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後編
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目覚めた時、私はひとりだった。
湿ったシーツの上で身をよじった。満の気配はない。上半身を起こして狭い部屋を眺めたけど、私以外の人はいなかった。
あれは夢だったのかな……。あまりにも長い間辛いことに耐えてきたので、ついに気が狂ってしまったのかも。
バン! とドアが鳴った。大きく開け放たれたドアの向こうに満が立っていた。
「ごはん、買ってきたよ。お腹すいただろ?」
浅葱色のシャツとブルーのジーンズを身につけて、満はコンビニの袋を抱えていた。明るい時間に彼を見ると、ますます若く、美しく見えた。私は呆然と彼を見つめた。言葉が出てこない。
「わわっ」
満は袋を床下に投げ出すと、ベッドのそばに急ぎ足でやってきた。
「ごめん、一人にして悪かった。ぐっすり眠ってたから、起こしたくなかったんだ。そんなに可愛い顔で泣かないで。そんな風に泣かれたら、また沢山慰めたくなっちゃうよ」
満はそう言って、ベッドの上の私を抱き寄せた。私は満の浅葱色のシャツに顔を付けて、匂いをかいだ。満の匂いは若草のようだった。子供の頃、田舎で走り回った草原のような香りがした。
「さぁ、食べて。おにぎりは梅干と焼きたらこだよ」
私の好物だった。嬉しいけど、私は食べるより前にやりたいことがあった。
「ありがと。でも私、食べる前にシャワーを浴びたい」
「ダメだよ。もう昼過ぎてるんだ。まず食べて、それからお風呂に入ろう。オレが美奈を全部洗ってあげる」
私は驚いて時計を見た。もう少しで十三時になりそう。確かにお腹が空いている。私は満に見つめられながら、おにぎりを食べた。
満は食べなかった。私が寝てる間に食べてしまったと言った。
食事のあと、満は風呂場で私の体をフワフワの泡で包んだ。私の鼻先に泡を乗せて、満は笑う。満は約束通り、私の身体を隅から隅まで洗ってくれた。
狭い浴槽に張られたお湯の中に二人で入る。私は満の上にまたがった。何度も私を満たしてくれた満のそれは、疲れを知らないかのように上を向いていた。
私は自分から、ゆっくり腰を下ろした。深く満を迎え入れ、声をもらして反り返った。満が私の胸の先端を舌でそっとなぞる。二人の動きに合わせてお湯が揺れてあふれた。
果てたあと、私はお湯の中で満に寄りかかった。昔見た映画のワンシーンが、デジャヴのように頭の中をよぎった。
それからも満はずっと私の家にいた。満の記憶を取り戻す努力はしなかった。満がどこの誰か分からないけど、分かってしまっていなくなるのが怖かった。
私は職を探して何度か面接も受けた。ただ年齢のせいか、ブランクのせいか、なかなか上手くいかなかった。
満は時々、私にまとまったお金を渡してくれた。満は夜に出かけることはなかった。でも昼間は数時間いなくなることが多い。日雇いのバイトをしてるんだ、と言って満は笑った。悪いな、と思ったけど渡されたお金を生活資金に当てた。
満の食事は野菜だけだった。ベジタリアンだから細くて若く見えるんだ、と言って満は偉そうに腕を組む。肉は一切口にしないで、特に私がとり肉の料理を作ると「ごめん」と言って部屋からでていってしまう。
段々、とり肉を買わなくなって、魚や豚肉料理が多くなった。それでも私は構わなかった。満がそばにいてくれるだけで幸せだったから。
栄子から電話があったのは、満と暮らし始めてひと月ほど経った頃だった。
「ねぇ、美奈。あなたのおうちの周り、最近物騒みたいじゃない?」
