小風 裕

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前編

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 ミチルが逃げた。

 逃げたのは、私の不注意。水を取り替えようと思ってカゴの扉を開けておいたから。

 ミチルがいなくなって、とても寂しい。三年も一緒にいたから、今ではいるのが当たり前になっていた。

 ミチルがいないこの家は、綺麗きれいな声がひびわたらないから静か過ぎる。カゴに視線を移すとミチルの羽根が残っていた。薄い青の羽根。優しくて悲しい色。

 ミチルを道端みちばたひろったのは三年前。まだ羽が生えたばかりのセキセイインコだった。

 私はクタクタに疲れていた。片手に介護用おむつ、もう片方には二日分の食料を持っていた。スーパーから家までの道のりはそれほど遠くないのに、全部の荷物を投げ出して、知らない土地に逃げて行きたいくらい、つらく感じた。

 アスファルトの上を、ズルズルと足を引きずるように歩く。もうすぐ二十代の終りをむかえる身体からだからは、若さを感じることがなくなってきた。きっとはたから見ても、オバサンにしか見えないだろう。化粧もせず、お洒落しゃれなど縁遠い。脳出血で倒れた父と、心臓の弱い母を介護するだけの日々。

 ずっと父の介護をしていた母が軽い心筋しんきん梗塞こうそく発作ほっさを起こしてから、私は勤めていた会社を辞めて、二人の面倒を見なければならなくなった。妹も、弟も、金銭的きんせんてき援助えんじょのみで一切の手助けをしてくれない。

 「長女」だから。

 それだけの理由で私はすべてをまかされてしまった。両親には感謝しなきゃいけない。だって私をここまで育ててくれたんだから。

 でも毎日三度お腹に優しい食事を作り、息を止めながらオムツの処理をし、いつ起こされるか分からない夜を過ごしていると、感謝などかすれてくる。

 動けない父の身体を何度も返し、母の長い愚痴ぐちを聞く。楽しみなど何もなかった。楽しみを持ちたくてもその気力すらうばわれる。

 そんな私にミチルは光をくれた。

 重い荷物を運びながら、近所の人と目を合わせないように下を向いて歩く。だから電柱の影で震えていた浅葱あさぎいろの羽に気づくことが出来た。

 誰かが捨てたのか、どこかから逃げてきたのか。青いセキセイインコはつぶらな瞳で私を見上げた。羽が弱って動けないらしい。

 私は荷物の一番上にミチルを置いて、家に連れて帰った。

 最初は馬鹿な事をしたな、と思った。それだって面倒を見なきゃいけない人が二人もいるのに、その上小動物しょうどうぶつを飼うなど苦労を余計背負せおむようなものだ。

 それでも、ものを言えない小さな鳥を世話していると、自分の中にほんわりとあたたかい愛情がいてくるのを感じることが出来た。

 あわいけれど、綺麗きれいな青い色の羽を見て、幼い頃読んだ童話どうわを思い出した。

「チルチルミチルの青い鳥」

 私はセキセイインコに〝ミチル〟と名付けた。童話にはチルチルとミチルと言う名前の幼い兄妹が出てくる。

 私は特に理由もなく、インコをメスだと思っていた。なので〝ミチル〟と名付けたのに、実際はオスだったらしい。その事実に気づいたときは、インコをミチルと呼ぶようになってからしばらくっていた。だから結局名前は変えないままにした。

 ミチルは大人おとなしい鳥だった。ちょっと育った程度のヒナから育てたから、こわがらずに私の手に乗ってくれる。

 私はミチルに向かって、色々な話をした。ミチルは小首をかしげて私の話をだまって聞いていた。

 ペットしか話せる相手がいないということが、精神的に危険な状態だということは、心のどこかで気づいていた。それでも私はミチルに頼るしかなかった。

 私の年で親の介護をしている人はなかなかいない。毎日が孤独こどくだった。寂しかった。いつしかミチルは、私の心のどころになっていた。


 両親が立て続けに死んだ。

 先に母が亡くなった。父より母の方が長生きすると思っていたのに、心臓の発作を起こしてあっけなくこの世を去った。

 動かず、しゃべらない父に、母が死んだ事実を告げた。半月後、母を追うように父の息が止まった。

 家の中が急に静かになった。父の空咳からせきも、母のおしゃべりも、夜中にトイレに私を起こす声も、今ではもう聞こえない。

 あわただしいお葬式そうしきが終わって、財産のことで少し妹弟きょうだいともめた。父は遺言ゆいごんで持ち家を私にゆずると記しておいてくれた。それ以外の財産など、すずめの涙だった。弟も、妹も、それほど期待はしていなかったらしく、両親の死亡保険を平等に分けたことで引き下がってくれた。

