人外の者、山を下る

八田甲斐

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人外の者、山を下る

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 六月下旬の深夜。

 G7に加わる西ヨーロッパ諸国からの来賓を迎えた東京は厳戒態勢にあった。国会や官公庁などが密集する単語かすみ霞が単語せき関近辺の上空を警戒していた単語けいしちょう警視庁の無人航空機対処部隊が不審なドローンらしき飛行物を検知したのは午後十一時過ぎである。直ちに警戒態勢を強化し、対処部隊は小型レーダーなどを駆使して不審な飛行物を監視を続け、緊急出動した警察ヘリ一機が単語しゅつどう出動する騒ぎとなった。

 同時に警視庁は単語かいじょうほあんちょう海上保安庁、単語ぼうえいしょう防衛省など関連各署に霞が関上空に不審機が飛来した事を報告、だが、日本の領海、上空などを監視する海上保安庁も防衛省も海上、上空とも国籍不明の艦船、航空機は見当たらないとの連絡を返してきた。

 霞が関上空に飛来した飛行物体が、どこの所属で、何が目的なのかを考えさせる暇もなく、飛行物は霞が関上空から単語しばうら芝浦方面へ悠々と向かい始めていた。まるで観光で東京の上空を飛んでみましたというような、速度を上げるでもなく、進路を細かく変える事も無く、かなりゆっくりした速度で東京タワーの東側を抜け、海岸沿いへ向かっている。

 芝浦上空でレーダー誘導により追いついた警察ヘリは、「対象は鳥のような物」という報告後追跡を開始したが、追跡されていた飛行物体が突如急転回し、さらには追跡していた警察ヘリ左後部のアウトボードフィンを若干破損させたため、ヘリは飛行に支障を生じてしまい、ついには近くの小学校校庭への緊急着陸を余儀なくされたのである。

 不審飛行物はヘリ単語しゅうげきご襲撃後、極めて低空を飛行し始めたらしく、レーダーの追尾から消えた。

 翌日のニュースでは、東京上空に現れた不審飛行物に関する記事はなく、ただ、故障を起こした警察ヘリが小学校の校庭に着陸した事だけが報じられたのである。

―壹―
 一人暮らしを長年続けている単語さえぐさよしえ三枝芳江という八十過ぎの年寄りが消えたのを近所の住人は誰も気付かなかった。六月二十四日のことである。

 ここは品川区戸原町という地名が付けられ、明治時代以降に形作られた町であるが、まだ何とか近所づきあいというものが健在な地域でもある。とは言うものの、彼女は日頃から多少偏屈な気があり、ほとんど家に閉じ籠り、近所の住人との接触をしなかったことも、彼女が居なくなったのに気付かなかった要因の一つであった。似たような人家が建ち並んでいる界隈ではあるが、彼女はその中で比較的大きな庭付き一軒家に住んでいた。

 この地域は単語じょうなんちく城南地区とも呼ばれ、東京と大阪までを単語つなぐ繋ぐ国道一号線が走る沿線で、住宅と商業施設、さらには小規模な町工場などが混在する地域だ。都心の南側は、意外に平坦な土地が少なく、地形的にも武単語むさしのだいち蔵野台地の端に当たる。単語えど江戸と呼ばれたころから、この辺りは食料などで江戸の人々の生活を支えていた地域でもあり、川を伴った単語たにま谷間は稲作、丘の上部が平坦な台地では畑作が盛んにおこなわれていた。時代が変わり、江戸から東京になると、都心にほど近いここは田圃や畑が家などに変わり、人口が爆発的に増えたのである。

 三枝芳江の姿が見えないことに近所の者が気付き始めた二日前、彼女は自宅の庭に文字通りはまっていた。十年も昔に夫を亡くし、以来一人だったため、夫が単語たんせい丹精を込めて世話をしていた庭は荒れ果てしまった。それでも彼女は、時折庭に降りては、無秩序に枝葉を伸ばした植木は体力的に無理なものの、雑草類は抜くようにしていたのだ。

 小さいながらも庭石を配置した築山などがある庭のほぼ中央には、夫が特に愛でていた桜の古木がある。良く知られているソメイヨシノでなく、日本古来からある単語やまざくら山櫻の一種らしいが、この桜は春ともなると毎年、鮮やかな薄桃色をした一重の花をつけた。それがこの春は、花を咲かさなかったし、葉も繁らせなかった。その代わり、梅雨の初めころから幹に単語つた蔦が絡まり始めていた。
 
 枯れてしまったのかもしれないと三枝芳江は思ったが、夫が大事にしていた桜である、暫く様子を見ようと今日までそのままにしておいたのである。

 梅雨に入っても桜が蘇ることはなく、蔦を這わした幹や枝をすらりと伸ばした姿のまま庭に立つだけであったのだ。その日の雨が止んだ午後、庭先の縁側から桜の木を見つめていた芳江は、やはりだめかと思いながら、サンダルを持ち出し縁側から庭に降りた。ぬかるんだ細道を進み、水のない池の脇を通ると以前は芝が張られていた六畳ほどの空間がある。その真ん中あたりに桜の木が植えられていた。芳江は少し覚束ない足取りで桜の木の許に立つと枯れた姿を見上げた。

 夫も逝ってしまい、大事にしていた桜も単語逝ってしまうのかと、蔦を纏った女性的な幹の周りを巡ると、ある物に目を止めた。幹の根元から二メートルほどの芝の名残りが生えている部分が窪んでいるように見えたのだ。近づくと、半径十五センチほどの穴が開いている。モグラかと芳江は思った。若い頃、実家の畑を荒らすモグラの穴を良く見たものであるが、ここに出来た穴は、土を地表に押し出すようなモグラの穴では無く、地下に空洞があり、土の重さに耐えかねて崩落してできた穴に見えた。

 穴の周囲を右足で軽く踏んでみた。固い土の感触では無く、薄いスポンジを踏んだ頼りなさがある。やはり下に単語くうどう空洞があるらしいと思った瞬間、右足から土塊や芝と一緒に一メートル三十センチくらい落下した。落ちた衝撃で腰をしたたか打ったようで、痛みで動けなかったが、単語しばら暫くするとやや痛みが退いたので、落ちた穴を見回すと、そこは人の手で一メートルほど円形に掘られた室で、周囲を杭と板で囲ったものであった。

 初めは何か良く分からなかったのだが、彼女のほど近い所に、朽ちかけ変色している白い着物を身につけた白骨が、身体を丸めるような姿勢で単語うずくま蹲っていた。細い小柄な骨で、女性の骨だと芳江は少しパニックになりながら思った。

 骨の横には風呂敷のような布に包まれた長方形の箱が、彼女に添えられるように置かれてあった。真っ先に浮かんだのはここから逃げようという思いであったのだが、打った腰がどうにかなったのか足に力が入らない。そうなると、横に蹲る白骨がさらに恐ろしくなった。この白骨と一緒に死んでしまうのではという思いに襲われ、誰か助けを呼ぼうと叫んだが、誰も気付かなかったようだ。彼女は自分の力でそこから脱出することを余儀なくされたのである。

 何度もトライしたか分からないが、ようやく土の中から這い出た時には、辺りは完全に夜になっていた。八十を過ぎた身体で、何度も白骨に見守られながら失敗を繰り返しての脱出は、心身ともに消耗させた。体中に着いた土を落とすのもそこそこに、芳江は寝床に潜り込むと、三日の間、起きられなくなってしまった。

 ともかく、近所の住人との接触はほとんどしないが、必ず夕方には使い込んだショッピングカートを曳きながら買い物に出かけるのが三枝芳江の毎日であった。その姿がなかった事に近所の人が気づいたのは、彼女が穴にはまった一日後のことで、翌日もどうしたものかと思案しているところに、週に一日だけ訪れる事になっている訪問ヘルパーが、芳江が半ば泥に汚れた姿で寝ているのを発見したのである。彼女にどうしてそんな有り様になっているかを訊ねても、「覚えていない」と答えるだけで、本当に覚えてはいないようだった。ボケが始まったのかと近所では噂になった。

 彼女が本格的に変わった様子を見せ始めたのはその次の日からである。

 以前の彼女は家に引きこもりがちであったが、盛んに家から出歩くようになった。出歩くと言っても、いつもの買い物に加えて、両隣の家近辺を歩く程度だが、彼女は辺りを歩く時に、通りすがる家々に向かって「単語みこ巫女のくちききなさらんか」とぶつぶつ呟きながら徘徊する。どことなく奇異なその光景を見た近所の人達は首を傾げた。

「やはり、ボケたんだ」
 そう判断した。

―貳―
 三枝芳江のちょっとした騒動が起こった週の土曜日、その近所に住んでいる単語とのまえかすみ殿前香澄は高校のクラスメートである単語おおしままみ大嶋真美と単語かわべなおみ川辺奈緒美の二人と品川駅の単語こうなんぐち港南口にあるカラオケに行った。彼女は現在高校二年で、家の近くの都立高校に通っている。

 その日の恰好は、外出する時に装うそれで、大人びたデザインのノースリーブと少し短めのスカートである。スカートからはすらりと伸びた足が、大人っぽい体つきを強調していた。顔つきは多少きつめで、意思の強そうな切れ長の瞳と幼さが残る口元のアンバランスさが、不思議な雰囲気を醸し出していた。性格は意思の強そうな光を抱いている瞳と同じで、結構気が強い。彼女もそれを自覚してもいた。

 雑居ビルの中にあるカラオケ店で、ビルの五階フロアーを丸ごと使ったような店であった。梅雨の晴れ間となった土曜日で、原宿や渋谷で二人に気を使いながら遊んだ後で、気分は乗らないのだが、まだ九時を少し過ぎたばかりでもあり、「まっ良いか」と思ったのである。

 香澄以外は良く利用するというカラオケ店は結構混んでいて、彼女らの前に四組程順番待ちをしていた。その一組が大学生とおぼしき男性三人であった。彼らはそれとなく彼女らにちらちらと視線を寄こし、特にリーダー格の大学生は、少し派手目な香澄にいたく興味を抱いたらしかった。三人とも少し酒が入っているのであろう、長身の一人は顔がすでに真っ赤となっている。

 三人とも見た目は悪くない、身ぎれいな服を身に着けているし、どこか裕福な学生といった感じも受ける。とくにリーダー格と思われる男性は「自分はイケメン」と自負しているようだ、自信満々の顔つきをしている。
 嫌だなと香澄は思った。彼女から視線を外そうとしないリーダー格の男を無視しながら、少し苛立ってもいた。

(ナンパされるかも――)
 香澄がそう思った通り、彼らは彼女らに声をかけてきた。彼女は軽々しくナンパしてくる男が「大っ嫌い」である。
「もうすぐ、自分達の番になるんだけどさ、その後となると結構待たされるみたいだよ」
 三人組の中で、一番背の高い男が、香澄達にそう言ってきた。

「えー、そうなんですか。――どうしようか、今日はやめる」
 と、奈緒美が香澄達を見た。男たちに声を掛けられたせいか、少し上気した表情をしている。
「いつもここ、そんなに混んではいないんだけど。――でも、すぐに順番が回ってくるんじゃない」
 とカラオケ好きだという真美がそれに異を唱えた。彼女が二人をこのカラオケに誘った張本人でもあるせいかも知れなかった。
「いや、結構待たされると思うよ。俺たち大分前からここで待ってるから」
 声を掛けてきた背の高い男が言う。その背後で、二人の男が薄笑いを顔に張り付かせている。
「でさ、俺たちと君らで合流しない。そうすれば、次に案内されることになるけど」
やっぱりだと、香澄は大学生三人をげんなりとした気持ちで睨むと、「今日は帰ろ」と奈緒美と真美の二人に言った。
「えー、せっかく来たのに」
 と真美が不満げな声を上げた。

(ふうん、あんたはこいつらと一緒に遊んでも良いわけ)

 と香澄は思った。ことに無遠慮な視線を投げかけてくるリーダー格の男がますます不快でならない。

「そうそう、せっかく来たんだから、帰ることはないんじゃないの。俺たちが飲み物なんかは単語おご奢るしさ」
 三人達が距離を詰めてきた。せめて、カラオケ代を奢るとか言ってこないのがいやらしいと思う。
「う~ん、どうしようかな」
 遊んでも良いんじゃないというように、真美が奈緒美を盗み見る。香澄に言っても反対されるだけと思ったらしい。奈緒美はどっちとらずの顔つきをしたまま、「二人が良ければ」と言った。

(信じられない。こいつらの単語こんたん魂胆みえみえじゃない)

 彼女の直感が、この三人は危険だと告げている。嫌だというだけでなく、何に危険を感じたのかは不明だったが、うっかり危険な場所に足を踏み入れてしまったような、じわじわと嫌な緊張感がせり上がってくる感覚がしたのだ。
リーダー格が、ちらちらと真美と目配せしている。互いを良く知っている者同士が意思の単語そつう疎通を行っているような、そんな目配せだった。

(真美と知り合いなの、こいつら)
 そう驚くと同時に、ある疑念が香澄をよぎった。

(最初から、こうする事を打ち合わせ済みだったのかもしれない)
三人対三人、頭数はちょうど良い。もしそれが本当であったのなら、事前にそれを告げなかった二人へも腹立ちが広がっていく。

 真美と奈緒美の二人は高校のクラスメートであるが、ただそれだけで、それほど親しくはない。その二人が突然遊びに誘ってきた。腑に落ちないものの付き合ったというのが本当なのである。
「なんか、このまま待たされるのも、ちょっとね」
 真美は声を掛けてきた三人組に笑みを浮かべながらそう言った。明らかに彼女は乗り気のようだった。
「あたしは帰るよ」
 香澄は二人にそう告げた。
「え~、いいじゃない、付き合ってよ」
 と異を唱える真美の視線がちらりと三人の男に走る。

(やっぱり――)

 あそんでいた渋谷から直接、自分の地元ではなく利用した事のない品川にあるこのカラオケ店に連れてこられたこと、そこに三人組が待っていたこと、奈緒美はともかくも、真美は三人と遊ぶのを前提に香澄を連れてきたようである。

「あたしは帰るから。二人は残れば」
 香澄はそう言い残すと五人に背を向け、カラオケ店の自動扉を潜った。
「待ってってば」
 真美の声が背中から聞こえた。男たち三人が追ってくる気配がした。

(ついて来るなよ、うぜえな)
 彼女は心の中で毒づいた。

 カラオケ店は五階にあるが、エレベーターは一基しかない。表示ではエレベーターは一階に停まっているようだ。エレベーターが来るのを待っていたら男たちに追いつかれる。香澄は非常扉のサインを見つけ、そちらに足を向けた。
「ねえ、彼女。ちょっと待てよ」

 やはり三人が追ってきた。重い非常扉を開け、非常階段に出る。じっとりと蒸し暑く湿気った空気に包まれた。できるだけ急いで階段を駆け下りたつもりだったが二階辺りで三人に捕まった。
「逃げるんじゃねえよ、せっかく真美を使って連れてきたんだからな」
 リーダー格の男の声が聞こえ、香澄両脇を男二人に掴まれていた。店での声の調子とかなり違っていた。
「あいつのインスタにさ、君、一緒に写っていただろ、興味持っちゃってさ」
 あいつとは真美のことと言おうとしたが、言葉が出なかった。確か以前、そんな事したと香澄はおぼろげながら覚えていた。その時は、何の気もなしに、拒否するのも悪いと思い、真美のインスタ用にと奈緒美と三人でカメラに収まったことがあるのだ。

 これだからSNSは嫌いなんだ、と香澄は舌打ちしたい気分になった。しかし、そう毒づいても状況は変わりようもなかった。三人の男たちに取り囲まれ、香澄は進退窮まった状態にあった。

 カラオケ店が入っていた雑居ビルの隣にコインパーキングがあり、彼らはそこに車を停めていた。黒い外国製のSUVで、半ば抱え上げられるように後部座席に無理やり押し込まれた。後部座席に放り込まれるとシートの真ん中に座らされ、あっと言う間に両手首を結束バンドで縛られていた。

 リーダー格の男が香澄の左側に座り、がっしりとした体格の男が右側に座る。酒で顔を赤く染めていた長身の男が運転席に収まった。右側に座ったリーダー格の男が彼女の肩に手を回してくる。

 あっけなく単語らち拉致されてしまうという状況に自分が陥ってしまったことに混乱し、香澄はなすすべもなく固まっていた。

 十分後、香澄を拉致したSUVは深夜の倉庫街を疾走していた。道の沿道はビルといった背の高い建物が見えなくなって久しい。車窓の奥に高層ビルの明かりが見えるものの、辺りはオレンジ色の街灯だけが車通りの無い広い道を照らし出していた。

 三人組の目的は明らかであった。どこかもっと人気のない場所に行き、香澄を弄ぶつもりなのだ。リーダーの手が、今度は短い丈のスカートから露出する太腿を触り始めている。

(あのまま、残っていれば良かったのかも)

「まだ着かねえのか」
 リーダー格の男は香澄の髪の匂いを嗅ぎながら、運転席の男子大学生に高圧的な態度で訊ねた。
「もうすぐ、いつもの場所だ」
 とハンドルを握っている男が言い、そして「騒がれたらどうする」と続けた。
「誰もこねえよ、だからあそこに行くんだろ」
 右側の男が答えた。
「やっぱりかよ、で、どうすんだよ、そいつ」
 運転する男がちらりと後ろに視線を走らせ、不安げな声を挙げた。
「ばか、俺たちの顔を覚えられてんだ、いつもの通りさ」

 そう言いながら、リーダー格の男が這わす指は、香澄の懸命に閉じようとしている太腿の奥へと伸びていく。もうすぐ下着に触れてくるだろう。男は言葉を続けた。
「それまで、楽しまなくちゃな」

 男たちが交わす会話が何を意味しているのかに気付くまで、暫く間があった。

(あたしを殺すつもりだ)

 男たちにレイプされることも、その後、殺されてしまうかもしれないことも衝撃だが、それにより自分の未来が、たった少しだけ判断を狂わせたことで無くなってしまうことが、もっと衝撃だった。

 上げてしまいそうな悲鳴を押し殺してはいたが、香澄は怯えきっていた。

 彼女は小学三年生の秋から、母親一人に育てられた。父親と暮らせなくなったのは離婚のためである。理由は良く知らないし、母親もそれを話そうとはしない。その不満もあってか、小学六年から早めの反抗期が始まり、香澄は母親との距離を置いた。母親が嫌いだという訳ではない、むしろ好きだ、大好きかもしれない。

 一人っ子として育てられた彼女は、良くも悪くも母親の愛情を一身に受けて育ってきた。その愛情に応えようと思った事はないが、母親への想いは人以上だと思っている。彼女の反抗期は終わっていたにも関わらず、彼女は母親に対し木で鼻を括ったような態度は多少今でも残っている。今日だってそうだ、出掛ける際、母親から「早く帰ってきなさいよ」と言われたのだが、香澄は反抗的な表情を見せただけで家を出たのである。

 男の指が下着の下に単語もぐ潜り込もうとしていた。香澄は無言で抵抗していたが、男の行動を単語そし阻止し切れていない。

「着いたぜ、ここで良いか」
 運転していた男は車を停止させ、シートベルトを外した。

 リーダー格の男は香澄の下半身から手を外さず、顔だけを上げて辺りを見回した。東京湾沿いの単語ふとう埠頭のような所だった。オレンジ色の照明が規則正しく並び、SUVの左側にはこれから船積みされるのか大型のコンテナが積み上げられている。車は彼らのSUV一台だけで、右側は岸壁と黒い海だった。

「誰かが来たら教えろよ」
 リーダー格の男が目をぎらつかせそう言った。もう一つの手が、香澄の薄手のタンクトップに隠された胸を掴んできた。
「こんな夜中だぜ、誰も来ねえだろ」
 左側の男が答えた。
「まあ、見た所、誰もいないな、ここには」
 運転席の男がちらりとこちらに顔を向け、服をめくられ始めた香澄を見つめている。
「お前らは、少し外してくれないかな、この子と二人っきりになりたいんだ」
 とリーダーは他の二人がこちらを見つめている事が気に障る様になったらしく、そう他の男を追い出しいかかった。
「いいぜ、次は俺だからな」
 右隣の男がドアノブに手を伸ばした。
何とかしなければと思いながら、香澄は何もできなかった。恐怖だけがあった。
「助けて――」
 本来、気の強い彼女がもっとも言いたくない命乞いの言葉が思わず出てしまった。そして母親に助けを求めるよう「おかあさん」と呟いていた。

「気の強そうな顔をしてる癖に、おかあさんかよ」
 車のドアを開けようとした男がそう言い、運転席の男が同調するように「ひひっ」と笑い声を漏らした。
「残念だな、誰も助けにこない。あきらめな」
 とリーダー格の男がさらに身体を香澄に被せてこようとしている。
「なあ、外から覗いても良いよな、お前達のアレの様子をよ」
 右隣の男が言った。
「好きにしろ」
 男の指が下着の下に潜り込んでくると、何かを求めてまさぐり始める。
「いやっ」

 恐怖と絶望の中、香澄は震える声でもう一度そう言った。心の中では「助けて」と「おかあさん」を叫び続けている。男のもう一方の手が、タンクトップをたくし上げ、白いレースに飾られた水色のブラもそのまま彼女の首の方へ引き上げる。形良い乳房が露わになった。

 リーダーの行為がさらに進みそうなのを見て、右隣の男は外に出ようとドアノブを引いた。運転席の男はまだシートに収まっている。

 金属が単語きし撓む大きな衝撃音とともに、SUVが大きく揺れた。

 ボンネットの上に、大きな人型をした化け物が乗っていた。それは上空から飛び降りてきたようである。飛び降りてきたそれは単語すもう相撲の単語そんきょ蹲踞のような姿勢でボンネットの上から車の中を覗き込んでいる。癖の強い長髪が、埠頭を撫ぜる風に揺れ、オレンジ色の照明を右から受け、顔の半分しか判別がつかない。オレンジ色の明かりを受けた方の切れ長の瞳は漆黒に塗りつぶされ、鼻から口にかけては単語かぶと兜の単語ほほあ頬当てのような単語くちばし嘴状の黒い物で覆われていた。単語さむえ作務衣に似た衣装で身を包んでおり、何かを背負ってでもいるのか、その服の上に荒縄を斜め掛けにしている。

 そして、その化け物は羽を持ち、それが背中に畳まれていくところを車の四人は見た。

 突然の事で、男達は目を見開いたまま動けずにいた。

 最初にやられたのは運転席の男である。化け物の右腕がフロントウインドを突き破り、運転席の男の顔を掴んだ。頭蓋骨が潰れる嫌な音がし、シートベルトを外していた男を、街灯の灯り受け、オレンジ色のひびが入ったフロントウインドウもろとも引きずり出すと車外に放り投げた。

