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第七話
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1
「何を言ってるんだ」
千刻谷大学物理学部名誉教授月並ハジメは怒鳴った。
「それのどこが科学的なんだ! ちっとも検証になっていないじゃないか。馬鹿言っちゃいかんよ!」
出演者や番組スタッフがうろたえる中、月並教授は心霊科学者安田智太郎氏に詰め寄っていく。
「いいか、君が言ってるのは妄想で、幻想で科学を見つめちゃいかんのだ。何が電磁波の異常だ。電磁波が異常だったらみんな幽霊の仕業か?」
「幽霊が出るところには、電磁波の異常が見られるんです!」
「電磁波の異常と幽霊を安易に結びつけるんじゃない!」
「でも、これは真実なんです!」
「違う! 幽霊が出たことと電磁波がおかしくなったことに結びつきは無いと言ってるんだ! この二つを安易に結びつけて、さも幽霊の存在を証明したと思わせることが問題だと言ってるんだ!」
「幽霊は存在してます!」
「車の運転席に子どもが乗っていたから、その子どもが車を運転してきたと、君は言うのか? 違うだろ? なぜ幽霊がいることで電磁波が乱れるのかを証明しろといっているんだ!」
「話にならない!」
「それはこっちのせりふだ!」
月並教授は右手を振りあげて怒鳴り散らしながら楽屋へ戻って行った。
一同呆気にとられていたが、すぐに司会者が仕切り直し番組収録は続いた。
2
楽屋に戻ってからも月並教授の怒りは収まらなかった。
「電磁波が乱れる原因を突き止めずに、何が幽霊が出たからだ、だ。風がドアを開けたら幽霊が通ったというのと同じ発想だ。何で、そこで考えることを止めるのか理解できん!」
そこに番組のプロデューサー大久保がやってくる。
「先生、困りますよ。編集が大変なんですから~」
「出演料もいらん! こんな番組、もう二度と出るか」
「そうおっしゃらずに」
「プロデューサーのなんとか君と言ったね。今の番組づくりは幽霊の存在を肯定しすぎだ。そんなまやかしをせずに、きちんとした番組を作りなさい」
「先生は、否定するだけじゃないですか。毎回毎回。先生だってずいぶん幼稚な検証しかしてないのに」
「幼稚とは何だ!」
「だってそうじゃないですか。空気の固まり、プラズマ。似たような現象を起こして、これだって決めつけてるだけじゃないですか。実験機材なんか使わずにその場にある物で証明してみせたことありますか?」
大久保の言いように月並教授は下唇を強くかみしめる。
「言いたいことはそれだけか?」
「はい」
「最近の若い連中は、目上の者にズケズケとはっきり言う。気に入らんな。安田に言っておけ。幽霊がいるならスタジオに連れて来てみろ、とな」
荷物を持って楽屋を出ていこうとした月並教授に向かって、大久保が言った。
「本物の怨霊がいると言ったら、教授はどうします?」
「そんな物はいない! いいか、」
振り返って答えるが、大久保の顔を見て月並教授は言葉を飲み込んだ。大久保をじっと見て真贋を確かめているようだった。
「何か知っているのか?」
「噂です」
「なんだ噂か。ばかばかしいな」
「それでも、テレビ局の関係者が他局も含めてその噂に関わったスタッフが20人近く死んでいます。ほとんどが事故死ですが」
月並教授が疑いの目を向ける。
「こじつけだな。テレビ局もブラック企業だから、いろいろ隠したいこともあるだろう。それを心霊現象だと言ってごまかしてはいかん。過労だ過労」
月並教授は楽屋を出ていく。廊下を歩いていくと大久保が後ろから追いかけてくる。
「先生、信じられないなら、”覚えていてはいけない名前”を調べてくださいよ」
