汀(みぎわ)

大秦頼太

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汀24

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汀24



 増川英二。



 自分が古い旅館のような木造家屋の廊下に立っていることに気がつく。ここはすでに何度か歩いたことがある。この建物は2つ並びの元商家を改造した作りでかなりの広さがあった。一方は田沼の家人が住んでいた家で母屋と呼ばれ、もう一方は作業場兼住み込み部屋があった。
 住み込み部屋の一階部分は製薬工場へ納品するための簡単な加工場があり、住み込み部屋には従業員が何人かいるそうだがここ数回の内でもほとんど会ったことはない。たまに視界の隅を通り過ぎる人影はあまり時代の流れを感じさせない服装だったりして驚く。

 ここは母屋の廊下で、そばの広い畳の部屋が今は住み込みの部屋の住人の食堂としても使われている。母屋の廊下を奥の方へ進むといわゆる離れになり、今は主のいない研究室がある。この廊下を作業場の方へ進めば住み込み部屋があり、その向こうには土間があるという。土間の方から外に出られるらしい。研究所方面からも外に出ることが出来るそうだが基本的には家人専用なので従業員はみな住み込み部屋の方から外へ出ていくという。
 
「源次郎さん?」
 振り返ると小柄な女性が立っていた。戦時下であるため質素な着物を着ていて彼女は身重なのでお腹が大きい。
「あ、違う。すみません。後ろ姿がなにか似ていたので」
 物腰というか雰囲気が大山サチコによく似ている。雰囲気だろうか。魂の形みたいなものが似ているのかもしれない。
「もしかして本家の方ですか?」
 全く赤の他人が家の中をウロウロしていたらこの人も不安がるだろう。なんと答えたものか。今目の前にいるこの人は野際律子だ。そしてお腹の中にいる子どもは私の祖母である。ここは僕の中であり、あの女の記憶の中だ。
 実際はどうだったかわからないが野際律子は母屋に一人で住んでおり、田沼の家人はいない。戦争が激化する中で少しだけ田舎の方へ疎開したそうである。この野際律子が母屋の一角を従業員の食堂に開放しているのも寂しさを紛らわせるためなのかもしれない。

「田沼方の親戚です。ちょっと遠いですが。ここに来るのは初めてで迷ってしまいました」
「そうですか。ご親戚の方。だから似てらっしゃるんですね」
 野際律子を見ていると大山サチコを思い出す。このまま何もかも投げ出してあの子のもとに戻りたい。でも、それは出来ない。もしここからあの女を外に出してしまえば、大山サチコも再び狙われて殺されてしまうだろう。きっと今頃は大島教授に助けられて治療を受けているはずだ。それともまだ全ては一瞬のことで僕らはあの暗い海岸に倒れているのかもしれない。
「源次郎さんは出征されているんですけど……」
「ええ、もうじき戦争が終わりますから戻ってきますよ」
「え?」
 野際律子は嬉しそうな顔を見せた。
「日本は負けるんです」
「そ、そんなこと言ったらダメですよ。みんな思っていても言わないんですから」
 慌てて両手で口元を隠す。私にとっては遠い戦争もこの人達にとっては今なのだ。この記憶の中の野際律子はきちんと野際律子として存在していた。それでも彼女もまたあの女の中の記憶にある野際律子なのだろう。どこまでが本物なのかわからない。油断させるためなのか、なんなのかどうもはっきりとしない。
 ただ、今まで何度も今日を見てきたが、話しかけられたのは今回が初めてだった。もしかしたら実はこの野際律子の中身はあの女で、こちらの存在に気が付かれたのかもしれない。そうでなければなにかがきっかけとなって潮目が変わったのかもしれない。

 すでに彼女は何度か今日殺されている。毒殺される野際律子を見下ろしていると次のループが始まる。やり直されるたびに無駄と知っていても助けようと思い行動したがずっと失敗していた。やはり記憶を崩すことは不可能だと考え始めていた。それでも何かきっかけが掴めるかもしれないと思い殺され続ける野際律子を見ていた。
 そして今回、野際律子に話しかけられたことがあの女の記憶の存在を疑うきっかけになった。あの女の記憶はあの女に完全に制御されているわけではないのだ。




 夢を見ている時に「あぁ、これは夢なんだ」という感覚がある時がある。そして、そこから夢をコントロールする。これが開運につながるのだという話があった。その頃小学生で祖母の能力に憧れを抱いていた私はこの話を真に受けて夢をコントロールすべく学校が終わると即家に帰り宿題を投げ捨てて夢の世界に挑んでいた覚えがある。夢を思うようにコントロール出来るようになっても、祖母のような力は手に入らなかった。

 夢をコントロールできれば人生もコントロールできる。

 はっきり言ってそんなものは眉唾もので、そんなことで明るい未来にたどり着けるのなら現実世界で努力をする必要がなくなってしまう。努力が人を裏切るように夢もまた人間を裏切る。努力をしてもダメなものはダメだし、たどり着く未来だって必ずしも明るいものではない。ただそれでも努力を続けたほうがいい。無駄な努力だとしても叩き続けなければ岩は砕けないのである。買わない宝くじが当たらないように。
 岩を砕くためにこの状況をコントロールする必要がある。あの女の記憶の筋道を崩し続ける必要がある。それが何になるのかはわからない。無駄な努力かもしれないし、あの女に一撃を与えることが出来るかもしれない。小学生の頃の努力が報われた瞬間であった。