 香澄の右側に座っていた男は、もともと外に出ようとリヤドアを開けかけており、運転席の男が顔を潰されフロントウインドウもろとも放り出されたのを見ると、悲鳴を上げてリヤドアを押し開けた。外の路面に足を着いた時、目の前に長身の単語たいく体躯をした化け物が、男が開けたリヤドアに手をかけて立ち、見下ろしているのに気づいた。男は再び悲鳴を上げた。

 それは黒い鋼鉄製のリヤドアを左腕で、いとも簡単に車体から引きちぎると、ゴミの様に放り捨てた。そして車の外へ出たばかりで固まっている男の腹部辺りに、右腕を無言で単語いっせん一閃させたのである。一閃された男の身体が、蝶番が閉じる様に二つに折りたたまれ、地面に転がっていった。リヤドアを失った車内に、生臭い血の匂いが流れ込んできた。

 香澄を裸にしようとしていたリーダー格の男は、瞬く間に二人の友人を始末してしまった人型を信じられないとでも言うように悲鳴を上げながら見つめているだけだった。

 リヤドアを失なった後部座席を化け物が覗き込んできた。薄明るい車内灯の光を受けたその顔は、凶暴な獣そのもので、何より白目の部分がない漆黒の瞳と嘴状の頬当てのような黒いマスクが異様であった。ぎろりとリーダー格を化け物が睨んでいる。

 次は自分の番だと気づいた男は、言葉にならぬ甲高い声を上げていた。自己中心の人生を舐めきった生活を続けてきたこの男は、これまでの付けが一気に回ってきたことを未だに理解できていなかった。ただ、単純な防衛本能の赴くまま、半裸にされていた香澄を残して、左リヤドアから飛び出したのである。

 香澄は長身の化け物が掻き消えると同時に、自分をレイプしようとしていた男が上に引き上げられていくのを見た。悲鳴は次第にさらに高い頭上から聞こえるようになっていく。それは遠くに連れ去っていくというより、空にひっぱり揚げられ、どんどんと高いところへ昇っているように聞こえた。続いて、今度は男の悲鳴が大きくなりながら近づき、水に濡れたマットレスが地面に激突するような破裂音が埠頭に響きわたった。悲鳴は突然途絶えた。

 次に襲ってきたのは静寂であった。

 ただ車内燈の明かりと、外のオレンジ色の照明、そして、埠頭の単語ごがん護岸に打ち付ける微かな波の音とともに、黒く緩やかにたゆたう海面が見えた。香澄は、何が起こったのか理解しきれないでいる。

(あの化け物は何)
 同時に次は「私だ」と思い至った。

(もう、いいや。――どうでも良い)

 恐怖より絶望、厭世観が上回ったらしい。ものの一分ほどで三人の男をどうにかした、たぶん殺害したのであろう化け物が、次に手をかけるのは自分だ。

(どうしようもない。死ぬのは痛いのだろうか、でも、レイプされるよりはましかも――)
 乱れた服も直さず、彼女は顔を手で覆い、化け物が襲って来るのをただ待ちながら、こんな状況に陥った自分を呪った。

 だが、多少違ったようである。

「――着ている物を直さんか、バカタレが」
 言葉は辛辣だが、思いの外優しい声であった。

 驚いて手から顔を上げると、開け放たれた左のリヤドアから化け物が覗き込んでいた。リーダー格の反対側、右に居た男が殺されるときに一瞬見た化け物の瞳は漆黒一色だったのに、今は白目と黒目が分かれている。その瞳が興味深い物を見たというような色を浮かべていた。

 車内を覗き込んだまま、嘴のような頬当てを外すと、化け物はそれを作務衣風の衣装の懐に仕舞った。すると思いのほか普通の三十男の顔が現れた。

 化け物は、香澄が拘束バンドで手首を絞められているのを知り、刃渡り二十センチほどの刀を腰から引き抜き、単語やすやす易々と結束バンドを切り離し、素早く腰にそれを納めた。二番目にやられた男は、この刃物で斬られたのだろうかと香澄は思った。

「着ている物を早く直せと言っておる。そのままの恰好で居続けるつもりか」
 口調は、テレビなどで流れる時代劇の侍が話すような古臭い言い回しであったが、意外に単語じょうぜつビ饒舌である。そして驚いた事に、化け物は半裸にされた香澄を直視できないらしく、視線を逸らしたのである。

(殺す気はないのかもしれない)

 そう思うと、香澄は自分のあられもない姿が急に恥ずかしくなり、慌ててパンティをずり上げたり、ブラジャーやタンクトップの裾を整えたりし始めた。あの男が触ってきた感触が色々な所に残ってはいたが、当面は無視することにした。
「直したら外に出て参れ」

 服を整える手を止め、化け物を見たが、彼は車から少し離れたようで姿は見えず、声だけがした。服を整え終えると、車の床に落ちている自分の淡いグレーにチェック柄をあしらったミニショルダーを拾い上げる。中にスマホや財布が入っているのを確認した。

 まだ、一連の出来事で身体が重たかったが、大型でスペースに余裕のある車内が幸いし、ふらつきながら香澄は車を降りた。二メートルほど離れて化け物が立っていた。化け物は肩幅が広かった。やはり背には羽が見える。人間ではないのは確かのようだ。だが、三人の男を殺した時の迫力が今は見えない。

「さてと、どうするかの」
 口調は単語おうよう鷹揚のない単語ものい物言いであったが、やはり優しさを含んでいる。
「ここ、どこなの」
 その口調に少し警戒感を解いた香澄が辺りを見回そうするのを、化け物が慌てて止めた。
「見回すのではない。あまり単語みば見栄えの良い物が転がってはいないからの」
 それが何を意味するのかを知り、顔が強張る。そして、もう一度「ここはどこなの」と言った。
単語わし儂も良く分からん。海辺だとは分かるがの。――で、そなたはこれからどうしたいのだ」
「帰りたい」
「ふむ、そうか」
「近くに駅はないかしら」
「だから分からんと言っておるだろ、駅とはなんだ。宿場のようなものか。儂はな、この上を飛んでいた時、お前の声が聞こえたので降りてきたのだ。まさかに、あんな羽目に陥っているとは思わんだったがな」
 化け物はそう言い、右手をゆらりと振ってみせた。
「私の声が聞こえた」
「おうよ、助けてお母さんとな――」
 化け物の言葉にはからかいの調子などは含まれていなかったものの、それが無い事でひどく恥かしいような気持に香澄はいる。化け物は耳が異様に良いようだった。
「――ありがとう」
 突然、礼の一つも言わねばと口にしたのだが、照れ隠しか、少しぶっきらぼうな口調となってしまっている。本当は安堵で、膝から崩れ落ちそうなのだが、ちょっとした反骨心がそれを押し留めていた。
「まっ、礼は良い。――で、お前の家はどっちじゃ。ついでだ、送ってやる」
 そう言われ香澄は辺りをまた見回そうとし、化け物が急いで止めた。
「辺りをみるのではないと言っただろうが。しようのない娘じゃの」
 化け物はそう言い、香澄に近づいてきた。身体の大きさもあるが、化け物の全身に纏っている何かが、香澄を圧倒し始めた。化け物の斜め後ろ、およそ十メートル程離れた所に、黒い水溜りのような中に浮かぶ単語にくかい肉塊が目に入った。

(あれは――、人――)
「見てはならぬと言ったであろう、このバカタレが」
 化け物は、彼女から肉塊が見えない位置に身体を移動させ壁を作った。そして、腰に手を当てると、小言でも言い出しそうな顔つきになった。
「――何よ、バカタレって」
 化け物の意図を知り、軽く感動しつつも、言葉は反抗的なものが吐いて出た。
「バカタレはバカタレじゃ、お前のことよ」
「バカタレじゃないわ」

 化け物が自分をどうこうしようというつもりが無いことを感じ、香澄はふと、品川のカラオケ店に置いてきた真美と奈緒美の二人を思い浮かべた。どちらかが私をこのような状況になるよう仕組んだのだと改めて思った。
「――そなたに全ての非が無いと言えるかの、その二人は友ではないのか」
 と、香澄の心を読んだような事を言う。香澄はこの化け物が、恐ろしい存在であるのと同時に常識的な部分があるのに気づいた。
「無いとは言えないけど」
 たしかに自分にも油断があった。それは認めざるを得ない。
「そうであろう」
「――うん」
「まっ、あれだ。多少慎重さが欠けていたということじゃな」
 化け物は品川からの事態を見ていたようなことを言う。
「――そう思う」
「良い教訓じゃったの。今後気を付ければ良いことよ」

(レイプされかけたのに、それが良い教訓って――それどころじゃなかったわよ)

 香澄の思いを再び読んだのか、化け物が言った。
「命を取られなかったではないか、そこの三人はお前を殺すつもりだったのだぞ」
 化け物はそう言うと、香澄にさらに近づき、腕を彼女の腰に巻き付けた。
「――いやっ」
「大人しくしておれ、何もせん」

 化け物の背から、黒い羽根が展開されるのを香澄は見た。あっと言う間に香澄は空へ舞い上がっていた。照明のため暗闇の中に浮かび上がったような埠頭がどんどん小さくなっていく。そして、夜の東京が目の前に広がった。
「住いはどっちじゃ」
 空に浮いている恐怖は無かった。腰に廻された化け物の腕と、思わず掴んでしまった作務衣のような着物の手触り、その下から伝わってくる彼の体温がひどく心地よかったからだ。香澄は暫く、宝石のように綺羅めく東京の夜景に目を奪われていたが、赤みの強い照明にライトアップされた東京タワーを見つけ、そこを指さした。
「あっちのほう」
「あの、先のとがった塔の方じゃな」
「ええ、あのタワーの近くになるわ」
「行ってみれば、分かるかの」
「たぶん」
「じゃあ、参るぞ。――おう、そうじゃ、名は何と言う」
「殿前、殿前香澄」
「香澄か、儂は単語いわみぼう石見坊と申す。いわみと呼んでよいぞ」

―參―
 石見坊に助けられた翌日の日曜は、朝から梅雨空が戻っていた。窓の外のどこかでスズメ達が騒いでいる。いつもの日曜日の朝だ、下の一階からテレビの音が漏れて聞こえている。こういった何のことない日常を、香澄は初めて尊く感じた。昨夜の事は、夢では無かったのかとおもったが、すぐにそうではなく、実際の事だと思い直した。
 石見坊と名乗る化け物に抱えられ、夜の東京を飛翔し家の前まで運んでもらったのだが、彼は東京が不案内らしいし、香澄は東京に生まれ住んでいるにも関わらず、自分の住んでいる場所をきちんと教える事ができなかった。そのため、東京タワーと彼女の住んでいる品川区上空を、うろうろと何度も往復する羽目になってしまったのである。かなりの速度で飛翔しているはずだが、風圧も寒さも全く感じない。石見坊が身に単語まと纏う何かが風を避けさせているように思える。聞こえるのは二人の会話と彼の背で羽ばたく羽音だけである。
「そなたは、自分の単語すま住いも分からぬのか」
 何度目かの往復の際、いわみは呆れたように言った。
「仕方ないじゃない、空の上からなんだもの。今まで空の上から家を探すなんてしたことないのよ」
「にしてもじゃ、近くにある目印なんぞは覚えておくものじゃろ」
「そんな事言ったって、この景色、自分が住んでいる街の景色とは思えないのよ、あの光の塊は五反田だと思うんだけど」
 眼下に広がる宝石をちりばめたような景色を香澄は指さした。
「ううむ。女は単語えず絵図が読めぬと聞いたが、まことだの」
 絵図とは地図の事かしらと思った。
「それは誤解よ。男だって地図が読めない奴いるもの」
「そうは思わん、男は大体読める」
 男は女より優れているとでも言いたそうであった。
「なら、いわみはあたしの家がすぐに分かる筈よね」
「何を単語むたい無体なことを言う。お前が分からぬのに儂が分かる筈なかろうが。それにな、儂は、久方ぶりに江戸に来たのだ。――ところどうだ、何もかも変わっておるではないか、それになんだ、このチカチカした街は。単語よめ夜目が効く者にとっては厳しいぞ」
 香澄は思わず笑いだしてしまった。東京をまだ江戸だと思っているらしいのが、三人の男をあっけなく殺した者の言葉とは思えなかったからだ。そして現実に引き戻された、今こうして自分を家に送ろうとしている彼は、人を殺す事を何とも思っていない空を飛べる化け物であることを。
「しっかし、酷い街に成り果てたものじゃ。この前なぞはな、大きな鳥のような物に追いかけまわされ、単語なんじゅう難渋した。ひどい音を立てて追ってくるのじゃ。あんまりしつこいのでな、奴の尻を蹴り上げてやったがな」
 そう言えば最近のニュースで見た覚えがある。警察のヘリが深夜、小学校に緊急着陸した事件があった。
「ヘリコプターを壊したの、あなただったの」
「――なんじゃ、それは」
「空を飛ぶ乗り物、人が運転するの」
 運転じゃなく、操縦かと後で思った。
「人も空を飛べるようになったのか」
「そういった機械を使えばね。人が飛べる訳ないじゃない」
「やはりの。人はそのように出来てないからの」
 その点、自分は飛ぶ事ができるぞと自慢したいような口ぶりであった。
 そんな会話を続けながら夜の街の上空を飛び続けたが、更に何度目かの往復で、家の近くを通る国道らしき光の帯をみつけた。いわみにもっと低く飛ぶように言い、ほどなく自分の家らしき屋根を確認したのである。
 玄関先に降りろしてくれた石見坊に、香澄は不愛想な口調で礼を言ってしまった。そんな礼だけでは言い表せられないような感謝の気持ちがあったのだが、どうにもバツが悪くて仕方がなかったのである。それに、香澄を降ろした石見坊は、辺りの匂いが気になるのか、きょろきょろしながら鼻をひくつかせており、何を要求する訳でもなさそうだった。どうしてよいか分からず、何故か寂しいという思いを隠しながらミニショルダーから家の鍵を探していると羽ばたきの音がし、彼女が目を上げると彼は居なくなっていた。もっと他に話すべき事があったはずと思った。何故か彼が去ったことが寂しく感じられ、香澄は星がぼんやりと瞬く夜空を探したのだが、もうその姿は見えなかったのである。
 そういった昨夜のことを思い出しながら、パジャマから部屋着に着替え、下の居間に降りると、母の亜矢子が台所で朝食の用意をしながら、テレビのニュースを見ていた。彼女は香澄とは違い、髪を長く伸ばしており、都心の総合病院で看護婦をしている関係上、職場ではそれを結って挙げている。亜矢子と香澄はとても容姿が似ている親子である。
「おはよう」
 と香澄はだらしなく部屋着の裾をめくり、おへその辺りを指で掻きながら、台所の椅子に腰かけた。彼女の目の前にはコーヒーと固ゆでの卵、トーストが並べられている。
「おはよう」
 そう返した亜矢子目が、多少厳しい。そう言えば、昨夜帰ってきた香澄に、亜矢子から手厳しい小言を食らったのを思い出した。
「昨日、おそくなってごめんね」
 とりあえず、そう言った。妙に今の香澄は、亜矢子に従順だったころのような口調になってしまう。
「反省しているのなら、良いわ」
 何故か母の言葉は、石見坊の言葉と相通じているような気がする。そして、今目の前に母親がいるという幸せを改めて思った。彼の「お陰だ」と彼女は感じていた。台所の壁に掛けてある時計は、十時近くを指示していた。
「まだニュースみるの、もうすぐいつも見ているBSの番組よ」
 香澄は湯気の上るコーヒーカップを持ち上げた。
「そう、でもね、大森ふ頭で酷い事件があったらしいのよ。さっき一報が入ったから、詳しい話があるかも」
 どきりとした。あそこは大森ふ頭だったのかもしれない。
 ニュース番組が終了に近づいた時、続報が報じられた。カメラクルーも出したらしく、望遠ではあるが警察官と警察車両が埠頭のそこここに配置され、埠頭の一画をブルーシートで囲われた所を映し出した。紺色に黄色のストライプが入った制服の警官が、盛んに地面を這いつくばっている。ブルーシートからは黒い大型SUVらしきものが映ってい、その車に見覚えがあった。画面のテロップには「大森ふ頭で三人の男性死亡」と出ていた。
 スタジオのキャスターが現場に出張っている記者を呼んだ。画面が切り替わり、コンテナが積み重ねられている所を背景に、三十代の男性記者の顔が映し出された。
「えー、朝釣りのため現場を訪れた人により三人の遺体が発見されたのは、今朝の午前6時前だそうです。警察により三人の死亡が確認されたのですが、遺留品により、亡くなられた方は立花靖さん、師岡浩二さん、遠藤修司さんの三人で、ともに城南大学の学生だと判明しました。三人は昨夜午後十時頃に、この埠頭に来て何らかの事態に巻き込まれたとみられています。警察は遺体の状況と三人が乗っていたと思われる車の損傷具合から、事件、事故の両面から捜査が行う予定です。現場は東京湾に面した――」
 などと事件の概要が伝えられるのを、香澄は呆然と見つめていた。自分が当事者であるという僅かな罪悪感と、もし、石見坊が来てくれなければ、見つかる死体は三人ではなく、自分だったかもしれないという衝撃が彼女を包みこんだ。自分は紙一重の所で助かり、家のキッチンで、こうして遅めの朝食を単語摂っているのが不思議に感じられる。彼がどうして自分を助けてくれたのか、それが聞きたかった。
「あのね――」
 と香澄が口を開けたのと同時に母親が話し始めた。
「ひどい事件みたいね。――何」
「ううん、何でもない」
 思わず母の亜矢子に事件の顛末を打ち明けようとしていたのだ。
 こんなこと言えるはずがない。自分を信じてくれている母親がどう思うか、そんなこと考えたくなかった。母の事だ、話を聞いたのなら「警察に事情を話しましょう」と言い出すに違いないのだ。そして二人は事件捜査に巻き込まれる。それに石見坊という存在が加わり、複雑怪奇な単語ようそう様相を単語てい呈するのは目に見える気がした。しかし、どうすれば良いのか、このまま目をつむっていれば、自分達に火の粉は掛からないかもしれないとも思う。三人の死は自業自得かもしれないが、それでも、その当事者であったという罪悪感は、次第に香澄の心を大きく占め始める気配があった。
 香澄は、夕飯の買い物を母親と行った他、ほとんど家の中で過ごした。絶えず脳裏に浮かび上がるのは石見坊のことで、三人の死が事件になった今、彼にこれからどうすれば良いのかといった相談がしたかったのである。彼なら何らかの解答を与えてくれるのではと思うのだ。あの時の状況は絶体絶命であった。「なぜ助けてくれたのか」と言う疑問は残っているものの、そこから救い出してくれた彼への信頼感と、どこかしら人の良さが感じられる口調が、今まで感じた事のない新鮮な物に感じる。
(今、どこにいるのかな)
 香澄はふと、どんよりと曇った梅雨空の下、悠々と飛翔しているいわみを思い描いていた。
明日、真美と奈緒美に話を聞かなくては、香澄は同時にそう思った。

―肆―
 週が明け、香澄はいつものように高校へ向かった。彼女の通う高校は自宅からひどく近い。それこそ一キロもない所にあり、近くに日本庭園を利用した公園が二つもあるためか、この地区にしては緑の多い場所にあった。高校に通う途中、広い国道を渡るのだが、彼女の家から道一本、文字通りほぼ一直線で行けてしまう。香澄が入学した理由は、その利便性もあるが、五年前くらいに校舎を改築し、今風でモダンな校舎に変わったことで女子に人気というのもあった。
 教室に入り、窓際の自分の席に荷物を置きながら、香澄は真美と奈緒美の姿を探した。教壇近くの席に奈緒美は居た。しかし、真美の姿は見えない。
 つかつかと何人かのクラスメートの横を通り過ぎながら奈緒美に近づくと、それに気づいた彼女はバツの悪そうな表情で香澄を見上げた。
「おはよう」
 香澄が奈緒美から視線を外さず言った。
「おはよう」
 奈緒美は固い笑顔で応えた。
「真美は」
「今日は休むって、体調悪いらしい」
「ふうん、そう。――で、あれはどういうこと」
 真美と奈緒美が自分を単語嵌めたと香澄は確信していた。なぜそうしたのか、それを彼女らの口から聞きたかった。
「――あれって」
「土曜日のカラオケのこと」
「――」
 奈緒美が黙り込んだ。そこで香澄が続けた。
「あの三人、あんた達の知り合いなんでしょ」
 言葉遣いが何時にも増して雑になっている。奈緒美の表情に恐怖の色が浮かんだ。同時に戸惑いもわずかにだが見える。
「私じゃなく、真美がね、そうらしいの」
「やっぱりね、奴ら真美の名を言っていたから」
「私も知らなかったのよ。あのカラオケだって、真美が良く使うからって付き合っただけで」
「じゃあ、私達があのカラオケに来るのを、真美を通して三人は知っていたってことね」
 香澄の声に怒りが含まれていた。
「香澄が帰っちゃって、あの三人があなたの後を追って行ったのが変だったから、真美に聞いたの」
「なんて」
「知り合いって。そしたら真美がそうだって。あの三人、真美のインスタに写っていた香澄に興味を持ったらしくて紹介しろって、真美も困っていたらしいのよ」
 香澄の怒りを受けて奈緒美の口が饒舌になる。
「困っていたからって、私を売るような事したわけね」
「ごめん」
「事件のこと、知ってる」
「うん――。真美、怯えちゃって。彼女、香澄が三人をどうにかしたと思ってるの。それに、その元は真美が三人と香澄を会せようとしたのが発端だから、警察も来るかもしれないって」
「来るわね、三人と連絡とっていたんだから、あいつらの携帯調べればすぐよ」
 そうなると多分自分の所にもいずれ来る、そう香澄は思った。
「奈緒美の所にも来るわよ」
 奈緒美の顔が白くなっていく、そして、ある事を思い浮かべたようだ。
「あの後、香澄はどうしたの。追いかけて来たでしょ、あの三人」
 そう奈緒美が訊ねた。
「――どうしたと思う」
 あんた達も同じ目に遭えば良かったんだわ、香澄は埠頭での出来事を思い返していた。自分では無く真美や奈緒美だったとしても、石見坊は助けにきただろうかと思う。
「嘘、香澄が――」
 白かった奈緒美の顔が更に白くなり、恐怖で唇が引きつれたように震え始めている。
 香澄はニヤリと笑ってみせた。
「だとしたら、どうする。――私を単語嵌めたのが真美とあんただと知っちゃったしね、考えないとね」
「私じゃない、知らなかったんだもの」
 奈緒美は悲鳴を上げるような大きな声でそう言った。
「ふうん、そうなんだ。それで納得させれるわけないじゃん」
 香澄が奈緒美の顔を芝居気たっぷりに覗き込んだ。あの時の経験が、彼女を少しばかり変えてしまったようだ。あんな状況に立たされたのだ、普段から強気の姿勢が目立つ彼女だが、今やちょっとやそっとの事など、何でもないというように思えていた。
「なんてね、そんな訳ないじゃない、うまく逃げたのよ」
 奈緒美を安心させるように、表情を崩しそう応えた。
「本当、でも良かった。気になっちゃって――、携帯に連絡したけど出ないし」
 奈緒美が心底ほっとしたような顔をした。そういえば、奈緒美からスマホへの着信が鬼のようにあった。すべてそれを無視した香澄だが、冷静になってみると、奈緒美だけはそれなりに自分を心配していたんだと思った。逆に真美からは何のアクションもなかったのである。
「でもね、あんた達がしたこと、きっちりと覚えておくわよ。本当に危ない所だったんだから。奇跡的に逃げ出すことができただけ、奇跡がなかったら、今頃、あたしは――」
 そこまで言うと、二人に対し、さらに怒りが込み上げてきた。
「本当にごめん。反省しているから」
「簡単に許せると思う、あなたがされてみなさいよ」
 二人の様子が変なので周囲が気にし始めていた。それも香澄をイラつかせる。
「分かってる――、ごめん」
 奈緒美は泣きそうになっていた。瞳が潤み、もうすぐ涙が零れ落ちそうであった。
(泣けば許されるとでも思ってる)
 そう思ったが、奈緒美も自分と同様聞かされていなかったというのが本当なら、彼女も被害者とも言えるのではと気づいた。
(奈緒美を追い詰めてもな、追い詰めるべきは真美だもの)
 息を一つ吐いた香澄は、表情を緩めた。
「あなたが言っていることが本当なら、奈緒美もわたしと同じ立場かもね」
 すると、奈緒美は小さく首を横に振った。
「――違うと思う、香澄は危ない目に遭ったようだけど、私は遭ってない――。わたしは真美の側にいたし、大変なことになるなんて、考えてもいなかったもの。昨日のニュースを知るまで」
 ぽろりと奈緒美の瞳から涙が一筋流れ落ちた。香澄は涙に弱い、心が柔らかくなってしまう。
「いいわ、許さないって言ったけど、嘘。許すわ」
「――ごめんね」
 奈緒美の瞳からもう一筋涙が流れた。
「――ねえ、なんで真美はあたしにあんな事しようとしたの」
 香澄はそう聞いた。
「――真美はね、あなたに妬いていたの。可愛い顔して、ものすごく強いから――。他の子たちとは全然違うから――」
(強い?確かに気は強いけれども)
 自分でもそう思う。一旦火が付くと、反骨心とでも闘争心とでもいうような感情が沸き上がる。誤解される面もあるかもしれなかった。強さとは何だろう、あの夜、怯えきり、逃げようともできず、ただ、母親に助けを求めていた自分と照らし合わせてみた。
(全然強くない)
 彼女はそう思った。