「……え、そう?」
「相変わらずボケてるわね。強盗事件が多発してるってニュースでやってたわよ。犯人はお金を盗むだけの時もあるけど、抵抗した人は大怪我をしてるって。その怪我が……酷いらしいのよ。何か、動物にでも噛まれたみたいなんだって。歯型がなくてえぐられてるから、大型の犬をけしかけてるとかじゃないみたいよ。ありえないけど……巨大な鳥かもしれないって」
「──鳥?」
「そうよ。というか、専門家も何だか分からないみたいなの。だから気をつけて欲しいと思って連絡したのよ」
「そうなんだ。知らなかった。ありがとう」
栄子はふーっと息を吐いた。
「美奈……。あなた大丈夫?」
「あ、うん。気をつけるから大丈夫」
「そうじゃなくて──。ああ、もう。上手く言えない」
栄子は一人でイライラしてる。私は理由が分からなかった。
「男なのね」
「え!?」
「だから、男なんでしょ? 恋をしてるのね」
私は電話を掴んだまま、息を飲んだ。
「やっぱりね。言わなくてもわかるわよ。実はこの前、あなたを見かけたの。駅前で買い物してた時じゃないかな」
確かに数日前、私は買い物に駅まで行った。この辺では駅にあるショッピングセンターが一番大きいから時々買い物に行く。
「最初、美奈だって思わなかったの。だから声を掛けそびれた。すごく綺麗になって、生き生きして見えた。白いワンピースが似合ってたわよ」
私はドキドキして心臓を手で押さえた。まさか栄子に見られるとは……。
白いワンピースは満に買ってもらったものだ。満は私の為に、化粧道具まで揃えて化粧の仕方も研究してくれた。満の手によって、私は着飾ることを覚えた。
「ホントは化粧しなくても可愛いんだ。でも美奈の素顔はオレのもの。本当の美奈は、オレだけに見せて欲しい」
満は私にファンデーションを塗りながら話す。化粧の終わった顔を見ると素顔よりずっとマシに見えるのに、満は私の素顔が好きと言う。
「いいのよ。恋するのは。でも美奈って……そういう事余り経験してこなかったでしょ? だから心配なのよ。どんな人なの? 収入は安定してる?」
「あ……、まだそんなに親しくないの。時々会うだけだから」
私は咄嗟に嘘をついた。栄子のような人から見れば、満も私もただの失業者だろう。
栄子には、私の幸せが分からない。
本当に幸せな人には、私の幸せは理解できない。
「そう? 良かったらいつか会わせてね。私がよーく観察して、美奈に合う人かどうか判断してあげる」
この言葉にはイラつきを覚えた。本当は栄子に感謝しなきゃいけない。私の事を心から心配してくれている。それなのに、私はほっといて欲しいと思ってしまった。
栄子との電話を終えて、私は買い物に出た。満はまだ家に戻っていない。そろそろ夕暮れだから帰ってくるかもしれない。
早く買い物を済まそう、と道を急いだ時、前方からザワめきが聞こえた。道の角を曲がると人だかりができている。
「鳥だったんです!」
その叫び声は男の人のものだった。沢山の人の間から、警官が二人と中年のスーツ姿の男性が向かい合ってるのが見えた。男性は顔にタオルを当てている。タオルは血で汚れていた。
「デカくて青っぽい鳥だった。僕は耳を食いちぎられたんだ。その上バッグを盗られたんです」
大声で男性が警官に訴える。道にはどんどん人が増えていく。スーパーに抜けるにはこの道が一番近い。
私は買い物を諦めた。家には何か残っているだろう。家に戻りながら、さっきの男性の声が頭の中を飛び跳ねる。あれが栄子の言っていた強盗の被害者であることは確実だ。こんな明るいうちから、強盗があるんだ。
それに……鳥……。鳥が強盗をするのだろうか。まさか鳥に変装した人間とか?