 しばらく、私は呆然ぼうぜんと過ごした。今年三十三になる無職の私に、将来の希望など何もない。

 特に資格もなく、何より気力がない。鏡を見ても、どうやって着飾きかざればいいのか分からない。お見合いの話を伯母おばが持ってきてくれたが、今はそっとしておいて欲しいとお願いして断った。

 静かな家で、ミチルだけ相手にして過ごした。葬式の気忙きぜわしさと長い介護から解放され、やっと落ち着いた私の生活。

 力が抜けて、涙がこぼれた。ミチルは私をじっと見ていた。ピルル……と綺麗な声で鳴いて、なぐさめてくれた。

 次の朝、水を替えようとしてカゴの扉を開けた。ミチルは手乗りインコなので、まさか逃げると思わなかった。水をくんでカゴまで戻ると、ミチルの姿が消えていた。外をけずりまわって探したけど、ミチルの姿は見当たらなかった。

 青い鳥が逃げた。
 もう、私に幸福はない。

 栄子えいこから連絡があったのは、ミチルが逃げたその日だった。「久々に飲みに行こうよ」と誘いの電話を受けた。

 栄子は綺麗だった。キャリアウーマンで二年前に結婚し、今でも共働きで頑張っている。同級生なのに、私より十歳くらい若く見える。

「いつまでも辛気しんきくさかおしてないで、化粧くらいしたら?」

 生中を片手に、栄子が言う。私はオレンジジュースを頼んだ。

 アルコールを飲むと車に乗れなくなるので、介護をしている間は飲まずに来た。母が急に発作を起こすと夜中でも病院に行かなければならなかった。だから私はお酒にずっと手を出さないで来た。

 もうそんな心配はないのに、習慣とは恐ろしい。アルコールでいい気分になるということすら、どんな感じだったのか思い出せない。

「ねえ、美奈みな。あんたまだ若いのよ。もっと人生を楽しみなさい。もうわずらわしいものもなくなったんだから、これからは自分のことを一番大切にしなきゃ」

 栄子は私が心配なのだ。美人で、人気者で、みんなから頼られる栄子が、なんで私と友達でいてくれるのか不思議だった。

 「ほっとけないのよ、馬鹿すぎて」というのが、栄子の言い分。それでも私には有難ありがたかった。本当はかなり気をもんでくれてるのが分かったから。

 楽しむって……どうすればいいんだろう。
 楽しいこと?
 私は何を楽しいと思うのだろう。

「ダンナがいると、朝まで飲むなんてことも出来なくなったわ」

 栄子はそう言って帰っていった。不服ふふくそうな言葉の割に、幸せそうな表情かおだった。私は栄子と別れて、夜十時過ぎの公園の中を歩いた。

 怖くはない。きっと誰も、私のことなんかおそわない。もしかしたら、金を出せとか言われるかもしれないけど、出せるほどのお金もない。

 バササッ……、と羽ばたきの音がした。かなり大きな鳥が飛び立つような音。夜、行動する鳥は限られている。この公園にはふくろうでもいるのだろうか?