 十数回あの女の行動を阻止をした頃、また野際律子を殺された。
 向こう側もどうやら邪魔をしている者の存在に気がついたようである。ここからは未知の状態である。記憶をコントロールする者と記憶をその通りに進めようとする者の戦いだ。通常であれば記憶は元の持ち主のものだからそちらのほうが強いだろう。だが、ここは私の体の中である。スポーツでもホームチームのほうが有利である。理由はわからないけれど応援してくれる人数の差だろうか。応援。私にはまた会いたい人達がいる。その人達に会いたいという思いと守りたいという思いが岩を叩き続ける力をくれる。どんなに硬い岩も叩き続けることで道が拓けることもあるのだ。そういうこともあるし、こちらが砕けて終わるだけかもしれない。

 少しずつ分かり始める。ここには確かに沢山の人がいる。それがゲームのNPCのような動きをしている。プレイヤーは私とあの女の二人。延々と続くループ世界の中、野際律子が殺されれば負け手やり直し、野際律子が殺されなければそのままやり直し。不毛な力比べ。どこにゴールがあるのかもわからない。なにか別の道を見つければ、まだ違う側面があるのかもしれない。本来であれば野際律子が死にその後の記憶につながるはずである。でも、その先につながらないのにはなにか別の理由があるのかもしれない。

 ここは私の中。あの女の記憶。それだけではないなにか。
 そう言えばこれだけ対戦しているのにあの女の姿を見たことがない。NPCを通じてこちらを見ているからどうでもいいのか。それともわからないままなのか。
「源次郎さん?」
 廊下でまた今日はじめて野際律子に声をかけられた。振り返ってその顔を見て思う。それがつい口に出てしまった。
「本当のあなたがここにいればいいのに」
 またこの人を守るのだ。無駄なのかもしれないけれど。
「いますよ」
「わかってます。何度も見ていましたから」
 背中を向けて次に進もうとすると野際律子がいつもと違う声音で言った。
「今夜は私と一緒に運ばれてください」
 祖母千景を思わせる強い意志を感じた。振り返るとそこにはいつもの野際律子がいて不思議そうな顔をしてこちらを見ていた。
「もしかして本家の方ですか?」
 このセリフはもう何度か聞いたことがある。




 野際律子の言った言葉を考えてみる。
「今夜は私と一緒に運ばれてください」
 来てください。ではなく運ばれるという言葉。阻止ではなく殺されるところを見て死体が運ばれるところについていけということだろうか。それならば運ばれるという言葉がスッキリする。もしこれがあの女の新しい手口だったらどうだろうか。絶望を上乗せしてこちらの心をおろうとしているのではないだろうか。そうだっとしても、そろそろこのループから離れる頃合いなのかもしれない。
「へぇ、あんたもまだここにいたの」
 不意に声をかけられて顔を上げる。
「そう、今まであたしの邪魔をしてたのはあんただったのね。忌々しい」
「田沼汀子」
「まだよ。まだ田沼じゃないわ。あの人が戻ってきてないからね」
 そこにいたのは汀子だった。
「よくもバラバラにならずにいられたものね。さすが霊能者ってところかしら?」
「いつまでこんなことを続けるつもりだ」
「いつまでもよ。あたしが飽きるまでって言いたいけど、あの小娘を殺すたびに快感も憎しみも増すし、まだまだやめることは出来ないわね。それよりもあんたももう諦めて邪魔するのをやめたら? 無駄な努力よ。あの小娘を助けてもやり直しでまた殺されるんだから」
 汀子に掴みかかろうとするがするりと逃げられる。汀子は小気味よく笑う。
「別にここであんたに殺されてもいいけど、そうしたらここを出てまたあんたのお気に入りを殺しちゃうかもしれないわよ」
 追いかける足が止まる。ここであの女の言う通りあの女を殺すとあの女は自由になってしまうとすると大山サチコに危険が及んでしまう。それどころではなくまた被害者が出始める。それは避けなければならないだろう。人間の牢だ。ここでこの女を押さえておくしか無い。
「ほら、こんな事言われたくらいでやめちゃうなんて情けない男。早く屈服することね。そうしたらあんたの体は私のものになるんだから」
 そうか。
「そういう仕組みか」
 野際律子が殺されるシーンを何度も体験させることにより、覆せない絶望感でこちらの心を折り私の体を支配しようというのだ。
「今までもこうやって人を乗っ取ることがあったんだな」
「初めてよ」
「嘘を言うな。加山さんや大山さんを動かしていただろ」
「たしかにそうね。邪魔をしなければ仲良く3人で暮らしていけたのよ? そういうのは嫌?」
「人殺しとは一緒にいたくない」
「嫌だわ。違うわよ。なんであたしが人を殺さなきゃいけないのよ」
 汀子は体をしならせる。
「野際律子を殺してるじゃないか」
「律子? あぁ、そんな害虫女がいたわね。あれは別よ。あんな害虫なんて死んで当然よ。あたしの邪魔ばかりしてたんだから」
「他の人だって巻き込んで殺しただろ」
「違うわよ。あたしのせいじゃないわ。あの人達は自分から死を招き寄せた。あたしはそれに呼び込まれて巻き込まれたってわけ。何度も人のことを殺してどいつもこいつもみんなろくでもない連中だよ」
 吐き捨てるように汀子が言った。
「俺は負けない」
 負けるものかとにらみつけると汀子はこっちを見て乾いた声で笑った。
「せいぜい頑張るといいわ」
 そう言って汀子は住み込み部屋の奥へ消えていった。何度もやり直しているが、あちら側には行くことは出来ない。あちらの奥には土間があるという話だがそこはあの女の大事な世界なのかもしれない。