―伍―
 三枝芳江が戻ってきてから六日目、水曜日のことである。近所の住人は彼女の家の外壁が蔦のような植物に大きく侵食されているのを気付いた。数日前から、蔦のような植物が彼女の家の壁を張っているなとは思っていたが、今では家全体を覆っているといっても過言ではない状態にまでなっていたのである。植物の葉の形状は蔦のそれであるが、非常に緑が濃く、肉厚に見えた。そして蔦全体が風に吹かれる訳でもなく細かく震えており、「何かの動物のようだ」とその様子を見た者は思った。
「――これはなんだ」
 異変のため呼び出されてきた町内会の副会長で、工務店を営む前島耕三は、呆然と目の前の光景を見てそう言った。ずんぐりとした体形で、大きな顔に、これまた大きな瞳と太い眉を着けた前島は、気に入らないといった表情で三枝芳江の家を凝視し続けている。主に年齢の高い者ばかりではあるが、日中にも関わらず結構な人数が集まり始めていた。その中には亜矢子の姿もある。この日は夜勤明けなのである。
「蔦でしょ」
 集まった者の誰かが答えた。
「いや、それは分かっているんだが――」
 蔦にしては、いやにおどろおどろしいのじゃないかと前島は言いたかったのだ。
 平日の昼時でもあり、家の周りに集まった住人は家の主と同じく年寄りが多かったが、何人かは若い者も顔を揃えている。その中の誰かが「会長の顔が見えないけど」と言った。
「会長は身体をこわしてね、動けないみたいなんだ。――ねえ、奥さん」
 前島は集まっている人の中から、町内会長を務めている庄司博一の妻を捕まえ、そう言った。
「そうなのよ――調子悪くて。今も俺も行くって言ってたんだけど、止めたのよ。子供達には入院させた方が良いんじゃないのって言われちゃっているくらいなんだから。病院は絶対に厭だってごねてるけど」
 と七十過ぎの白髪が目立つ庄司の妻が申し訳なさそうに前島に言った。
 前島は外壁を覆っている単語つる蔓と単語のうりょくしょく濃緑色の葉から目が離せないようだった。
「塀の裏側にも生えてきているみたいですよ」
 とブロック塀の裏側を覗いていた住人の一人が言った。確かに塀の単語透かし部分から蔓が何本か顔を覗かせている。
「うわ~、至る所に生えてきているぞ」
 裏側を覗いていた住人が、単語仰け単語反る様に塀から身を引いた。
「いやだ、私の所にも生えてきている。家を出た時は気付かなかったけれど」
 芳江の家の右隣の家に住む五十歳前後の女性が悲鳴のような声を挙げた。
 集まった人達は、右隣の家の玄関隅に飾ってある大型犬を模した像に蔦がからみついているのを見た。
「何なのよこれ――」
 と隣の住人が再び叫んだ。
 これを見た住人達が三枝芳江の家の周囲を確認したところ、左隣と真向かいの家にも蔦が生え始めていることを知った。
「そういや、三枝さんはどうしてるんだ」
 最初に気付くべきことを、やっと気づき誰かがそう言った。
「今日、誰か三枝さんを見かけましたか」
 と前島は集まった住人を見回した。誰も見掛けた者はいないようであった。
「そういえば、昨日から見てないわね」
 と誰かが答えた。
「またか」
 とこれまた誰かが言った。先日、何がしたのか疲労のあまり三日間動けなくなった芳江の顛末を思い浮かべたのである。今回も、家に籠っているんだろうと誰もがそう思っていた。
 副会長の前島はのっそりとした動作で三枝芳江の家の玄関に足を踏み入れ、ドアノブを回してみた。鍵はかかっていないようだが、何かが邪魔をして扉は重く開きにくい。力を込めて前島がドアを引く、五センチほど嫌々開いた。
「ありゃあ、家の中にも蔦が生えてるぞ」
 家の中にも生えてきた蔦が、ドアノブに絡みつき扉を開けにくくしていたようである。このようすでは、家の中は蔦に覆われ尽くしているかもしれないと前島は思った。
「三枝さん、いるかね」
 僅かに開いた隙間から前島はそう呼びかけたが、彼女からの応答は無かった。
 前島は周りを見回し、たまたま目が会った亜矢子に声を掛けた。
「殿前さん、俺の店に行って、内の若いのに鋸を持ってくるよう言ってきてくれませんか」
 そう言いながら、なおも前島は五センチほど開いたドアを更にあけようと奮闘し始めた。
 ものの五分ほどで、鋼鉄製の大きな工具箱を抱え、作業服に身を包んだ太田司という二十代の若者が亜矢子に伴われてやってきた。前島は太田にのこぎりで扉の開閉を邪魔している蔓を切るように命じた。辺りの状況に唖然としていた太田は、そう命じられると半ば腰を引きながらも、のこぎりで扉の隙間から蔓を切断し始めた。蔓は意外にもあっさりと切断された。前島と太田の二人合わせて扉を大きく開け放したのだが、その途端、二人は息を呑んで一歩後退したのである。家の中から、むっとする蔦の発する匂いに交じって、何かが腐っているような嫌な匂いが漂ってきたからである。
「この匂い」
 前島が右腕で鼻のあたりを覆いながら呟いた。若い太田は今にも吐きそうな顔つきをして、同じように手で鼻を覆っている。
「こりゃあ、死臭だぞ」
 二人に近づき、同じように家の中を覗こうとした年寄りの一人がそう言った。
「おい、入ってみるぞ」
 と前島が太田に声をかけた。
「――ええ、マジすか」
「当たり前だ、確かめなきゃならねえだろうが」
「警察か消防に連絡したほうが」
「もう少し後だ、確かめてからな」
 消防団の団長でもある前島は、焼死体も見たことがあるためか、妙に落ち着いている。
「ほれ、行くぞ」
 そう前島が言うと、太田はへっぴり腰で前島の後に続いた。
 玄関に続く廊下や壁はびっしりと蔦に覆われていたので、二人は土足のまま三枝芳江の家に上がった。腐ったような匂いが強くなった。
「どうなってんだ、ここは」
 と太田が情けない声を出した。
「黙ってろ、あまり息をするな。匂いがきつくなるぞ」
 前島は台所と居間に通ずる格子状の磨りガラスが嵌った戸に手を掛けながら、そう言った。三枝芳江がどうなっているのか、ほぼ確信していたものの、万が一と思い、もう一度「三枝さん、いるかね」と磨りガラスの向こうに声を掛けた。やはり返事はない。
 ガラス戸を開けようとすると、十センチほどは開いたものの、それ以上動こうとはしなかった。「おい」と前島が太田に声をかけ、ガラス戸を二人して引き開けようとした。さらに三十センチばかり開いた。大人一人何とか通れるほどの隙間ができたので、前島は身体を横にし、部屋に足を踏み入れると太田も釣られるように前島の後に続いた。
 そこは居間のようであった。八畳ほどの部屋で台所と繋がっていて、蛍光灯の明かりとテレビが点いたままである。仏壇が乗る大きなサイドボードがあり、部屋の中心に単語ちゃぶだい卓袱台が置かれ、その上には急須と湯呑がころがっていた。どうやら彼女は一人暮らしをするようになってから、寝るのもこの居間にしていたらしく、卓袱台と奥の部屋に通ずる襖との間には布団が敷かれている。その全てに蔦が覆っていた。
 その敷かれたままの布団から三枝芳江が畳の上に半身をせり出すように横たわっていた。何かから逃げようとしたかように、掛布団が大きくずれ、彼女は顔の左を下にし、うつ伏せに横たわっている。彼女の上にも蔦が覆っており、苦悶か恐怖のためか、開けられた口の中からへ蔓が入り込んでいた。どう見ても死んでいるようであった。
「警察っ」
 前島が三枝芳江の死体を見下ろしたまま怒鳴る横から、たまらず太田が「ああ~」という悲鳴ともうめきとも分からぬような声を挙げて部屋を飛び出していった。

―陸―
 三枝芳江の死体が発見された日の放課後、香澄の通う高校に警察がやってきた。香澄と奈緒美の二人は担任の前原から放課後に残るようにと言われた。あの日以来、真美は登校してこない。奈緒美によると毎日のように真美の家には警察がやってきているそうで、そんな状況もあってか、どうやら彼女は退学するらしい。
 昼前に雨は上がったが、この日もどんよりとした梅雨空である。ここ数日、晴れ間はない。
 初めに奈緒美が呼ばれた。彼女は学校指定のリュックを背負ったまま、迎えに来た前原に連れられて行った。クラスには香澄一人しかおらず、前原が呼びに現れるまで、石見坊のことを考えながら窓の外を眺めていた。彼を思い浮かべると不思議に胸が痛くなる。もう一度会いたいとも思う。
 突然、名を呼ばれた。教室の入口に前原が立っている。彼女も奈緒美と同じようにリュックを背負うと「進路指導室に警察が待っている」と前原が伝えた。進路指導室は一階の職員室の隣にある。
「川辺さんは」
 と香澄が訊ねた。
「帰ったよ」
 前原の声が固かった。動揺を隠しているように見える。
「何を聞かれるのか、分かっているな」
 一階へ通ずる階段を降りながら前原が言った。
「殿前がやったんじゃないよな」
 警察からの話と奈緒美の話から、三人の死と彼女を繋げてみたようである。
「やっていません」
「だよな、でも、死んだ三人を知っているんだろ」
 度の強いメガネをかけている担任の前原は、足を止め、彼女に振り向いた。
「ほとんど知りません。ニュースで名前を知ったぐらいです」
 前原は他に何か言いたそうに口を開いたが、思い直したらしく口を閉じ、前を向くと階段を降り始めた。
「あの、親に連絡はするんでしょうか」
 そう香澄が訊ねた。
 振り向いた前原が一つ頷いた。
「立場上、そうせざるを得ないな。何しろ殺人が絡んでいるから」
 やっぱりそうなるかと香澄は思った。顛末を聞いた後の母親の反応が手に取る様に分かる。面倒な事になりそうであった。
 一階の廊下は人気が無かった。職員室の前を通り指導室の前で止まると、再び口を開いた。
「警察には本当の事を話しなさい」
 そう言った。
 進路指導室は十畳程の広さで白の色調に統一されている。室内には長机が四つ置かれ、窓際にパソコンのモニターが数台並べられている。香澄は未だに、モニターをその場所に置いている理由が分からない。壁沿いに並べられている本棚には「赤本」や進学に関わる書籍がずらりと並んでいて、室内の奥にはソファーなどの応接セットも置かれていた。
 扉を開けると、応接セットではなく、生徒が進学などを相談する際使われる長テーブルとパイプ椅子が置かれてあるところに、窓を背にして二人の男女が座っており、入ってきた香澄を鋭い目つきで見つめた。相対する席には、校長の友利の小柄な身体が座っていて、香澄が入ってきた事に気付いて振り返ると、目だけ笑って見せた。
「刑事さんだ」
 と一緒に進路指導室に入った前原が単語ささや囁くように言った。香澄は軽く頭を下げた。男女の刑事はそれに応えるよう微笑みを浮かべたが、目だけは笑っていない。じっと、香澄の品定めをしているようだ。
「さあ、こちらに座って」
 校長の友利が自分の隣に置いてあるパイプ椅子の背を軽く叩いた。それに従って校長の右隣に座ると、前原が彼女を挟むよう左隣に腰を降ろした。
(また挟まれた)
 後部座席での光景が脳裏に浮かんで消えた。位置的に香澄の正面は、女性の刑事であった。彼女は胸元に赤いバッジを付けた黒いパンツスーツを身に着けており、まだ若い。小柄な上に顔も体も毬のように丸く、髪はショート目で、大きな瞳と小さな鼻が顔の中心に座っていた。視線は異様に鋭い。
 男性刑事のほうは、五十過ぎと思える中肉中背の初老の男で、地味だが皺ひとつないグレーのスーツを着ている。顔は日に焼け、頭の鉢が開いているためか、銀色が混じる短めの髪が頭の上にちょこんと乗っているような印象を受けた。
 二人は警察バッチを、テレビの刑事ドラマのように香澄に提示した。
「警視庁の堀本です。こっちは相原です」
 低い声で堀本と名乗った男性刑事は相棒である女性刑事を紹介した。
「相原です」
 と少しぶっきらぼうな口調で相原は頭を下げた。
 香澄は自分の名を告げると軽く頭を下げだけであった。堀本がちらりと校長の友利に視線を走らせ、すぐに香澄に戻し口を開いた。
「先週の土曜日、大森ふ頭で事件があったことを知ってるよね」
 そう堀本が言った。まるで、事件を知っていて当然というような口調である。
「はい」
「事件が起こったとされる少し前、あなたは品川のカラオケ店で、被害者三人と会ってますね」
「はい」
「で、会ってどうされました」
「――」
「殿前さん、本当のことを話していいのだよ」
 と校長の友利が口を挿んだ。
「――」
 刑事が自分や奈緒美に話を聞きに来たという事は、真美から話を聞いているという事だろうと香澄は思った。石見坊に殺された三人の目的が香澄へのレイプだったとは、いくらなんでも真美も話してはいないだろうが、三人に香澄を引き合わせるためにカラオケ店で待ち合わせたぐらいは話しているはずだった。
「被害者の三人も入れてカラオケしたの」
 と相原が初めて名乗り以外口を開いた。以外に優しい口調であった。
「いいえ、すぐに帰ろうとしました」
「どうして」
「知らない人と一緒にカラオケはしたくなかったので」
 そう応えながら、警察は彼らのSUVに香澄の単語こんせき痕跡を発見しているかもしれないと考えていた。髪の毛だって抜けただろうし、両手首を絞めていた結束バンドからも何か出たかもしれないのだ。
「帰ろうとしたのね」
 相原の声は優しいが、有無を言わせぬ圧力がある。香澄は一つ頷いた。車窓を流れる銀色とオレンジ色の街灯、黒く巨大な倉庫群、彼女の身体を無遠慮に這う男の指の感触、それが蘇ってくる。
「店は出ました――」
 彼女をレイプした後は、死んでもらおうと暗にほのめかした男の顔が浮かんだ。イケメンではあるが、底の浅い知能と酷薄なその表情に、改めて香澄は唾棄したくなるほどの嫌悪感を覚える。
 むっくりと反骨心のような物が心の中で頭をもたげる。
(あたしは悪くない)
 何故に犯罪を犯した者のような気持に追い込まれているのか、それが納得いかない。
(この刑事たちはあたしを犯人だと思っているのだろうか。三人もの男を殺せるわけがないじゃない)
 ならば事実を話した方が、後で面倒な辻褄合わせをしなくてもよいと思った。
「三人が追ってきました――」
 香澄は、真美がお膳立てをしたという事だけは伏せたまま、捕まって車に押し込まれ、結束バンドで縛られた事、三人は自分をレイプするつもりで、場合によっては殺そうとまで言っていたことも話した。
 友利と前原は、あまりの内容で言葉も出ないようだった。自分達の生徒がレイプされそうになった上、死にも直面していたことで、自分達のキャリアが崩壊する目前だったのに気づいたようである。
「怖かったでしょう」
 急に相原の口調が優しくなる。同じ女性として、その状況に置かれた気持ちが分かったのかもしれない。
「連れて行かれたのが、大森ふ頭ですね」
 優しくなった相原とは逆に、堀本は厳しい口調のまま訊ねてきた。話が事件の核心に入ろうとしていることを感じた。
「あそこが大森ふ頭というのなら、そうだと思います」
「車を停めた三人はどうしましたか」
「私をレイプしようとしました」
「それで――」
 堀本が話を促す。
「堀本さん、そこまでは」
 と相原が慌てたように堀本の左腕に手を置いた。二人の刑事は香澄がレイプされたと思っているようだった。友利と前原は蒼白になっている。
「レイプされませんでした、その前に車のボンネットに何かが飛び降りてきたから――」
 今でもありありと思い浮かべる事ができる。金属がへこんで軋む衝撃音と振動ともに、石見坊が憤怒の表情で車の中を覗き込んでいる姿をである。
 堀本は相原と顔を見合わせ小さく頷いた。彼は内ポケットから手帳を取り出すと、中に挟んでいた一枚のプリントを机に置いた。プリントにはボンネットの上に飛び降りたばかりの石見坊の姿が映っていた。香澄の記憶の中の姿と、プリントの中で車内を睨んでいる姿は、ひどく違っていた。プリントの彼は、記憶以上に寒気を覚える凶暴な顔つきであり、ボンネットの上に置かれた手の爪は鈎爪のように鋭く伸びていたことが分かる。黒々と広げた羽がその単語まがまが禍々しさを強調していた。彼女の記憶ではそれほど凶暴な姿ではなかったように思えるのだが、たぶん、その後の石見坊の言動が、印象を柔らかくしているのかも知れなかった。
「こ、これは何ですか」
 校長の友利が上ずった声で刑事たちに尋ねた。
「ドライブレコーダーに録画された画像のプリントです」
「まるで――、怪物じゃないですか」
 友利が信じられないというように言った。
「あなたはこの写真に写っている者を見ましたか」
 堀本が訊ねた。
「はい」
「えっ、見たのかい。君は」
 香澄は友利に頷いて見せた。
「我々は、この写真の人物が事件の鍵を握っていると思っています」
 堀本がプリントを手帳にもどすと、相原が静かにそう言った。それまで香澄は、堀本の方が偉いと思っていたのだが、実は若い相原の方が上なのではないかと感じ始めていた。どこかしら、年上の堀本が若い相原に遠慮するような感じがある。
「では、殿前さんを疑っているわけではない、と――」
 校長の友利は探るように言った。
「はい、あの現場を見れば、いくら何でもの状況ですので」
 と相原が相づちを打った。
「長らくこのような仕事をしていますが、人があのように殺害されたのを見たことがありません」
 ポツリと堀本が現場がそれだけ単語せいさん凄惨であったことをそう付け加えた。
 刑事の話を聞いた友利と前原は、先ほどまでの深刻な表情が消え、明らかにほっとした表情を浮かべている。香澄が犯人ではないことに安心したに違いない。加えて、彼女の言葉を信じれば、レイプもされなかったのだ。事は急転し良い状況に変わりつつあった。
「殿前さん、その後はどうしたのですか、どう家に帰ったのかな」
 堀本がそう訊ねてきた。
 ここからが難しい、どう答えれば良いのか、石見坊に抱えられ空を飛んで家まで送り届けてもらったといっても信じてはもらえそうもなかった。しかし、そう言う以外は説明しようもないとも思う。
「現場近くは物流倉庫などが多く、意外に監視カメラが多い所でして、その幾つかに埠頭に向かう殿前さんを乗せていたと思われる車が映っていました。しかし、事件後に殿前さんが自宅に戻ろうとしている姿はカメラに写っていない。現場は深夜で、バスも車もほとんど走っておりませんし、タクシーかと思い、近隣のタクシー会社に問い合わせても、タクシーが呼ばれた形跡もありません。では、どう帰ることができたのか、そこがどうしても説明できない」
 と、手振りを交えて堀本が説明する。
「現場にあなたは居たと我々は思っています。車の中からは若い女性の毛髪が何本か見つかっており、話しの通り、結束バンドもみつかっているの。どうやって帰ったの」
 相原は香澄をじっと見つめてはいたが、口調に優しさが加わっている。石見坊の介入がなければ本当の被害者は香澄だったのではという思いがあるのだ。
「ぼんやりしていたのだと思うので」
 と真実と嘘との妥協点を探りながら香澄は話し始めた。
「怖くて、自分が情けなくて、とにかく目を瞑っていました。何だか混乱した感じで、現実的じゃないというか――」
「情けないとは」
 と相原が聞いてきた。
「こんな事に巻き込まれる自分の単語うかつ迂闊さだと思います」
 と香澄が答えた。
「そう、それで」
 相原が先を促した。
「――家に帰りたいと言いました」
 堀本と相原は、疑い深そうな表情を浮かべた。家に帰りたいと言ったから、怪物は彼女を家に送り届けたというのか、そんな表情だった。
「本当に」
「本当です」
「そして――」
 まあ話の続きを聞こうといった口調で堀本が促した。
「家に帰っていました」
「それは何時ごろ」
「零時を回っていたような――」
「家に帰った手段は」
「よく覚えていません。なんだかふわふわして――」
 それは嘘ではない。石見坊に抱きかかえられ空を飛んだ時、彼の羽音以外は、上空の寒さも風切り音も何も聞こえず、ただ宙に漂っているような感じだったのである。もちろん、その間に彼と交わした会話は話さないつもりだ。
「空でも飛んだ」
 と相原が言った。画像に写っていた石見坊の羽を思い出したのかもしれない。
「そうかもしれません」
 刑事たちが信じたかどうかは分からないが、彼らはそれ以上聞いてこなかった。最後に香澄の毛髪と指紋と採らせてほしいと言い、香澄は自分で髪の毛を引き抜き、相原が持っていた指紋採取キットを使い、両手十本の指紋を取られたのである。
 それが一通り終わると、相原が香澄に頭を下げた。
「手間を取らせてしまいましたね」
 そう静かに言った。
「いえ――」
 と香澄は頭を下げた。
「もうよろしいので」
 友利がほっとしたように言うと、前原が続けた。
「彼女の嫌疑は晴れたということですよね」
「ここだけの話、我々は最初からそう思っていましたよ。一人の女子高生がしてのける状況ではありませんでしたから」
 苦笑いを浮かべた堀本がそう言うと、相原は同意するように頷いた。
 「では」と、さっさと帰したい風の友利に促されて香澄が席を立とうとすると、相原が笑みを浮かべて言った。
「また、話を伺うかもしれません。それと、後日、警察まで来てもらうことになると思います」
 その言下には「まだ、すべてを話していないことは判っている」という意味が含まれている様に香澄は思えてならなかった。刑事達は自分の話を信じていないのかもしれない、そう感じていた。
「殿前さん」
 進路指導室から退出しようとしている香澄に友利が声をかけてきた。
「カウンセリングを受けるよう手配するから、僕は受けた方が良いと思うよ」
 香澄は「はい」と答え、廊下に出た。緊張が一気に解け、彼女は大きな溜息を一つ吐いた。