「なんだそれは? どんな名前だ?」
「知りません」
「ふざけるな!」
通行人が二人を見る。
「心霊肯定派はいつもそうだ! いつも意味ありげに何かにおわすような話し方ばかりする。もういい加減にしろ!」
その後も取りすがる大久保を月並教授は振り払いながらテレビ局を後にした。
3
「遅かったのね?」
月並教授が自宅マンションに帰ると妻のチエコがリビングでテレビを見ていた。
「またバラエティか。ニュースを見ろニュースを」
「今の時間はニュースなんかやってないわよ」
ふん。と、服を脱いでバスルームに向かう。その背中にチエコが呼びかける。
「ご飯は?」
「食べるに決まってるだろ!」
「だったら電話をしてよね。こっちだって遅いんだったら食べてきてるって思うじゃないの」
「人身事故で電車の中に閉じこめられてたんだ。電話なんか出来るわけないだろ」
「本当に堅物なんだから。私のことも考えてよね」
月並教授はそれには答えずにバスルームの扉を閉めた。
「まったく二駅も連続で人身事故だとか、鉄道会社は何を考えてるんだ。いつまで経っても対策はしないし、線路に乗客が降りられないようにすればいいのに。そもそも同じ料金を払ってるのに何でいつもいつも座れないんだ! 人を荷物みたいに詰め込みおって!」
勢いよくシャワーで泡を飛ばしながら暴れるように風呂をすませる。
着替えをすませてリビングに戻ってくると、キッチンテーブルに食事の用意がしてあった。
「聞かないのか?」
「どうせ怒って飛び出してきたんでしょ」
「そんなことするか」
「そうじゃなきゃ、こんなに機嫌が悪いなんてことはないでしょ」
「何でも知った振りをして」
「何年一緒にいると思っているのよ」
「ふん」
味噌汁を持ってくるチエコ。
「今日はどんな話だったの?」
「廃ホテルにカメラを何台も置いて、いつものオーブが出ただの、電磁波が乱れたから幽霊が出ただの、いつもの奴だ」
「へー。本当にいるなら、話をしてみたいものね」
「いないから無理だ。人間は死んだら終わり」
「夢がないわね」
「いるのなら、もうとっくの昔に私たちは幽霊の世界に進出を試みているはずだ。優秀な物理学者も何人も死んだ。彼らが幽霊の世界でも研究をしていれば、私たちの世界と幽霊の世界はすでに繋がっているはずだ。機械がいくら新しくなっても、幽霊をきちんと撮れない。出てくるのはすべて作り物だ」
「中には本物があるかもしれないわよ?」
「ない。本物はない。なぜなら、本物があれば、次に繋がるからだ。どれもこれも次に繋がらずに単発で終わってる。再現性がない」
掃除機のようにご飯をかき込むとチエコが不満を漏らした。
「作るの1時間、食べるの3秒。もっと味わってくださいね」
4
プロデューサーの大久保が亡くなったのを知ったのは、先日の収録の放送が終わってからしばらく経ってからのことだった。テレビ局からの電話で途中退場の苦情を言われるのかと思っていた月並教授は、すっかり毒気を奪われてしまっていた。
「申し訳ない。収録の日に彼には悪いことをしてしまった。怒鳴り散らしてばかりで追い込んでしまったのかもしれない。で、どんな死に方を選んだんだ? 何? 自殺じゃなくて事故死? 事故か……。どんな事故だったんだ? 移動中のロープウェーの落下事故? あぁ、あれか。一般客も一緒の事故だな?」
月並教授は少し前のニュースでその事故のことを見たことを思い出していた。
H根ロープウェーの落下事故は運行以来初めての事故で、現在事故調査委員がその事故の原因究明に動いている。点検も毎日の運行前に必ず行っており、乗車人数も余裕を見て制限を設けているくらいだった。
後ろのゴンドラの目撃者によると、大久保氏らを乗せたゴンドラの車軸がいきなりはじけ飛ぶようにして壊れて、あっと言う間に崖下にぶつかり転げ落ちていったという。