 その日の夕餉に事件が起きた。あの女はこちらが誰かわかったことで箍が外れた感じだった。それは大胆で大雑把なやり方だった。被害者たちはどうせ次回に生き返ると思ってか野際律子だけではなくこの研究所にいる全員の命を奪いに来たのだった。
 阿鼻叫喚。地獄絵図。叫び声に導かれ母屋の一角に入ると苦しみのたうち回る人々の中で涼しい顔をしてただ座っている汀子がいた。口元は薄く笑っている。その顔はこちらを見ながら完全に勝ち誇っていた。
 どうやら鍋そのものに毒物を入れたようである。
 こちらを怒らせようという魂胆も見えたが、近づきかけて歩みが止まったのは冷静になったからではなかった。時代が合わない人間たちが何人かそこで悶え苦しんでいたからだ。数人に気がつくと何人かというレベルではなかった。見知った顔があったのだ。AD小松の姿であり、輪勝寺エイクウとその弟子たち。トラック運転手の笹川さん。心霊アイドルで有名だった女性タレントの姿もあった。呼びかけてもこちらの声が聞こえないくらいに苦しんでいる。廊下で見かけた従業員の中に現代風の服装の者がいたのは気のせいではなかったようだ。おそらくこの女の巻き添えになって殺された人間がここに、この記憶の世界に縛り付けられている。食堂はどこまでも広がり、おそらくこの女に殺された人たちがそこで悶え苦しんでいる。
「これは一体何なんだ」
「あたしにもこれぐらいのことが出来るのって教えておきたくてね」
 何度か前に女中の椀と野際律子の椀をすり替える手を使ったことがある。その手はもう使えないぞということか。それともお前も死んだらここに仲間入りだぞと脅すためか。単に自分の力を誇示したいだけなのか。その魂胆はわからなかったが、殺人犯として捕まることもなければ私に殺されてもメリットでしか無いあの女は挑戦的に大胆な手を使ってきたというわけだ。
 奥からひときわ高い苦しげな悲鳴が聞こえた。野際律子が毒を食らったのだ。
「あはははは。あたしの勝ち。あんたが折れるまでどれくらいかねぇ」
 汀子は楽しげに立ち上がって土間に向かって走っていく。真っ暗な闇に向かって汀子は吸い込まれて消えていく。声だけが遅れてやってくる。
「あの女の苦しむさまを見れなくて残念だよ」
 汀子の声がかき消え、律子の苦しげな声が辺りを支配し始めると同時に今の今まで苦しんでいた人たちは一瞬で元の生者の姿に戻り、右へ左へ大騒ぎする。その慌ただしい動きで空間はもとの大きさに引き戻されていく。
「大変だ! 律子さんが!」
「新谷さんを呼んでこい!」
「奥から運んだほうが早いんじゃないか!」
「おい、あんた」
 男に肩を掴まれた。見たことがない男。気がつけば見知った顔はどこにもいなくなっている。衣装や髪型などの時代考証が正された瞬間だった。
「戸板を外して奥から運ぶぞ。ついてこい」
「どこへ?」
 この展開は初めてで慌ててしまう。
「新谷さんのとこだよ! 裏からでっぞ! そっちのほうが近い」
 男に引きずられるような形で動かなくなった野際律子を戸板に乗せて男数人で裏口から運び出した。夜はどこまでも暗く遠くに連なる赤い光が見えた。火事だろうか。
 先頭を行く男は無言で真っ暗な道を突き進んでいた。担架にした戸板の上で野際律子は身動き一つしなかった。本当に進んでいるのかわからないような不思議な感覚だったが、すぐに小さな家が見えた。男が小さな家の戸を叩く。音と戸を叩く拳の速さにズレがあった。
「先生! 先生!」
 戸がスライドして開いた。こんな時代なのに自動ドアのようだった。その戸の向こう側も暗く闇が広がっている。戸板の先頭が闇に飲まれ、野際律子も飲み込まれた。私も戸板を持ちながらその闇の中に引きずり込まれていった。
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