―漆―
 刑事と話したことで下校が遅くなってしまった。夕刻が迫っている筈だが、厚く覆う梅雨空の上に最も日が長い時期でもあり、それらしい感じはしない。蒸し蒸しとした一日で、おまけに警察の事情聴取も受け、精神的にも身体的にも香澄はひどく疲れていた。自分の話をすべて警察が信じたとは思っていない。たぶん、ほとんど信じていないだろう。特に、現場からどうやって自宅へと帰ったのか、まさか空を飛んでとは話せなかったので、警察は今後そこを追求してくるのではないかと思えた。指紋と髪の毛も提出したので、確実に香澄が現場に居たことが判明するはずだ。彼女と三人を殺害した石見坊との関係を詳しく聞き正しに来るに違いない。
 香澄でさえ石見坊が何者なのか分からないのだ。車を破壊し、三人を殺害した事だけをとると、校長の友利が言ったように「怪物」という言葉が当てはまる。
(警察はいわみを、三人を殺した怪物として追っている。殺したのは確かなのだけれど――)
 香澄は石見坊に対し信頼感のような感情を覚えている。最初、三人が殺され、次はわたしの番だという思いに震え上がったが、後部ドアの外から「出てまいれ」と言った石見坊を見るなり恐怖は影を潜め、もう安全だとホッとする思いが強くなったのを覚えている。彼が自分に危害を加えるつもりがないことを香澄は直感で理解していた。
(なぜ、そう思ったのだろう)
 目の前には真っ直ぐな道が伸びていた。道幅は三メートルもないのだが、とにかく真っ直ぐなのである。大体、ここら辺り一帯の道は、台地の頂上部で比較的平坦な場所であるというのも理由の一つかもしれないが直線が多く、航空写真でも多少の単語くっきょく屈曲はあるものの、道がほぼ方眼状になっているのが分かる。今は住宅街となっているが、昔は一面の畑が広がっていた場所であり、その畑の間を通る農道や畦道を多少拡張し、そのまま現代でも利用しているためのようだ。
 とにかく、高校から直線道路を西に向かえば香澄の家付近まで見通せてしまう。また、高校に向かう際は、家を出て高校に通ずるその細い道に出ると、高校の校舎や周りの木々が見通せるのだ。
 その自宅付近に赤い警光灯が盛んに点滅しているのが見えた。
(――火事?)
 最初はそう思ったが、家に近づくに従いそれは警察車両の点滅であることに気付いた。先ほど刑事二人に会っていたばかりである。警察と関わるのは一日一回にしてもらいたいと思いながらも、香澄は警光灯が盛んに瞬く方向に進むしかないようだった。
 案の定、片側三車線の広い国道を渡り、家のある地区に入ると十台近くの警察車両が停まっていて、交通整理をする警官や鑑識係の警官、一見して刑事とわかるような私服警官が群れる様にいた。
 家に帰り着くには、真っ直ぐに伸びた道と交差してる路地に曲がらなければならない。ところが、その自宅に繋がる路地が警察により封鎖されていた。路地の入口付近には警察車両が五台ほど停まっていて、「警視庁」と印刷された黄色いテープが貼られている。路地の中にも二台の警察車両が停まっていた。
 テープの前には制服警官が二人立っていて、そこから路地を奥を覗くと、近所の人たちが路に出てきており、その中に母親の亜矢子の姿もあった。
「あの、私の家はこの奥なんですけど、入れるんでしょうか」
 と香澄は家の方向を指さし、立ち番の身長の高い若い警官に訊ねた。
「――えっと、住人の方ですか。う~ん、まだ鑑識が済んでないかもしれないしな」
 若い警官は、制服姿の香澄を値踏みするようにみつめ、続いて誰かを探す様に辺りを見回した。辺りは忙しく動き回る警官が多いのだが、判断を下せる者はいないようである。
「あそこに、わたしのお母さんもいるんですけど」
 香澄はさらにそう付け加えた。
「もう少し、待ってもらえるかな」
 申し訳なさそうに若い警官が言った。
「二十五号線側からは入れるんですか」
 香澄は、路地のもう一方の出入り口である都道の名を挙げた。
「あちらも同じように通れないようになっているよ」
「――そうですか」
 亜矢子がテープの前にいる香澄の姿を認めたらしく、大きく手を挙げている。
「入ってもらっても良いんじゃないですか」
 聞き覚えのある女性の声であった。驚いて香澄が振り返ると、先ほど会っていたばかりの相原刑事が立っていた。相棒の堀本刑事の姿は見当たらない。
「――お宅は」
 と若い警官が訊ねると、黒いパンツスーツの相原は警察手帳を警官に提示した。警官の背筋が少し伸びた気がした。
「ここに住んでいるんだから、入れてあげて下さい。私も同行しますから」
 警官の背が高いので相原は見上げるような形になる。しかし口調は命令調である。
 若い警官は同じく立番をしている警官を目を合わせると、その警官が軽く頷いた。
「どうぞ――」
 若い警官は黄色いテープを上げて、二人が潜れるようにしてくれた。テープを二人で潜る時、小さく「捜一ですよ」と若い警官の方がもう一人の警官に囁く声が聞こえた。
「あの、すみませんでした」
 と非常線を潜ると香澄が相原に頭を下げた。
「いいの、あなたの話を聞いた後、帰ろうとすると近くで警察が集まってるじゃない。――血が騒いじゃって、堀本さんを先に返して私はこちらに来たの。私達が担当することはないと思うけど、事件なら、どうなるか分からないから」
「事件なんですか」
 香澄が路地に停まっている警察車両を避ける様に身体を横にしながらすり抜ける。
「さあ、どうなのかしら」
 相原はそう言葉を濁した。
「あっ――」
 と香澄が小さく声を挙げた。
 三枝芳江の家全体を蔦が覆っているのに気づいたのである。朝、家の前を通った時は、これほど蔦ははびこっていなかった気がする。白い壁を蔦がやけに這っているな程度しか思わなかったはずだ。半日で家全体を覆う程になったことが不気味であった。
「――何なの、これ」
 相原も驚いて目を見開いている。芳江の家から鑑識らしき警官が出てきたので、現場はここだと知ったようだ。
「前からこんな家だったの」
 と相原が聞いた。
「いいえ、違います」
 香澄は相原の目の色が変わったのに気づいた。何かを嗅ぎつけたようである。
「わたしはちょっと様子を聞くから、殿前さんは帰りなさい」
「ああ、はい。――あの、ありがとうございます」
 そう言うと、相原は軽く手を挙げ、出てきた鑑識係を引き留めると何かを小声で話し始めた。
「香澄」
 と母親の亜矢子がやじ馬の中で彼女を呼んでいる。香澄は鑑識係と話している相原から亜矢子に視線を移した。
「こっちへ、いらっしゃい」
 香澄が母親の許に行くと、近所の顔見知りが顔を揃えていた。
「――誰」
 と亜矢子が相原を見つめながらそう言った。
「刑事さん、こっちに家があると言ったら、入れてくれた」
 相原が亜矢子と接触しなくて助かったと香澄は思った。そうなれば、大森ふ頭の話が亜矢子に知られてしまう。
「何があったの」
 と、これ以上相原について聞かれないよう、香澄がそう訊ねた。
「三枝のおばあさんが亡くなったのよ」
「本当?――どうして」
「良く分からないのよ。町内会の前島さんが死んでいるのを見つけたんだけど――。詳しくは話してくれなくて」
 どこか言いよどむような口調であった。
「ふうん、嫌な感じ」
 香澄は三枝芳江を思い浮かべていた。いつも一人で、何もかもが気に食わないというような表情で玄関先に立ち、道行く人をじろりと睨んでいるような年寄りだった。香澄も小学四年生の頃、小学校の友人で大声を上げながら道端で遊んでいると、「うるさい」と怒鳴られ、その後、香澄の母親にも文句を垂れにきたことがあった。それ以来、「厭なババア」というイメージが彼女に定着したのである。三枝のおばあさんに家族がいたのかどうかは知らない。香澄の記憶では、誰かが訪ねてくることもなかったような気がする。
「さっ、家に入りなさい。見ていると何だかやりきれなくなるから」
 亜矢子がそう言うと、この騒動で集まってきた近所の人達に挨拶しながら家に踵を返した。
 母親に付き従いながら香澄は、立て続けに事件と遭遇してしまったと思っていた。偶然だとは思ったが、彼女にしてみると、それこそ本当に「嫌な感じ」なのであった。雨は降りそうも無かったが、相変わらず重苦しい梅雨空が広がっていた。

―捌―
 少し遅くなった夕食では、とりとめのない話で終始した。三枝芳江の死について、亜矢子は何か知っているようであったが、それを娘には話そうとしないし、香澄も大森ふ頭の事件で刑事から事情聴取されたことは話せなかったのである。
 十時近くまで居間でテレビを見て、風呂に入ると香澄は薄桃色のパジャマに着替え自分の部屋に戻った。部屋は六畳ほどで女子高生らしい白を基調にしてある。ベランダが設えてある南側のドアと東側にある窓にかかるカーテンも白で、化粧机も小物を入れているチェストやクローゼットも白い物で揃えてある。唯一、小学生の時から使っているロフト式のベッドだけが木目調であるが、マットレスや掛布団、枕は白いシーツで統一されていた。中学生の頃まで壁には、男性アイドルグループのポスターなどが貼られていたが、高校に上がると、そのすべてを剥がして、その跡に黒、グレー、薄黄色の三色を連続模様にした麻のタペストリーを飾った。
 どうしてそうしたのかを考えると、中学三年から高校一年まで付き合った大前聡が関わっているような気がする。別に聡の趣味がタペストリーに反映されたというわけではない。聡との付き合いは、それなりに熱の入った交際であり、香澄は彼に身体を許している。付き合っているなら、こうなるのも普通だと思っていたからである。
 聡との関係が深まるにつれ、今まで抱いてきた男性のイメージと実際のイメージの乖離を激しく感じ始めた。どちらかと言うと精神的な繋がりを求めていた香澄に対し、身体だけを求めてくる聡に、彼女は次第に辟易としはじめ、同時に自分が熱を入れていたグループのメンバーも、その事だけを考えている男に思えてきて、ポスターをはがしてしまったのである。
 聡とは高校二年になる前に別れた。
 処女を失った事を悔やんではいない。自分でも性に関し開放的な部分があるのも分かっているし、また誰かと付き合いたいという思いは常にあるものの、同年代の男性に対しては全くと言うほど魅力を感じなくなっていた。
(おじさんの方が良いのかも)
 そう思うと心のどこかが単語うごめ蠢く。最近は特にそうだ。同時に十三年前に去っていった父親に思いを馳せることが増えていた。
 両親が離婚した原因を、彼女は聞いていない。母親も話そうとはしないが、ただ、父親がどんな人だったかを訊ねると「良い人だったわよ」と答えるのだ。なら、何故別れたのという疑問は、時折、顔も思い出せない父親を思うと付いて回る。すると今の自分ではどうにもならないという想いが押し寄せてくる。
 今も、パジャマ姿で今日出された宿題に取り組みながら、それに集中できていない。父親のこと、埠頭での出来事、そして三枝芳江の死が、恐怖と伴った閉塞感として彼女の周りを囲っている感じがする。それを打ち破る力が、今の香澄にはない。
 カーテンで閉じられたベランダ側のアルミサッシが鳴った。暫く間があり、またアルミサッシが鳴った。恐る恐る白いカーテンの隙間から覗くと石見坊が立っていた。
(えっ、うそ!)
 彼女は慌ててカーテンを引き開け、アルミサッシの鍵を外すと戸を開けた。石見坊はくちばし状の頬当てを懐に仕舞う所であった。
「――どうしたの」
 何故か香澄は、自分のシャワー後解かしていない髪に手をやりながらそう言った。彼の登場をどこかで喜んでいる自分がいる。
「つい、気になってな。――変わりはないかの」
 と言いながら、石見坊はベランダの金属柵の上に腰掛けた。大きな身体であるが、見た目より体重が軽いのかもしれない。
「今までどこにいたの」
 声が大きくなりそうなので、囁くように聞いた。
「まあ、辺りをうろうろとな」
 そう答える石見坊に近づくため、香澄は裸足でベランダに出た。
「足が汚れるぞ、それに髪が乾いてないではないか」
 と石見坊が白い彼女の足の甲を指さし、続いて軽く香澄の濡れて小さく波打つ髪に触れた。
「そんなの、いいの」
 石見坊はすぐに手を引っ込めた。香澄はそれが少し残念に感じた。
「そうか。――で、変わりはなかったかな」
 自信に満ち、聴く人を落ち着かせるような声だった。
「警察があなたを追っているわ」
 最も知らせなくてはと思うことを告げた。目の前にいる石見坊は、刑事たちに見せられた写真とはかなり違っている。
「――警察とはなんだ」
 と穏やかな声でそう言った。
(――ええと)
 石見坊は本当に警察が何かを知らないのかもしれないと香澄は思った。
「いわみを捕まえようとしている者のことよ」
 のんびりと構えている石見坊に対し、少し香澄の語気が強くなった。
「ほう、単語ほり捕吏のことか、あやつらが儂をの」
 昔の言葉だと警察などを捕吏と呼ぶんだと香澄は妙に感心したが、それどころではない。彼は全く異に返していないのか、自分を見つめる瞳が静かに微笑んでいる。
「捕まるわよ」
「――捕まらぬよ」
「日本の警察は優秀よ」
「儂はもっと優秀じゃ」
「もう!ピストルで撃たれちゃうかもよ」
 声が自然と大きくなり、香澄は手で口を押えた。まだ一階でテレビを見ているであろう母親に気付かれてしまうかもしれないと思ったのだ。
「それはなんだ、矢か」
「いいえ、拳銃。撃たれるわよ、だから、どこかへ逃げて」
 本気に石見坊を香澄は心配していた。いくら人並み外れた能力を持つ石見坊でも銃には敵わないはずと思っていた。銃に撃たれ、血を噴いて倒れていく石見坊が見えるようだった。
「ふむ、逃げるのは構わぬが、何故香澄が焦っておる」
「――死んでほしくないから」
 石見坊の視線を受け、彼女は思わず目を逸らした。顔に血がのぼっているし、べそをかきそうになっていた。それを石見坊に見られたくなかった。
「そうか、ならば、その辺りの話を詳しく聞いた方が良いかの。もうちくっと単語そば傍に単語まい参れ」
 石見坊はそう言うと、右手を香澄の方に差し出した。手を握れというのだろうか、彼女は石見坊の手を握ろうとした。さっと石見坊の背中から羽が展開すると、右腕が彼女の腰を抱え込んだ。香澄は抱き寄せられるように石見坊の身体に密着する形となった。ふわりと香澄を抱きかかえたまま飛び上がった。この前のように空を飛ぶのかと思ったが、石見坊は空の上に昇るつもりではなかったらしく、ただ屋根の上へと移動しただけであった。
 降り立ったのは屋根の天辺にある単語おおむね大棟の上だった。辺りは湿った暖かい空気に満たされ星などは見えない。密集した近所の屋根の連なりの奥に、屋根からの眺望を邪魔するよう建っているマンションの窓の明かりが見えた。香澄は足場が不安定なのを少し怖くなり、石見坊が腰から腕を解くと、大棟の瓦の上に急いで腰を降ろした隣に、石見坊が同じように腰を降ろした。
「ここならよかろう」
 そういいながら石見坊は鋭い視線であたりを見回し始めた。
「やはり、妙な気が漂っておるな、ここは」
 と呟いた。
「妙な気って――」
 屋根の上で、それも瓦の上であるため、ずるずると滑り落ちそうな気がして、香澄は石見坊の作務衣のような着物の袖を握りしめていた。
「そなたは気にせんでいい。――で、何があった、話してみよ」
「どこから」
「儂の知らぬところからよ」
 香澄は、真美と奈緒美の話、刑事に事情を聞かれ、そこで石見坊が犯人として挙がっている事など、順を追って詳しく話していった。ただ、三枝芳江の死と蔦に覆われた家の話はしなかった。関係はないと思ったからである。
 そして、警察が石見坊を重要参考人として追っているらしいことを繰り返した。聞き終わった石見坊は、小さく頷きながら香澄に微笑みかけた。
単語然したることは無い。儂はな、香澄と違い人ではないからな」
「だからこそ、警察はいわみを殺そうとするかもよ」
「よいか――、生きる死ぬるは人を含め動物や植物の話じゃ。儂らに死ぬという観念(くぁんねん)はないな」
 と石見坊は梅雨空を見上げながら言った。
「死なないというの」
 香澄は石見坊を見上げた。
「消滅するのじゃ。次の儂になるためにな」
「――意味が分からないんだけど。いわみは、今のいわみになる前も、いわみだったということ」
「まあ、そういうことだ。そういう儂らを『人外の者』というようだが」
「何それ、人外の者って――」
「だから、申したであろう。人とは違うと」
「でも――、こうしてわたしと話しているじゃない」
「いろいろとあったのよ、これまでにな。――どうも儂はほかの者とは変わっていての、人に興味がある。じゃから、他の者達と違い、人の言葉を話せるのだ」
「いわみ達はどういう言葉で話しているの」
「話さぬのう、何を想っているか、どうしたいのかは単語たが互いに分かるからの。言葉を話すなど、考えられぬことなのだ――」
 そう言い、石見坊は香澄を見つめた。表情は厳しいままであったが、瞳だけは柔らかな光を帯びている。
「本来、儂らはな、強いてではないが人を殺すのに単語しんしゃく斟酌せぬ。言い換えれば、人の生き死になぞどうでも良いのだ。ただ、儂の場合はだ、単語さと郷の人と関わってしまっての、とくにある者と気が合ってしまった」
 そう言って、石見坊は照れたように頭に手をやった。
 人と親しくするのは、石見坊のような者にとって恥ずかしいことなのかもしれない、と香澄は感じた。同時に、その気の合った人間は女性ではないかとも思った。
「女の人?気が合ったって人って――」
「いいや、単語すみや炭焼き小屋に住むじじいよ。元は侍じゃったらしい、不愛想な奴じゃったが、一緒にいても気に単語さわ障らぬじじいだった」
「――ふうん」
 石見坊と女性の取り合わせは、どう見ても似合わないと思っていたので、香澄は妙に納得していた。そして石見坊が話を続けるのを期待していたが、彼は話し過ぎたと思ったのだろう「そいういうことだ」と口を閉ざしてしまった。
「今でもそのお爺さんとは親しいの」
「――とっくに死んでしもうたわ」
「――」
「あれ以来、人とは関わっておらぬな。――そなたをのぞけばの」
 どこか寂し気に、石見坊は空を見やっている。
「じゃあ、警察のことは気にしなくていいのね」
単語むろん無論じゃ」
 石見坊が一つ頷いた。
「ほんとに?」
「そなたが気に単語病むことはない」
 そう答えた石見坊は、ゆっくりと辺りを見回しながら、「さてと――単語いとま暇するか」と呟いた。
「帰っちゃうの、――また来てくれる」
 思わずそう口から言葉がこぼれ出た。
「ん、単語まい参ろうよ」
 いとも軽い返しであった。
「いつ――」
「――そうさな、暫く日を置いてからかの。毎日しげしげと参ると、何かと迷惑であろう。暫くは辺りにおるつもりよ。それに、少し気になるしの」
「気になるって?――」
「そなたは気にせずともよいが――」
 と言い、思い直したとでも言うように「うん、単語けっかい結界を張っておこうか」と石見坊は続けた。
「――?」
 どういう事と聞く前に、石見坊は香澄に目を閉じて下を向くようにと告げた。なんの抵抗も覚えず、香澄は単語うつむ俯き、足元に視線を落とすと、単語わら藁でできたぼろぼろの単語わらじ草鞋をはいた石見坊の大きな足が見えた。
「はやく、眼を閉じておれ。そして気を散らすでない」
 そう言った石見坊の言葉は、子供をたしなめるような口調だった。ぼろぼろの草鞋をひどく気にしながら、香澄は瞳を閉じた。キスでもされるのかと思った。
 彼女の頭の上に、石見坊の手が置かれた。頭全体を包み込むような大きな手だった。何か冷たい波のようなものが頭から足元へ流れていくのを覚える。不快ではなかった。
「よし、済んだ」
 石見坊の手が頭を離れた。
「何をしたの」
「悪い単語きよ気避けじゃ、さして強いものではないから安心せい」
 と言いながら、石見坊は何かを払い落とすように手を叩いた。
「――ありがとう」
 香澄は礼を言った。
「なんの――、さてと、暇をするかの。またこよう」
「――そう」
「うむ」
 彼の背中に黒い羽が広がった。
「わたしをここに残して――」
 彼女は石見坊を上目遣いで見つめていた。
「バカタレが、わけなかろうが」
「また、バカタレって言った」
「いかぬか――」
「いけないわけじゃないけど、それって、いわみの口癖ね。」
「ほう、そうかの」
 別におどけた表情をするわけでもなく、ただ、こちらを見つめているだけの石見坊を見つめていると、自然と笑みがこぼれてきた。そして香澄は控えめに笑った。
「それ」
 と香澄は、笑いながら石見坊が履いている草鞋を指さした。
「――それ、いつから履いているの」
「これか、――さあて、随分前になるぞ」
 と応え、「儂は単語ものも物持ちが良いのだ」と付け加えた。再び石見坊の腕が腰に伸びてくる。今度は自分から身体を香澄は石見坊に寄せた。身につけている着物の下から香ってくる枯草のような石見坊の匂いを、香澄は嫌いではないと感じた。
 