グシャグシャになったゴンドラの中にいた乗客は20人全員の死亡が麓の病院で確認された。
「定員は18名のゴンドラに20人も乗せるからだ。何が厳しく制限をしているだ」
おそらく数え間違いか見落とし、それか乗客のわがままで定員をオーバーし、それが原因で車軸部分の耐久力の限界を超え、事故になったのだろう。月並教授の事故に対する見解はこうだった。
「変ねぇ。この名前、前にも見たような気がするわ」
妻のチエコが新聞に書かれた被害者の名前を指さした。
「どれだ? 田沼汀子? 見間違いじゃないのか」
「でも、汀子なんてあんまりない名前でしょ? だから、妙に引っかかるのよ」
「ふむ。他はどんな事件だった?」
「なんか施設の火事とか、電車の飛び込み事故とか。ほら、あなたが遅かった日あったじゃないの。すごく機嫌の悪かったあの日よ」
「ああ、収録日の。まだあるか?」
「まだ出してないわ」
月並教授は収録日の翌日の新聞を探して持ってくる。事件事故の欄を必死になって夫婦で探す。
「あぁ、惜しい。少し違う名前だ。田口レイコさんだって」
「惜しいなんて、罰が当たりますよ」
「あ、そうだな。すまんすまん」
「そういえば、お義兄さんから法事のハガキが来てるわよ」
「もうそんな頃か。前は忙しくて無理だったから、今回は行かないとな」
「電車の時刻とか調べておかないとね」
「任せた」
「もう!」
5
連休の中日でも都心の駅は混んでいた。
「こんなことなら車にすれば良かったな」
「タクシーじゃ余計に疲れるわよ」
そうこう言いながら月並教授とその妻チエコは駅で電車を待っていた。
「次の乗り換えは、先頭の方が楽じゃないのか?」
「いいわよここで」
「いやいや、乗り換えの時間だってそんなにないんだろうから、最初から前に行っておけば後が楽なんだ。いくぞ」
チエコの手を引きながら、込み合うホームの中を歩いていく。
「すみませんねぇ」
強引に進んでいく月並教授の後ろでチエコが頭を下げる。
「何すんだよジジイ!」
若者が声を上げた。互いに進行方向が重なっただけだが、若者も教授も譲る気など無かった。
「何だとは何だ!」
狭いホームの上で男同士でつかみ合う。
「田沼汀子」
若者が言った。月並教授は眉を寄せる。
「なに?」
「黙ってろよ」
「なんだ。黙ってろよ、か」
男の後ろに変な女がいるのに気がついた。塗れた新聞紙のような肌をした全裸の女性。明らかに不自然で不釣り合いな人間が立っているのに、誰も気にした様子がない。
「あなた、やめてちょうだい」
妻のチエコが止めに入る。
「ババア、じゃまなんだよ!」
若者が振るった腕に突き飛ばされるチエコ。取り囲んでいた群衆はチエコを支えるどころかさっと道をあけた。その開かれた隙間に吸い込まれるようにチエコがホーム下に転落する。
「あ、こら」
若者に抗議するも、彼はすでに背中を向けて逃げ出していた。月並教授は、チエコに駆け寄る。
電車が来るアナウンスが流れる。
「まもなく5番線にー」
「チエコ! 手を伸ばせ」
チエコは片手で頭を押さえ、もう片方の手を月並教授に伸ばした。
「手伝ってくれ!」
周囲にそう呼びかける。人が寄りかけたその時、視界の端で新聞紙の肌の女がホームから線路側に押し出された。
「女が落ちたぞ!」
誰かがそう叫んだ。人々の視線は、月並教授夫妻から離れた。
灰色の肌の女がゆっくりと立ち上がり、叫んだ。
「いや! 死にたくない!」
電車の警笛が鳴る。女は後ろから来た電車に粉々にされる。
月並教授は力一杯に妻の手を引く。だが、上がらない。
「キャー!」
誰かの叫びと同時に、視界の端から飛んできた塗れ新聞の肌の女のちぎれた左手が、月並教授の襟首をつかんで線路に引きずりおろした。