強盗の被害者を初めて目にしたせいか、私の神経はピンと張り詰めていた。白いタオルに染みた血が脳裏に蘇る。
玄関のドアを開けた。目の前に浅葱色の羽がひるがえる。
大きな羽。ありえないほどの。
パサ……と言う微かな音を残して、羽が消えた。玄関に立っていたのは、満だった。見えたのは後ろ姿。
満は初めて会った時と同じシャツを着ていた。一緒に暮らし始めてから、家にいる時はTシャツを始め満は色々な上着を着ている。色もとりどりだ。どんな服を着てもよく似合う。
でも昼間外出する時は、必ず浅葱色のシャツを着た。何度も洗ったが、不思議な素材の布で出来ているシャツは色褪せることはない。私の知識ではそれが何の素材なのか、分からなかった。
「おかえり」
満は振り返って私に言った。さっきの羽は見間違いだろうか……。鳥の話なんか聞いたから、頭の中に印象付けられていたのかもしれない。
そう思って改めて満を見た。浅葱色のシャツに、血が付いている。
「血! 満、シャツに血が付いてる」
「ああ、大丈夫。さっきちょっと手を切ったんだ」
満は左手をヒラヒラ振ってみせた。確かに人差し指に切れた線が入っていて、その周りに血が固まっていた。
「大変、手当しなきゃ」
「大丈夫だって。大げさだな。洗ってほっとけばいい」
満はそう言うと家に上がって洗面台に向かう。浅葱色のシャツが廊下の奥に消えていく。不安で胸が裂けそうになった。
あの服を脱いで欲しい。ミチルと同じ羽の色をしたあのシャツを、満に着ていてほしくない。
私は靴を脱いで玄関に上がった。そのまま満が戻ってくるのを待つ。
手を綺麗にした満が私の元へ戻ってくる。シャツに付いた血も拭き取られて跡形もない。私は満に手を伸ばした。満は笑って私を抱きしめる。私は満のシャツを脱がすために襟元に手を当てた。
「脱がせたいの? 全部?」
からかうように満が聞く。私は頷いた。このシャツ脱いでくれるなら、なんでもいいと思った。満がシャツを脱いで床に落とす。シャツに視線を投げた時、床に置かれた封筒が目に入った。
その封筒には見覚えがあった。私は身体に絡んでくる満の手を軽く押しとどめて、封筒を拾った。
督促状だった。市役所からだ。健康保険料が未納だから、納めろということなのだろう。私は胃が痛くなった。貯蓄はあるが、保険料も年間となると結構高い。私がため息をついて封筒を見ると、満がシャツを拾ってまた羽織った。
「ちょっと待ってて。すぐ戻るから」
言ってから玄関に降りて、靴を履く。そしてポケットを探るとお札を取り出した。
「今はこれしか持ってないんだ。でも、心配ないよ」
私の手に一万円札一枚と、五千円札を渡すと満は玄関を出て行った。
一瞬ためらった後、私は満を追った。道路に出ると満が公園の中に入っていくのが見えた。
私は満を追って走った。外は日が暮れてかなり薄暗くなっている。公園の遊歩道に足を踏み入れた時、誰かが喚いている声が聞こえた。その声が「ギャーッ」と言う叫び声に変わる。バサッと鳥が羽ばたく音──。
遊歩道がカーブを描く奥に、私は走った。植木の脇に白髪頭の男性が倒れている。その横に鳥がいた。
巨大な鳥。人間の大人と同じくらいある。鳥の羽は浅葱色だった。後ろを向いていた鳥が振り返って私を見た。大きなつぶらな瞳が私を見つめる。
曲がった嘴に、倒れた男性のものと思わしき黒いスーツケースをくわえている。トン、と鳥はジャンプして私に近づく。ゆっくり首を伸ばすとスーツケースを私に差し出す。私が動かないと、じれったそうにさらに首を伸ばした。
「……ダメよ」
私は言った。鳥は小首をかしげて私を見た。
まるでミチルのように。