―玖―
 蔦は主に夜間成長するらしく、一夜明けると侵食された面積が広がっている。明るい日中はほとんど変化しないのだが、たとえば日中でも日が陰り、ある程度薄暗くなると急に活動を開始するのである。また、蔦の蔓や葉を取り除いたとしても、瞬く間に復元してしまう。夜間における成長の様は異様だそうで、蔦全体が細かく震え、蔓ひげの先端は行く場所を探りつつ、くねりるように這い進んでいくのだ。その様子を見た住人は「軟体動物のようだ」と思ったという。
 蔦は三枝芳江の家を中心に成長を続けていて、今では半径二十メートルの範囲にまで広がっていた。その成長は貪欲で、形ある物すべてを覆い尽くしていくのである。そこで区は警察と協力し、蔦が少しでも発生している家の住人、百人余りの住人を出張所と中学に開設している避難所へ避難させることを決めた。三枝芳江の件もあってか、避難は問題なく瞬く間に終了したのである。香澄達の家は、まだ避難対象になっていないが、そうなるのも時間の問題と思われた。
 そして三枝芳江の死から五日目の七月五日、被害者がまた出た。今度は三枝芳江や香澄達が住む路地からではなく、路地から一ブロック東側の比較的広い道に面した所に店を構え、町内会長も務める「庄司クリーニング店」であった。クリーニング店は、ここら辺りで最も古い店と言われているが、元来、店などが少ない住宅地でもあり、確かな事はわからない。
 店主の博一は、自らバイクを駆ってお得意様巡りをしており、小さいながらも店は繁盛していた。その博一が体調を崩したこともあり、現在店は開けているものの、バイクでの洗濯物集配を中止し、客が店に持ち込む物だけの洗濯を受けている。
 店は年末年始を除き、午前八時になると必ずシャッターを上げるのであるが、からりと晴れたこの朝は午前九時に迫っても開く様子がなかったため、近所の住人が心配し始めた。そして、またしても副会長の前島が呼ばれた。今回は三枝芳江の例があるので、前島は国道交差点にある交番に人を走らせ、警官に来てもらうよう頼んだ。その間に、店の閉じたシャッターが上がるかどうかを確かめると、シャッターは難なく上がるのを発見し、前島はシャッターを上げ、店のガラスがはめ込まれている店の扉を叩きながら「会長、いるかい」とどら声を張り上げた。
 返事はなかったし、シャッターとは違い扉は鍵が掛かっていた。仕方がないので、たまたま通りかかった顔見知りを見つけ、クリーニング店の裏手を見てもらう事にした。駅前の飲み屋街で店を開いていると言われる中年の男が、前島の頼みに応じてクリーニング店をその隣とを隔てている塀の隙間をカニ歩きの要領で入っていった。
 カニ歩きで入っていた中年の男が、すぐに引き返してきた。店の裏は蔦で覆われていて、途中までしか行けなかったと、異様な光景を見たためか顔を蒼白にしながらそう言ったのである。
「――会長たちは避難しているんじゃないのかい」
 前島が集まってきた人間にそう訊ねた。しかし、まだここは避難対象となっていないから、避難はしていないはずだと言う。前島は扉を強めに叩きながら、再び会長の名を呼んだ。
 そうこうしている内に、自転車に乗った警官が二人駆けつけ、続いて交番の前で違反者に切符を切っていた白バイ隊員も何かあったら協力しようとやってきた。現れた警官の一人は三枝芳江の死体が発見された際、現場の保存と交通整理をやっていた大柄の諸見里という若い警官で、現場に一番乗りしたためか、緊張した面持ちで前島の説明を聞くと、もう一人の同僚と顔を見合わせ、店の入口扉の脇にあるサッシ窓が開くかどうかを確かめた。こちらも施錠されているようだった。
「他に誰か、ここの鍵を持っている方はいらっしゃいますか」
と集まっている者達に警官の諸見里は呼びかけたが、当然ながら誰も持ってはいないようだった。そこで彼は、携帯用の警察無線ではなくスマホを取り出すとどこかに掛け始めた。どうやら、かれの上司か誰かに、窓を割って侵入しても構わないかの判断を請うていたようである。「入ってみなければ分かりませんが、住人の方が閉じ込められていると思われます」と彼はスマホに向かって話した。許可が下りたのだろう、諸見里は一つ大きく頷いた。そして、後ろに立っていた前島へ振り向いた。
「窓を壊します」
 そう宣言し、警棒を引き抜くとそれを逆手に持ち、警棒の柄で窓ガラスをたたき始めた。最初の一撃では破れず、四度目で窓は大きく割れた。思いの外大きく割れてしまったので「アチャー」と、その様子を見つめていたもう一人の警官が口走った。
 割れた個所から手袋をはめた手を刺し込み、窓の鍵を外し窓を引き開けると同僚に被っていた帽子を預け、「庄司さん、大丈夫ですか、いらっしゃいますか」と呼びかけた。返事は相変わらずない。
「入りますので」
 とすぐ後ろに控えていた前島に諸見里はそう伝え、苦労しながら大きな身体を窓にねじ込んでいく。何やらを落としたか壊したかしたような音を立て、ついでに何処かを打ったのかうめき声を漏らしながら、窓の向こうに諸見里が消えた。数秒で諸見里が、店の扉を開けた。
「これから確かめてきますので、絶対に入ってこないように」
 と彼は息を僅かに上げながらそう言い、表に控えていた同僚と店の奥に消えた。
 数分後、諸見里が蒼い顔をして戻って来るや、集まっていた近所の住人に「今から、ここを立ち入り禁止とします」と伝え、前島に顔を向けた。
「ちょっと、来てもらえますか」
 前島はその立ち入り禁止の宣言と、この一言で何が起きたのか理解したようだった。
「また俺かよ――」
 と諦めたような顔でそう呟き、諸見里達の後に従い店内に入っていった。
 それほど広くない店内はきちんと整頓されており、クリーニング用の器具も時代を感じさせるものの磨き込まれ、整備されている。客から預かったクリーニング済みの衣服が、ビニール袋に包まれ、ラックに整然と並んでいた。
「自分達は、庄司さんとあまり面識がないので、前島さんに確かめてもらうのが一番だと思いまして、――すみません」
 諸見里が申し訳なさそうに言ったが、それより前島は最後の「すみません」という言葉が気になった。
「ひどい状態なのかい」
「ええ、――まあ」
 カウンターを回り、開いている奥へと通ずるガラス戸を越えると、そこは八畳ほどの居間のようだった。三方にある襖の一つが開いていたが、どうやらそこが庄司夫婦の寝室と思われ、そこから蔦の蔓が居間の方に這い出している。開いている襖の横に、諸見里の同僚が立ち、盛んに警察無線に状況を説明しているようだった。
「こっちです。靴のままで構いません」
 そう言いながら諸見里は土足で居間に上がっていくのを見つめながら、副会長の前島は「警官は救急車の手配をしたっけか」とそう思った。居間の中ほどに置かれている木製の卓袱台の上には何も置かれておらず、蛍光灯もテレビも消えている。そのため、部屋は薄暗かった。居間の隣が寝室となっているらしい。会長たちははあそこに居るのかと思い、前島は恐怖とも緊張とも覚える震えが起こり始めているのを感じた。
 そして、諸見里に促されて、前島は居間から寝室と思しき部屋を覗き込んだ。居間とは違い、薄暗い六畳の寝室を蔦の蔓が覆っている。まるで人の血管のようだと前島は思った。畳の上には布団が二組敷かれていたが、そこにも蔦が覆っている。それよりも、もっと異様な物を前島は見た。二組の布団の上に全身を蔦の蔓に覆われた人型が、こちらも蔓に覆われたまま仰向けに倒れている人型の上にのしかかり首を絞めている、そんな情景が目の前にあった。どうみても、のしかかり首を絞めるような格好をしているのは、町内会長の庄司で、その身体の下で首を絞められているのが妻の咲江のようであった。
「庄司さんご夫婦でしょうか」
 諸見里が訊ねた。
「――うう、そうかもしれないが」
「では、これでは」
 諸見里は圧し掛かり首を絞めている格好となっている人型の顔辺りの蔦の葉に腕を伸ばして持ち上げた。庄司の白髪と何も見ていない開かれたままの瞳、そして口と鼻腔に入り込んでいる蔓が見えた。蒼白の頬には蔓が自らを固定するために伸ばした吸盤も見える。
「会長だ。たぶん、下は奥さんだと思う――」
「そうですか」
「しかし、この格好はまるで――、会長が奥さんの首を絞めているような、そんな感じじゃないか」
「――自分の目からもそう見えます」
「――嘘だろ」
 前島は口を手で覆った。いきなり吐き気を催したのである。
「二人とも死んでいるのか」
「はい、亡くなっています」
 そこが限界だった。前島は口を手で覆ったまま「俺は出る」とうめくように言うと、どたどたと外へとよろめくように出ていってしまった。
 店を飛び出し、外の空気を吸い込んだ途端、前島は人目も気にせず、盛大に食べたばかりの朝食を道端に戻し始めていた。三枝さんの時は堪えたんだがな、彼はそう思いながら、四つん這いとなり、なおも吐き続けた。
 再び三枝芳江の時と同じように町内にテープが張り巡らされ、鑑識などの捜査員が押し寄せ、現場検証を開始した。亡くなった町内会長である庄司博一の直接の死因は、蔦の蔓が口および鼻腔に入り込んだための窒息死とされ、妻咲江の死因は、頸部圧迫による窒息死とされた。そして咲江の首を絞め殺害したのは、夫の博一と断定された。
 ただ彼は蔦により窒息状態にさせられ死んだわけで、警察としては、博一が妻である咲江殺害後に死んだとしても、蔦の蔓が口や鼻腔に侵入するのをどうして易々と許したのかが疑問として挙がっていた。蔓が口と鼻腔に侵入した際の防御傷が博一に見当たらない事、なおかつ咲江の首を絞めた状態で事切れていることから、博一自ら蔓の侵入を容認したとしか考えられない状況だった。
 さらに博一の体内に侵入した蔓の先端は首の脊髄にまで達していることも解剖で分かった。そういった観点から一部では、妻咲江より先に夫博一が死亡していたのではという単語うが穿った見解も捜査陣の中にはあったという。
 この新たな事件発生を受け、警察は住民避難の範囲を広げる計画の検討に入った。計画では、今まで半径二十メートルの同心円内を避難地域としていたが、今回は最初に事件が起きた三枝芳江の家を中心に、東に位置する国道と、その国道と交差し三枝芳江の家から北にあたる都道、そして香澄が高校に通う為に使用する南側の直線道路、西は半地下状態で南北を走る私鉄線路までの、東西を長辺とする長方形状の範囲を避難地域とするべく準備が開始された。地域にはマンション七棟を含む一〇八軒の家屋があり、約六〇〇人の住人が住んでいる。その全員を避難させるため、区は避難所の増設を行い、準備が整い次第、避難を促す避難指示を出す予定であった。
 香澄の家も避難地域に含まれることとなった。

―拾―
 近所の「庄司クリーニング」店がそんな事になっているのを香澄は知らずに登校していた。この日は梅雨の晴れ間で、朝から真夏のような空に刷毛ではいたような白い雲が行く筋も流れていて、暑い一日だった。
 放課後、赤みを増しつつある太陽を浴び、鼻の頭に汗をかきながら下校すると、辺りは状況が一変していた。まだ、庄司クリーニング店で何が起こったのかを知らないでいた香澄は、自宅のある地域が完全に封鎖された状態になっているのに驚いた。普段通学に使う道を通れなくなっているのは朝も同じで、仕方なく少し遠回りになるが国道と都道との交差点を渡り高校に向かったのだが、今は都道と国道の交差点から警察車両により封鎖されていた。
 当然立ち入り禁止のテープは自宅へと続く都道側の路地入口にも張られているが、立ち番の警官が、この間の諸見里であったため、事情を話す前に貼られていたテープを上に上げて通してくれた。朝方は活躍した諸見里であったが、捜査陣が臨場すれば、お役御免と普段の地域課の職務に戻されたのである。
「お帰りなさい」
 と諸見里が通りすがり際そう言ったので、香澄は軽い会釈で返した。彼は他に何か言いたげな顔をしていたのだが、それには気付かない振りをした。路地は人の姿がなく、香澄の家の二つ隣にある小さな公園から奥は、すでに避難も終わり無人となっていた。
 玄関を自分の鍵で開けようとすると開いており、母親の亜矢子が、少し焦ったような顔をして出てきた。
「ただいま」
 そう言い靴を脱ごうとすると、家着に着替えた亜矢子が重大な話をするような口調で「大変大変、町内会長と奥さんが亡くなったのよ」と言った。
「そうなの」
「そう、詳しい事は分かっていないけどね」
「ふうん、で、お母さん、今日は遅番の日じゃなかったっけ」
 と言った。母親は港区の総合病院で看護婦をしており、この日は帰りの遅い遅番の筈だった。
「そうなんだけど、変わってもらったのよ。何があるか分からないから。それに、明日の朝には避難希望者の受け入れ準備が完了するらしいのよ。職場に町内会から連絡がきたわ。明日からいつでも避難所に入って良いって」
「避難所、行くの」
 と香澄は靴を下駄箱に仕舞いながら訊ねた。
「どうしようかしらね」
「あたしは厭だな。避難所なんて」
「それは、そうよねえ」
 と自分の横を通り抜け、洗面所へ向かう香澄を亜矢子は見つめていた。
 彼女はまだ今一、状況の深刻さを感じていないらしく、明日でも良いのではという香澄の言葉に「そうよね、シフト調整の必要もあるし」と、すぐの避難には消極的な態度を見せている。
 それでも夕食時は、万が一避難所に行くとしたら何を持っていくべきか、学校はどうするのか、仕事をどうしようかなどの話題に終始したのである。二人は避難をするといっても短い期間だろうと思っており、また、町内会からも避難所への物の持ち込みは必要最低限でと言われていた。
 香澄の役割である夕食の後片付けも早々に、彼女は自室へ上がろうとした。
「あっ、お風呂早く入っちゃいなさいよ、明日から入れるか分からないから。それと、荷物が届いていたから、あなたの机に置いてあるわ。こんな時でも配達されるのね」
 と職場にでも連絡しようとしているのか、スマホを片手に居間のソファの上に座っている亜矢子がそう伝えた。
「うん、分かった」
 香澄は荷物が届いている事を聞き、二階に駆け上がった。時刻は八時を過ぎようとしている。
 部屋の明かりを点け、真っ先にベランダ側のカーテンを引き、戸を開けてみたが、石見坊の姿はなかった。なんだとひどく落胆した気持ちになった。
(今夜、来てくれないかしら)
と考えながら、同時に石見坊に会うことを考えることが、これほどワクワクするのを自分でも不思議に感じている。ベランダ越しに外を覗くと、辺りを警戒する警官の姿が見えた。警察を気にもしていなさそうな石見坊であるが、警戒して訪ねて来ないかも知れなかった。
(――まったく)
 どこかの夜空を悠々と飛んでいる石見坊を想像していると香澄は少し不機嫌になった。当てが外れた時に感じる、あの失望感とも消失感ともとれる感覚が全身を覆う。一つ大きな溜息を吐くと、香澄は母親が勉強机の上に置いておいてくれた通販の段ボール箱を手に取った。
「せっかく、荷物が届いたのに――」
 前に会った時、石見坊がぼろぼろの草鞋を履いているのを見て、香澄は新しい物を上げたいと思ったのである。今どき草鞋を見るなどは、時代劇の中でしかないし、どこで売っているのかも知らなかったが、ネット通販ならあるかもと調べてみると、結構売られているのが分かった。主に祭事用に売られているようだが、種類も豊富であるし、価格も手ごろである。石見坊が単語履いているのは、草履のような草鞋ではなく、足首を固定する本格的な草鞋のようであったが、それも扱っていた。同時に通常、草鞋は単語たび足袋の上から履くことを知り、こちらも購入しようと考えた。石見坊は素足のまま草鞋を履いていたことを思い出したのだ。
 実際は草鞋より「草鞋掛け足袋」という足袋の方が値段が張り、その二つで五千円を超えてしまったのだが、何故か香澄は迷わず注文してしまった。丁度、月末に小遣いを貰ったばかりだったのもあり、気持ちも大きくなっていたのだろう。懐の痛さよりも、石見坊が喜んでくれるかどうかが気になっていた。
 梱包を解いて中身を出し、画像通りの物が入っているのに満足しつつも、足袋は石見坊の足より小さかったかなと思った。二十九センチサイズを選んだのだが、彼の足はもっと大きかったような気がしたのだ。足が入らないかもしれない。失敗した感が強くなる。
 少し落ち込んでいると、下から再び母親の「お風呂入りなさい」という大きな声が聞こえた。まだ石見坊は現れそうもないので、急いで入ってしまおうと着替えを揃えると下に降りた。この前、彼が彼女の洗い髪に軽く触れてきたのを何故か思い出していた。
 午後十時を過ぎても石見坊は来なかった。石見坊がもし来たら現れたらすぐに出られるよう、ベランダ側のカーテンを開けたままで待っていたのだが、待ちくたびれてベッドの上で眠ってしまったようだ。ガラス戸をほとほとと叩く音で、香澄は目を覚ました。日付の変わる午前零時近くであった。急いで身体を起こすと、石見坊がベランダの柵に腰掛けているのが見えた。ベッドを跳ね起き、香澄が飛びつくようにガラス戸を開けるのを、石見坊は面白そうに見つめてきた。
「良く寝ておったの」
 石見坊がそう言った。香澄は少し乱れている水色のパジャマの裾を直しながら何か言い返そうとしたが、石見坊に渡す物を思い出し、一度引き返して勉強机の上の草鞋と足袋を手にし、再び戻った。
「そんなに寝ていないわよ、ちょっとだけ」
「そうかの、大分に寝ていたぞ、ここで見ておったからの。すだれは絞めておくものじゃ」
「えっ、いつから見てたの」
「だから、単語だいぶ大分前からじゃ」
「それって、見てると言うより覗きじゃない」
「覗いていてはいかんか。気持ちよさげに丸まっておったので中々に起こしにくかった」
「早く起こしてくれれば良かったのに――」
 香澄は顔が火照ってくるのを覚えていた。どんな格好でうたた寝していたのだろうと思った。
 石見坊がまっすぐこちらを見つめてくる。香澄はそれが眩しかった。
「あれから、何かあったかの――」
 彼女が頷いた。
「ふむ、ここではなんだ、ちと不味いな。来た時から捕吏らしい者達がうろうろしておるしの」
 石見坊は「この前の所にしよう」と言い、今回は遠慮ない動作で香澄を掻き抱くように引き寄せると軽々と飛び上がった。
 家の屋根に飛び上がった二人は、この前と同じく大棟の上に腰を降ろした。二回目ともなり、屋根の上という高さに馴れてきていた香澄は、辺りを見回す余裕ができたようだ。この夜は三日月よりも少し太めの月がのぼって、その光に切れ切れになびく筋雲が輝いて見えた。周囲に建つマンションが黒々と単語そびえ聳え立つようだった。
 石見坊は隣に寄り添うように腰かけている香澄に目を落とした。
「お主に変わりはないようじゃな」
 自分を差す石見坊の言葉が「そなた」から「お主」へと変わっている。
「――うん、あたしは元気よ。でも、辺りが死に掛けているような気はするけど」
 と彼女が答えた。
「――あの蔦のことか、ずいぶんと増えておるな」
 石見坊は蔦の繁殖している方向を指さした。
「そう、人も死んでるし」
「そうなのか」
「ええ」
単語なんぎ難儀じゃの」
 短いが石見坊の言葉には、香澄を労わるような響きがある。
「ねえ、蔦があんなに急に生えるのを見た事ある」
「――ないな。在り得んことだ。植物には植物の時がある」
「じゃあ、何故なの――」
 香澄が石見坊を見上げた。
「何かが、蔦を使って、そうさせておるのじゃ」
「どうしてそんな事をするの。何がしたいのかしら」
 石見坊に言われ、辺りの不気味さが増したような気がし、香澄が彼の身体に身をさらに寄せた。
「そこまでは分からん」
「――どうすれば良いのかな。このままだと、あたし達も死ぬような事になるのかしら」
「香澄は単語だいじ大事ない。儂が結界を張っておいたからの。ちょっとやそっとでは破れんようしてある。しかしの、ここから離れることは正しいかも知れぬな」
「いつまで続くんだろ」
「何かの気が済むまでじゃな。そうなる理由がここらの土地にあったということだ、その目的を達したのなら、自然と止む。何もしなくてもな」
 石見坊の口調にはどこか単語たっかん達観したような響きがあった。彼から見れば、この異変もあっという間に終わるのだろうけどと香澄は思った。
「ここに住めなくなるのかしら」
 ぽつりと香澄が言った。
「この家が惜しいか」
「当たり前よ、あたしはこの家で生まれて、今まで暮らしてきたんだから」
 彼女の思い出は、すべてこの小さな二階家を中心に起こっている。保育園の思い出、小学校、中学校、高校の思い出も、そして父親の僅かな思い出も、この家が基点となっているのだ。自分の記憶はこの家を省いては無いに等しいと思った。
「もう間もなく、あの蔦がここへもやってくる。いくらお主が結界で護られておるとて、蔦とともに暮らすには無理があるの」
「だから、どうすれば良いのか、考えちゃうんじゃない」
 石見坊の大きな手が、香澄の頭に乗せられた。
「大事ない。お主は儂が護ってやる、行きがかりじゃ」
「――他人事だとおもって、お母さんもいるのよ」
 頭に手を乗せられたまま、香澄が言った。
「命があればこその人生ぞ。命さえあれば、どうにでもなる」
 そう言った石見坊の手を頭から香澄は払いのけた。
「本当っに、他人事ね」
「そうではない、もっと大人になれという事よ。お主もいつかはこの家を離れる時がくる。それが多少早まっただけじゃろうが」
「いわみは良いわよ、空を飛んでどこにでも行けるんだから」
「それは違うな、儂も縛られておるのよ、お主が思うように儂らは長くこの世にあるが、そのこと事態が縛りの一つよ。――世に飽きても、居なくなれない。それに人の中でも暮らせん、単語すがたかたち姿形が違うからの」
 香澄は面白そうに自分を見つめてくる石見坊の瞳と視線を合わせた。彼はいつも一人なのだ、一人っきりで長い年月を生きてきたのだと、香澄は思った。
「いつもは何処に住んでるの」
「がくしょう(学生)のあまた集う所の山奥よ」
「そこにずっと――?」
「そうじゃ、気に入っておる」
「――帰りたい?」
「帰りたくもあり、帰りたくもなし、そんなものかの」
「ふふっ――、なにそれ」
 香澄が思わず笑うと、石見坊の瞳に笑みが浮かんだ。
「まあ、当分はこの辺りにおる、そういうことだ」
「じゃあ、これからもこの近くに居るのね」
「そうじゃの」
 なぜか彼女はほっとしていた。まだ会う事ができる。
「あのね、これ」
 と香澄は持ったままでいた草鞋と足袋を石見坊に差し出した。
「今履いている草鞋、だめになりそうだから」
 少したじろいだように、背筋を伸ばして石見坊は差し出された草鞋と足袋を見下ろした。
「――儂にか」
 香澄が頷いた。
「――良いのか」
「そのために用意したから」
 石見坊は手を伸ばしかけて、そして止めた。
「貰って良いのだな」
「だから、貰ってほしいんだって」
 香澄は、まるで壊れ物を手にするように、石見坊が彼女の手から草鞋と足袋を取るのを見ていた。
「かたじけない――」
 本当にそんな台詞を言うんだと思いながら、香澄は手にした草鞋と足袋をためすすがめつ見つめている石見坊を見つめていた。石見坊が笑って、それらを贈った本人である香澄に見せる。「貰っちゃった」とでも言いたげで、まるで子供のようだった。顔全体を使って彼が笑うのを香澄は初めて見た。
「履いて、良いか」
「――ええ」
 石見坊は手早く、古い草鞋を脱ぎ、香澄から貰った足袋を足に履いた。かなりきつそうだったが、そんなことは異に返さず、真新しい草鞋を足に着けると紐を絞める。
「おう、よい単語あんばい按配じゃ。――うん、良いな、これは」
「よかった、気に入ってくれたみたいね」
「ああ、気に入ったぞ」
 石見坊がもう一度笑った。そうして、今まで履いていた草鞋を懐に仕舞った。
「それはもういらないでしょ」
「いや、お主に貰った物ばかり履いていては、傷みが早くなるからの。時折はこの古い奴を履こうと思うてな。せっかくの香澄の好意だ、貰った物は大事に使わねばならん」
 こういった所が好きなのよ、と香澄は思った。風体には合わない底抜けに善良な所のある石見坊が、彼女は気に入っている。
「さてと、そろそろ暇をするかの」
 少し黄色味がかった色に輝く月を見上げながら、石見坊が言った。
「――もう少し、一緒に居てよ」
 知らず知らずに上目遣いになった香澄が言った。
単語ははご母御が気づきはせぬか」
「――平気」
「そうか」
 石見坊は視線を夜空にかかる月に向けたままである。
「――月を見ているの」
「うむ」
 香澄は石見坊へ身体を寄せた。
「寒いのか」
 と石見坊が訊ねた。
「違う」
 肩が石見坊に触れそうだった。石見坊は香澄の意図に気付いていない、相変わらず月を見上げていた。