電車は月並教授夫妻の上を通過した数メートル先で停止した。
「何を言ってるんだ」
千刻谷大学物理学部名誉教授月並ハジメは怒鳴った。
「それのどこが科学的なんだ! ちっとも検証になっていないじゃないか。馬鹿言っちゃいかんよ!」
出演者や番組スタッフがうろたえる中、月並教授は心霊科学者安田智太郎氏に詰め寄っていく。
「いいか、君が言ってるのは妄想で、幻想で科学を見つめちゃいかんのだ。何が電磁波の異常だ。電磁波が異常だったらみんな幽霊の仕業か?」
「幽霊が出るところには、電磁波の異常が見られるんです!」
「電磁波の異常と幽霊を安易に結びつけるんじゃない!」
「でも、これは真実なんです!」
「違う! 幽霊が出たことと電磁波がおかしくなったことに結びつきは無いと言ってるんだ! この二つを安易に結びつけて、さも幽霊の存在を証明したと思わせることが問題だと言ってるんだ!」
「幽霊は存在してます!」
「車の運転席に子どもが乗っていたから、その子どもが車を運転してきたと、君は言うのか? 違うだろ? なぜ幽霊がいることで電磁波が乱れるのかを証明しろといっているんだ!」
「話にならない!」
「それはこっちのせりふだ!」
月並教授は右手を振りあげて怒鳴り散らしながら楽屋へ戻って行った。
一同呆気にとられていたが、すぐに司会者が仕切り直し番組収録は続いた。
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楽屋に戻ってからも月並教授の怒りは収まらなかった。
「電磁波が乱れる原因を突き止めずに、何が幽霊が出たからだ、だ。風がドアを開けたら幽霊が通ったというのと同じ発想だ。何で、そこで考えることを止めるのか理解できん!」
そこに番組のプロデューサー大久保がやってくる。
「先生、困りますよ。編集が大変なんですから~」
「出演料もいらん! こんな番組、もう二度と出るか」
「そうおっしゃらずに」
「プロデューサーのなんとか君と言ったね。今の番組づくりは幽霊の存在を肯定しすぎだ。そんなまやかしをせずに、きちんとした番組を作りなさい」
「先生は、否定するだけじゃないですか。毎回毎回。先生だってずいぶん幼稚な検証しかしてないのに」
「幼稚とは何だ!」
「だってそうじゃないですか。空気の固まり、プラズマ。似たような現象を起こして、これだって決めつけてるだけじゃないですか。実験機材なんか使わずにその場にある物で証明してみせたことありますか?」
大久保の言いように月並教授は下唇を強くかみしめる。
「言いたいことはそれだけか?」
「はい」
「最近の若い連中は、目上の者にズケズケとはっきり言う。気に入らんな。安田に言っておけ。幽霊がいるならスタジオに連れて来てみろ、とな」
荷物を持って楽屋を出ていこうとした月並教授に向かって、大久保が言った。
「本物の怨霊がいると言ったら、教授はどうします?」
「そんな物はいない! いいか、」
振り返って答えるが、大久保の顔を見て月並教授は言葉を飲み込んだ。大久保をじっと見て真贋を確かめているようだった。
「何か知っているのか?」
「噂です」
「なんだ噂か。ばかばかしいな」
「それでも、テレビ局の関係者が他局も含めてその噂に関わったスタッフが20人近く死んでいます。ほとんどが事故死ですが」
月並教授が疑いの目を向ける。
「こじつけだな。テレビ局もブラック企業だから、いろいろ隠したいこともあるだろう。それを心霊現象だと言ってごまかしてはいかん。過労だ過労」
月並教授は楽屋を出ていく。廊下を歩いていくと大久保が後ろから追いかけてくる。
「先生、信じられないなら、”覚えていてはいけない名前”を調べてくださいよ」
「なんだそれは? どんな名前だ?」
「知りません」
「ふざけるな!」
通行人が二人を見る。