「いてて」

 人の声がした。男性の声。私は声の方を見た。さっき鳥が羽ばたく音が聞こえた方と同じ場所だ。

 その人は、公園の遊歩ゆうほ道脇どうわきしたに座り込んでいた。うすい外灯の光で、座り込む人の服の色が見えた。

 浅葱色のシャツ。ブルーのジーンズ。

 私が見ていると、急にその男性は顔を上げた。私はビクッとして、そのまま歩きだそうとした。

「あのう、すみません」

 その人が声をかけてくる。他に人は見当たらないから、きっと私に言っているのだろう。私は躊躇ためらったけど、その人に一歩近づいた。

「すみません。ここは……どこですか?」

 彼が私に問いかける。

「……ここは、M町のあやめ公園です」

 私は答えた。相手は礼儀れいぎにかなった質問の仕方をしているし、無視して行ってしまうのは失礼かと思ったからだ。

「そうなんだ。オレ、なんでこんなとこいるんだろ」

 私は返事が出来なかった。酔っているのだろうか。一礼して去ろうとした。「待って」 と彼の声が追いかけてくる。

「大変失礼だけど、君、オレに見覚えない?」

 私は驚いてまた彼に視線を投げた。薄暗うすぐら外灯がいとうで見ただけでも、彼が私の知り合いなんかじゃない事は分かる。

 若い男性だった。多分、二十代半ばくらい。薄闇うすやみの中でも、整った顔立ちに見えた。

「いえ……。見覚えはありません」

「そっか。そうだよね。じゃあオレは誰なんだろう」

 私はさっきより驚いて彼を見つめた。

「どうし……、え、記憶がないんですか?」

 混乱して、変なき方になってしまう。

「うん、何も覚えてない。自分の名前以外は」

 私は息を飲んだ。記憶喪失!

 でも自分の名前が分かるなら、調べようがあるかもしれない。警察に連絡したほうがいいのだろうか。私がどうしようか迷っていると、彼がまた話しかけてきた。

「申し訳ないんだけど……オレ、足くじいてるみたい。手をしてもらえると助かるんですが」

 彼は無邪気むじゃきな顔で私に手を差し伸べる。

 私は彼に近づいた。自分が夜の公園で、見知らぬ男性にれるという危険をおかしかけている自覚心はどこかにあった。でも心とは裏腹うらはらに、吸い寄せられるように私は彼のそばに行く。

 おずおずと差し伸べた私の手を、彼のほっそりした大きな手が力を込めてつかんだ。私が引っ張り上げると、ふわっと彼が立ち上がった。抵抗はあまり感じなかった。男の人にしては体重が軽いのだろうか。

 私の肩につかまって、彼は立った。スラリと細い。背も私より二十センチほど高いみたいだ。

「名前、なんていうの?」

 突然、彼が聞いた。目の前で若く整った顔が微笑ほほえみを浮かべる。私は直視ちょくし出来なくて目をそらした。

 私が彼の顔を間近で見られる距離にいるということは、彼も私の顔をすぐそばで見ることになる。若くて素敵すてきな男性に近くで見つめられるほど、私は顔に自信がない。

安田やすだ美奈です」

 小さい声で答えた。初めて偶然出会った他人に、名前を律儀りちぎに教えるなど正気しょうき沙汰ざたではない。このまま、無理にでもここを去らなきゃいけない。そう思っているのに、身体は彼に吸い寄せられたままだ。

「美奈か。ねぇ、オレ美奈の家に行きたい」

「は?」

 いきなり名前を呼び捨てにされた上、家に行きたいと言われて頭が混乱した。息を詰めて彼を見ると、パタッ水滴すいてきが顔に掛かった。雨だ。突然大粒の雨がバタバタと、顔や身体に降りかかる。

「ね、行こ」

 無邪気に彼が私を促す。躊躇ためらっているひまはなかった。雨でびしょ濡れになってしまう。公園からうちまで二、三分しか掛からない。私は彼を支えながら、家まで急いで歩いた。

 玄関に入り、彼を下駄箱げたばこに寄りかからせて、私はタオルを取りに行った。ちく二十年を過ぎた家は、介護のにおいが染み付いている。地味な私に、古びた家。父が残してくれた大切な家なのに、私は恥ずかしさを感じていた。

 私は彼にタオルを渡した。公園からはそれほど時間が掛からなかったはずなのに、彼の髪は結構濡れてしまっていた。つやのある、少し長めの茶色の髪に雨のしずくが光っている。外は激しく雨が降りだした。雷もゴロゴロ鳴っている。

「中に入れてくれないの?」

 タオルで髪をきながら、また邪気のない顔で彼が言った。私は黙って彼に手を出した。彼は私の手をつかむと、足をずらして靴を脱ぎ、玄関から家の中にあがった。そして私のすぐそばに立つと、持っていたタオルで私の頭をいた。

れてるよ。美奈は、自分のことは後回しなんだな」

 私の髪を拭きながら、少し呆れたように彼が言う。初対面の彼のペースに巻き込まれているのに、嫌な感じはしなかった。大きな手が私の頭をタオルで優しくでる。長い間、人の世話をしてきたので、誰かに自分のことをやってもらうのがこれほど気持ちいいものだと忘れていた。