―拾壹―
 その一日後、香澄があの事件以来親しくなりつつある奈緒美と、放課後校門を出ると、相原と堀本が待っていた。ここ数日、梅雨の晴れ間が続いている。小柄で丸みの多い相原は、いつものように紺のパンツスーツで、堀本の方はグレーに縦じまのスーツである。
「殿前さん」
 と声を掛けてきた相原の言葉にはフランクな調子が含まれていたが、瞳は笑っていなかった。堀本はむっつりと黙ったまま、香澄と奈緒美を見つめていた。
「あら、川辺さんも一緒なのね」
 相原は奈緒美に目をやり、すぐに香澄に戻した。
「せっかくの放課後なんだけど殿前さん、ちょっとお話しいいかしら」
 香澄と奈緒美は顔を見合わせた。奈緒美の方は、刑事達の登場で緊張と恐怖を感じているらしかった。
「――いいですけど、なんですか」
「ちょっと、追加でお話を聞きたいことがあってね」
 堀本が相原の後ろでそう言った。若い相原はちらりと親子ほどの年上の堀本に視線を走らせ、私が話すからというように一つ頷いてみせた。
「私達車で来ているの、家まで送るから、そのついでに、ねっ」
 相原は校門から途切れることなく出てくる生徒に気遣ってかそう言い、奈緒美には「悪いけど、殿前さん借りるわね」と告げた。嫌なら断ったらというような表情を浮かべている奈緒美に、香澄は眉を片方上げて見せ、「分かりました」と答えた。
「じゃあ、行きましょうか」
 相原が香澄を促す様、先頭に立ち歩き始め、堀本の方は香澄と奈緒美が手を振り合い別れの挨拶をしているのを見つめている。
 心配しつつ、刑事の用が自分では無いのにホッとした様な表情を浮かべている奈緒美を残して、香澄は相原の後に従った。
「ごめんね」
 と相原は振り向きざまそう言うと、歩調を緩め、香澄の隣に移動した。
「いいえ――、聞きたい事って、なんですか」
「車に乗ってから話すわ」
 相原はそう言ったきり、黙ってしまった。
 二人が乗ってきた車は高校近くを走る都道の路肩に止めてあった。単語ふくめんしゃ覆面車というのだろうか、灰色の中型セダンで、見た目も地味な車である。
「パトカーじゃないんですね」
 と香澄が言うと、相原は僅かに笑った。
「残念ながら――、これは覆面、あっちの方に乗りたかったかしら」
「――いいえ」
 覆面車もそうであるが、警察車両に乗せられるということは、テレビドラマでもそうだが、あまり良い状況じゃない時である。今もそうかもしれないと香澄は少し単語ゆううつ憂鬱な気分となった。
 堀本が運転席に座り、香澄と相原は後部座席に収まった。
「ここだと学生が多いから、一つ前の信号の先に移動するよ」
 とイグニッションを回しながら堀本が言った。
「あっ、すみませんが、お願いします」
 覆面車の車内は意外に散らかっていて、微かにタバコの匂いも漂っていた。警察車両らしい色々な機器やスイッチ類は見当たらなかったが、助手席側のグローブボックス下に無線機が取り付けられているのが、警察車両らしいと言えばらしい。
「ちょっと汚れているけどごめんね、いろんな人が使うもんだから、汚れちゃうのよ」
 鼻をひくつかせていた香澄に相原はすまなそうに言った。
「私達はタバコを吸わないんだけど、結構刑事は吸う人が多いの」
 イメージ的にはそれはあると、香澄は頷いた。
 覆面車はするすると前進し、折良く青信号であったため、交差点を一つ越えて街路樹の横に再びエンジンを回したまま停車した。覆面車と同じように、道の路肩に停まっている車も多い。
「ここで良いだろう」
 と堀本が呟き、エアコンのスイッチをいじり、少し強めにした。警察無線からはなにやらぶつぶつ声が漏れていた。
「じゃあ、殿前さん、一昨日の晩、どこに居たのかしら」
 相原はいきなり聞いてきた。一昨日の晩、香澄は石見坊と屋根の上で長い時間過ごしている。そして、相原と堀本は石見坊を追っている。
「――家です」
 そう香澄が答えた後、少し間があった。
「うん、家には間違いないけど、家の屋根の上にいたでしょ」
「――」
「誰といたの」
「――」
 緊張がいきなり高まり、香澄の動悸が速くなる。見られていた、迂闊だった、気にはしていたのだが。警察はあたしを監視していたのだと、驚きにも似た気持ちが生じた。
 堀本がスーツの内ポケットから何枚かの写真を撮り出し、後部座席の相原に手渡した。相原はまず写真を自分で確かめ、そして香澄に見せた。夜間モードで撮影されたと思しき、画質の荒い写真ではあるが、確かに月明かりの中、屋根の上で並んで座る香澄と石見坊の姿が映っている。言い訳はできないなと香澄は思った。
「これは、あなたよね」
 と相原は写真の中に映っている香澄らしき人影の上に指を置いた。写真にして見ると、石見坊がひときわ大きいのが良く分かる。
「――はい」
「じゃあ、この大きな人は」
「――」
「前に見せた時の写真の者よね」
「はい。でも、――この人はあたしを助けてくれたんです」
「ある意味ね、現場検証でも、そう解釈するしかなかったわ。――私たちね、あなたが三人と違って殺されなかった事が分からなかった。でもね、この写真を見て納得できるのよ。あなた方は前からの知り合いなの」
「あの時初めて会いました」
「本当に――」
 相原は信じていない。香澄と石見坊が前からの知り合いならば、状況は変わってくる。
「あなたには三人を殺せない、とくにああいう風には――。だから、三人の殺害にあなたはこの怪物を使ったとも考えられるのよ」
 警察は自分があの三人を殺したと思っていたのだろうか、と香澄は相原の話を聞いて思った。
「奴らは――」
 香澄は三人を「奴ら」と呼んだ。今でも彼らのことを考えると、とてつもない恐怖と憎しみを覚える。
「あの三人が何?」
「――後はいつもの通りだって、奴らは言っていました。――後というのは、レイプした後だと思いますけど――、殺すという意味だと思います」
 そう言った香澄の言葉を聞き、相原と堀本は顔を見合わせた。そして相原は言葉を選ぶように話し始めた。
「調べてみるとね、他に二人の女性が立て続けに居なくなっているの。それも、あの三人と会った後にね。最初は半年前、次が二月前。連れ去られた状況は違うけど、殿前さんは、二人の女性と同じ目に遭いかけたのだと思う。それにその二人は今でも行方が分っていない――」
「二人も――ですか」
 香澄の瞳が大きく瞠られた。
「たぶん、二人の他にもまだいるかもしれないわ。三人はそれを楽しんでいた節があるの――。今、SNSの時代でしょ、あなたも使っていると思うけど、三人も当然利用していて、丁寧に追跡してみると、それを示唆するような言葉を残しているの。――ネットの世界と現実の世界は別だと思っているのではないかしら」
 そういったSNSにおける風潮は自分にも当てはまるかもと、ちらりと思ったが、それよりも奴らが自分の他に、少なくとも二人の女性に同じ目に遭わせ、殺していたかもしれないということに驚愕していた。自分は幸運だったのだと改めて思った。
 相原は黙り込む香澄を見つめ、「本当に危ないところだったのよ」と言った。
「その状況を救った形となったのが、ここに移っている人なのよね」
「――はい」
「どうしてかしら」
「――あたしの助けを呼ぶ声を聞いた、そう言ってました」
 本当は「助けて、お母さん」だったのだが、香澄は母親に助けを求めた部分を伏せて、そう答えた。
「えっ、喋れるの」
 やけに素っ頓狂な声を、相原が挙げた。
「はい――、普通に。言葉遣いは古いですけど」
「じゃあ、やっぱり人なのかしら」
「――たぶん違います。人外の者だと自分で言っていました。それに、空を自由に飛べる人間がいるわけないし」
 香澄は説明しながら、石見坊の腕に抱きかかえられながら、空を駆けたのを陶然とした気持ちで思い返していた。身体が火のように単語うずく疼くのも感じる。
「私達は、野生動物が人に懐くみたいに、あなたに付きまとっている思っていたけど、言葉を理解するのだと言うのなら――」
 相原の顔は、相変わらず驚きの衝撃から脱していないようだった。これはもう警察の対処範囲を越えているとでも感じているのかもしれない。
「野生動物ではないです。絶対に」
 野生動物と石見坊を言われ、反発する気持ちが生まれた。彼は頭もかなり切れるのだと言いかけたが、それを飲み込んだ。「人を殺すのに斟酌はせぬ」という石見坊の言葉を思い出したからだ。
「捕まえるんですか」
 そう香澄が訊ねた。それは無理な話だと思っていたが、聞かずにはいられなかったのだ。
「そのつもりです」
「たぶん、無理ですよ。あたし、あの人にあなた達が捕まえようとするかもしれないと言いましたから」
「どうして、――危険だと思わないの」
「あの人を、ですか」
「ええ、そう」
 相原は香澄が石見坊を指して「あの人」と呼んだのを見逃していない。
「思いません」
 少なくとも自分には、石見坊はあの凶暴な一面を見せないだろうと、香澄は感じていた。そうなったら、そうなったで仕方ない、たぶん、そうなったのは自分の方に非があったからだとも思う。
「あなたに捕まえるのを手伝ってほしいと言っても、了解は得られないようね」
 と少し気が抜けたように相原が独り言のように呟いた。
「そうなったなら、逃がします。警察の邪魔もします」
 もしも石見坊と会えなくなったとしても、彼が生きてさえいれば良いとさへ香澄は思うようになっている。
 彼を逃がすと言い切った香澄を、相原は不思議な物をみるような目つきで見つめており、堀本は感心した様な表情を浮かべ、運転席からちらりと香澄をかえりみてきた。

―拾貳―
 香澄が刑事達と話した翌日、蔦の繁殖が鈍化し、ほとんど停止したようになった。理由は分からない。区は、繁殖が停滞したことを受け、避難指示を出すのを遅らせる判断をしていた。
その間に、蔦が突然どうして町内に繁殖し始め、どうしていきなり繁殖を鈍化さえたのかなど、さまざまな調査が行われていたが、埒が開くようには見えなかった。
 蔦の種類は日本に多くみられる単なる「ナツツタ」で、その大本は最初に亡くなった三枝芳江宅の庭から生えてきたものだと判明したことだけで、また、採取した葉などから強い繁殖力の理由などは、未だ分かっていない。「永遠の愛」とか「結婚」といった、「愛」に関わる花言葉を「ナツツタ」は持つらしいが、香澄達が住む戸原地区に起こった事態は、そのようなロマンチックなものではないことは、街の状況を見れば良く分かる。
 香澄の家は、発端となった三枝芳江の家からそれほど離れていないものの、密集した住宅地の防災としての火除け地目的としても造られた公園が間にあり、蔦が家に手を伸ばしてくるのはまだ先だと思われた。それに反し、すでに蔦の繁殖を許してしまった地域は、ひどい有様であった。濃密に、幾重にも蔦が家やマンションを包み込み、周囲の電線や電柱にも蔦は巻き付くき、電線の一部は蔦の巻き付いた自重で切れて地面や路上に垂れ下がっていた。そのため、蔦に覆われた一帯は、何年前に遺棄された廃墟の様相をも見せているのである。
 蔦は今までの世界とは違う世界を作り出そうとしているかのようであった。この様相は、マスコミの恰好のネタとなり、ありとあらゆるメディアが大挙して毎日押しかけるようになっていた。そういったメディアから「異界の街」などと無責任な名を付けて発信された情報は、多くのやじ馬を呼ぶ騒ぎになっていた。
 加えて、異様な事態に対し、SNSなどでは盛んに考察が行われていた。その一つに江戸中期、当時はある旗本の知行地でもあったこの地区を管理していた代官所による覚書を探し出した者がいて、ごく短い記述であったが、そこには若い遊女と思しき死体がこの付近で発見されたという記述を見つけ、それと、今回の蔦に侵食された住宅地を結び付けていた例もあった。
 注目を浴びるに従い、住宅地を無断で探索しようという連中も後を絶たなくなり、それを規制する警察の数も増えていた。その集まった警察の中に、無人航空機対処部隊が含まれていることを知っている者はいなかった。目的は石見坊である。六月下旬に霞が関で無人航空機対処部隊が感知した飛行物が石見坊であったのは、レーダー解析および、緊急着陸を余儀なくされたヘリのカメラで撮影された画像からも明らかであったからだ。
 大森ふ頭での事件では、三人の大学生を殺害したのが石見坊であることは明らかであり、それに被害者になりかかった香澄が絡んで多少複雑な様相を呈してはいるのだが、なぜ、三人の大学生をいとも簡単に殺害したにも関わらず、香澄に対しては何もせず、どちらかというと保護するような行動を取ったのか警察は今でも首を傾げている。しかし、捜査本部の相原警部補と堀本巡査部長から、香澄と石見坊には、何かしらの信頼関係が結ばれているのではという報告を受け、石見坊が香澄に暴力的な態度を採らないことに対して、ある意味、腑に落ちた気分にもなっていた。
 そうなると局面は変わってくる。石見坊に三人の殺害を依頼したのは香澄かもしれないという、当初から浮かんでは消えていた疑念が改めて浮上してきたのである。石見坊に一定の知能があるとすれば、それを香澄が利用した可能性は大いに考えられることと警察は考えている。とにかく、その辺りは石見坊を捕獲すれば分かるだろうと、捜査本部では睨んでいる。しかし、三人の殺害の方法にくわえ、石見坊が飛翔能力を有している事を鑑み、本部では捕獲と同時に銃器による駆除の両面を視野に入れていた。