「心霊肯定派はいつもそうだ! いつも意味ありげに何かにおわすような話し方ばかりする。もういい加減にしろ!」
その後も取りすがる大久保を月並教授は振り払いながらテレビ局を後にした。
3
「遅かったのね?」
月並教授が自宅マンションに帰ると妻のチエコがリビングでテレビを見ていた。
「またバラエティか。ニュースを見ろニュースを」
「今の時間はニュースなんかやってないわよ」
ふん。と、服を脱いでバスルームに向かう。その背中にチエコが呼びかける。
「ご飯は?」
「食べるに決まってるだろ!」
「だったら電話をしてよね。こっちだって遅いんだったら食べてきてるって思うじゃないの」
「人身事故で電車の中に閉じこめられてたんだ。電話なんか出来るわけないだろ」
「本当に堅物なんだから。私のことも考えてよね」
月並教授はそれには答えずにバスルームの扉を閉めた。
「まったく二駅も連続で人身事故だとか、鉄道会社は何を考えてるんだ。いつまで経っても対策はしないし、線路に乗客が降りられないようにすればいいのに。そもそも同じ料金を払ってるのに何でいつもいつも座れないんだ! 人を荷物みたいに詰め込みおって!」
勢いよくシャワーで泡を飛ばしながら暴れるように風呂をすませる。
着替えをすませてリビングに戻ってくると、キッチンテーブルに食事の用意がしてあった。
「聞かないのか?」
「どうせ怒って飛び出してきたんでしょ」
「そんなことするか」
「そうじゃなきゃ、こんなに機嫌が悪いなんてことはないでしょ」
「何でも知った振りをして」
「何年一緒にいると思っているのよ」
「ふん」
味噌汁を持ってくるチエコ。
「今日はどんな話だったの?」
「廃ホテルにカメラを何台も置いて、いつものオーブが出ただの、電磁波が乱れたから幽霊が出ただの、いつもの奴だ」
「へー。本当にいるなら、話をしてみたいものね」
「いないから無理だ。人間は死んだら終わり」
「夢がないわね」
「いるのなら、もうとっくの昔に私たちは幽霊の世界に進出を試みているはずだ。優秀な物理学者も何人も死んだ。彼らが幽霊の世界でも研究をしていれば、私たちの世界と幽霊の世界はすでに繋がっているはずだ。機械がいくら新しくなっても、幽霊をきちんと撮れない。出てくるのはすべて作り物だ」
「中には本物があるかもしれないわよ?」
「ない。本物はない。なぜなら、本物があれば、次に繋がるからだ。どれもこれも次に繋がらずに単発で終わってる。再現性がない」
掃除機のようにご飯をかき込むとチエコが不満を漏らした。
「作るの1時間、食べるの3秒。もっと味わってくださいね」
4
プロデューサーの大久保が亡くなったのを知ったのは、先日の収録の放送が終わってからしばらく経ってからのことだった。テレビ局からの電話で途中退場の苦情を言われるのかと思っていた月並教授は、すっかり毒気を奪われてしまっていた。
「申し訳ない。収録の日に彼には悪いことをしてしまった。怒鳴り散らしてばかりで追い込んでしまったのかもしれない。で、どんな死に方を選んだんだ? 何? 自殺じゃなくて事故死? 事故か……。どんな事故だったんだ? 移動中のロープウェーの落下事故? あぁ、あれか。一般客も一緒の事故だな?」
月並教授は少し前のニュースでその事故のことを見たことを思い出していた。
H根ロープウェーの落下事故は運行以来初めての事故で、現在事故調査委員がその事故の原因究明に動いている。点検も毎日の運行前に必ず行っており、乗車人数も余裕を見て制限を設けているくらいだった。
後ろのゴンドラの目撃者によると、大久保氏らを乗せたゴンドラの車軸がいきなりはじけ飛ぶようにして壊れて、あっと言う間に崖下にぶつかり転げ落ちていったという。
グシャグシャになったゴンドラの中にいた乗客は20人全員の死亡が麓の病院で確認された。