「ダメよ。そのお金は、駄目。受け取れない」
鳥は少し考えるように首をかしげたまま止まった。そのまま私の涙を、しばらく凝視していた。
浅葱色の鳥は不意に後ろを向く。トントン、と倒れた男性に近づくとスーツケースをそばに置いた。
そして半分だけ顔をこちらに向けた。丸い大きな黒い目が寂しそうに私を見た。鳥が大きな羽を広げる。バサ、バサ、と羽ばたくと鳥の身体が宙に浮いた。
「──ミチル!」
鳥はそのまま空へ飛び立つ。大きく羽を羽ばたかせて、振り返ることなく暗さの増した夕空を飛んで行く。
私はずっと空を見ていた。
鳥の姿が黒い点になって、やがて見えなくなるまで。
どうやって家に帰ったのか、覚えていない。そのまま、満は帰ってこなかった。
満が姿を消してから一週間後、私は卵を産んだ。
夜中に突然、激痛に襲われた。満がいなくなった辛さから逃れたくて、飲めないお酒を飲んでいたから、そのせいだと思った。
ひどい痛みだった。経験したことのない苦痛にうめき声を上げた。トイレに走って吐くと、次にお腹が搾り取られるように痛んだ。
急いで便器に腰掛け、身をよじって痛みに耐える。脚の間から、ドッと何かの塊が出た。ドプン、という音を立てて、便器の中に何かが落ちた。
恐怖を抑えて覗いてみると、血の塊だった。きっと私は死ぬんだ。そう思うくらい、大きな血の塊に見えた。
脚の間を何度もペーパーで拭いて、やっと立ち上がった。便器の中は血まみれだったけど、その中に白く丸いものがある。気持ち悪さを我慢して、丸いものを拾った。
卵だった。鶏の卵より少し大きい。
鳥を思い出した。浅葱色の大きな鳥を。
暗い赤に染まった夕空を飛ぶ一羽の鳥は、どこか遠くへ消えて行った──。
私は卵を綺麗に洗った。泣きながら、大切に洗った。
もう、気持ち悪さは感じなかった。
「お疲れ様でした」
私は警備員に挨拶した。バッグの中身を確認してもらう。この店は従業員が万引きをしていないか確かめる為に、バッグの中を毎日検査する。
「お疲れさん」と顔見知りになった警備員が私に言った。私は頭を下げて従業員専用ドアから外に出た。私は家までの道を走る。もうこの道を足を引きずって歩くことはない。私には家で待っている楽しみがある。
もうすぐ……。
もうすぐ会える。きっと、今夜あたり。
家路の途中で、昔ミチルを拾った電柱に差し掛かった。電柱の影に薄い青が揺れた。
ハッとして電柱の奥に目を凝らす。シャツが見えた。浅葱色だ。
私はもっと足を早めて電柱の奥に回った。ジーンズのポケットに両手を入れて満が立っていた。下を向いて、私と目を合わせようとしない。
私は満に近づいた。チラッと目を上げて満が私を見てくれた。私は黙って手を差し出した。満はしばらくためらった後、私の手を取った。
「──オレを、許してくれる?」
満は気まずそうに私に言う。私はこくん、と頷いた。
「もう、ああいうことはダメだからね」
そう言うと、満は渋い顔で頭を掻いた。
家までの道のりを満と手をつないで歩いた。早く家に戻りたくて気が急いでいる私を、満は不思議そうに見つめた。
「卵があるの」
私は言った。
「卵?」
「そう、私が産んだの。もうすぐ孵る。多分今夜には」
満は突然立ち止まった。口をポカンと開けて、私を見つめる。私は笑うと、満の手を引っ張った。満は口を閉じて真顔になった。
それから少しして、嬉しそうに笑った。
何が孵るのか、分からない。どんな姿をしているのか、想像もつかない。
それでも、とても楽しみだった。
「ねぇ、なんてつける?」
私は満に聞いた。満はキョトンとした顔で私を見る。