―拾參―
 一時期停滞していた蔦の繁殖が再び始まる気配が見られ始めていた。区からは盛んに避難をするようにと言ってきたが、香澄と亜矢子親子はまだその判断をしかねている。家の隣は火除け地の性格を兼ねている公園の反対側の住宅には蔦の繁殖が見られていたが、公園を挟んだ彼女たちの家の周囲はそれが見られていなかったこともあったからだ。また、繁殖がここ二、三日停まっているという見解も、避難しなくてはいけないという切迫感を鈍くしていたのである。ただ、万が一、避難しなくてはならない場合に備え、準備はしていた。
 七月になって梅雨の終盤に入り始めたせいか、週末となったこの日の朝も、雨が強くめに降り続いていた。空の雲は厚く濃い灰色で、辺りは薄暗かった。高校へ通う際に公園の柵に蔦が絡まっているのを見て、家の母親に「今日でも避難した方が良いんじゃない」と声を掛けようかと思ったが、少し面倒くささも手伝い、そのまま高校に向かったのである。
 昼過ぎになっても薄暗さはそのままで、逆に暗さが増したのではと思われた。雨も激しくなってきている。そんな空模様を教室の窓から眺めながら、朝方、母親に言いかけて止めたことが心をざわつかせた。やはり一言声を掛けておくべきだったのかもしれないと彼女は思い続けていた。
 普段より長く感じられるながら、授業の終わった放課後は「避難しなくちゃならないかもしれないから」と奈緒美や周囲のクラスメートに告げ、香澄は急ぎ下校した。単語あいか相変わらず雨は激しく、校門を出たばかりなのにもう足元が濡れ始めていた。傘に当たる雨音を気にしながら、彼女は足を速めた。五分ほどで国道と都道の交差点まで来たが、家のあたりは何時にも増して警察車両とマスコミの人影が多く思える。交差点を渡ると、都道の街路樹の一つである紫陽花の青い花が、薄暗い周囲の風景から浮かび上がっているように見えた。
 紫陽花の咲く歩道には、雨具を身につけた警官達に加え、それと同じ数のマスコミが大きなカメラやマイクを抱えてうろうろしていて、関係者とみると一斉に話を聞こうとするため、それを避けながら家がある路地に向かって歩道を進む。家がある路地は「万里」という中華料理屋の角である。
 何人かのマスコミ関係らしき連中をやり過ごし、路地に入ろうとすると、中華料理屋の前に立っている黒っぽい雨合羽を着た中年の制服警官が香澄を止めた。路地の入口には朝はなかった黄色テープが張られている。
「だめだめ、もう、中には入れませんよ」
 警官はマスコミの動きに目をやりながら、近づいてきた香澄にそう言った。
「えっ、なんで」
「急に蔦の繁殖が速くなったんですよ。それで、今まで自主避難となっていた地域に避難指示が出たんです」
 警官の雨合羽に、雨による水滴が盛んに流れ落ちている。
 避難指示というのは強制力のある命令に近い。それが発令されたということである。
「――母も避難したんでしょうか」
「この奥に、君の家があるのかい」
 香澄は一つ頷くと、テープの張られた路地の入口から奥を覗き込んだ。路面は黒々と濡れ、人影はなく、まだ夕暮れには程遠いのに、手前の街灯に明かりが灯っている。その奥の街灯は、蔦に覆われてしまっており、灯っているのかどうか分からなかった。蔦に覆われた箇所が朝よりも増え、こちらの都道に迫ってきていて、よく見ると自分の家の壁にも蔦が這い始めていた。
「家が――」
 そう言い、非常線を潜ろうとして警官に再び止められた。
「たぶん、お母さんは避難所だよ。君達の指定避難所が何処だか知っている」
「――ええっと」
 そう言えば聞いたような気がするが覚えていない。近くの小学校だった気はするのだが。
「戸原町かい、住所は」
「はい」
 すると警官は雨合羽の下から手帳を取り出すと、雨に濡れるのも構わずページを繰り始めた。
「京用小学校の体育館だね、お母さんはそこに避難しているんじゃないかな」
 と彼は手帳に目を落としたまま言った。
「そうですか」
 香澄は、路地の外から見える自分の家を見つめながらそう答えた。
「場所は分かるかい」
「――ええ、小学生のころ通っていました」
「じゃあ、行った方がいい」
 中年の警官は用はもう済んだというように、手帳を雨合羽の下に仕舞いながら、目に滴り落ちてきた雨の滴を太い指で拭っている。
「ありがとうございます」
 香澄は礼を言うと、すぐさまスマホを取り出すと、母親と連絡に使っているコミュニケーションアプリを立ち上げた。「蔦が家にまで入ってきそうなので避難するかもしれない。あなたは直接避難所に行きなさい」、そう伝えてきている。その時刻は今から一時間ほど前のようだ。
 何かに追い立てられるように彼女は京用小学校へ足を向けた。避難所にも指定されている小学校は、都道を渡って十分もしない所にある。その歴史は古く、明治初期には創立されていたと言われ、校舎も体育館も、昭和後期に建て替えられたままで今日に至っている。そのため、学校全体が古びて灰色にくすんだ印象があった。特に避難所となっている体育館は夏暑く、冬は寒かった記憶しか香澄にはない。
 都道を渡り、自分達の住んでいる所と同じような住宅街に足を踏み入れると、あたりは急に静かになり、傘を叩く雨音と自分の足音だけが聞こえるようであった。自分の所と違い、こちらは蔦など生えてはいなく、ごく普通の風景であるのが、香澄には何故か不思議に感じた。道の先には買い物にでも向かうのであろう人影もあり、そこには日常の生活感が雨の中でも見ることができる。そういった違和感に加え、自分が高校に居る間に、避難が始まってしまったということが、衝撃でもあった。なんだか自分だけが取り残され、見捨てられたような気持になった。
 見慣れた小学校の校門を潜ると、校庭には警察、自衛隊、区役所がチャーターしたと思われるトラックが何台も駐車しており、その荷台の幌などに「災害支援」という文字が貼られていて、本当にこれから避難所生活が始まるのだと何となく思った。避難所に当てられている体育館は、校門と理科の授業で生徒たちが育てている野菜畑とビオトープを挟んだ所にある。相変わらず、古ぼけて煤けた雰囲気があった。六年間学んだ三階建ての校舎と体育館を繋ぐ渡り廊下に、避難住民を受け付ける受付があり、防災服を身につけた区の職員が二人座って、慌てたように現れた香澄を見つめている。
 屋根のある所で傘を閉じ、滴を払いながら受付に近づくと、受付の一人が「避難の方ですか」と聞いてきた。彼らの背後は体育館の入口には暗幕が張られているため、中は覗けなかったが、子供達の声が微かに漏れてきていた。声を掛けてきた職員は少し長めの髪をきちんと整えた、肩幅の広い職員で、黒縁の眼鏡を掛けている。もう一人は中肉中背の特徴のない顔立ちで、むっつりと書類に目を落としていた。
「こちらに母はきているでしょうか。名前は殿前亜矢子です」
「殿前さんですね。――待ってください。住所は戸原町かな」
 そう肩幅の広い職員が言うと、隣に座っているもう一人の職員が青いバインダーに綴じられた名簿リストのような物に目を通し始めた。
「二丁目です」
「――二丁目ね」
 すぐさま、名簿を見ていた職員が、彼女らの名前を見つけたらしく、無言でバインダーを肩幅の広い職員に指示す。
「――ええっと、世帯的には殿前亜矢子さんと香澄さんですよね。――まだ、こちらには来られてませんね」
「えっ」
「他の住人の方は、あらかた避難所に入られているようなんですがね。どこかお出かけしているんでしょうか」
「ここに行くって言ってたんですけど、――どうしよう」
 そう香澄が呟くと、今まで黙っていたもう一人の職員が、「待ってみたらどうです。そのうち、来られますよ」と言ってきた。
「――はい」
 と応えたものの、心配が香澄の心に膨れ上がってきていた。
(まだ家に居るのかもしれない、何してるのだろう、あたしを待っているのかもしれない)
 そう考え、携帯に掛けてみようとバッグからスマートフォンを引っ張り出すと、自宅の電話番号をタップし、雨音を気にしながら耳に当てた。そのため、中で待った方がいいよと言っている受付の職員の言葉を聞き洩らした。視線は校庭に向けられている。濃緑色に塗られた自衛隊トラックの後ろに停まっていた見覚えのあるグレーのセダンから、相原刑事が降りてくるの姿を見つけた。携帯からは呼出音が聞こえ続けていた。
 相原は急いで車を降りると、ビニール傘を差しながら車内にいる誰かに一言二言何かを伝え、さらに暗さを増してきた空を見上げながらこちらに走ってくる。いつもの様に紺色のパンツスーツであるが、足元は黒いパンプスではなく、真新しい白色のスニーカーを履いているようだ。そして、何時にも増して、小柄で丸くふくよかな相原の上半身が膨れて見えた。後で聞くと単語ぼうじん防刃チョッキを身に着けていたらしい。
「避難してきたの――」
 水の浮いた校庭を駆け抜けてきた相原は、開口一番そう言った。
「――母がまだ避難所に来ていないんです。家の近くにいた警察の人は、みんな避難したはずだって言っていたんですけど」
 香澄の口調が少し上ずっている。自宅の固定電話に駆けたため、呼出音はそのままFAXに切り替わったという音声に変わった。固定電話に母親が出ないことへの戸惑いと怯えが相原にも通じたようである。
「出ないの」
 と相原が言った。香澄は「アッ」と、もっぱらコミュニケーションアプリでやり取りして通話は滅多にしない母親の携帯番号をタップする。
 ――応答はなかった。
「――でません」
「本当に」
「まだ家にいるのかもしれません。――あたしを待って避難しようと思っていたって」
 香澄は先ほど見たアプリの画面を相原に見せた。相原は無言でその画面を見つめている。
「だったら、携帯に出る筈だわ」
 と指摘したが、香澄は相原の言葉を聞いていない。
「帰りを待っているんだわ、家に帰ってみます」
「ちょっと待ちなさい」
 相原の言葉を香澄は振り切るように、持っていた傘をその場に残し雨の中に飛び出していった。相原は相原で、香澄に他の事を伝えようとしていたらしい。
 不安が渦巻いていた。同時にもっとも考えたくない結末が、香澄の脳裏に浮かんでは消え、恐怖した。
「ばか、何で避難していないのよ」
 あっという間に雨は香澄をずぶ濡れにしていた。髪を濡らす雨は、額から目へと流れ落ちてくる。その滴を拭いながら、何度もそう言い続けた。 
 今来た道を駆け戻り、都道に立つ信号機が見えるようになった頃、追いついた相原の手が香澄の肩にかかり、強く引き留めた。
「待ちなさいっていったでしょ。――ねえ」
 追いついたのはよいものの、相原は息を切らしており、それ以上の言葉が出ないようである。
「あれも、この近くに来ているのよ」
 やっとのことで相原は荒い息でそう続けた。香澄は相原の言う「あれ」が石見坊のことであるのがすぐに分かった。
「――どこに」
 香澄が空を見上げた。黒い雲が広がる以外、鳥も飛んでいないようだった。
「報告があったの、例のあれがこちらに向かって来ていると。――たぶん、あなたの所に来ようとしているんだわ。今、ヘリも追跡に加わったわ」
 空を見上げると、雨が容赦なく香澄の顔を叩いてきた。遠くでヘリの爆音が聞こえていた。
(――お願い、おかあさんを)
 と、香澄はこの空のどこかを飛翔しているであろう石見坊に、そう祈った。そして、再び家に向かって走り始めた。
「待ちなさいって。――危険なのよ」
 そう相原が叫んだ。石見坊に限って危険なことは一つもない、それよりも母の亜矢子が心配でならなかった。

―拾肆―
 先ほどまでは、壁の一部に這っていただけの蔦が、今は香澄達の家を覆い尽くし始めていた。
 SNSなどで「異界の街」と呼ばれていたが、蔦に征服されたような住宅街を改めて見ると、そう呼んでしまいたくなるのが分かる。「ナツツタ」は観賞用植物としても人気があるらしいが、ここに繁殖している蔦は、住宅地の形あるものすべてに濃緑色の葉と吸盤のある蔓で絡みつくことで、独特のオブジェに住宅地の姿を変えてしまっていた。それにこの薄暗さと雨である、辺りは非現実的な世界が広がっていた。
「さっきまでは、もう少しましだったのに――」
 香澄はずぶ濡れになりながら、自分の家を見上げ、立ち尽くした。
 すでに彼女たちのいる道沿いの電柱も街灯にも蔦が巻き付き、そのいくつかは蔦の重みで切れ、道に垂れ下っていた。ほんの数十分程で急速な繁殖を開始したとしか思えない。その様子を見て、玄関に飛び込んで行きそうになっている香澄を相原がまた止めた。
「今、応援を呼んでいるから」
 一緒に路地を走り込んでくれた彼女は携帯で声高に誰かに指示を与えている。
 家の中にはまだ母親がいる。蔦の繁殖で出られなくなっているのだ、香澄はそう思っていた。玄関のドアに、まだ蔦は伸びていない。。
「何人かこちらに呼んできて」
 と相原は非常線の張られた路地に飛び込んで行った二人に驚いて追ってきた警官に告げた。警官はさきほど避難所を教えてくれた彼であった。彼は、相原の襟に附いている赤いバッチに目をやると、「分かりました」と戻っていった。
 再び相原の携帯が鳴った。携帯を耳に当てると、ぎょっと空に目を向け「ここに来るって、確かなの――」と叫ぶように言った。
 相原がそういった遣り取りをしている隙に、香澄はドアのノブを引いた。嫌な予感がし続けている。
 玄関のドアは施錠されていた。中にはいないのだろうか、そうであってほしいと彼女は覚束ない手つきで自分のキーホルダーから家の鍵を選び出すと鍵穴に差しこんだ。いつものように、あっさりと鍵が回り開錠された。
 ドアを引き開け、玄関に足を踏み入れる。すでに電気は止められているのか、灯りは点いておらず暗かった。その家の中の壁に蔦が這い始めている。玄関から廊下に上がると、廊下の左の部屋が居間と台所で、右側は二階へ上がる階段が作られている。廊下の突き当りが洗面所と風呂場になるのだが、廊下を這う蔦は二階から侵入してきたものと、風呂場から侵入してきたものの二系統あるようだった。蔦の葉などから発せられるであろう匂いは、意識していなかったせいか一切感じられなかった。
 多少単語しゅんじゅん逡巡したが、香澄は土足で廊下に上がり母を呼んだ。応答はない。連絡を受けていた相原は、家に入っていく香澄から少し遅れて後を追ってきた。
「あれが来るから、一旦ここから離れなさい」
 そう叫びながら廊下に飛び上がる。ちょうど、香澄が居間に入る所であった。
 居間と台所への入口は、階段の対面にあるガラス戸で切られている。再び母を呼びながらガラス戸を引き開けた。居間は八畳ほどの広さがあり、路地に面した大き目の窓の前に、四年ほど前に気合を入れて購入した五十インチ液晶テレビがあり、それを見るための三人掛けソファーが台所の境目に備え付けられてある。台所を含めると十六畳ほどの広さとなるため、居間と台所を仕切っていた戸を取り去ったで、今風に言うと家の一階は「リビングダイニング」がほとんどを占めているのである。
 居間の部分には蔦が伸びてはいなかったが、台所部分は違った。L字型のキッチンの壁も、冷蔵庫や食器棚、オープンレンジ、キッチンテーブルなども蔦に覆われ始めていた。それも、風は通っていないはずであるのに、這い伸びている蔦の葉がさわさわと震えている。
 蔦に覆われた母親の亜矢子が、映し出していないテレビを見ているかのようにダイニングテーブルの椅子に座っていた。香澄は悲鳴を上げるように母を呼んだ。
 香澄の母親に呼びかける甲高い声を聞いた相原は居間に入ろうとしたが単語はば阻まれた。いつの間にか彼女の右手首を蔦の蔓が巻き付いてきたのである。その蔓は風呂場から入り込んできたもののようで、二階からの蔦の蔓は、相原の他の部位を狙っているのか鎌首をもたげたような姿勢になっているのに彼女は気づいた。あまりのことで驚愕した相原は、蔦に捉えられた右手を見つめるだけであった。蔓はまるで土の上を這う軟体動物のように身体を左右にくねらせ、相原の右手のさらに上を狙っているようだった。蔓は少し進んでは吸盤のような物を手首の皮膚に固着させてくる。
 本気の悲鳴を相原が上げた。その声を聞いて、家の前に集まってきた警官二人がひしめくように家に飛び込んできた。警官達は相原が蔦に絡めとられようとしているのを見、飛びつくように彼女を抱きかかえると、二人掛かりで外に連れ出そうと試みた。相原の手首に巻き付いた蔓が、警官が強引に引くことで、彼女から剥がれ始めたのだが、その力で張り付いた吸盤の部分の皮膚が破れ、相原はその激痛にうめき声を上げた。それでも構わず、警官達は引きずる様に彼女を抱えながら玄関の外へ退避したのである。

―拾伍―
 母親は蔦に包まれた人形か何かに見える。ただ、まだ顔の部分の左半面は母親の顔が判別できた。母親は蔦に襲われるまで、ここに座って香澄の帰りを待っていたのかもしれない。
「お母さんっ」
 母親に呼びかけ、床を這う蔦を踏みつけて台所へ香澄が入った。同時に、廊下の方から相原の悲鳴と、誰かが家にどやどやと入ってくる音を聞いた。
 母親に飛びつくように香澄は、身体を覆っている蔦から母親を引き剥がそうと蔦の蔓を掴んだ。母親は蔦に襲われた時、香澄に連絡を取ろうとしていたらしく、右手にスマホを握りしめているが、それももう蔦に覆い隠されており、左手は立ち上がろうとしたのか、テーブルに腕を突っ張った形のまま蔦に覆われている。唯一、蔦に覆われていない顔の左半面の瞳は閉じられ、血の気のない頬には蔦の吸盤が無残に張り付いていた。そして、何よりおぞましいのは、母親の口の中に蔓の束が入り込んでいることである。
 それを見て、驚愕から激怒に変わった。蔦を母親から剥がそうと、葉をちぎり、彼女に絡まる蔓に手を伸ばすと、蔓の先端が香澄の手に伸びてきた。蔦に似せたうねうねした虫みたいだと思った。だが、香澄に巻き付こうとすると単語とたん途端、いきなり何かに阻まれるよう動きを止めた。
(何かが邪魔をしている)
 そう思った時、「結界を張った」という石見坊の言葉を思い出した。
(こいつらは、あたしを捕らえられないんだ)
 香澄は母に呼びかけながら、彼女の全身を覆い尽くそうとしている蔦の葉や、蔓を再び夢中に引きちぎり始めた。
蔦に覆われた母親の左手が、香澄の腕をいきなり掴んできた。驚いて香澄は半分ほど見えている母親の顔に視線を移した。母親の手は、香澄の手首を掴んだ瞬間、何か熱い物を触ったかのように、少し手を引いたものの、再度掴みかかってきた。蔦だけなら大丈夫だったようだが、母親の肉体がそれに加わることで、結界の威力が鈍くなったのかもしない。
 何も見ていないような、淀んだ色を湛えている母親の左目が細かく蠢動しながら、こちらを見つめていた。蔦の蔓に入り込まれた口も痙攣したように震えている。
(生きている、助けられる)
 香澄は母親に声を掛けようとした。
「――単語みこ巫女の単語くちき口利きなさらんか」
 口の中に蔦が入り込んでいるため、母親の声はくぐもり、舌足らずであったが、そう聞こえた。香澄の名を呼ぶのではなく、意味の分からぬ言葉を発しているだけであった。
「どうしたの、――しっかりしてよ」
 腕を掴まれたまま、香澄は母親に呼びかけた。しかし、母親の瞳は自分に向けられているにも関わらず何も見ていないのを感じた。心のどこかで「これは母親ではない」という警告が発せられている。掴んできた母親の手の力はすさまじく、耐え難い程の傷みを伴い始めた。
 目の前にいるのは母親であるが母親ではない。香澄は自分が罠にはまったことを知った。母の手を外そうともがいたが、手は万力の様に締め付けてくる。そして蔦と一体化し、スマホを掴んでいたように見えた母のもう一方の手が素早く香澄の首元に伸びてきた。蔦に絡まれた母親の指が彼女の喉に掛かった。
 母親の姿をした何かに殺される、自分の力では振り切る事ができないと悟った香澄は、信じられないような想いで、首を絞めようとする母親である何かを見つめるしかなかった。
「巫女のくちききなさらんか――」
 自分の娘を絞め殺そうとしつつも、亜矢子はなおも意味の分からぬ言葉をささやいている。さらに力が加われば自分の首は握り潰されてしまうだろう、香澄は絶望に取り込まれながら、声にならぬ声で石見坊を呼んでいた。息がしづらい。
 家を揺るがすような振動と轟音が響きわたった。
 居間の窓ガラスと窓枠、家の壁の一部、窓の前に置かれていた液晶テレビが爆風に晒されたように家の奥へと吹き飛ばされ、部屋の中に埃が舞う。その中に、頬当てを外した姿で立ち上がる石見坊の姿があった。羽は半分閉じられたまま背中から見えており、石見坊は空中から香澄のいる家にそのまま飛び込んできたようであった。
 石見坊の瞳が黒一色になっている。あの三人を殺した時と同じ瞳である。その瞳が香澄と彼女を絞め殺そうとしている蔦に覆われた人形のような亜矢子を見据えていた。
 すさまじい怒号のような叫び声を石見坊は挙げると、驚くほど素早く台所に移動した。そして、香澄と彼を隔てた形となっているダイニングテーブルを叩き割り、それを踏み潰して二人に近づくと、香澄の首に伸びている亜矢子の両腕を掴んだ。亜矢子の両腕の骨が砕かれたような厭な音を立てた。香澄の首に掛かった指の力が失せ離れた。
 自由となった香澄は蔦の這った床に崩れ落ち、首に手をやりながら、母親の姿をした何かを石見坊が揉み合っているのを見つめていた。香澄の首を絞めるため伸ばされた両腕は、石見坊に掴まれた箇所からぶらりと垂れ下がり、完全に骨が分断され肉と骨とで繋がっているようである。それでも石見坊を掴もうとしているのか、紐が外れかけた操り人形のように、めったやたらに腕を振り回しているが、石見坊は母親らしき者を流しの上に押し付けていく。石見坊はそうしておいて、いとも簡単に左手で彼女の首をひねった。首は百八十度近く捻じられ、母親の身体は一度大きく単語けいれん痙攣すると動かなくなった。
 香澄は母を悲痛な声で呼んだ。蔦の蔓が口に入り込んだままの母親の身体はぐったりと石見坊の手にぶら下がっている。捻じられた彼女の首は、後ろを向いたままであった。香澄は狂わんばかりに母親を呼び続けていた。
 その声に気付いたのか、母親の骸を憎々し気に睨み付けていた石見坊が、ゆっくりと香澄に視線を移した。最初、叫び続けている香澄が理解できないような表情を浮かべていた石見坊だが、もう一度、ぐったりとしている母親に目を戻し、何かを理解したようだった。瞳がいつもの石見坊に変わっていく。できるだけ静かに、手にぶら下げた母親を床に下ろし、自分の身体でその単語いがい遺骸を隠す様にしながらしゃがむと、身体の向きを変え、叫び続ける香澄を覗き込んだ。
 叫ぶのを止めた香澄が石見坊を睨み上げる。
「人殺し――」
 そう彼女は言った。絞り出すような声だった。石見坊は香澄を見つめ続けている。
「――人殺し」
 もう一度そう言い、そして続けた。
「殺してやる――」
 本気でそう思っていた。
 それに石見坊は頷いたように見えた。石見坊の頷きは「そうしろ、それで気が済むのなら」と言っているように思えた。石見坊が取った行動は自分を助けるためであると分かっていた。母親の指で首を絞められた時、「死ぬ」と思ったのである。母親は自分を殺そうとしてきた、それは認めたくない事実でもあった。
 心の中でもう一度「殺してやる」と叫んだものの、今度はその言葉が石見坊へ向けられたものなのか、母を助けられなかった自分へ向けられたものなのか分からなくなっていた。石見坊の瞳が寂しそうに自分を見つめていた。
「――おかあさん」
 石見坊の大きな身体の背後で捻じれた両足しか見えない母親に、香澄は震える声で呼びかけた。
 片膝立ちで香澄を無言で見やっていた石見坊が、ぐっと頭を上げ、家に侵入している蔦を見回した。蔦の葉は大きく揺れ、蔓が盛んに侵食地を探そうとくねり始めていた。
単語退くぞ」
 そう石見坊は云うなり、香澄の身体を抱きかかえた。彼女が抵抗する間もなく、石見坊は素早く室内を移動し、飛び込んできた居間の窓に向かって跳躍した。二人の身体は、再び家の壁の一部を壊しながら、雨の降り続く表へと着地した。