「定員は18名のゴンドラに20人も乗せるからだ。何が厳しく制限をしているだ」
おそらく数え間違いか見落とし、それか乗客のわがままで定員をオーバーし、それが原因で車軸部分の耐久力の限界を超え、事故になったのだろう。月並教授の事故に対する見解はこうだった。
「変ねぇ。この名前、前にも見たような気がするわ」
妻のチエコが新聞に書かれた被害者の名前を指さした。
「どれだ? 田沼汀子? 見間違いじゃないのか」
「でも、汀子なんてあんまりない名前でしょ? だから、妙に引っかかるのよ」
「ふむ。他はどんな事件だった?」
「なんか施設の火事とか、電車の飛び込み事故とか。ほら、あなたが遅かった日あったじゃないの。すごく機嫌の悪かったあの日よ」
「ああ、収録日の。まだあるか?」
「まだ出してないわ」
月並教授は収録日の翌日の新聞を探して持ってくる。事件事故の欄を必死になって夫婦で探す。
「あぁ、惜しい。少し違う名前だ。田口レイコさんだって」
「惜しいなんて、罰が当たりますよ」
「あ、そうだな。すまんすまん」
「そういえば、お義兄さんから法事のハガキが来てるわよ」
「もうそんな頃か。前は忙しくて無理だったから、今回は行かないとな」
「電車の時刻とか調べておかないとね」
「任せた」
「もう!」
5
連休の中日でも都心の駅は混んでいた。
「こんなことなら車にすれば良かったな」
「タクシーじゃ余計に疲れるわよ」
そうこう言いながら月並教授とその妻チエコは駅で電車を待っていた。
「次の乗り換えは、先頭の方が楽じゃないのか?」
「いいわよここで」
「いやいや、乗り換えの時間だってそんなにないんだろうから、最初から前に行っておけば後が楽なんだ。いくぞ」
チエコの手を引きながら、込み合うホームの中を歩いていく。
「すみませんねぇ」
強引に進んでいく月並教授の後ろでチエコが頭を下げる。
「何すんだよジジイ!」
若者が声を上げた。互いに進行方向が重なっただけだが、若者も教授も譲る気など無かった。
「何だとは何だ!」
狭いホームの上で男同士でつかみ合う。
「田沼汀子」
若者が言った。月並教授は眉を寄せる。
「なに?」
「黙ってろよ」
「なんだ。黙ってろよ、か」
男の後ろに変な女がいるのに気がついた。塗れた新聞紙のような肌をした全裸の女性。明らかに不自然で不釣り合いな人間が立っているのに、誰も気にした様子がない。
「あなた、やめてちょうだい」
妻のチエコが止めに入る。
「ババア、じゃまなんだよ!」
若者が振るった腕に突き飛ばされるチエコ。取り囲んでいた群衆はチエコを支えるどころかさっと道をあけた。その開かれた隙間に吸い込まれるようにチエコがホーム下に転落する。
「あ、こら」
若者に抗議するも、彼はすでに背中を向けて逃げ出していた。月並教授は、チエコに駆け寄る。
電車が来るアナウンスが流れる。
「まもなく5番線にー」
「チエコ! 手を伸ばせ」
チエコは片手で頭を押さえ、もう片方の手を月並教授に伸ばした。
「手伝ってくれ!」
周囲にそう呼びかける。人が寄りかけたその時、視界の端で新聞紙の肌の女がホームから線路側に押し出された。
「女が落ちたぞ!」
誰かがそう叫んだ。人々の視線は、月並教授夫妻から離れた。
灰色の肌の女がゆっくりと立ち上がり、叫んだ。
「いや! 死にたくない!」
電車の警笛が鳴る。女は後ろから来た電車に粉々にされる。
月並教授は力一杯に妻の手を引く。だが、上がらない。
「キャー!」
誰かの叫びと同時に、視界の端から飛んできた塗れ新聞の肌の女のちぎれた左手が、月並教授の襟首をつかんで線路に引きずりおろした。
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