「赤ちゃんに、なんて名前をつける……?」
***********************
2012.12.14 自サイト「FLS」掲載作品。
お読みいただいた方、ありがとうございました。
湿ったシーツの上で身をよじった。満の気配はない。上半身を起こして狭い部屋を眺めたけど、私以外の人はいなかった。
あれは夢だったのかな……。あまりにも長い間辛いことに耐えてきたので、ついに気が狂ってしまったのかも。
バン! とドアが鳴った。大きく開け放たれたドアの向こうに満が立っていた。
「ごはん、買ってきたよ。お腹すいただろ?」
浅葱色のシャツとブルーのジーンズを身につけて、満はコンビニの袋を抱えていた。明るい時間に彼を見ると、ますます若く、美しく見えた。私は呆然と彼を見つめた。言葉が出てこない。
「わわっ」
満は袋を床下に投げ出すと、ベッドのそばに急ぎ足でやってきた。
「ごめん、一人にして悪かった。ぐっすり眠ってたから、起こしたくなかったんだ。そんなに可愛い顔で泣かないで。そんな風に泣かれたら、また沢山慰めたくなっちゃうよ」
満はそう言って、ベッドの上の私を抱き寄せた。私は満の浅葱色のシャツに顔を付けて、匂いをかいだ。満の匂いは若草のようだった。子供の頃、田舎で走り回った草原のような香りがした。
「さぁ、食べて。おにぎりは梅干と焼きたらこだよ」
私の好物だった。嬉しいけど、私は食べるより前にやりたいことがあった。
「ありがと。でも私、食べる前にシャワーを浴びたい」
「ダメだよ。もう昼過ぎてるんだ。まず食べて、それからお風呂に入ろう。オレが美奈を全部洗ってあげる」
私は驚いて時計を見た。もう少しで十三時になりそう。確かにお腹が空いている。私は満に見つめられながら、おにぎりを食べた。
満は食べなかった。私が寝てる間に食べてしまったと言った。
食事のあと、満は風呂場で私の体をフワフワの泡で包んだ。私の鼻先に泡を乗せて、満は笑う。満は約束通り、私の身体を隅から隅まで洗ってくれた。
狭い浴槽に張られたお湯の中に二人で入る。私は満の上にまたがった。何度も私を満たしてくれた満のそれは、疲れを知らないかのように上を向いていた。
私は自分から、ゆっくり腰を下ろした。深く満を迎え入れ、声をもらして反り返った。満が私の胸の先端を舌でそっとなぞる。二人の動きに合わせてお湯が揺れてあふれた。
果てたあと、私はお湯の中で満に寄りかかった。昔見た映画のワンシーンが、デジャヴのように頭の中をよぎった。
それからも満はずっと私の家にいた。満の記憶を取り戻す努力はしなかった。満がどこの誰か分からないけど、分かってしまっていなくなるのが怖かった。
私は職を探して何度か面接も受けた。ただ年齢のせいか、ブランクのせいか、なかなか上手くいかなかった。
満は時々、私にまとまったお金を渡してくれた。満は夜に出かけることはなかった。でも昼間は数時間いなくなることが多い。日雇いのバイトをしてるんだ、と言って満は笑った。悪いな、と思ったけど渡されたお金を生活資金に当てた。
満の食事は野菜だけだった。ベジタリアンだから細くて若く見えるんだ、と言って満は偉そうに腕を組む。肉は一切口にしないで、特に私がとり肉の料理を作ると「ごめん」と言って部屋からでていってしまう。
段々、とり肉を買わなくなって、魚や豚肉料理が多くなった。それでも私は構わなかった。満がそばにいてくれるだけで幸せだったから。
栄子から電話があったのは、満と暮らし始めてひと月ほど経った頃だった。
「ねぇ、美奈。あなたのおうちの周り、最近物騒みたいじゃない?」
「……え、そう?」
