだ。
迷惑メールを一斉削除する。パソコンの前で深く溜息をつく。こんな時は慌ててはいけない。この怨霊がどんなパターンを持っているのかを冷静に判断しなければいけない。
まずは田沼汀子がどこの誰なのかを知らなければいけない。聞き慣れないこの名前はおそらく最近になって発生した怨霊なのだろう。その出処が解れば対応は容易い。
ブラウザを立ち上げて、早速この名前を検索してみる。
田沼汀子。田沼汀子と言う名前が死亡事故によく出てくる名前。また田沼汀子が死者の名前に。田沼汀子ってなにもの? 田沼汀子を調べるな。田沼汀子は怨霊。田沼製薬。田沼汀子病院。田沼沼田。……。
などと様々だった。その中で死亡事故によく出てくる名前というのが気になったのでクリックしてみる。それは書きかけだったが、どうやら都市伝説のようだ。
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この記事を書いたAさんは死亡事故のニュースの中で、かなりの頻度出てくる名前を偶然発見する。それが田沼汀子だった。気になったAさんは担当した警察に電話をかけるなどしてできうる限りの調査をしてみたようである。協力的な地域もあれば対応を拒否する地域もあったようだ。その中でわかったことを幾つか記しておく。
田沼汀子とは名前が身元がよくわからない者に使われる偽名ではないか。
間違った資料の混在によって田沼汀子という名前になってしまったのではないか。
たまたまの同姓同名。または本人。
または本人とはどういうことなのか。このことについて触れることなくAさんの調査報告は尻切れトンボのような形で終わってしまっていた。
気になったので今はどういう結果にたどり着いたのか聞いてみたいと思っているとちょうどホームページにメールアドレスがあったので申し込んでみる。
そのまま別のサイトを見て回ったり、適当に飯をくったり時間を潰しているといつの間にか返信が来ていた。残念ですが、という件名で送られてきた返信にはAさんの奥さんを名乗る女性からでこう書かれていた。
この度はご連絡をいただきまして誠に嬉しく思っております。
主人は先月亡くなったため、取材をお受けすることは出来ません。
本サイトも近々閉鎖いたしますので、これ以上のご連絡はご遠慮願います。
と、こんな感じだった。Aさんがどんな亡くなり方をしたのかメールで聞いてみたがこの返事はいくら待っても来なかった。
となればである。こちらから先方の家に出向きせめてデータだけでも譲ってもらえないかの交渉をしようと思いついた。
出版社に連絡をしてAさんとの繋がりがある人物がいないか調べてもらうと、案外あっさりと仲介をしてくれるJ氏を紹介してくれた。
J氏は時々テレビに出る方でAさんの奥さんとも面識があるようでとても心強い存在だった。
数日後に家の鍵が入った封筒が送られてきた。その中に入っていた手紙にはAさんの仕事場であったマンションまでの簡単な地図が書かれていて、資料は好きな物を自由に持ってください。と書かれていた。
6
マンションというとどこか高そうなイメージを持っていたがA氏の仕事場のあるマンションは文字にして表記するならば団地だ。おそらく築30年以上は経っているだろう。それでも近隣ではエレベータのある物件は少ないのだろう。マンションという看板を誇らしげに掲げていた。
入り口ホールの共有部分にある郵便受けはどの部屋もチラシが詰まっている。そういえば人気があまり感じられない。今時の人はこういう古いマンションよりももっと暮らしやすい小綺麗なアパートを選ぶのかもしれない。
ホールを奥に進んでいくとエレベータがある。Aさんの仕事場は6階だ。上着のポケットの中を探る。大丈夫だ。鍵はここにある。
エレベータに乗り込もうとすると、後ろから追い抜いてきた女が先に乗り込んだ。中肉中背。猫背のせいでやや背が小さく見える。ホールが薄暗いせいで顔は見えない。上は灰色のニット、下も灰色でスキニーパンツのようだ。長い黒髪は手入れが悪くはねていた。わりとどこにでもいる迷惑な住人と言う感じだった。
ため息をついてエレベータに乗る。ボタンを押そうとすると灰色の女がまたも割り込んでくる。ボタンを押す灰色の手袋の指先には、黄ばんだプラスチックの爪のようなものが……。灰色の手袋?
ドアが閉まる。
灰色の女をよく見る。エレベータの中の明かりでさっきより見えるようになって気がついた。この灰色の女は、裸だった。その肌は泥が塗られた後すっかりと乾ききったようにボロボロだった。女はなにかつぶやきながら、イライラをボタンにぶつけるように定期的だったが何度も何度も滅茶苦茶に押しまくっている。この状況は明らかに普通じゃない。
エレベータは動き出す。灰色の女の隙を突いて2階と3階のボタンを押すが反応はしなかった。2階も3階もあっという間に通り過ぎていく。4階、5階も同じだった。6階に着くとエレベータが止まった。
扉が開いたら、逃げ出そう。ここにいちゃダメだ。
扉が開く瞬間を今か今かと待った。だが、いつまで経っても扉は開かなかった。
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耳元で女の声が聞こえた。
「死にたくない死にたくない死にたくない」
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最後は真っ暗になった。
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