―拾陸―
 制服警官二人に助けられ、香澄の家から脱出できた相原は、蔦の蔓に受けた傷をハンカチで縛った手で応援を求めていた。雨足は相変わらず強いままであった。
 突然目の前を、鳥のような羽を持つ黒い大きな石見坊の身体が、香澄の家の窓を破って突入していくのを彼女は信じられないような思いで見た。続いて家の中から響き渡った咆哮とも怒号とも言えるおめき声は、あたりを凍り付かせるような力を持っていた。
 すくみ上るような恐怖を覚える声から立ち直ると、相原は腰のホルスターから拳銃を抜いた。大森ふ頭事件の捜査本部は、被疑者が人ではなく、それに類じた何者かであることが判明した時点で、専従捜査員に対して拳銃携帯命令を発令している。もし、手に余るようなら射殺しても構わないともされていた。応援で集まってきた四人ほどの制服警官達もホルスターに手を掛けながら、事態を見守っていた。
 石見坊が、香澄の家に突入してからものの五分もしない内に、再び彼は外に飛び出してきた。その腕には相原たちが救い出すことを中断した香澄の姿がある。
 彼女は香澄が危ないと思った。冷静に判断すれば石見坊が家に飛び込み、香澄を抱いて飛び出してきたということは、彼が香澄を救い出しに向かい、それを成したということなのだが、相原にはそれが理解し難かったのである。そして、目の前に立っているのは、人と同じく手足があるものの、人を畏怖させるような羽のある化け物である。人に対して友好であるとはどうしても思えなかった。
 雨の中、降り立った石見坊は、胸に香澄を抱いたまま、彼に向けられた銃口を睨んだ。瞳が再び黒一色に戻る。蔦の生い茂る異世界のような住宅地の景色を背景に、香澄を抱き両足を踏みしめて立つ石見坊の姿は、相原達に恐怖とパニックを起こさせるには充分であった。
「彼女を――、彼女を放しなさい」
 相原は銃を構え、引きつったような声で警告を発した。単語いかく威嚇射撃をする気持ちの余裕もなかった。銃口を石見坊から外せば、自分の命がないとさえ感じていた。
 香澄を抱きかかえていた石見坊は、大事な物を降ろすように静かな動作で彼女を、雨に濡れた路面に立たせた。
「殿前さん、早く、こっちへ」
 相原が叫んだ。同時に制服警官達も拳銃を抜いた。その動きに反応したのが香澄だった。
「撃っちゃ駄目」
 そう言い、石見坊は自分の前に立ち、自分を庇うような行動を取った香澄の肩を掴み、そのまま自分の背後へ相原達から隠すように移動させた。彼としては緩やかにやったつもりだったようだが、香澄は勢い余って雨に濡れる路面の端にまで転がっていく。それが、相原の目には攻撃的に見えたのだ。彼らの目の前には石見坊一人が立っていた。
「撃て」
 まず、彼女の回転拳銃が、乾いた音を立てて火を噴いた。至近距離である、外しようはない。続けざま相原は、もう二発発射する。そして、制服警官も一発ずつ各自で発射した。「だめ」と、倒れ込んだまま叫んだ香澄の声は銃声に消えてしまった。
 計七発の銃弾が石見坊の身体に撃ち込まれたが、彼は二歩、三歩後ずさりしたものの立っていた。身体には七個の弾痕が見えたが、血が流れ出たようには思えなかった。それよりも銃撃されたことで激怒した石見坊は、一気に相原たちとの距離を詰めると、相原の首を掴み、軽々と片手で持ち上げたのである。
 相原は自分の首が絞められ、窒息しそうになっているのを、半ば諦めにも似た気持ちで感じ取っていた。あれだけの銃弾を受けても死なないのである、自分達が敵う筈がないのだ。「ああ、死ぬ」と彼女はぼんやりと思った。
「だめ――、いわみ――、殺すのは無し」
 眩み始めた意識の中、そう叫ぶ香澄の声を聞いた。こいつはみという名なのか、そう眩み始めた意識の中で思っていると、自分の身体が少し持ち上がるのを感じた。同時に首の圧迫感が少し和らいだ。目だけを下に向けてみると、首に閉まる力を弱めようと、石見坊に掴み上げられ宙に浮いた自分の足に香澄が両腕で抱き付き、首への圧迫を少しでも和らげようと持ち上げていた。
「いわみ、お願い」
 香澄が必死な声で叫んでいる。驚いた事に、自分の首を掴む石見坊の手と指の力がゆるんだ。相原の眩んでいた意識が戻り始めた。
「おんな――」
 恐ろしい声だった。未だかつて、こんな恐ろしい声を相原は聞いたことがなかった。
「おのれの命を取るは見逃す。その代わり、香澄の面倒を見よ、大人になるまでじゃ――」
 恐ろしい声はそのままだが、その内容はあまりにも声とかけ離れていた。石見坊が香澄をどう思っているのか、良く分かるような内容であった。
「いわみ、この人を降ろして」
 なおも香澄は相原の腿辺りを両手で抱え、彼女を窒息から救おうと支え続けている。相原を掴み上げていた石見坊の腕が下り始め、彼女の足が地面に着くと首から手を放した。激しく路面を叩く雨の中に倒れ込み、相原は単語のど喉を抑えながら激しく咳込んでいた。その顔を確認するや香澄は身を翻し、石見坊を警官達の拳銃から護る様に抱き付いた。石見坊と自分が密着していれば、警官は引き金を引けないだろうと、そう本能的な行動に出たのである。
「撃たないで」
 石見坊の身体に両手を回し抱き付いたまま、顔だけを警官達に向け、そう叫んだ。むろん、警官達は拳銃を構えたままであるが、七発も体に受けながらも動き続ける石見坊に対して、半ば戦意を喪失していた。
 都道側からマシンガンを携える銃器対策部隊の隊員を引き連れた堀本も到着し、後続も集まりつつあるようだった。警官の一人が、道の上で喘いでいる相原を助け起こし、香澄に抱き付かれている石見坊から安全な距離と思われる位置まで引きずる様に下がっていく。
 香澄と石見坊は、警官が遠巻きにする路地に抱き合うよう二人で立っていた。石見坊の身体からは硝煙の匂いがした。
 西の空が僅かに明るくなりつつあるようだが、雨足は相変わらず強い。
「さてと、けりをつけて単語まい参らぬとな」
 二人で居る時の、いつもの静かな石見坊の声だった。香澄が見上げると、彼は警官達を睨み付けたままであったが、彼女の見上げてくる視線を感じたのか見つめ返してきた。香澄は何かを思い出したように、あわてて石見坊の胸板に手を這わした。いわみは撃たれているのだ、それも結構な数をと思ったが、掌からの感触は着物にできた七つの穴の下の皮膚は、僅かに窪みができているのが分かっただけである。銃弾は貫通しなかっただろうかと不思議に思った。
「お主は気にせんで良い」
 大きな彼の手が濡れそぼった香澄の髪を触り、続いて少し強めに彼女の両肩に手を置いてきた。
「――早く逃げて」
「まだ、二つほどけりが着いておらぬ」
「だめよ、逃げなくちゃ――」
「大事ない。それより、――母御の事は申し訳なかった」
「――」
「行って参る」
 肩に置かれていた石見坊の手が、香澄の身体を彼の身体から離すよう動いた。
「何処へ」
「この騒動の単語おおもと大本よ、なに、単語ささい些細なことじゃ」
 ひらりと石見坊の身体が宙に浮くと、三枝芳江の家方向に飛び去った。

―拾漆―
 些細なことと石見坊は言ったが、本当にそうであったようで、石見坊が騒動の発端となった三枝芳江の庭先の方向へ消えてから十五分もしない内に、生い茂っていた蔦が秋でもないのに枯れ始めた。
 西の空は明るくなりつつあるものの、依然として雨は降り続いている。その雨に打たれるに任せたまま、香澄は面白いように普段の景色を取り戻していく街を見つめていた。蔦に覆われ始めていた自分の家も、窓が大きく破壊されたままではるが、早い段階で元の姿を取り戻していた。
 たぶん家の中には、母親の遺体が残されているだろう。そのことに対して脳が考えるのを拒否しているようで、香澄はそれほど深刻に感じられなかった。母親の死に対し、明確な認識もなく、ただただ、事態の急変に対処できず、呆然としているというのが本当の所である。いずれ彼女に抱えきれないほどの現実を直面せずにはいられなくなるはずだ。
 今の香澄は石見坊のことが気になっていた。相原たちから、雨を避ける為に警察車両に乗るよう言われたが、彼女はその場から動かなかっため、相原も香澄の隣に立つ羽目となっている。さすがに傘は差していたが、香澄も相原も全身濡れそぼっていた。香澄の家の中に入り、現状を確認していた刑事の一人が相原に何事か単語ささや囁き、彼女はちらりと三枝芳江の家を見つめたままの香澄に目をやった。
 警官達は現状復帰した家々の訪ねて回っており、もう間もなく三枝芳江の家にむかった者から報告が届くはずである。その家だけは、石見坊がいるやもしれず、軽装の警官を単語遣ることはできず、重武装の銃器対策部隊が担当したが、発砲は自衛意外許可されてはいない。ただ、駆除対象ではないが捕獲対象としては残っており、そのための装備も彼らは携えていた。そう変更されたのは駆けつけてきた捜査本部の管理官に、捕獲の際は、必ず香澄を立ち合わせること、彼女に危害が及ばない限り石見坊が凶暴性を発揮することはないし、石見坊は素直に香澄に従うと相原が進言したからである。
 石見坊の発見の一報はすぐに届いた。三枝芳江の庭にいるとのことで、相原は合流した堀本と香澄の三人は三枝芳江宅の庭に向かった。地主だったという三枝芳江の家は意外に広い。時代に押されて多くの地所を切り売りしたため、屋敷も蔵も残ってはいないが、庭には小さいながら築山や池が造られ、単語とうろう灯籠や庭石が置かれた庭だけはまだ残っている。しかし、その庭も一人暮らしとなった芳江の手には余ったようで荒れに荒れ、自然の成り行きに任せた形となっていた。
 門を潜り、玄関の脇を通り家屋の廻りを巡って庭に出ると、そこかしこに重装備の警官達が控えていた。庭の中ほどに蔦を這わした桜の古木があるのだが、その木の周りだけ地面が焼け焦げている。その焼け焦げた場所に円形の穴が開いていた。穴の横には石見坊が単語ぬのぶくろ布袋に包まれた箱のような物を持って立っていた。
 香澄は相原が止めるのも無視し、石見坊に向かって歩き始めた。彼に近づくに連れて、かすかに硫黄のような匂い僅かにし始めている。
「――それは、なに」
 二、三メートル程の所まで進み、香澄はそう訊ねた。
「これが、騒動の大本じゃ。単語げこふばこ外法箱よ」
 そう言い、石見坊は色あせてしまっているが、依然は紺色だったのではないかと思わせる風呂敷に包まれた物を前に掲げた。
「げこふばこ。何かが入った箱なの」
「ふむ、まあ、色々な。くくのち、きぼこと呼ぶ像、骨や藁人形などのどれかが入っておるのであろう。これはな、歩き巫女の持ち物じゃ。大方、その巫女は、若い身空のまま、ここで息を引き取ったのであろうよ。その単語むろ室に単語ほうむ葬られておるわ」
 そう言い、ちらりと庭に空いた長方形の穴をちらりと目をやりながら、石見坊は外法箱を無造作に足元に落とした。
「――歩き巫女の霊がこういった事を起こしたの」
 背後に控えている警官達が少しずつ捕獲に向けて動き出しているのを感じながら、香澄はそう訊ねた。捕獲なんて絶対に無理、と彼女は思っている。
「そうとも言えぬ。歩き巫女はな、死者の魂をこの箱に呼び、その魂の言葉を聞きたいという者に自らの口を使って聞かせるのを単語なりわい生業にしておる。――持ち主の巫女が死んでしまった外法箱にはな、死者達が残していった念と歩き巫女の念が残ったままだったのよ。その念が蔦の種に移った。その蔦がほれ、それじゃ。念の想いを受けて、あのような騒動を起こした。それにどのような目途があったわけではない、単にそうなっただけなのだ。これがこの騒動じゃ」
 そう言って石見坊は自分の背後に立つ、蔦に覆われた桜の木を指示した。桜の木を這う蔦は、雨に打たれ、頼りなさげに葉を揺らしていた。
「蔦をこのままにしておいても、大丈夫なの」
「大事ない。外法箱を離してしまったからの。元来は、この家の者が墓穴の封印を破らなければ、何事も起きずに済んだのだ――、お主の母御も、ああは成らなかった」
 石見坊の言葉を聞いた香澄は、母親のような姿をした何かが「巫女のくちききなさらんか」と口ずさんでいたのを何故か思い出していた。巫女の念が、母親に乗り移っていたのかもしれない。
単語たいがい大概の歩き巫女はまやかしじゃが――。この箱の持ち主の巫女は本物だったようだの」
 石見坊はそう呟くと、香澄が贈った足袋と草鞋を履いた足で、外法箱を踏みつけた。白い炎と硫黄の匂いが外法箱から立ち昇り、やがて包んでいた風呂敷も箱も灰に変わっていく。石見坊は、灰になったのを見届けると、何もない単語ちゅうくう中空をじっと見つめた。
「さて、次は儂の始末じゃ。儂がせいで、お主を母無しにしてしもうたからの」
 何かを見送るように中空を見上げていた石見坊は、香澄の後ろに控えている警官達を見据えて言った。
「――」
 何を言い出すのかと石見坊を見上げた香澄に、彼はいつも腰に差している脇差を鞘ごと抜くと彼女に差し出した。
「これで、儂を刺せ。さすれば、儂は消え去る。これはそのための刀じゃ」
 香澄は単語くろうるし黒漆が塗られ鈍く光る脇差を見つめ、そして石見坊の顔を見た。彼の瞳は静かな笑みを湛えていた。
「母御の単語かたき敵である儂を討つ理由がお主にはある。儂は討たれるつもりだ」
 脇差は目の前にあった。それを手にし石見坊を切れば、仇を討つということになのだろうが、最初から香澄にはその気がなかった。確かに怒りや恨み、悲しみの気持ちはある。しかし、石見坊が倒したものが自分の母親であるはずがない。あれは、母親の形をした別の何かだったのだ。
「あれはあたしを殺そうとしてたのよ。お母さんがあたしを殺そうとする訳ないじゃない。お母さんが死んだのは、蔦のせいよ。いわみのせいじゃない」
「じゃがの、けりは必要じゃ。これからお主が一人で歩くためにもな」
「なら――、なら、いわみがずっと単語そば傍にいてよ。あたしの思う『けり』というのは、それよ」
 何言ってんだろう、まるで、告白じゃないのと香澄は思った。
「それはできぬ」
 と石見坊は言い、そして単語さと諭すよう言葉を続けた。
「よいか、香澄。儂は人外の者じゃ。お主と儂は、この世では単語あい相まみえるはずのない者同士なのだ。それがなんの拍子かまみえてしまった。お主も儂も、互いを好ましく想ってはならぬ単語あいだがら間柄なのじゃ」
「――あたし、一人ぼっちになるのよ」
 石見坊は香澄の言葉に返す文言が見つからないようであった。彼にとっても香澄のこれからが最も気にかかる事に違いなかった。それを誤魔化すように、香澄の前に差し出していた刀を治め、彼が何時も背中に背負っているすす竹で編んだ縦二十センチ、横十五センチあまりの単語やなぎごおり柳行李を結わえている単語ひも紐を引きちぎった。
「――よいか、母御が居ても居なくても、いずれは一人で生きていかねばならぬのだぞ。どんなに周りに人が居ようと、本筋は一人よ。――強くならねばならぬ」
「――あたしは強くなれない、誰かに頼りたい、一緒にいたいの」
「それは、お主が自ら探せ。頼れて共に居てくれる者をの。それがためにも大人になれ」
 そう言いながら石見坊は、食い入るように見つめてくる香澄の視線を迎えながら、自分の柳行李を差し出してきた。
「これをお主に預ける。一人で生きられるようになるまでの単語つい費えにせい」
 そして、それをぐいっと胸に押し付けた。慌てて柳行李を受け取るとそれはひどく重たかった。
「それにある単語こがね黄金は自由に使って良い」
 そう言うと、石見坊は香澄の肩に軽く手を置いた。
「母御のことは、ゆるせよ。――まことに済まなんだ」
「――いくの」
「お主がくれた草鞋と足袋は、大事に使うでの」
 それが石見坊の別れの言葉であることを香澄は理解した。
「――達者でな」
 そう言うや、引き留めるための言葉を発する間を与えず、驚くほどの速さで石見坊は空の者となっていった。
 あれほど雨を降らし続けていた梅雨空に切れ目ができ、そこから傾き始めた西日の帯が幾本も降りてきている。香澄は、石見坊が見えなくなっても、雨が目に入るのも構わず彼の飛び去って行った空を見上げ続けていた。母親の亜矢子に、石見坊や埠頭のことを話せずじまいだったと香澄は、そんなことを思っていた。

―拾玖―
 ジーンズにTシャツ姿と言う軽装で、梅雨明け後の強烈な夏の日差しに焼かれながら、香澄は山道を登っていた。ここは、関東北部の地方都市に隣接する山間の峠道である。息を切らしながら登る足下には小川が流れているらしく、涼やかな水音が聞こえてきた。市内には奈良時代からあったとされる国学の学校があり、今では国の史跡となっている。香澄はこの近くに石見坊が居ると睨んでいる。ここが石見坊の言った「がくしょうのあまた集う所」に合致すると思ったからだ。
 市の北は日光連山が連なり、連山本体に至るまでも峻険な山が続いている。周辺の地図を詳しく調べていくと、市の中心からそれほど遠くない山中に、川を堰き止めたダム湖があり、その近くに赤雪山という標高六百メートルほどの山がある。この赤雪山が別に石見岳と呼ばれている事を知った。彼女は石見岳と石見坊を結び付けた。勘として、彼がこの山の近辺に居ることは、ほぼ間違いないと思っているが、彼に会えるかどうかは別問題である。それでも、知ったからにはどうしても行ってみたかったのだ。
 赤雪山の麓へ行くには、バスで山を分け入り、その終点からさらに山道を数キロ進んだダム湖から、さらに峠道を歩まねばならない。香澄が最寄りの駅に降り立ったのが昼過ぎだったので、まだ目的地に着かぬのに時刻は三時を回ってしまっていた。少し日が傾き始めて、山影が少し長くはなったものの、木陰が切れると相変わらず日差しは強かった。蝉の声がうるさい程である。
 昇りが少し緩やかになった。峠に近づいたのかもしれない。香澄は巨大な石の陰に足を止め、ナップサックに挟んである中身の少なくなったペットボトルを手にした。木漏れ日が斜めに降りている。立ち止まると汗が止めどもなく流れ、暑さに当てられ体中が熱を持っていた。馴れない山道で疲労もひどい。足を止めるのではなかったと思った。
石見坊はこんな山の中で何をして暮らしているのだろう、そう思いながら辺りを見回した。峠に近くなったようだが、眺望が開けるといった訳でもなく、景色は香澄が峠道を登り始めた頃とそう変わらない。
(本当にこんな山の中にいるのかしら)
 道の険しさと疲労で、香澄の心は弱気になっていた。
 あれから二年が過ぎていた。
 この春、香澄は大学に入学した。実家を引き払い、目黒の碑文谷にマンションを借りて、そこから高校に通い、大学の試験も合格したのである。そのための煩雑な手続きなどは、相原刑事達の尽力が大きかった。相原はマスコミ対策やこれからの身の振り方、転居などに手を焼いてくれたし、あの一件から親しくなった奈緒美の父親が弁護士であったため、行政的な手続きは奈緒美の父親に助けてもらった。何かそうなる理由があったのだろうが、母親の亜矢子が生きている間、音信不通であった母方、父方の親戚も何かと手を貸してくれ続けている。
 高校、大学入学などに係る費用は、母親の死亡保険金に加え、石見坊が香澄に預けた柳行李が物を言った。行李の中には十年は遊んで暮らせるほどの黄金が入っていたからだ。だが、香澄が黄金に手を付けたのは、止むに止まれず利用させてもらった極一部のみで、そのほとんどは使わなかった。預けてくれた柳行李は、石見坊に会ったら返そうと背中のナップサックに入っている。それがとても重い。
 ぼんやりとこれまでのことを巨石の影で、思い返しながら身体を休めていると、しだいに汗が引き始めた。改めて周りを見回す。先ほどまでの暑さに当てられ朦朧とした頭では気付かなかったのだが、香澄が身を寄せている巨石以外にも、山の斜面にそって、この石以上の大きさの巨石が多く見受けられる。まるで、何かの目的があるように巨石は山肌に顔を出していた。これら巨石の一つ一つが意思を持っているのではないかと、ふと香澄は思ってしまった。斜めに差し込む黄色味を帯びた木漏れ日が、所々その巨石をスポットライトを当てたように照らされ、つるりとした表面の巨石や苔むした巨石が押し黙ったまま並んでいる。それほど、その景色は幽玄で、それでいて巨石各々が力を秘めたまま香澄をじっと見つめている、そう思えた。
 その風景を見つめていると、自分が無駄なことをしているではないかと思いが強くなる。こんな山奥に来てしまった。そして再び険しい山道を引き返さなければならないことに思い至り、気分が萎えてた。
「もう――」
 と呻くように溜息を吐いた。ひどい厭世観に襲われ、巨石に背をもたれさせ目を閉じた。
(どうして会えると思ったのだろう、バカみたいだ)
 会えないに違いない、これほど会いたいと思っても会うことはできないのだ、そう思うと香澄は恨み言の一つでも言いたくなる。そして、誰も居ないのを幸いに、小声で言い放った。
「――いわみ、あんたにとってはちょっとの間かもしれないけれど、あたしら人間はあっと云う間に死んじゃうんだからね。――あたしに会いたくなっても、もうこの世に居なくなってるんだから――」
 蝉の音がしなくなっていた。信じられないような静寂が辺りを包み込んでいるのに気づいた。
「なにを単語よまいごと世迷言をいっておる――」
 頭の上からだった。顔だけを空に向けると、彼女がもたれている巨石の上に石見坊が腰かけていた。彼は目を周囲の景色に気を配りつつ、親し気な笑みを湛えながら香澄を見下ろしてくる。
「――」
 香澄は黙って彼を見上げ続けた。初めて会った時と同じ姿だが、足に履いた紺色の足袋と草鞋は彼女が贈った物だった。
「みだりに死ぬなぞと申してはならぬだろうが」
 石見坊はわざと恐ろし気な顔を作ってみせた。
「――でも、本当でしょ。人の一生は短いんだから」
「ふん、このバカタレが。――何しにきた」
 ふわりと石見坊を巨石から下に降り立ち、「困った娘よの」とでも言いたげに、手を腰に置く。懐かしく頼もしい大きな身体であった。
「頼れる人を探せって言ったでしょ。――見つけたのよ」
 香澄は彼の視線が眩しいとでも言うように上目遣いで答えた。蝉の声が戻ってきていた。降るような蝉時雨であった。
「ほう、誰じゃ」
「気になる」
 香澄の声が小さくなる。
「おお、気になるの。大いに気になる」
「――」
 香澄は自分がとてつもなく単語きはず気恥かしいことを言おうとしているのに気づき、口を閉じた。ひどく自分が軽々しい女に思われるのではと、別の言葉を懸命に探していた。
「――いわみは、あれからどうしてたの」
 適当な言葉が思いつかず、そう話を変えた。
「儂か。――日々山を単語めぐ巡っておったかの」
「あたしのことは。――考えなかった」
「時折な、どう暮らしておるか気になったの。遠く離れておると、気持ちが読めぬのでな、なおさらじゃ。――見た所、単語そくさい息災に過ごしておるようだのう」
 石見坊は額に汗を浮かせた香澄の姿を面白気に見つめて、そう答えた。
「来てくれれば良いのに」
単語ばか莫迦を申せ。儂は人外の者ぞ」
「関係ないわ、そんなこと。――あたしは、あたしは会いたくてしかたなかった」
 心から言葉が流れ出るように香澄は想いを告げた。
 言った途端、知らず知らずに香澄の瞳から涙が溢れ出ていた。母親の葬儀の時も、それら全てが終わり、ぽっかりと空洞が心に残り続けていた時も泣いた事のない彼女の唇がわななくように小さく震えている。今まで耐え続けていた凝り固まった気持ちを止めていた蓋が弾けたように、様々な想いが溢れ出て渦巻いている。
「なんでよ――」
 幼い子供が親にもたれ掛かるように、香澄は石見坊の胸に頭を預けていった。涙が止まらない、悲しいのか嬉しいのかも分からず、ただ涙は流れ続けている。
 暫くの間、香澄が泣くのを任せていた石見坊は、大事な物に触れるよう彼女の頭に手を置いた。
「息災であった訳ではないようだの」
「――」
「儂は人の気持ちが良くはわからん。だからの、お主の母御を単語あや殺めた儂が、傍に居てはならぬだろうと思うた。――それは、違ったのか」
 石見坊の厚い胸に額を当てたまま、香澄は小さく首を横に振った。
「違う。かあさんがああなったのは、いわみのせいじゃない」
 震える声で、そう石見坊に告げた。自分のせいだと言いたかった。
「――単語おのれ己を責めてはならぬ。単語よし由なきことじゃ」
「だって、あたしのせいだもの――」
 かすみがそう言おうとしたところで、石見坊の声が重なった。
「今になって、何を単語うろた狼狽えておる。これまで、そう想い続けておったのか――しっかりせい」
 叱責のような言葉だが、石見坊の手は労わるよう香澄の髪を撫でている。それが堪らなく心地良かった。
「ならば――、お主の単語かたわ傍らにおれば良いのじゃな。さすれば、儂は単語いちぶん一分を果たせるということかの」
 今度は石見坊の手が香澄の背中に回され、力づけるよう軽く背を叩いてくる。彼の言葉の半分も意味が分からなかったが、香澄はそれで十分だと思った。石見坊の身体は微かに草の香りがした。
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