「相変わらずボケてるわね。強盗事件が多発してるってニュースでやってたわよ。犯人はお金を盗むだけの時もあるけど、抵抗した人は大怪我をしてるって。その怪我が……酷いらしいのよ。何か、動物にでも噛まれたみたいなんだって。歯型がなくてえぐられてるから、大型の犬をけしかけてるとかじゃないみたいよ。ありえないけど……巨大な鳥かもしれないって」
「──鳥?」
「そうよ。というか、専門家も何だか分からないみたいなの。だから気をつけて欲しいと思って連絡したのよ」
「そうなんだ。知らなかった。ありがとう」
栄子はふーっと息を吐いた。
「美奈……。あなた大丈夫?」
「あ、うん。気をつけるから大丈夫」
「そうじゃなくて──。ああ、もう。上手く言えない」
栄子は一人でイライラしてる。私は理由が分からなかった。
「男なのね」
「え!?」
「だから、男なんでしょ? 恋をしてるのね」
私は電話を掴んだまま、息を飲んだ。
「やっぱりね。言わなくてもわかるわよ。実はこの前、あなたを見かけたの。駅前で買い物してた時じゃないかな」
確かに数日前、私は買い物に駅まで行った。この辺では駅にあるショッピングセンターが一番大きいから時々買い物に行く。
「最初、美奈だって思わなかったの。だから声を掛けそびれた。すごく綺麗になって、生き生きして見えた。白いワンピースが似合ってたわよ」
私はドキドキして心臓を手で押さえた。まさか栄子に見られるとは……。
白いワンピースは満に買ってもらったものだ。満は私の為に、化粧道具まで揃えて化粧の仕方も研究してくれた。満の手によって、私は着飾ることを覚えた。
「ホントは化粧しなくても可愛いんだ。でも美奈の素顔はオレのもの。本当の美奈は、オレだけに見せて欲しい」
満は私にファンデーションを塗りながら話す。化粧の終わった顔を見ると素顔よりずっとマシに見えるのに、満は私の素顔が好きと言う。
「いいのよ。恋するのは。でも美奈って……そういう事余り経験してこなかったでしょ? だから心配なのよ。どんな人なの? 収入は安定してる?」
「あ……、まだそんなに親しくないの。時々会うだけだから」
私は咄嗟に嘘をついた。栄子のような人から見れば、満も私もただの失業者だろう。
栄子には、私の幸せが分からない。
本当に幸せな人には、私の幸せは理解できない。
「そう? 良かったらいつか会わせてね。私がよーく観察して、美奈に合う人かどうか判断してあげる」
この言葉にはイラつきを覚えた。本当は栄子に感謝しなきゃいけない。私の事を心から心配してくれている。それなのに、私はほっといて欲しいと思ってしまった。
栄子との電話を終えて、私は買い物に出た。満はまだ家に戻っていない。そろそろ夕暮れだから帰ってくるかもしれない。
早く買い物を済まそう、と道を急いだ時、前方からザワめきが聞こえた。道の角を曲がると人だかりができている。
「鳥だったんです!」
その叫び声は男の人のものだった。沢山の人の間から、警官が二人と中年のスーツ姿の男性が向かい合ってるのが見えた。男性は顔にタオルを当てている。タオルは血で汚れていた。
「デカくて青っぽい鳥だった。僕は耳を食いちぎられたんだ。その上バッグを盗られたんです」
大声で男性が警官に訴える。道にはどんどん人が増えていく。スーパーに抜けるにはこの道が一番近い。
私は買い物を諦めた。家には何か残っているだろう。家に戻りながら、さっきの男性の声が頭の中を飛び跳ねる。あれが栄子の言っていた強盗の被害者であることは確実だ。こんな明るいうちから、強盗があるんだ。
それに……鳥……。鳥が強盗をするのだろうか。まさか鳥に変装した人間とか?