「服も濡れてる。身体が冷えてしまうよ。熱いお風呂に入ったほうがいい」

 変な人だ。勝手に人の家に押しかけて、私の心配をしている。言う事を聞く必要などどこにもない。

 でも逆らう気は何故なぜ一切いっさい起こらなかった。お風呂場に行ってお湯をためなきゃ、と思わされてしまう。動こうとして、彼が足を怪我けがしていたことを思い出した。

「あの、それより足に湿布を貼らせてください。早いほうがいいです」

 私が彼に言うと、「そうだね。ありがとう」と言ってニコリと笑う。彼にまた肩を貸して移動する。居間にある椅子いすに彼を腰掛けさせた。私が彼の左足首に湿布を当てると、うひゃあ、と彼が声を上げた。

つめてー。でもいい感じ」

 その言い方は開けっぴろげで、子供っぽかった。私は思わず笑ってしまった。彼はちょっと目を見張って私を見た。

「──可愛いのに。美奈は可愛い。笑うとすごく可愛い。オレは美奈に笑って欲しい」

 私は絶句した。明らかに年下の若い男性に、しかも会ったばかりで名前も知らない人から、可愛いと言われるのは初めてだった。

 とても本気だとは思えない。正気だとも、思えない。

「早くお風呂に入っておいで。オレのことは気にしなくていいから」

 気にしなくていいと言われても、絶対無理だ。でも彼の言葉には逆らえない。彼の魔術まじゅつに取り込まれている。

 私はお風呂場に向かった。もし彼が悪人なら、私がお風呂場にいる間に金目かねめの物を全部持って逃げるだろう。もっとひどい悪人なら、私を殺して証拠を隠滅いんめつするはずだ。

 でも怖さは全く感じなかった。私はお湯をめながら、服を脱いだ。外では雷がとどろいている。かなり近くまで来ているようだ。

 熱いシャワーを浴びて、冷えた身体を温める。お湯が溜まったので蛇口じゃぐちをひねって止めた。石鹸せっけんを泡立てて全身を洗う。栄子と一緒に飲んだ、居酒屋の煙っぽい匂いが流れていく。