強盗の被害者を初めて目にしたせいか、私の神経はピンと張り詰めていた。白いタオルに染みた血が脳裏に蘇る。
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大きな羽。ありえないほどの。
パサ……と言う微かな音を残して、羽が消えた。玄関に立っていたのは、満だった。見えたのは後ろ姿。
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でも昼間外出する時は、必ず浅葱色のシャツを着た。何度も洗ったが、不思議な素材の布で出来ているシャツは色褪せることはない。私の知識ではそれが何の素材なのか、分からなかった。
「おかえり」
満は振り返って私に言った。さっきの羽は見間違いだろうか……。鳥の話なんか聞いたから、頭の中に印象付けられていたのかもしれない。
そう思って改めて満を見た。浅葱色のシャツに、血が付いている。
「血! 満、シャツに血が付いてる」
「ああ、大丈夫。さっきちょっと手を切ったんだ」
満は左手をヒラヒラ振ってみせた。確かに人差し指に切れた線が入っていて、その周りに血が固まっていた。
「大変、手当しなきゃ」
「大丈夫だって。大げさだな。洗ってほっとけばいい」
満はそう言うと家に上がって洗面台に向かう。浅葱色のシャツが廊下の奥に消えていく。不安で胸が裂けそうになった。
あの服を脱いで欲しい。ミチルと同じ羽の色をしたあのシャツを、満に着ていてほしくない。
私は靴を脱いで玄関に上がった。そのまま満が戻ってくるのを待つ。
手を綺麗にした満が私の元へ戻ってくる。シャツに付いた血も拭き取られて跡形もない。私は満に手を伸ばした。満は笑って私を抱きしめる。私は満のシャツを脱がすために襟元に手を当てた。
「脱がせたいの? 全部?」
からかうように満が聞く。私は頷いた。このシャツ脱いでくれるなら、なんでもいいと思った。満がシャツを脱いで床に落とす。シャツに視線を投げた時、床に置かれた封筒が目に入った。
その封筒には見覚えがあった。私は身体に絡んでくる満の手を軽く押しとどめて、封筒を拾った。
督促状だった。市役所からだ。健康保険料が未納だから、納めろということなのだろう。私は胃が痛くなった。貯蓄はあるが、保険料も年間となると結構高い。私がため息をついて封筒を見ると、満がシャツを拾ってまた羽織った。
「ちょっと待ってて。すぐ戻るから」
言ってから玄関に降りて、靴を履く。そしてポケットを探るとお札を取り出した。
「今はこれしか持ってないんだ。でも、心配ないよ」
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一瞬ためらった後、私は満を追った。道路に出ると満が公園の中に入っていくのが見えた。
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遊歩道がカーブを描く奥に、私は走った。植木の脇に白髪頭の男性が倒れている。その横に鳥がいた。
巨大な鳥。人間の大人と同じくらいある。鳥の羽は浅葱色だった。後ろを向いていた鳥が振り返って私を見た。大きなつぶらな瞳が私を見つめる。
曲がった嘴に、倒れた男性のものと思わしき黒いスーツケースをくわえている。トン、と鳥はジャンプして私に近づく。ゆっくり首を伸ばすとスーツケースを私に差し出す。私が動かないと、じれったそうにさらに首を伸ばした。
「……ダメよ」
私は言った。鳥は小首をかしげて私を見た。
まるでミチルのように。
「ダメよ。そのお金は、駄目。受け取れない」
鳥は少し考えるように首をかしげたまま止まった。そのまま私の涙を、しばらく凝視していた。
浅葱色の鳥は不意に後ろを向く。トントン、と倒れた男性に近づくとスーツケースをそばに置いた。
そして半分だけ顔をこちらに向けた。丸い大きな黒い目が寂しそうに私を見た。鳥が大きな羽を広げる。バサ、バサ、と羽ばたくと鳥の身体が宙に浮いた。
「──ミチル!」
鳥はそのまま空へ飛び立つ。大きく羽を羽ばたかせて、振り返ることなく暗さの増した夕空を飛んで行く。
私はずっと空を見ていた。
鳥の姿が黒い点になって、やがて見えなくなるまで。
どうやって家に帰ったのか、覚えていない。そのまま、満は帰ってこなかった。
満が姿を消してから一週間後、私は卵を産んだ。
夜中に突然、激痛に襲われた。満がいなくなった辛さから逃れたくて、飲めないお酒を飲んでいたから、そのせいだと思った。
ひどい痛みだった。経験したことのない苦痛にうめき声を上げた。トイレに走って吐くと、次にお腹が搾り取られるように痛んだ。
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恐怖を抑えて覗いてみると、血の塊だった。きっと私は死ぬんだ。そう思うくらい、大きな血の塊に見えた。
脚の間を何度もペーパーで拭いて、やっと立ち上がった。便器の中は血まみれだったけど、その中に白く丸いものがある。気持ち悪さを我慢して、丸いものを拾った。
卵だった。鶏の卵より少し大きい。
鳥を思い出した。浅葱色の大きな鳥を。
暗い赤に染まった夕空を飛ぶ一羽の鳥は、どこか遠くへ消えて行った──。
私は卵を綺麗に洗った。泣きながら、大切に洗った。
もう、気持ち悪さは感じなかった。
「お疲れ様でした」
私は警備員に挨拶した。バッグの中身を確認してもらう。この店は従業員が万引きをしていないか確かめる為に、バッグの中を毎日検査する。
「お疲れさん」と顔見知りになった警備員が私に言った。私は頭を下げて従業員専用ドアから外に出た。私は家までの道を走る。もうこの道を足を引きずって歩くことはない。私には家で待っている楽しみがある。
もうすぐ……。
もうすぐ会える。きっと、今夜あたり。
家路の途中で、昔ミチルを拾った電柱に差し掛かった。電柱の影に薄い青が揺れた。
ハッとして電柱の奥に目を凝らす。シャツが見えた。浅葱色だ。
私はもっと足を早めて電柱の奥に回った。ジーンズのポケットに両手を入れて満が立っていた。下を向いて、私と目を合わせようとしない。
私は満に近づいた。チラッと目を上げて満が私を見てくれた。私は黙って手を差し出した。満はしばらくためらった後、私の手を取った。
「──オレを、許してくれる?」
満は気まずそうに私に言う。私はこくん、と頷いた。
「もう、ああいうことはダメだからね」
そう言うと、満は渋い顔で頭を掻いた。
家までの道のりを満と手をつないで歩いた。早く家に戻りたくて気が急いでいる私を、満は不思議そうに見つめた。
「卵があるの」
私は言った。
「卵?」
「そう、私が産んだの。もうすぐ孵る。多分今夜には」
満は突然立ち止まった。口をポカンと開けて、私を見つめる。私は笑うと、満の手を引っ張った。満は口を閉じて真顔になった。
それから少しして、嬉しそうに笑った。
何が孵るのか、分からない。どんな姿をしているのか、想像もつかない。
それでも、とても楽しみだった。
「ねぇ、なんてつける?」
私は満に聞いた。満はキョトンとした顔で私を見る。
「赤ちゃんに、なんて名前をつける……?」
***********************
2012.12.14 自サイト「FLS」掲載作品。
お読みいただいた方、ありがとうございました。
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2020年に投稿した折、すべて投稿して完結したつもりでおりましたが、最終章とその前の章を投稿し忘れていたことに2024年10月になってやっと気が付きました。覗いてくださった皆様、誠に申し訳ありませんでした。
中学校に入学したその日〝私〟は最高の先生に出会った――、はずだった。学校を舞台に綴る小編ミステリ。
※ この物語はAmazonKDPで販売している作品を投稿用に改稿したものです。
※ この作品はセンシティブなテーマを扱っています。これは作品の主題が実社会における問題に即しているためです。作品内の事象は全て実際の人物、組織、国家等になんら関りはなく、また断じて非法行為、反倫理、人権侵害を推奨するものではありません。

イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?
すずなり。
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メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。
楽しんでいただけたら嬉しく思います。
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