 湯に浸かり、ほう、と息をついた。指先まで温まってから湯船から出た。

 風呂場にある鏡に自分の身体を映す。三十を超えた体は、男を知らない。太ってはいないつもりだけど、私の肌も、余分な脂肪も、もう引力に逆らえず全体的にゆるんで見える。

 さみしい思いで鏡を見た。女として一番美しい時を、親の介護で終わらせてしまった。私の二十代を知っている男はいない。

 突然バチンと電気が切れた。雷のせいでブレーカーが落ちたのだ、と分かるまでに数秒かかった。

 落ち着いて、と自分に言い聞かせる。下手に動くとすべって転ぶ。暗闇の中、黒い空間に手を伸ばした。

 ガタッ、バン、という音が聞こえたのはその時だ。誰かがこちらに向かってきている。「美奈?」と私を呼ぶ彼の声がガタガタいう音に混ざる。

 どうしよう。私は何も着ていない。暗いから見えないだろうけど……彼がここに来て、風呂場から部屋の中に連れて行ってもらうのも気が引ける。というか、恥ずかしい。

 迷っているうちに、ガガガ、とれるような音がして浴室のドアが開けられた。

「美奈。大丈夫か? ごめん、うるさくて。オレ鳥目だから……」

 どうやら彼は、色々な場所にぶつかりながらここまで来たらしい。こんな状況なのに、彼の優しさが嬉しかった。彼の手が私に伸びて肩に触れる。

 私は逃げなかった。

「大丈夫? どこかぶつけたりしてない?」

 私の濡れた肩に彼が手を掛けながら聞いてきた。

「うん。大丈夫。動いてないから」

 私は答えた。彼の手がもっと伸びて、私の背中に回る。

「良かった。怪我でもしていたらどうしようかと思った。美奈は傷ついちゃいけない。これ以上、傷ついちゃいけないんだ」

 私ははだかのまま、名前も知らない彼に抱きしめられた。

 どうしてこうなったのか……今はどうでもいい。彼の手が濡れた私の背中をすべる。はじめはそっと。私が抵抗しないか確かめるように。

 私が彼の体に身をもたせ掛けると、その手は次第に勢いを増していく。背中から、ウエストに両手が移動する。私の体のラインに沿って彼の手が上下に動く。

 彼は少し身体を離すと、両手を私の身体の前に持っていった。お腹のあたりをその手がさぐる。ゆるゆると円を描きながら手が上に向かっていく。

 私の乳房を彼の両手が包んだ。声を上げそうになって息を止めた。しばらく、彼のなすがままになった。

 くちづけも交わさないまま、彼の唇と舌が私の胸を濡らしていく。次第に声を我慢がまんすることが出来なくなってきた。

 私の左の乳房は彼の唇を受け、右の乳房は彼の左手になでられていた。彼の右手が私の体の中心の、一番感じる部分に触れそうになったとき、私は初めてストップをかけた。

「──だめ。まだダメ」

「どして……? やっぱりオレとじゃ……」

「違うの。私まだ、聞いてない」

「え?」

「名前。あなたの」

 彼が暗闇の中で息を吸い込んだのを感じた。その時、窓から明かりが差し込んだ。近所の家々の電気が復旧ふっきゅうしたのだろう。うちはブレーカーの元電源が落ちてしまうので、手で戻さないと電気はつかない仕組みになっている。

 ぼんやりした灯りの中で、彼の姿が見えた。今は身を起こして、じっと私を見つめている。

「……からだ、拭こうか。濡れたままじゃ風邪ひくよ」

 彼は私から一度離れて、脱衣所にあるバスタオルを見つけて戻ってきた。大きなタオルが私の全身を包む。もうこれで終わりなのかな……と思うと、ツキッと胸が痛んだ。

「ベッドまで連れてってよ。さっき急いで歩いたから、また足が痛み出した」

 笑いをふくんだ声で、彼が言った。バスタオルだけで身体をおおったまま、自分の部屋まで彼に肩を貸して歩いて行った。

 自分の部屋の中へ入る。部屋の真ん中のガラステーブルの上に、ミチルのカゴがポツンと置かれていた。それを見て、急に涙があふれた。

 ミチルがいない。
 ミチルが、いない。

 三十路みそじに入った私の頬を、止めどなく涙が濡らす。かっこよくも、綺麗でもない。
 ただ、みっともない。

 彼がまた、私を抱きしめる。私はそのままベッドに押し倒された。

「みちる」

 彼が言った。私は涙に濡れた目で彼を見返した。

「オレの名前は、とりいみちる。漢字で書くと、神社の鳥居とりいに満足の満」

 鳥居とりいみちる

 それがこの彼の名前。

「年は三十。若く見えるのはただ童顔だから。オレが覚えてるのは、それだけ」

 外にある街灯と、近所の家の灯りだけで浮かび上がる満の顔は、確かに若く童顔だった。

「覚えてるのはそれだけだけど、分かっていることが一つある」

 私はまた、黙って彼を見返した。ミチル、という名前だけが頭の中をめぐっていく。

「オレは、美奈を愛してる。それだけは、確信がある」

 そう言った後、私の反応も待たずに満は私にキスをした。満の唇は、冷たくて少しだけ硬い。

 でもその舌は熱く、私の口の中を丁寧ていねいさぐっていく。バスタオルはがされてベッドの下に落ちた。さっきよりも、もっと大胆に満の手が私の胸をまさぐる。

 私は小娘のように、力を抜いて満にすべてを任せた。彼が浅葱色のシャツを脱ぎ捨て、裸になった時も、ただベッドに横になっていた。

 三十を過ぎて、男性と同じ布団に入っても、私は自分が何をすればいいのか分からなかった。

 満は一心に根気よく愛撫を繰り返す。色々なところにキスされた。信じられないような場所にまで。両胸の先端がキュッと硬くなって、少しだけ肌の張りと若さを取り戻せたような気がした。

 私はシーツをつかんで、満の愛を受け止めていた。これが愛なのか、愛と呼べるのか、自信はなかったけれど、満の手は優しく、よろこびに満ちて私のすべてを知りたいと思っているのを感じられた。

 満の両手が私の脚の付け根に当てられる。少し力を入れて、手を下に滑らせながら左右に開く。

 その瞬間、私は満の背中を傷つけた。面倒で切らなかったせいで伸びた爪が、満の背中にくいこむ。口づけを交わし、時々私の名前を繰り返しながら、満は私に男を教えてくれた。

 外が明るくなるまで、何度も満と交わった。お互い時々眠って、気がつくとまた求め合った。

 回数を重ねるごとに、私の快感は増していく。二人の汗でシーツがしっとり湿る頃、やっと本格的な眠りについた。
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